史談百花帖
御所地区の歴史
籬野
鶯宿
切留と沢内街道
山伏トンネル
大村
赤滝 高藤堰
雫石町教育委員会 ・滴石史談会 共催   
平成29年度 郷土史教室  
 
 御所地区の史跡、伝説を訪ねて 【後半】
☆日 時 平成29年8月27日(日) 8:45~12:40        
☆場 所 鶯宿、切留、大村、赤滝及び旧沢内村貝沢
 
鶯宿天然スギ 切留奥の大小屋山(640.6m)の山中に雫石営林署の手によって「男助山鶯宿天然スギ植物群落保護林」(面積14.90ha)が設定されている。当初設定は大正12(1923)年。ここでは天然鶯宿スギの特徴である株立ちなども見ることができる。

 8:45 雫石町中央公民館 出発 WC (籬野 経由)
 9:10 鶯宿温泉 逢滝前
 9:25 切留 山祇神社
 9:40 切留 鶯宿杉(横田捷世家) 
 10:00 門戸沢 森林軌道 橋脚跡
 10:17 鹿妻穴堰・水源涵養林  
 11:05 旧沢内村 貝沢地蔵尊 銀河高原ホテル WC 休憩
 11:55 大村・加賀滝 入口
 12:15 高藤堰開鑿記念碑前
 12:40 雫石町中央公民館前に帰着

    今回探訪する場所


  御所地区の歴史
 ・御所地区の大地の形成 
古舛沢湖の湖底だった   
  御所地区の地形の特徴は、地区の南側紫波町との境にある須賀倉山(940.9m=紫波町の最高峰.)連山(東根山、青木の森)の山腹を源とする深い沢が多数あることです。 
 御所地区の区域の大半は、今から500万年前以上前の太古の時代「古舛沢湖」という巨大な湖の中にあり、湖底に堆積した泥岩や頁岩の地層がその後隆起して現在の地形になっているとのことです。つまり比較的柔らかい岩盤が長い年月のうち雨水等で浸食されて、御所地区特有の深い沢ができたと推定されるのです。(参考;土井宣夫氏の「十和田八幡平・自然解説マニュアル」掲載の論文)   

箱ヶ森、毒ヶ森、南昌山はマグマの塊が冷えたもの 
  御所地区の東側、紫波郡との境に、箱ヶ森、毒ヶ森、南昌山などいわゆる「釣り鐘形」の山が並んでいます。地質学では「岩頸(がんけい・ネック)」といいます。まだ、地球内部でのマグマの活動が活発な頃にマグマなどの火山噴出物が地上へ出る途中で冷え固まって生じた火成岩が、長い間に回りの表土が風や水、光による侵食で削られ流されて、棒状あるいは釣鐘状の火成岩だけがとり残されて、それが“山”として残ったものをいいます。     
 宮沢賢治は南昌山などの山を、作品でいち早く「岩頸・ネック」と表現しました。童話「楢ノ木大学士の野宿」では、賢治自身が「岩頸といふのは、地殻から一寸頸を出した太い岩石の棒である」と解説しています。

 ・ 縄文・古代~
 「繋温泉地区」は昭和30年9月までは雫石郷の「旧御所村」に属していた。それ以前、明治22年に合併で御所村が誕生するまでは、雫石川左岸の元御所集落とともに繋村を形成していた。
 この旧繋村は、雫石郷の中でも最も早く開けた地域と推察される。地区内にある縄文時代後期から晩期(4,000~2300年前)にかけての「萪内(しだない)遺跡」からは、日本最古の漁業施設である「魞(えり)」の遺構が発見されており、竪穴式住居群の周辺からは、「大型土偶頭部(国重要文化財)」が出土し、「縄文人の足跡」も発見されている。
 特に繋温泉地区は、今から1200年前に坂上田村麻呂によって造営された盛岡市太田の「志波城」(写真)に近く、大和朝廷の勢力が早くから及んでいたことが想像できる。また、11世紀中半の前九年の役(「~戦い」ともいう。~1062年)のためこの地を訪れたとされる「源義家」に関する伝説が数多く残っている。繋温泉そのものが源義家によって発見されたとする話もある
 湯の館山の頂上付近には11世紀後半から100年続いた平泉藤原文化との関わりを示す「渥美焼 灰釉壷」が出土した「一本松経塚」がある。
 さらに12世紀後半の豪族「戸沢氏」の戸沢舘や滴石城の前衛基地としての「繋舘(舘市舘)跡」があり、地区内の山伏修験の家「正福院(しょうふくいん・江戸初期~)」の墓地には、南北朝時代(1336~)に造立された思われる板碑(いたび=石卒塔婆・供養碑)が建っている。
このように現在の御所地区エリアは、宗教と温泉等の旧繋村を中心にふるくから栄えてきたが信仰と経済の道「山形道及び沢内街道」沿線に点在する大村集落などの「南畑村」、片子沢や天沼・戸沢そして矢櫃などの集落で形成する「安庭村」、さらには古くから林業、鉱山、温泉で栄えてきた「鶯宿村」といった三つの地域が<河川と道路>によって一体感を保ってきた。  

   〔街道について〕
 現在、御所地区を東西に県道1号線(盛岡横手線)と盛岡鶯宿線の2本が通っている。この道の原ルートは藩政時代に「沢内街道」とか「山形道」と呼ばれていた。文字通り岩手県央部と沢内村経由で山形県の「修験場羽黒山」を結ぶ道である。江戸時代初期、繋温泉地区は盛岡城下から太田方面を経由する山形道(現・盛岡鶯宿線)の途上にあった。このため、盛岡城下への西の入口に当たるこの繋地区には早くから羽黒系の修験者たちが住みついていたと思われる。しかし、当時盛岡城下を支配していたのは、信直以来の「自光坊」に代表される本山派の修験者たちであり、羽黒山系の修験者たちは城下中心部へはなかなか入り込めなかったのではないかと思われる。
 一方で、修験者たちは山形道の沿線に独自の文化を残しており、大村地方に伝わる「山祇(やまつみ)神楽」がその代表的なものである。正式には「正福院山祇(御所)神楽」と呼ばれる。

   〔行政組織について〕
 この沢内街道は、江戸時代の寛文11年に、それまでの鶯宿・切留経由から南畑経由のルートに切り替えられた。南畑経由で沢内村方面への道はそれまでもあったが、この年から南畑経由が本道になり、肝入など藩の行政上の組織も充実され、沿線の様子も大きく変わった。
 天正19(1591)年、雫石通に代官所が置かれ管轄は10か村となった。うち現在の御所地区は「南畑村」、「鶯宿村」「安(阿)庭村」、「繋村」の四か村であった。以降、明治12年、盛岡にあった同名の村との区別のため「安庭村」が、(南岩手郡)「西安庭村」となった経緯を経て、明治22(1889)年の市町村制施行までおよそ300年間続いた。明治22年に四村が合併して「御所村」となった。
 その後、昭和30(1955)年、いわゆる昭和の大合併で、雫石郷一町三か村(雫石町、御所村、御明神村、西山村)が合併し、新生「雫石町」となった。

   〔山林開発について〕
 御所地区は耕地が少なかったが、鶯宿から大村にかけて檜や杉の大密林があり、南部藩による山林開発を中心に発展した。藩政時代は安庭に御山奉行、尾入には筏奉行が置かれて、御所地区から運び出される木材の管理に当たった。
 豊富な森林資源を背景に、御所地区を流れる「鶯宿川」、「南畑川」、それらの合流した「南川」、そして最も東を流れる「矢櫃川」では、古くから伐採した木を下流に送るための木流し(川流し)が行われていた。これらに貯木場敷地提供して財を成した家も少なくない。この川流しは昭和初期に森林軌道(矢櫃川流域を除く)が敷設されるまで続いた。その森林軌道は木材のみならず、地域住民や近郷近在の人達の生活の足として昭和20年代後半まで利用された。
 その森林軌道は木材のみならず、地域住民や近郷近在の人達の生活の足として昭和28~29年ごろまで利用された。その後、木材輸送は昭和30年代に大型トラック(TW車)にとって代られた
 

