主要地方道「盛岡横手線」と 同線の「山伏トンネル」
岩手県道・秋田県道1号盛岡横手線は、岩手県盛岡市から秋田県横手市に至る主要地方道である。ただし、和賀郡西和賀町川尻から横手市までの間は国道107号との重複区間であり、したがって秋田県内の単独区間は存在しない。
【歴史】 雫石町の堀割から御所湖畔を通り、桝沢、大村を経て山伏峠を通り、沢内村に通じる県道。 旧沢内街道は、昭和15年、それまでの籬野経由の当初路線に代わって、堀割から長根の峰に登って峰伝いに進み、安庭橋を渡って安庭集落に進む道に変更された。馬車がやっと通れる曲がりくねった道であった。大村からは歩行者が最も苦労する山道で、ハチアブが多く山伏が襲われて死んだため山伏峠の名がついたといわれるほどだ。
昭和14年、御所村出身の県議会議員高橋清と、
沢内村出身の県議会議長高橋栄次郎の尽力で県道に編入され、トンネルが通された。山伏トンネルの工事費は21万円で落札された。労働者の日当が80銭~90銭といわれた時代である。
昭和15年、堀割を通る新路線の工事が行われ、昭和29年8月16日主要地方道に認定された。昭和36年から沢内村がブルドーザーを常置して除雪に当たり、冬期間もバスが通れるようになり、昭和40年頃から舗装工事が始められた。【資料;雫石町史第2巻】
上の写真は、かつての山伏隧道(トンネル)。平成10年9月新山伏トンネルが開通したため改修され、しばらくの間「雪っこトンネル」と呼ばれる「雪」を冷熱源とする低温貯蔵庫となっていました。現在は使われていません。
昭和15~18年頃、
鶯宿森林軌道と沢内貝沢森林軌道の間で機関車の使い回しが行われていた。鶯宿側の待多部と沢内側の長橋の間が勾配がきつく、レールを敷設できないため、機関車をトラックに載せて運搬していたのである。写真は、県道1号線山伏トンネル雫石側入り口で撮影した「トラックに乗った森林軌道機関車」の写真。非常に珍しい。機関車は木炭タービン車である。
山伏峠の名の由来
その昔、ある夏の夕暮れ時、ひとりの山伏が沢伝いの山道を急いでいた。村里離れた頃より虻(あぶ)が出始め、次第に群れを成し大群となって人を襲うさまは山に雲か霧がかかるようだったそうです。ちょうどミツバチが分蜂するときのようだっだ。
その無数の虻に刺されるのですから大変だったと思います。峰が近くなるにつれて山道は次第に険しくなるし、虻は次第に数を増して防ぎようもなく、長旅の疲れもあって、虻に刺される苦痛に耐えられずついに倒れて、その山伏は二度と起き上がることができなかったという。
それ以来、その近くの山道の峠を「山伏峠」と呼ぶようになったそうです。【大村の民話より(一部「渓谷小誌」を参考とある)】
【参考】 この道は、山形県の「羽黒山(はぐろさん)」という有名な山伏の修験場(しゅげんじょう)と、やはり大きな修験場があった繋温泉、さらには岩手山周辺の神社を結ぶ道で、多くの山伏たちが行き交ったと思われます。峠の名前もこうしたことからついたのかもしれません。ところで、<修験者・山伏>というのは、どんな人たちだったのでしょうか。
✿ 修験とは修験道を修めた人をいい、修行のため山野を遍歴して、そこに起臥したことから山伏ともいわれている。修験道は日本古来の山岳信仰や神祇道から始まり、平安期に至って天台、真言の密教と合体し、陰陽道や道教なども包摂(ほうせつ)して神仏両者に仕(つか)える者であった。
修験の社会的役割は
①呪術者として、別当をしている神社に藩(あるいは当主)の安泰祈願をはじめとし、凶作にあえぐ百姓のため五穀豊穣の祈祷を行う。受け持ち区域を「霞(かすみ)」とか「袈裟下(けさした)」と呼んだ。
②求道者(ぐどうしゃ)として、帰心(信)者を羽黒、大峯等の霊山に先達をして詣で、または代参して護符(ごふ)を請けて帰り、配布している。
③芸能保存者として、古式豊かな神楽などの伝承と指導普及を行う。
⑤民間信仰の指導者として、庚申(こうしん)などいわゆる石仏信仰の指導をする。
⑥教育者として、寺小屋を開き、村人の子弟に読み、書き、算盤等を指導する。
沢内村貝沢と雫石のご縁にまつわる話
雫石町の下町、永昌寺境内の「大森子安地蔵尊」に、こんな由緒が伝わっている。
――江戸で両親を亡くした三姉妹が、縁を頼って南部の地に来たが訪ねる親類は行方知れず、仲の良い三人は一緒でなければとの条件で、なかなか仕事も見つからず、もっていた金も使い果たし、毎日の食事にも事欠く始末。何か仕事をせねばと三人で考えたのが、江戸にいた時の母の仕事だった“産婆(こなさせ)”だった。知り合いから家を借りて産婆の仕事を始めたところ、若い美人の産婆でとても丁寧だと世間から好評を受けた。これを聞いて遠方からも頼まれるようになったが、無理がたたって姉は病気になってしまった。しかし仕事を休むわけにもいかず、姉を助けながら依頼先の花巻に向かう途中、石鳥谷の松林寺の松の根元で疲れた体を休めた。翌朝、松の根元で姉妹三人が抱き合って死んでいるのが村人によって発見された。かわいそうに思った村の人たちは三人を“子安地蔵尊”として祀ったという。「お姿」として一本の木で三体の地蔵尊を刻み、木の元の所でできた地蔵尊は松林寺に、中は沢内の貝沢地蔵尊に、末の部分から刻んだものは雫石の大森の地蔵尊として祀られた。――(昭和47年3月号の雫石広報。上野孝二郎氏文)
貝沢(かいざわ)地蔵(じぞう)尊(そん)
(別当家 岩井 貞一 氏(屋号 御門))
御祭神 貝沢子安地蔵尊・子安地蔵尊像
祭礼日 新暦6月23日
三姉妹を弔う想いが由来
その昔、江戸で両親を亡くした3人の姉妹が仕事を探して岩手まで来ました。姉妹は産婆をしていた母にならい、産婆の仕事を始めました。その後、産婆の仕事で、花巻に行く途中、石鳥谷の松林寺の松の木の下で3人一緒に休んでいましたが、寒い時期であったこともあり、命を落としてしまいました。憐れに思った周辺の部落の人たちは、3人が亡くなった松の木で3体の子安地蔵を彫り、石鳥谷の松林寺、雫石の永昌寺、
そして貝沢に置いたといわれています。
明治3年の廃仏棄釈により地蔵蔵は、一時別当の岩井さん宅に置いていましたが、その後御堂を建てて再び祀りました。現在の御堂は昭和50年頃に建てられたものです。参道には23か所の曲がり角がありますが、これはお祭りの23日に合わせているといわれています。
お参りの時は振り返らない決まり
昔は、お祭りの時は2、3軒の出店があったりしました。鈴鳴らしの布紐を安産祈願としてもらっていく人もいました。初産の時のお参りでは、参道を歩く時に後ろを振り向かないように歩くようにと言われてお参りしたそうです。
≪大村地区の昔話≫ 馬場と清水の由来 源兵衛、与兵衛の二人が使用人と親馬数十頭を引き連れて大村に入った。顕信(あきのぶ・南北朝時代の鎮守府将軍 北畠顕信のこと)公の家臣は、清水村(馬場の清水集落)を軍馬の育成場所に選び、自らも居住した。
二人は顕信公が秋田に転戦後もこの地に永住しました。清水集落には、清水長者の墓地と伝えられる所があります。その清水長者の馬場があったので馬場の名前が付いたとも言われます。現在もこの地には清い水がこんこんと湧きだしており、飲料水としても日常利用されており、当時も生活の場としても、馬の育成の場としても非常に良い環境だったことと思われます。(大村の伝説から)
注)北畠顯信(きたばたけあきのぶ) (1320~1380年)兄顕家の死により陸奥介鎮守府将軍に就任。南北朝時代、滴石に1346~1351年まで滞在と推定される。