 経由地 籬野 まがきの

 ここを初期の <沢内街道> が通っていた。JR田沢湖線雫石駅の南、雫石川の河岸段丘上の広野が籬野である。北正面に岩手山が大きくそびえ、目を転じると奥羽の山並み、和賀山塊、須賀倉連山、紫波三山、そして小岩井山地と鞍掛山に囲まれた雫石盆地をぐるっと見回すことができる。いわゆる360度のパノラマだ。
〔写真〕画面の左端と緩く蛇行する川に囲まれた地域が籬野
 ここはかつては、馬の放牧地であったことから「馬垣(根)=まがき(籬)」と呼ばれたのではないかと思われる。この籬野をかつて二本の道が通っていた。
 秋田街道から分岐して下町の臨済寺横を通った沢内街道は、南田んぼの中を通り現在の雫石大橋の下流付近で雫石川を渡り(根掘の渡し・徒歩渉)、籬野の台地に登っていた。その沢内街道の西側が御明神村の「15地割籬」で、その東南側となりが「14地割籬野」(この14地割はその後「安(阿)庭村=御所村」の区域に移行)であった。
 雫石町史Ⅰの年表・天保4(1833)年の項に「御明神村の日陰堰が原直記によって籬まで通される。」とあり、16年後の嘉永2(1849)年の項に「籬野に1500刈余(1町1反)の新田が開かれ家が四軒立つ。」と書かれている。当時、田舎では稀な逆サイフォンなど高い土木技術で開削された用水路がこの籬野を変えていったのである。
 もう一本の道は、紫波方面から山越えしてきた道が矢櫃~町場~(熊野橋)安庭を通って籬野から黒澤~滝の沢経由で赤渕まで伸びて、秋田街道と合流していた。現在の「昇瀬橋(のぼせばし=かつては「渡歩渉、吊り橋だったという」)」付近である。途中に多賀神社がある。
 
 <「士族の帰農」により開拓地に>
 明治2(1869)年6月、明治維新により南部利恭(としゆき・南部15代藩主)の白石転封に際し、家臣の中から大勢の解雇者が出た。その後若干の復職者も出たが、大部分の者は失業し転職を余儀なくされた。これら離職者への転職指導や授産によって、困窮を救助することが為政上の大きな課題となり、政府に請うて開拓資金の下付を受け、荒地や原野を開墾して帰農させる政策が打ち出された。
 与えられる原野は、村方出身の所与力や中使等陪臣の者には村内の原野が与えられているが、村に何のゆかりもない下級藩士、藩卒には場所を指定して集団入植を募集している。入植の場所として岩手郡内では、駒木野(雫石町西根)、寄木平(松尾村)、山後谷地(大更町)、籬野(雫石町安庭)等である。駒木野、寄木平では明治3年5月から始められているが、籬野は翌4年からの開拓であった。希望者には建家を貸与し、開墾費用として高一石当たり金五両を支給するという内容で550戸の入植者が募集された。籬野には15軒が入植した。
 <籬野開拓>
  籬野開拓地は、明治4年の秋から入植が始められた。一戸に畑60枚(一枚は十間四方)、が与えられて、粟、そば等を耕作して開拓が進められ、仁恵学校(貧者の子弟のために富者の恵みによって教育を施す学校、意・私立校)も設置されて、順調な滑り出しで、入植者も100戸といわれた。(仁恵学校…安庭小学校の前身とされるがもともとは御明神村区域内)
 しかし、入植した者の多くは藩政時代の習慣から座食に慣れ、怠惰で開墾に精を出して打ち込む者が少なく、移住以来4~5年で土地を棄てて離農し、籬野は元の原野と化し、今日では集団入植の内容は忘れられ「籬野の藩兵屋敷」と旧跡の一つに数えられているにすぎない。<以上、雫石町史Ⅰから引用>

 <第2次・籬野開拓>
 籬野地域は、御明神と御所にまたがる地域で、明治初期に盛岡藩士が入植したが失敗に帰した所である。再度の開拓は、昭和18年食糧需要の高まりから、農地開発営団によって、開拓が進められ、10人ほどが入植して鍬を下した。その後に引揚者等が入植し、昭和24年に開拓農協を設立。日陰堰水路を幹線水路として272町歩を開田しようと、御所村が主となって籬野開拓促進期成同盟会を結成した。
 昭和31年から、新農村開発計画の一環として開田を進め、33年に86.9ha、34年に116ha野開田を完了し、初年度の平均収量10a当たり2石6斗(390㌔グラム)という成果を上げた。<以上、雫石町史Ⅱから引用>

◆  雫石八景  籬野の月
  幾人もおなし詠満籬野の 月の光りぞ照り渡るらむ

                
 この籬野は月を愛でるのに最適の地とされる。江戸時代に選定された景勝地「雫石八景」の一つである。この「雫石八景」には、それぞれ景色、風情を讃える歌が添えられている。
 上のように「何人もの人が歌を詠んでも同じような感嘆の歌になるほど、月明かりに照らされた籬野の広い野面の美しさは何とも趣がある。」とほめたたえる歌が添えられている。(上の写真は秋の籬野(御明神区域)である。奥の山は繋温泉・箱ヶ森だ。)
 江戸時代に雫石通りの絶景5カ所を綴ったいわゆる「五絶の賦」(天保13(1842)年の年号あり)にも「籬野の月」が次のように紹介されている。

野形平らにして草花を植えたる籬野、星月明らかなる夜は、心ある人に見せれば
欲しくなる処なり。あの心ばせ、山見ゆる鶯宿温泉もほど近き処なり

とこの台地から見える夜の月を讃えている。

 もうひとつ、やはり江戸時代の文政9(1826)年に編集された「雫石通細見路方記上」には、
御明神村の南東の大野を籬野という 躑躅(つつじ)一色の野也 頃は卯月中旬なる籬野のつつじ 今や春辺と咲き乱れ 野は一面に錦を織なしたる風情なり

とある。やはり月夜の晩に訪れてみたいところである。四囲の展望がよく、日中は花が咲き、夜は月が美しい籬野の景観は、この道を通る人々の旅情を慰めたに違いない。

 籬野のエピソード… 
①藩政時代、雫石代官所管内でたびたび農民一揆が発生した。この籬野が農民たちの集結地となったことがある。
②第二次大戦前の日中戦争が勃発した昭和12年頃、岩手県内で「陸軍飛行場」設置の運動が盛り上がり、籬野もその有力候補となった。当時の御所村が中心となって誘致に取り組んだが、現在の北上市「後藤野」に設置が決まった経緯がある。
③昭和30年代はじめ、岩手県内に空港誘致の計画が持ち上がった際にも、花巻と並んで「小岩井か籬野」地区も検討されたという。)

  鶯 宿
 志戸前方面の町名森(689.3m)、大小屋山(640.6m)の山並みからの水を集める鶯宿川沿いにある「鶯宿温泉」を中心にした地域のこと。藩政時代の文書、図面には「大宿村」の表記も見える。
 大字鶯宿には、「1地割岩名目沢、同地割男助山、2地割水上沢、3地割上切留、4地割下切留、5地割向切留、6地割大栗平、7地割大山沢、同地割谷地畑、8地割八百平、9地割田子ノ木、10地割夜明沢」の12地割(小字)区分がある。
 6及び7地割は温泉街、8~10地割は温泉街の手前の区域。1~7地割はほとんどが山林地内である。

 藩政時代、雫石通の山林は次のように区分されて管理されていた。(カッコ内は中期の区分)
繋御山   (葛根田御山 安庭御山 繋御山)
志戸前御山 (志戸前御山 小志戸前御山)
橋場御山  (橋場御山 取染御山 橋場御山)
大宿御山  (鴬宿御山)
南畑御山  (矢櫃御山 戸沢御山 南畑御山 舛沢御山)
 南部藩内で有数の優良林を有する雫石通りの山林の中でも、鶯宿温泉の上流域(藩政時代には「大宿」の表記も見える。)は杉や桧の美林が生育し、南部藩屈指の官山(御留山)として厳重に管理されていたのである。

 鶯宿温泉鶯宿地域は豊富な森林資源を活用する中で発展してきた。また、地名由来となった温泉の出現がその後の地域の発展の要となった。以下に「鶯宿温泉」の歴史と地名由来について、「雫石町史Ⅰ」から紹介する。                  
温泉発見
 天正の頃(1573~1591)の発見と伝えられている。加賀国(石川県)の山賤(やまが)で、「助(すけ)」と称する者が陸奥に来て雫石郷の無尽蔵に見える見事な自然林に魅了されてこの地に住みついた。村人は生国を冠してこの者を「加賀助」と呼んだ。加賀助はある時、谷川に湯煙を見、探し尋ねて岩の間より湯の湧き出るのを発見した。たまたま、この湯に傷ついた脚を浸しては近くの梢に宿ることを繰り返していた鶯が、数日にして傷が治り飛び去った跡に紫雲のたなびくのを見た。不思議に思い、行脚の僧(盛岡祗陀寺二世住職)にこのことを問い、効能の著しい湯であることを知り、村人に入浴の便を計ったと伝えられている。また、鶯の湯治から「鶯宿」の名が起こったと言われている。

加賀助について
  加賀助については、二戸郡安代町石神の斉藤系譜に、“鎮守府将軍藤原利仁裔歴代未詳、其先加賀国に住し、天正年間奥州に下り浄法寺に居住し浄法寺修理の譜代となる。或は云ふ“初雫石の山中に居り後浄法寺の岩渕に住し又田屋に居る云々”と伝え、天正年間泰高の代に奥州に下り、巌鷲山麓に住み鶯宿の温泉を発見したと伝えている。
  石神の斉藤家は渋沢栄一によって全国に紹介された名子制度で有名な家で、石神の大家といわれ七代目までは加賀助または加賀を家号としていた。その一族も繁栄し、文化年間(1808~1817)金融によって巨大な利を得、盛岡から雫石まで他人の土地を歩かず返ることができる程の大地主であったと伝えられる斉藤屋善右エ門も其の一人と伝えられている。

南部公の家族も入湯
  鶯宿の湯の効能は、祗陀寺の住職(先の行脚僧)の口から伝えられてから次第に湯治に利用する人々が増していった。しかし湯治湯といっても僅かに雨風を凌ぐ程度の小屋と露天に浴槽があるに過ぎなかった。
   このように施設も整っていない山奥の谷間の湯にも、祗陀寺住職の勧めがあったであろう延宝七年(1679)から元禄五年(1692)にかけて藩主行信公の側室(岩井氏か、別に重信公の側室蟇目氏ともある)が御仮屋を建て度々来ていた。その後御仮屋は盛岡川原町の某に下されている。また宝永二年(1705)八月二十四日から九月六日まで藩主恩信公並びに生母と奥方の三人が、葛西平右衛門以下百五十人の供揃いで湯治に来ている。十日余に及ぶ湯治であるから当然御仮屋が建てられ、また民家も使われたと考えられる。建てられた御仮屋は、その性格上一般の使用は禁じられ、湯守弥十郎がその管理を命じられている。

加賀助の子孫は奥の「切留」へ
  この頃には、加賀助の子孫は切留に移っており、藩主一家の湯治の際には湯守として弥十郎の名が見えている。弥十郎家は、岩手郡川口から移住したと伝えられ、加賀助の後をうけたもので、後に姓を川口と称している。藩主一族の鶯宿湯治が世間に伝えられ、次第にこの温泉を利用するひとも多くなったが、藩の保護もなく誰一人としてこれを援助し、施設の充実に協力するものはなかった。享保の頃(1716~1753)雫石で酒業を営む高嶋屋市左エ門(上野家の祖)はこの状況を見て協力を思い立ち、費用を惜しむことなく浴槽を広げ、客室を造り、温泉場といえるような設備を整えていった。一応の施設が整ったであろうか元文三年、(1738)には、藩主の姫君が湯治に来て、帰りには雫石の高嶋屋に立ち寄っている。

入浴施設が次第に整う
 その後、寛政四年(1792)盛岡大工町の高木某なる者が、浴槽の浅く不便なことを知って改修に乗り出し、石工を頼んで堅い岩を五寸ほど掘り下げて入浴の便を計るとともに、新たに浴槽を造って湯治客の利用に供したと伝えている。このように次第に設備が整えられ、繋温泉と共に藩主の湯治場となった。
 文政八年(1825)三月、利用公が鶯宿に湯治し、その帰りに洪水に遭い、四月十六日まで雫石の上野家に立ち寄られた。この時には雫石通りから人足三百人、伝馬百頭が動員されている。安政三年(1856)には藩主が三月二十六日から二廻りも長く湯治された。この間に山林を散策して春木の伐採や沢出しなどの様子を見たこと、南畑村の高齢者親子(九十七歳の親と七十七歳の子)を宿に呼び酒肴料として銭五百文を与え、親子とも無筆なため手に墨を塗って紙に押してこれを戴いたこと、村の若者たちがをお慰めしようと草角力を催し、供の侍も飛び入りするなどの盛況に藩主も御満悦で若者たちに酒を与えたことが伝えられている。このようなことから、鶯宿の湯の効能を認めていたのであろう。
 慶応四年(1868)一月には、鶯宿の湯を城中まで運ばせている。湯の搬入には、雫石通与力藤村丑太が臨時に御物書きを兼ねて湯元に詰切(鶯宿駐在)を命ぜられ、湯搬出の責任者として勤めた。
   以上の鶯宿温泉の由緒は、天明元年(1781)頃、弥十郎老人によって語られた記録によるものである。

 弥十郎(川口)に次いで鶯宿の温泉開発に加わったのは庄佐エ門(青山)である。 文政九年(1826)当時の鶯宿温泉の様子を伝えるものに、右の絵図が残されている。 ただし、この絵は雫石町史の編者が編集中に原本を摸写したものである。

 大滝 別名逢滝(おうたき)
 鶯宿温泉を流れる鶯宿川の上流にある滝。四季折々に水量の変化とともにさまざまな姿を見せる。川岸近くに行けば、鶯宿杉の巨木や小さいながらも岩の間に根を張る未来の“石割桜”も見ることができる。
 滝の名は、本来はその規模のとおり大滝であったのであろうが、いつの頃からか、観光用に「逢瀬」の「逢」とかけて別名「逢滝(おうたき)」とロマンチックに名付けられたようである。

逢滝堰(おうたきぜき)【滝の上流部から取水】
 逢滝堰は幕末の頃、鶯宿部落の青山庄右ェ門、川口弥十郎の両氏の発案で計画され、明治初期に至り、受益関係者石田久兵ェ、煙山庄八、石田久之助の三氏が加わり、数年間にわたる難工事の末、鶯宿川の上流逢滝(おうたき)から取水し、同じ鶯宿地内田子の木(南部富士見ハイツ南側の高台付近)まで通水された用水路である。
 言い伝えによれば、当時鶯宿は温泉こそ湧出していたが、川と台地との高低差が大きかった(沢が深かった)ため、水稲の作付は一部小沢および湧水に頼るのみで、平年の食糧は雑穀に頼らざるを得なかった。この状態から脱却するべくこの計画がなされ、工事実施となった。しかし、取水口付近は硬岩(こうがん)でも下流に至るにつれ、礫岩(れきがん)地帯であり通水しても下流まで水が到達しない有様で、関係者が苦労を重ねた末、ようやくにして目的地まで通水したが、その当時の水田面積はわずかに2ヘクタールぐらいだったということである。