(参考)大村の山祇神楽 <雫石町無形文化財 第1号指定 昭和42年5月>
大村の山祇神楽は円蔵院配下、繋村の正福院の山伏から大村の若者たちが教えられたと伝えられ、大村地区の人々の手で温かく守られて、親から子に子から孫に伝承され300年余の歴史を持つ。古式豊かな、貴重な神楽として無形文化財に指定された。踊りは20種以上もあって、一つの踊りに15~40分位を要し、全部踊るには10数時間を要する。
昭和37年、東京の靖国神社に郷土兵士を慰霊した際、古典学者グループの支援で、多くの研究者を前に奉納披露し、“優れた素材を持つ優秀なもの”との評価を得ている。【資料;雫石町史第2巻】
大村の集落の中心に大きな鳥居(とりい)があり、その奥に「山祇神社」があります。
この神社は建てられてから400年近くたつと言われています。この神社には町内で一番歴史のある「山祇神楽(やまつみかぐら)」が伝承されています。この神楽は雫石町無形文化財の第1号に指定されています。
大村小学校では伝統的にこの神楽を全校で舞って、継承(けいしょう)しています。
神社の境内には樹齢(じゅれい)1450年という御所地区では一番古い「山祇神社の姥杉(うばすぎ)」がそびえています。(樹高40m、目通り幹回り6.8m) 1994年7月 雫石町指定天然記念物
大村の道は沢内村(さわうちむら)から秋田、山形に続く道で、高さが40mもあるこの木は、昔から旅人たちの目印(めじるし)になっていたものと思われます。
山祇神社は「山の神」を祀(まつ)っています。大村地区の人々は古くから「きこり」や「マタギ」など森林・木材にかかわる仕事をしていたので、「山の神」を崇拝(すうはい)しているのです。背は樹齢のわりに高くない。幹囲もそれほど太くは感じられないが、上に向かっての漸減率は小さい。表皮の模様が大ぶりで、凹凸が大きいので陰影が深く、力強さを感じる。
大村の「地名に関する昔話」から
加賀(かが)滝(たき) 鶯宿温泉の発見者、木こりの加賀助は鶯宿山での伐採が切留より奥は差し止められたので、男助山の西の肩を越えて大村方面に入り、杉やヒノキの伐採に励みました。
しかし、加賀助はそれまで仕事を終えて毎日入っていた鶯宿温泉のお湯の味が忘れられません。そこで、毎晩大村から山越しに鶯宿に通いました。
それでも、毎日だとおっくうになり、大村の地に温泉が出ないものかと探し回りました。ある日、部落の古老が村を流れる尻合川にある流れの急な場所に行って「ここの滝の下から湯が湧いたことがあった。」と教えました。加賀助は喜んで、滝の下に木の枠を造り、何日も何日も掘りましたが、湯は湧きませんでした。
とうとう加賀助もあきらめてしまったということで、それ以来、この急な流れを「加賀滝」と呼ぶようになったといいます。【雫石町史、大村の民話より】
源兵衛地石 加賀滝より約100メートル下流に
大きな石がある。これを地元の人たちは源兵衛地げんべえち石と呼んでいる。高さが水面より約6mありほどあり、直径が約5mだ。
昔は向こう岸にぶら下がっていた石で、子供たちが、水浴びに来て雨が降ると、この石の下に入って雨宿りをしたという。それが明治29年の大地震【陸羽大地震】の際に落ちて、対岸にどっかりと座って、現在に至っている。
「源兵衛地石」の名は、昔この地を源兵衛という人が拓いたので、地区の人はこの辺りを源兵衛地と呼ぶ。小字名にもなっている。春には、石の向かいに桜やツツジが咲き誇り、秋には紅葉が水面に映える。それはまるで絵葉書の世界だ。【大村の民話より】
特別付録 雫石町南畑・大村で育った童話作家 儀府成一さん
幼少のころから少年時代まで大村地区・男助で育った童話作家の儀府成一(ぎふ せいいち・本名藤本吉四郎・後年、光孝と改名、さらにペンネームは母木光【ははきひかる】)は、養母みちさんから毎晩聞かせてもらう『昔っこ』が大好きな子どもでした。