 その後、桝沢(ますざわ)集落の人々も受益者に
 その後、1891(明治24)年11月、下流の桝沢部落の川井清五郎氏が、部落一同に諮(はか)り、13名共同で用水を桝沢の集落付近まで延長通水することを申し入れ、貰(もら)い受けの協定が成立している。桝沢部落も地形的には鶯宿部落と大差がなく、用水路もなく、ことに生活及び防火用水もなかったことから農業者以外も参加したものと思われる。
 この通水延長の条件として、桝沢部落の関係者は鶯宿部落の関係者と共同で水路の改修、補修、管理を行うとともに、年間を通じて青山家には各2人ずつ川口家には1人ずつ雇い人として手伝いをすることを約束させられた。この結果、桝沢部落で灌漑用水として利用し得た水田面積は約1.5haであった。その後、1900(明治33)年に至り、取り入れ口に小隧道(ずいどう)を造る大改修がなされ、水量も大きく確保されるようになった。
 さらに、その後昭和56年度になって、逢滝水路全面改修の要望が出され、その年から60年度までの5年間の継続事業で、鶯宿温泉街は「用・廃(水)分離」の構造として2億8千万の巨費が投じられ、コンクリート舗装水路となって今日に至っている。【「雫石町土地改良区史」から転写】
 
 加賀大滝大明神(大滝大明神)
 年代は不詳である。明治中頃の建立と思われる。当時の木材運搬は河川流送に頼る時代で、大滝の場所が難所であったためその安全を祈願して建立されたものである。最初、山火事を恐れてご神体は切留の又八家(※注・「又七家(当主・横田捷世氏)」の分家)に置いたが、毎夜のように神霊が夢枕に立ち「社に入りたい」とのお告げがあり、急ぎ山祇神社の境内に小祠堂を建て安置した。元の大滝明神社跡にも石造りの小祠堂があり8月20日の例祭日には拝礼をしている。(注・以外は「雫石の寺社」より) 

<参考> その後、大滝明神の改築の話があり、これに合わせて切留の山祇神社境内にあったご神体を大滝大明神に合祀し、社名も「加賀大滝大明神」とした。

 南部と加賀の関わり… 
 江戸時代以降、南部家の歴代当主の名前には「利」がつけられていますが、これにはわけがあります。秀吉が天下人になったときに、南部家も自分たちの領地を認めて もらう必要がありました。中央から遠い東北にいた南部家は、前田利家を通して秀吉に認めてもらいました。そのご恩を忘れないように、ということで南部家では、名前に「利」の字を使わせていただくことが多くなりました。(週刊朝日「子孫が語る秘話と秘宝」での第46代南部利文氏談話) 

 奥羽永慶軍記(天文元1532~元和九1623)という戦国時代の軍記物語の中に、天正15(1587)年2月、糠部庄(三戸郡)を発ち国見峠を越えてはるばる加賀の国(石川県)まで旅をした南部の武将の記録がある。(中略)

 時は天下が豊臣秀吉によって統一されようとしていた頃、南部信直の家臣の北左衛門信愛が、秀吉の傘下に入ることへのとりなしを加賀の前田利家に頼むための長旅であった。国見峠の山々はまだ深い雪に覆われる2月に糠部を発ったが、峠を越えた出羽の国では、安東氏や小野寺氏、戸沢氏などが入り乱れて戦を展開していた。その戦乱の中を通り、南部氏の名代の信愛は前田利家に面会して大鷹や小鷹を献上して秀吉に対するとりなしを懇願した。
 帰路は前田家の返礼使者、多田右京亮と同道したが、由利、雄勝、角館を通って、「産内山(うぶないやま)の難所」を越えて無事、糠部に到着したという。この産内山こそ記録に初めて登場する国見峠のことである。(秋田国道46号紀行【建設省秋田工事事務所・1996年発行】より)

 

 切留と沢内街道
 
鶯宿温泉の奥に、「切留」という地域があります。その昔、鶯宿には多くの樵(きこり)が入り、盛んに樹木の伐採を行っていました。加賀助一族が八百戸の住居を建てたことからついた「八百平」などの地名がその名残です。藩政時代に入って南部公は、天然の檜や杉の美林を惜しんで、大滝より奥の山の木の伐採を差し止めました。そこでここより奥を「切留」というようになったといいます。

 鶯宿スギの中を通り抜ける沢内街道
 この地区の中を一本の道が旧沢内村貝沢まで延びています。この道は江戸時代中期までの沢内街道です。(なお、江戸中期以降、沢内街道は南畑地区を通る路線に変更されました。)
 沢内街道は、盛岡藩領内から陸奥国和賀郡沢内村(現岩手県和賀郡西和賀町)を目的地とする街道の総称。雫石の場合の公式な「沢内街道」は、雫石町下町で雫石(秋田)街道から分かれ、臨済寺(中寺)の門前を通り、雫石川を渡渉し、籬野経由の道を指す道。

 籬野からは天沼、桝沢を経て沢内街道は鶯宿の温泉の中を通り、大滝の前から「切留」に入る。切留から待多部(まったぶ)の沢を越えて旧沢内村の長橋、貝沢に通じていた。
 切留を通るこの沢内街道の両側は古くから「鶯宿杉」の自生地であり、沿線の山には見事な美林が広がっていました。この「鶯宿杉」には次のようないくつかの特長があり、木材として高い評価を得ています。
1 日照不足の日陰のような場所でも育つ
2 湿地のような所でも育つ
3 いちど伐採しても、根元が浮き上がるような感じで新たに株立ちする。(切株から自然にまた芽が出て育つ)
4 雪圧による根元曲りが生じにくい
5 年輪が緻密で、芯材が鮮やかな赤身である

 こうしたことから、南部藩では、この鶯宿杉を大事に守って来たのでした。写真は、鶯宿の「逢滝」の右岸下流100m程の地点にある鶯宿杉の巨木。樹齢は300年とも推定されている。◆ここは鶯宿森林軌道跡のすぐそば。いまから87年前に敷設された鶯宿森林軌道の運転士たちも毎日朝夕にその威容をながめながらこの杉の前を通ったことであろう。

伐り出した木は、古くは川で流送
 
 

 山で伐り出した木材は、鶯宿川を一本ずつ流す<単幹(たんかん)流し>や筏(いかだ)という方法で下流に運びました。

昭和になって「森林軌道」に
 昭和5年に雫石営林署ではここに森林軌道を敷きました。切りだした材木(鶯宿杉)をトロッコに乗せて、雫石駅の近くにある貯木場(または土場(どば))とよばれる木材集積場まで運びました。線路のこう配が急で、機関車が登れなくなった先から、木を切り出すには、右のような「インクライン」という最新の機械と技術を使って、木を切り出しました。写真は、四国高知県の「魚梁瀬(やなせ)森林鉄道」のものですが、規模は小さいものの、このような装置が、ここ鶯宿の「待多部(まつたぶ)」という所にもありました。

森林軌道の遺跡
 切留・門戸沢に今なお残る鉄筋コンクリート製の森林軌道(トロッコ)の橋脚。これより下流のアワタキ(粟滝)付近にも橋脚が残っている。昭和30年ごろ、雫石営林署は森林軌道から撤退した。レールや枕木は再利用されたが、コンクリート製の橋脚だけは残ってしまった。

◆ 切留(きりどめ)の山祇(やまつみ)神社(山の神社)
 町内では御明神の多賀神社に次いで2番目に古い社で、切留部落の産土神(うぶすながみ)である。寛延四(1751)年の棟札に、この社は享徳四(1455)年八月十日に建立され、寛延三年全焼、再建されたと記してある。別当伊藤家は落武者と伝えられている。
 御神体は三体あり、一つは御隠居さんと呼んでいるもので木彫りの仏様、もう一つは金箔を塗った山神、三つ目は赤子を抱いた鬼子母神である。
 この社は安産の神様として各地からの参拝者があり、昔はお産が近づくと馬を引いて神様のお迎えに訪れたと伝えられている。部落では、この神様のご加護により難産の例がないという。【雫石町史第1巻と町教委刊「雫石の寺社」より】  