学校卒業後も「三つ児の魂、百まで」の言葉どおり、民話や詩作に関心が強く19歳で処女詩集を刊行。24歳の頃から晩年の宮澤賢治と交際が始まり花巻の自宅も2度訪問しています。昭和8年9月の賢治の葬儀の際に友人代表として弔辞を起草し、それを後年の直木賞作家森壮已池が読みました。
その後、幼少期の母から昔語りを聞いた原体験に加えて、民話や口碑が文学にまで高められた『遠野物語』に出会ったことで、――民話をもとにした童話もまた文学でありたい――と民話童話作家を志しました。上京後、雑誌社や出版社勤務を経験する傍ら作家活動を展開、昭和15年に東北地方の方言による会話を主にした小説「動物園」は第12回芥川賞候補となりました。
母木光の宮沢賢治とのハガキ、書簡等での交流の状況
昭和5年9月26日 宮澤賢治(明治29年8月生まれ。吉四郎より13歳年長)(母木22歳)から「岩手郡御所村上南畑 岩手詩集刊行会 母木 光」あての書簡が届く。母木光(ははき ひかる)は吉四郎のペンネーム。内容は〔岩手詩集刊行の趣旨に賢治が理解を示し、本人と花巻の詩人達に寄稿を勧める予定である。ただし編集委員は遠慮したい。〕というものであった。
11月2日 母木へ葉書「童話集1冊贈る。…回りに出稿勧めておいた」
4日 母木へ書簡「3人分の原稿送る」
昭和7年5月10日 母木へ書簡「ご来花をお待ちする。」(バスの便まで案内)
5月14日 母木が花巻の自宅を訪問。この訪問記が岩手日報に掲載された。
6月19日 母木へ書簡「母木が自作の童話『ワラシと風魔』を賢治に贈り、批評を乞うたことへの返事等」
昭和8年3月7日 母木へ書簡「近況を書いて、御地のような場所で自然への精密な観察は新しい童話への資源だらうと存じます。…ほか」
4月25日 母木へ葉書「詩集の発刊を祝う…。労働はにわかに烈しくなさらないように…と母木を気遣う。」
6月17日 母木へ葉書「(創作詩集)二十人集について」…ほか。
7月16日 母木へ葉書「8月10日頃のご来花をお待ちしている…」ほか
8月19日 母木が花巻の自宅を二度目の訪問。「知己の詩人たちの話が出て時間が経過した。」浮世絵のコレクションを見せた。
8月23日 母木へ書簡「母木の健康をかなり心配している、と書き連ねる」
9月 5日 母木へ書簡「お身体のお加減いけないようですが、どうかせっかくご自愛早くご元気になって、次のお仕事お見せください。(中略)ずゐぶん残暑の続く歳です。」
儀府成一〔本名、藤本吉四郎 改め 藤本光孝 〕
明治42(1909)年1月3日生れ~平成13(2001)年6月6日 92歳で没〕
大正 4年4月 大村小の前身である南畑尋常小学校大村分教場 入学(6歳)
大正10年3月 同 卒業(第12回卒業生)
大正12年3月25日 雫石尋常高等小学校高等科卒業(14歳)
雫石町立大村小学校校歌の作詞者、同 雫石小学校(100周年)賛歌作詞者
赤滝 高藤堰と「開鑿者長助」信念の規約書
雫石町教育委員会の社会科副読本に次のように紹介されている用水路があります。 今から約130年前(1877年)、御所村(ごしょむら)の高藤長助はたいへん苦労のすえ用水路をつくりました。長助は深沢(ふかさわ)の畑を田にしようとして用水路を造る計画をたてました。この計画の中には、トンネルもふくまれていました。村の人たちは、工事になかなかさん成しませんでした。それは、この工事がたいへんむずかしかったからです。 長助は、もしこの工事で水が通らなかったら、かかった費用(ひよう)を全部自分がはらう決心をしました。1891年、11にんがさん成して工事に取りかかりました。トンネルはたいへんな工事でした。夜はろうそくを使って測量し、昼はトンネルを掘ってその土をもっこに入れて運びました。1892年6月、500メートルのトンネルをふくめて長さ約5キロメートルの用水路ができあがりました。こうして、この用水路は多くの人々に利用されるようになりました。