◆ 参考…この神社は「山祇神社」とされているが、地元の方の話では「古老の話によればもともとは『山の神さん』(山の神社)ではなかっただろうか。」ということである。雫石町教育委員会が平成元年に刊行した「雫石の寺社」には、昭和46~51年頃まで町広報に掲載された内容として上記のように紹介されている。地元の方の話では幟(のぼり)類も古いものには「山之神」とある、とのことだ。  
<山の神と大山祇神>
【山の神】
 農民の間では、春になると山の神が、山から降りてきて田の神となり、秋には再び山に戻るという信仰がある。すなわち、一つの神に山の神と田の神という二つの霊格を見ていることになる。農民に限らず日本では死者は山中の常世に行って祖霊となり子孫を見守るという信仰があり、農民にとっての山の神の実体は祖霊であるという説が有力である。正月にやってくる年神も山の神と同一視される。
 ほかに、山は農耕に欠かせない水の源であるということや、豊饒をもたらす神が遠くからやってくるという来訪神(客神・まれびとがみ)の信仰との関連もある。

【大山祇神】   
 オオヤマヅミ神は日本の山の神の総元締として知られる神さまです。民俗信仰の山の神はその山の周辺に暮らす人々の祖霊であり、農業を生業としていれば田の神のような穀霊、山の民にとっては木地や炭焼、鉱山や鍛冶の神さまであるように、日本の山神信仰は様々です。そういう要素をひとつの神格としているのがオオヤマヅミ神です。

 切留・山祇社の「鬼子母神像」は、今回残念ながら拝観できませんが「鬼子母神」に関する一般的な情報を下記に掲載しました。参考にしてください。(下記に使用した写真は切留の山祇社のものではありません。) 
 鬼子母神(きしもじん・きしもしん。…きしぼじんの読みは正しくないとされます。) 
 夜叉(クベーラ)の部下の武将八大夜叉大将(パーンチカ、散支夜叉、半支迦薬叉王の妻で、500人(一説には千人または1万人)の子の母であったが、これらの子を育てるだけの栄養をつけるために人間の子を捕えて食べてしまっていた。そのため多くの人間から恐れ憎まれていた。それを見かねた釈迦は、彼女が最も愛していた末子のピンガラ(嬪伽羅、氷迦羅、畢哩孕迦[1])を乞食(こつじき)に用いる鉢に隠した。彼女は半狂乱となって世界中を7日間探し回ったが発見するには至らず、助けを求めて釈迦に縋ることとなる。そこで釈迦は、「多くの子を持ちながら一人を失っただけでお前はそれだけ嘆き悲しんでいる。それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみはいかほどであろうか。」と諭し、鬼子母神が教えを請うと、「戒を受け、人々をおびやかすのをやめなさい、そうすればすぐにピンガラに会えるだろう」と言った。彼女が承諾し、三宝に帰依すると、釈迦は隠していた子を戻した。そして五戒を守り、施食によって飢えを満たすこと等を教えた。かくして彼女は仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となった。盗難除けの守護ともされる。インドでは、とりわけ子授け、安産、子育ての神として祀られ、日本でも密教の盛行に伴い、小児の息災や福徳を求めて、鬼子母神を本尊とする訶梨帝母法が修せられたり、上層貴族の間では、安産を願って訶梨帝母像を祀り、訶梨帝母法を修している。また、法華経において鬼子母神は十羅刹女(じゅうらせつにょ)と共に法華信仰者の擁護と法華経の弘通を妨げる者を処罰することを誓っていることから、日蓮はこれに基づき文字で表現した法華曼荼羅に鬼子母神の号を連ね、鬼子母神と十羅刹女に母子の関係を設定している。このことが、法華曼荼羅の諸尊の彫刻化や絵像化が進むなかで、法華信仰者の守護神としての鬼子母神の単独表現の元となった。(ウイキペディアから引用)

  鬼子母神の仏像の形は様々ですが、主として天女型と鬼女型に分かれます。天女型の場合は歓喜母・愛子母などともいい、胸に赤ん坊を抱いて左手を添え、右手には吉祥果を捧げ、足元に2~3人の子供が寄り添っています。一方鬼女型の方は恐ろしい顔をして(といっても結構ユーモラスなのだが)直立し合掌します。鬼子母神の伝説は私たちに他の鬼女伝説も想起させます。日本人にとって最も思い起こされるのは、やはり安達ケ原の鬼女伝説でしょうか。能の「黒塚」としても知られるこの鬼女はなにか鬼子母神と重なるイメージを持っています。

 “切留”に関する 歴史情報 出典・雫石町史Ⅰ 第四編第二章第四節326P】
 南部藩の鉱業は、初期の金、中期の銅、後期の鉄といわれているが、雫石も小規模ながら同じような傾向を示している。金は、古くから貢物や交換財として貴重なものであったが、天正16(1588)年、豊臣秀吉によって金貨が制定されてから、金の需要が増加し、全国的に金山の開発が行われた。南部の国は金の産地として知られ、初期における藩の財政はこの恩恵を受けること極めて大であった。
 雫石通りの鉱山資源は中世については不明であるが、藩政時代に入ってからは極めて少なく、記録に残るものも稀であり、これらの鉱業よりも砥石の産出の方が知られていた。
1・赤沢金山 (御明神村) ―省略― 
2・鉛山 鶯宿の門戸ケ沢内にある水乗山、男助山地内にある砥草山は鉛山として知られていた。寛政8(1796)年南畑の山師孫吉が試掘を願い出ている、 ―中略―


 鶯宿の御山一帯には鉱山が多く、次のような産出が知られている。(資料;鶯宿温泉志)
  山名    小字
金 門戸ケ沢山 門戸ケ沢
銀 岩名目山  岩名目
  左沢山   左ノ山
銅 大山沢山       小豆沢
                             師沢

        谷地畑           温泉場
        門戸ケ沢       門戸ケ沢
        山鍋ヶ沢山   大鍋ヶ沢
        待多部山       大小屋沢
        雁倉山        水上沢
                              越戸沢

        男助山   戸草沢

参考】  鶯宿・繋方面鉱山年表
・享徳4(1455)年  切留・山祇神社建立
・天正の頃(1573~1591)  鶯宿温泉の発見
・元文3(1738)年  繋村方面で金・銅山を開発
・寛政3(1791)年  南畑村南沢で鉛山開発
・寛政8(1796)年  門戸ヶ沢で鉛山開発

 雫石町史では、これらの記録から、当地域の鉱業について次のように考察している。  
〇初期には僅かに金山らしい面影が残っていたのではないか。  
〇中期には金や銀よりも鉛が対象とされ、その採掘には盛岡の山師孫吉が関係していた。  
〇金や鉛といっても鉱石より砂金、砂鉛であったと思われる、技術は幼稚であった。

・鉛は自然銅や自然金に続いて、最も古くから人類が利用した金属のひとつである。
・日本においては1500年代においては弾丸用としての利用があり、江戸時代、仙台藩では貨幣に使用され江戸中期になると屋根瓦として使用されるようになった。
・お白粉の材料にもなった。

◆ 岩手県営 御所防災ダム群「鶯宿ダム」 
 町内御所地区には、鶯宿川、外桝沢川、矢櫃川、南畑川の4河川に沿って、1159ヘクタールの農地がある。しかし、これらの河川は屈曲がはなはだしく、河川こう配が急で、かつ、ほとんど堤防がなく、いったん豪雨となれば河川が氾濫し、大きな被害を受けてきた。これらの被害を除去するため4河川の上流部にそれぞれダムを構築し、洪水防止と農地の保全を図っている。このダムの管理は、県から町が委託されている。 
<鶯宿ダム>
 鶯宿川上流に建設された防災ダムで切留にある。形式は直線重力式コンクリートダムである。規模は堤高17.5メートル、堤長67メートル、集水面積14.8平方キロメートル、満水面積23.1ヘクタールとなっている。
 工期は昭和25年着工、同29年に完成し、昭和30年10月10日に落成式が行われた。水没は家屋5戸、田畑667ヘクタール、山林原野21ヘクタールで、総工費が1億3千889万円であった。昭和44年4月1日に雫石町に管理が委託されている。【雫石町史第2巻より】

◆盛岡市の鹿妻穴堰土地改良区による水源涵養林の育成活動
 鹿妻穴堰土地改良区では、取水源である雫石川の水源の保護を目的として、普通水利組合時代の昭和3年から昭和36年までに、岩手郡雫石町大字鴬宿地内の山林を233ha購入し、水源涵養林の育成を実施しています。 
 この水源涵養林は、昭和41年8月に保安林指定となり、昭和45年3月からは岩手県知事より森林施業計画の認定を受け、現在まで計画的に管理・運営を行っております。
 鹿妻穴堰の水の恵みを受ける農家の人達は、取水源である雫石川の水源を保護するため、普通水利組合の時代から雫石川上流にある雫石町鶯宿にある水ノ目山といわれるところで、水源涵養林の造成に着手していました。山に木を植えることによって、降った雨を山の土の中にも貯め、日照りが続くときでも雫石川の水がなくならないように備えています。いわば緑のダムを造っているのです。その林も今では233haに及び、杉、赤松、桧などの美林を形成するまでにいたりました。
                 ✿
 この水源涵養林の所在地は、県内でも「鴬宿スギ」として有名なスギの産地であることから、当土地改良区所有山林も全体の約6割をスギが占めています。

 岩名目平(いわなめたい)
 鶯宿ダム上流、上記鹿妻穴堰の水源涵養林近くに、岩名目平という地名がある。切留方面に向かって左に入る道がある。これが岩名目沢林道で、御明神の志戸前方面に通じている。ここは、その昔、和賀・沢内方面からの落人たちが通った道とされ、雫石の旧家「米澤家」の人々も、山形米沢方面からここを通って、最初は「志戸前」に落ち着いた、とされる。

 明治維新後の入植地(士族の帰農)
 雫石町史には「明治8(1875)年に下級武士と思われる人々11名が、岩名目平に11町歩余(11ヘクタール余)の畑を開拓した。しかし、熟地となるところが少なく、5年後には大部分が原野となっている。」との記載がある。 

【鶯宿温泉の地名由来(雫石町史から)】
 加賀助伝説……鶯宿温泉の発見者加賀助は実在の人物らしい。南部藩と加賀藩は親しい関係にあったとされる。南部信直公が豊臣秀吉に臣従したのは前田利家公のとりなしがあったからだ。加賀の住人が多数南部に移住したことも考えられる。
 大村の七兵衛(上野)家の文書に加賀助、加茂助などの末裔と伝えられている。伊藤家は切留のダムの建設で南畑に移転している。浄法寺椀を開発した伊藤家の記録には先祖は雫石に居住していたと記されているという。
                    ◆
 八百平(やおたいら)…志戸前山を伐り尽くした加賀助一族は鶯宿の大森林に目を付け、現在の八百平の地を居住地と決めて自分たちの住いを建て始めた。数か月後、800軒の家が建っていたことから、ここを「八百平」と呼ぶようになった。
 夜明沢(よあけざわ)……八百平に家を建てるため樹木を伐採した結果、隣接するこのあたりは夜が明けたように明るくなったので、こう呼ぶようになったという。
 
 
                    ◆
 昭和16年頃、鶯宿温泉の入り口の右手、八百平への道の途中に、太平洋戦争での傷痍軍人(戦で負傷した兵士たち)の温泉治療の為、通称「軍人寮」が建てられました。そこへ行くための鶯宿川に架かる橋の名は「皇軍橋」と名付けられました。(写真右上)
 当初は30人ぐらいを収容していたようですが、昭和19年4月陸軍病院の分院となったときには5つの旅館に軍人200人、 それに医師、軍属、看護婦、事務方など合わせて15名が従事していました。
 
◆ 昭和初期ごろの鶯宿温泉の写真(右下 )
 中央右の建物が湯守久八(川口旅館)、左奥が庄左エ門(青山・ヘルスセンター)。右奥に薬師神社(現温泉神社)が見える。
 
昭和16年夏、鶯宿の現在の町営グラウンド(球場) 付近に滑空場を造成することになった。地元住民が勤労奉仕した。指導者は繋村出身の桐野聞治先生であった。

 
 
  山伏トンネル

 主要地方道「盛岡横手線」と 同線の「山伏トンネル」
 岩手県道・秋田県道1号盛岡横手線は、岩手県盛岡市から秋田県横手市に至る主要地方道である。ただし、和賀郡西和賀町川尻から横手市までの間は国道107号との重複区間であり、したがって秋田県内の単独区間は存在しない。
 
【歴史】 雫石町の堀割から御所湖畔を通り、桝沢、大村を経て山伏峠を通り、沢内村に通じる県道。 旧沢内街道は、昭和15年、それまでの籬野経由の当初路線に代わって、堀割から長根の峰に登って峰伝いに進み、安庭橋を渡って安庭集落に進む道に変更された。馬車がやっと通れる曲がりくねった道であった。大村からは歩行者が最も苦労する山道で、ハチアブが多く山伏が襲われて死んだため山伏峠の名がついたといわれるほどだ。
 昭和14年、御所村出身の県議会議員高橋清と、沢内村出身の県議会議長高橋栄次郎の尽力で県道に編入され、トンネルが通された。山伏トンネルの工事費は21万円で落札された。労働者の日当が80銭~90銭といわれた時代である。
 昭和15年、堀割を通る新路線の工事が行われ、昭和29年8月16日主要地方道に認定された。昭和36年から沢内村がブルドーザーを常置して除雪に当たり、冬期間もバスが通れるようになり、昭和40年頃から舗装工事が始められた。【資料;雫石町史第2巻】
 上の写真は、かつての山伏隧道(トンネル)。平成10年9月新山伏トンネルが開通したため改修され、しばらくの間「雪っこトンネル」と呼ばれる「雪」を冷熱源とする低温貯蔵庫となっていました。現在は使われていません。

 昭和15~18年頃、鶯宿森林軌道と沢内貝沢森林軌道の間で機関車の使い回しが行われていた。鶯宿側の待多部と沢内側の長橋の間が勾配がきつく、レールを敷設できないため、機関車をトラックに載せて運搬していたのである。写真は、県道1号線山伏トンネル雫石側入り口で撮影した「トラックに乗った森林軌道機関車」の写真。非常に珍しい。機関車は木炭タービン車である。

 山伏峠の名の由来 
 その昔、ある夏の夕暮れ時、ひとりの山伏が沢伝いの山道を急いでいた。村里離れた頃より虻(あぶ)が出始め、次第に群れを成し大群となって人を襲うさまは山に雲か霧がかかるようだったそうです。ちょうどミツバチが分蜂するときのようだっだ。
 その無数の虻に刺されるのですから大変だったと思います。峰が近くなるにつれて山道は次第に険しくなるし、虻は次第に数を増して防ぎようもなく、長旅の疲れもあって、虻に刺される苦痛に耐えられずついに倒れて、その山伏は二度と起き上がることができなかったという。
 それ以来、その近くの山道の峠を「山伏峠」と呼ぶようになったそうです。【大村の民話より(一部「渓谷小誌」を参考とある)】

【参考】 この道は、山形県の「羽黒山(はぐろさん)」という有名な山伏の修験場(しゅげんじょう)と、やはり大きな修験場があった繋温泉、さらには岩手山周辺の神社を結ぶ道で、多くの山伏たちが行き交ったと思われます。峠の名前もこうしたことからついたのかもしれません。ところで、<修験者・山伏>というのは、どんな人たちだったのでしょうか。
✿ 修験とは修験道を修めた人をいい、修行のため山野を遍歴して、そこに起臥したことから山伏ともいわれている。修験道は日本古来の山岳信仰や神祇道から始まり、平安期に至って天台、真言の密教と合体し、陰陽道や道教なども包摂(ほうせつ)して神仏両者に仕(つか)える者であった。
 修験の社会的役割は  
①呪術者として、別当をしている神社に藩(あるいは当主)の安泰祈願をはじめとし、凶作にあえぐ百姓のため五穀豊穣の祈祷を行う。受け持ち区域を「霞(かすみ)」とか「袈裟下(けさした)」と呼んだ。 
②求道者(ぐどうしゃ)として、帰心(信)者を羽黒、大峯等の霊山に先達をして詣で、または代参して護符(ごふ)を請けて帰り、配布している。 
③芸能保存者として、古式豊かな神楽などの伝承と指導普及を行う。 
⑤民間信仰の指導者として、庚申(こうしん)などいわゆる石仏信仰の指導をする。 
⑥教育者として、寺小屋を開き、村人の子弟に読み、書き、算盤等を指導する。