<参考>
高藤堰は、1891(明治24)年、当地の素封家(そほうか)であった高藤長助氏が南畑川上流の男助地区より上水することを計画し、部落内の賛成者を募り画期的大事業として発足したものである。
当時深沢部落は平坦な土地ではあったが水利の便が悪く、一部男助山より流失する沢水及び、台地に造られた小溜池を利用した水田があり、旱魃時には非常に苦労しておった模様である。そこからこのような発想が生まれたと思われる。しかしこの計画に当時の地区民の中には懐疑的な見方をする人も少なくなかった。
この事業を始めるに当たり、高藤長助ら関係者は「新堰開掘に付規約書」という約束事を結んだ。長助の偉業をたたえて大正9年(1920)に建立された開鑿記念碑
この規約は21条からなるもので、堰の長さや平均の深さと幅が明記され、経費については「新堰掘入費(しんぜきくつにゅうひ)」として、当初は全て高藤長助が無利息にて調達し、完成後は全員が平等に負担する、とある。さらに見込みどおり工事ができなかった場合は、かかった費用は全て高藤長助が負担する、としている。
一方で用水路工事等のために出勤の通達があっても、無届で3回不参加の場合は、仲間から除名する、ともあり、さらに〔用水の量に限りがあるので〕仲間の全員一致の承諾がなければ新たに開田することができないと定めている。
しかし、もともと非常な難工事が予想されていたため部落全員の参加でもなかったことから部落内では相当の批判もあったようだ。
このような中、直ちに工事に着手したのであるが、幹線水路中には岩盤個所があり、断崖地(だんがいち)を横切る個所ありでたいへん苦労した。翌1892(明治25)年6月通水に成功。しかし年々決壊、崩壊が相次ぎ、管理補修には苦労が続いた。
1899(明治32)年になって、男助山のふもとの俗称「へぐり(※川の浸食を受けた崖地)」の個所を隧道(ずいどう・トンネル)に変更することを計画し、岩手農工銀行から150円の融資(ゆうし)を受け、これを加入金として三名が新たに加入した。
古老の言い伝えによれば、当時測量機械もなく、夜やトンネルの中で、ローソクの火を灯しながらその光源をたよりに方向を定め、水盛りを頼りに高低を測ったと言われている。ことに、隧道や岩盤個所で必要な火薬類の入手も思うにまかせず、どこからか雇(やと)い入れた坑夫が火薬の調合方法を知っており、現地で火薬を調合して使用したと言う。その道具の一部が大正末期頃まで地区内のどこかに保管されていたらしいが、今はどこで聞いてもそれらしきものはない。(雫石町土地改良区史から)
昔の手作業トンネルの掘り方(参考例)


その後大正年代に至り、高藤長助氏の没後、長男高藤広吉氏もこの用水堰の維持管理に特に力を注ぎ、不法増反(ふほうぞうたん)者への制裁規定(せいさいきてい)等を盛り込んだ規約を設けたり、また、災害時の資金供給(しきんきょうきゅう)のための基金蓄積(ききんちくせき)規定を設けるなど並々ならぬ配慮をしている。
この堰の開削以来、幾度となく災害に遭遇し、その都度国、県の制度による補助を受けながら、関係者は苦労しながら復旧、維持管理に努めてきた。
この用水は、昭和47年に雫石町土地改良区に引き継がれ、昭和58年に延長1050メートルがコンクリート舗装水路になって現在にいたっている。また、高藤堰頭首工は、昭和59~60年度に3千百万円余の事業費で全面改修されている。
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