 沢内村貝沢と雫石のご縁にまつわる話
  雫石町の下町、永昌寺境内の「大森子安地蔵尊」に、こんな由緒が伝わっている。
――江戸で両親を亡くした三姉妹が、縁を頼って南部の地に来たが訪ねる親類は行方知れず、仲の良い三人は一緒でなければとの条件で、なかなか仕事も見つからず、もっていた金も使い果たし、毎日の食事にも事欠く始末。何か仕事をせねばと三人で考えたのが、江戸にいた時の母の仕事だった“産婆(こなさせ)”だった。知り合いから家を借りて産婆の仕事を始めたところ、若い美人の産婆でとても丁寧だと世間から好評を受けた。これを聞いて遠方からも頼まれるようになったが、無理がたたって姉は病気になってしまった。しかし仕事を休むわけにもいかず、姉を助けながら依頼先の花巻に向かう途中、石鳥谷の松林寺の松の根元で疲れた体を休めた。翌朝、松の根元で姉妹三人が抱き合って死んでいるのが村人によって発見された。かわいそうに思った村の人たちは三人を“子安地蔵尊”として祀ったという。「お姿」として一本の木で三体の地蔵尊を刻み、木の元の所でできた地蔵尊は松林寺に、中は沢内の貝沢地蔵尊に、末の部分から刻んだものは雫石の大森の地蔵尊として祀られた。――(昭和47年3月号の雫石広報。上野孝二郎氏文)

 貝沢(かいざわ)地蔵(じぞう)尊(そん) 
(別当家 岩井 貞一 氏(屋号 御門))
 御祭神 貝沢子安地蔵尊・子安地蔵尊像
 祭礼日 新暦6月23日

 三姉妹を弔う想いが由来
 その昔、江戸で両親を亡くした3人の姉妹が仕事を探して岩手まで来ました。姉妹は産婆をしていた母にならい、産婆の仕事を始めました。その後、産婆の仕事で、花巻に行く途中、石鳥谷の松林寺の松の木の下で3人一緒に休んでいましたが、寒い時期であったこともあり、命を落としてしまいました。憐れに思った周辺の部落の人たちは、3人が亡くなった松の木で3体の子安地蔵を彫り、石鳥谷の松林寺、雫石の永昌寺、そして貝沢に置いたといわれています。
 明治3年の廃仏棄釈により地蔵蔵は、一時別当の岩井さん宅に置いていましたが、その後御堂を建てて再び祀りました。現在の御堂は昭和50年頃に建てられたものです。参道には23か所の曲がり角がありますが、これはお祭りの23日に合わせているといわれています。

 お参りの時は振り返らない決まり
 昔は、お祭りの時は2、3軒の出店があったりしました。鈴鳴らしの布紐を安産祈願としてもらっていく人もいました。初産の時のお参りでは、参道を歩く時に後ろを振り向かないように歩くようにと言われてお参りしたそうです。

  大村

≪大村地区の昔話≫ 馬場と清水の由来
 源兵衛、与兵衛の二人が使用人と親馬数十頭を引き連れて大村に入った。顕信(あきのぶ・南北朝時代の鎮守府将軍 北畠顕信のこと)公の家臣は、清水村(馬場の清水集落)を軍馬の育成場所に選び、自らも居住した。
 二人は顕信公が秋田に転戦後もこの地に永住しました。清水集落には、清水長者の墓地と伝えられる所があります。その清水長者の馬場があったので馬場の名前が付いたとも言われます。現在もこの地には清い水がこんこんと湧きだしており、飲料水としても日常利用されており、当時も生活の場としても、馬の育成の場としても非常に良い環境だったことと思われます。(大村の伝説から)
注)北畠顯信(きたばたけあきのぶ) (1320~1380年)兄顕家の死により陸奥介鎮守府将軍に就任。南北朝時代、滴石に1346~1351年まで滞在と推定される。

(参考)大村の山祇神楽 <雫石町無形文化財 第1号指定 昭和42年5月>
 大村の山祇神楽は円蔵院配下、繋村の正福院の山伏から大村の若者たちが教えられたと伝えられ、大村地区の人々の手で温かく守られて、親から子に子から孫に伝承され300年余の歴史を持つ。古式豊かな、貴重な神楽として無形文化財に指定された。踊りは20種以上もあって、一つの踊りに15~40分位を要し、全部踊るには10数時間を要する。
 昭和37年、東京の靖国神社に郷土兵士を慰霊した際、古典学者グループの支援で、多くの研究者を前に奉納披露し、“優れた素材を持つ優秀なもの”との評価を得ている。【資料;雫石町史第2巻】

 大村の集落の中心に大きな鳥居(とりい)があり、その奥に「山祇神社」があります。
 この神社は建てられてから400年近くたつと言われています。この神社には町内で一番歴史のある「山祇神楽(やまつみかぐら)」が伝承されています。この神楽は雫石町無形文化財の第1号に指定されています。大村小学校では伝統的にこの神楽を全校で舞って、継承(けいしょう)しています。
 神社の境内には樹齢(じゅれい)1450年という御所地区では一番古い「山祇神社の姥杉(うばすぎ)」がそびえています。(樹高40m、目通り幹回り6.8m) 1994年7月 雫石町指定天然記念物
 大村の道は沢内村(さわうちむら)から秋田、山形に続く道で、高さが40mもあるこの木は、昔から旅人たちの目印(めじるし)になっていたものと思われます。
 山祇神社は「山の神」を祀(まつ)っています。大村地区の人々は古くから「きこり」や「マタギ」など森林・木材にかかわる仕事をしていたので、「山の神」を崇拝(すうはい)しているのです。背は樹齢のわりに高くない。幹囲もそれほど太くは感じられないが、上に向かっての漸減率は小さい。表皮の模様が大ぶりで、凹凸が大きいので陰影が深く、力強さを感じる。

大村の「地名に関する昔話」から
 加賀(かが)滝(たき) 鶯宿温泉の発見者、木こりの加賀助は鶯宿山での伐採が切留より奥は差し止められたので、男助山の西の肩を越えて大村方面に入り、杉やヒノキの伐採に励みました。
 しかし、加賀助はそれまで仕事を終えて毎日入っていた鶯宿温泉のお湯の味が忘れられません。そこで、毎晩大村から山越しに鶯宿に通いました。
 それでも、毎日だとおっくうになり、大村の地に温泉が出ないものかと探し回りました。ある日、部落の古老が村を流れる尻合川にある流れの急な場所に行って「ここの滝の下から湯が湧いたことがあった。」と教えました。加賀助は喜んで、滝の下に木の枠を造り、何日も何日も掘りましたが、湯は湧きませんでした。
 とうとう加賀助もあきらめてしまったということで、それ以来、この急な流れを「加賀滝」と呼ぶようになったといいます。【雫石町史、大村の民話より】

 源兵衛地石 加賀滝より約100メートル下流に大きな石がある。これを地元の人たちは源兵衛地げんべえち石と呼んでいる。高さが水面より約6mありほどあり、直径が約5mだ。
 昔は向こう岸にぶら下がっていた石で、子供たちが、水浴びに来て雨が降ると、この石の下に入って雨宿りをしたという。それが明治29年の大地震【陸羽大地震】の際に落ちて、対岸にどっかりと座って、現在に至っている。
 「源兵衛地石」の名は、昔この地を源兵衛という人が拓いたので、地区の人はこの辺りを源兵衛地と呼ぶ。小字名にもなっている。春には、石の向かいに桜やツツジが咲き誇り、秋には紅葉が水面に映える。それはまるで絵葉書の世界だ。【大村の民話より】

特別付録 雫石町南畑・大村で育った童話作家 儀府成一さん
 幼少のころから少年時代まで大村地区・男助で育った童話作家の儀府成一(ぎふ せいいち・本名藤本吉四郎・後年、光孝と改名、さらにペンネームは母木光【ははきひかる】)は、養母みちさんから毎晩聞かせてもらう『昔っこ』が大好きな子どもでした。
 学校卒業後も「三つ児の魂、百まで」の言葉どおり、民話や詩作に関心が強く19歳で処女詩集を刊行。24歳の頃から晩年の宮澤賢治と交際が始まり花巻の自宅も2度訪問しています。昭和8年9月の賢治の葬儀の際に友人代表として弔辞を起草し、それを後年の直木賞作家森壮已池が読みました。
 その後、幼少期の母から昔語りを聞いた原体験に加えて、民話や口碑が文学にまで高められた『遠野物語』に出会ったことで、――民話をもとにした童話もまた文学でありたい――と民話童話作家を志しました。上京後、雑誌社や出版社勤務を経験する傍ら作家活動を展開、昭和15年に東北地方の方言による会話を主にした小説「動物園」は第12回芥川賞候補となりました。

 母木光の宮沢賢治とのハガキ、書簡等での交流の状況

昭和5年9月26日  宮澤賢治(明治29年8月生まれ。吉四郎より13歳年長)(母木22歳)から「岩手郡御所村上南畑 岩手詩集刊行会 母木 光」あての書簡が届く。母木光(ははき ひかる)は吉四郎のペンネーム。内容は〔岩手詩集刊行の趣旨に賢治が理解を示し、本人と花巻の詩人達に寄稿を勧める予定である。ただし編集委員は遠慮したい。〕というものであった。
  11月2日 母木へ葉書「童話集1冊贈る。…回りに出稿勧めておいた」
 4日 母木へ書簡「3人分の原稿送る」

昭和7年5月10日 母木へ書簡「ご来花をお待ちする。」(バスの便まで案内)
 5月14日 母木が花巻の自宅を訪問。この訪問記が岩手日報に掲載された。
 6月19日 母木へ書簡「母木が自作の童話『ワラシと風魔』を賢治に贈り、批評を乞うたことへの返事等」  

昭和8年3月7日 母木へ書簡「近況を書いて、御地のような場所で自然への精密な観察は新しい童話への資源だらうと存じます。…ほか」
 4月25日 母木へ葉書「詩集の発刊を祝う…。労働はにわかに烈しくなさらないように…と母木を気遣う。」
 6月17日 母木へ葉書「(創作詩集)二十人集について」…ほか。
 7月16日 母木へ葉書「8月10日頃のご来花をお待ちしている…」ほか
 8月19日 母木が花巻の自宅を二度目の訪問。「知己の詩人たちの話が出て時間が経過した。」浮世絵のコレクションを見せた。
 8月23日 母木へ書簡「母木の健康をかなり心配している、と書き連ねる」
 9月 5日 母木へ書簡「お身体のお加減いけないようですが、どうかせっかくご自愛早くご元気になって、次のお仕事お見せください。(中略)ずゐぶん残暑の続く歳です。」
儀府成一〔本名、藤本吉四郎 改め 藤本光孝 〕
明治42(1909)年1月3日生れ~平成13(2001)年6月6日 92歳で没〕
大正 4年4月 大村小の前身である南畑尋常小学校大村分教場 入学(6歳)
大正10年3月 同 卒業(第12回卒業生)
大正12年3月25日 雫石尋常高等小学校高等科卒業(14歳)
雫石町立大村小学校校歌の作詞者、同 雫石小学校(100周年)賛歌作詞者      

  赤滝 高藤堰

赤滝  高藤堰と「開鑿者長助」信念の規約書
 雫石町教育委員会の社会科副読本に次のように紹介されている用水路があります。
 今から約130年前(1877年)、御所村(ごしょむら)の高藤長助はたいへん苦労のすえ用水路をつくりました。長助は深沢(ふかさわ)の畑を田にしようとして用水路を造る計画をたてました。この計画の中には、トンネルもふくまれていました。村の人たちは、工事になかなかさん成しませんでした。それは、この工事がたいへんむずかしかったからです。 長助は、もしこの工事で水が通らなかったら、かかった費用(ひよう)を全部自分がはらう決心をしました。1891年、11にんがさん成して工事に取りかかりました。トンネルはたいへんな工事でした。夜はろうそくを使って測量し、昼はトンネルを掘ってその土をもっこに入れて運びました。1892年6月、500メートルのトンネルをふくめて長さ約5キロメートルの用水路ができあがりました。こうして、この用水路は多くの人々に利用されるようになりました。

<参考> 高藤堰は、1891(明治24)年、当地の素封家(そほうか)であった高藤長助氏が南畑川上流の男助地区より上水することを計画し、部落内の賛成者を募り画期的大事業として発足したものである。
 当時深沢部落は平坦な土地ではあったが水利の便が悪く、一部男助山より流失する沢水及び、台地に造られた小溜池を利用した水田があり、旱魃時には非常に苦労しておった模様である。そこからこのような発想が生まれたと思われる。しかしこの計画に当時の地区民の中には懐疑的な見方をする人も少なくなかった。
 この事業を始めるに当たり、高藤長助ら関係者は「新堰開掘に付規約書」という約束事を結んだ。長助の偉業をたたえて大正9年(1920)に建立された開鑿記念碑
 この規約は21条からなるもので、堰の長さや平均の深さと幅が明記され、経費については「新堰掘入費(しんぜきくつにゅうひ)」として、当初は全て高藤長助が無利息にて調達し、完成後は全員が平等に負担する、とある。さらに見込みどおり工事ができなかった場合は、かかった費用は全て高藤長助が負担する、としている。
 一方で用水路工事等のために出勤の通達があっても、無届で3回不参加の場合は、仲間から除名する、ともあり、さらに〔用水の量に限りがあるので〕仲間の全員一致の承諾がなければ新たに開田することができないと定めている。
 しかし、もともと非常な難工事が予想されていたため部落全員の参加でもなかったことから部落内では相当の批判もあったようだ。
 このような中、直ちに工事に着手したのであるが、幹線水路中には岩盤個所があり、断崖地(だんがいち)を横切る個所ありでたいへん苦労した。翌1892(明治25)年6月通水に成功。しかし年々決壊、崩壊が相次ぎ、管理補修には苦労が続いた。
 1899(明治32)年になって、男助山のふもとの俗称「へぐり(※川の浸食を受けた崖地)」の個所を隧道(ずいどう・トンネル)に変更することを計画し、岩手農工銀行から150円の融資(ゆうし)を受け、これを加入金として三名が新たに加入した。
 古老の言い伝えによれば、当時測量機械もなく、夜やトンネルの中で、ローソクの火を灯しながらその光源をたよりに方向を定め、水盛りを頼りに高低を測ったと言われている。ことに、隧道や岩盤個所で必要な火薬類の入手も思うにまかせず、どこからか雇(やと)い入れた坑夫が火薬の調合方法を知っており、現地で火薬を調合して使用したと言う。その道具の一部が大正末期頃まで地区内のどこかに保管されていたらしいが、今はどこで聞いてもそれらしきものはない。(雫石町土地改良区史から)

  昔の手作業トンネルの掘り方(参考例)










 その後大正年代に至り、高藤長助氏の没後、長男高藤広吉氏もこの用水堰の維持管理に特に力を注ぎ、不法増反(ふほうぞうたん)者への制裁規定(せいさいきてい)等を盛り込んだ規約を設けたり、また、災害時の資金供給(しきんきょうきゅう)のための基金蓄積(ききんちくせき)規定を設けるなど並々ならぬ配慮をしている。
 この堰の開削以来、幾度となく災害に遭遇し、その都度国、県の制度による補助を受けながら、関係者は苦労しながら復旧、維持管理に努めてきた。
 この用水は、昭和47年に雫石町土地改良区に引き継がれ、昭和58年に延長1050メートルがコンクリート舗装水路になって現在にいたっている。また、高藤堰頭首工は、昭和59~60年度に3千百万円余の事業費で全面改修されている。

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