史談百花帖
御所地区の歴史
篠木坂の間道
元御所の名前由来
御所村の誕生
御所ダム
江戸時代の繋村
繋温泉・史跡
(西安庭)町場
矢櫃やびつ
沼田神社
片子沢の化け石
雫石町教育委員会 ・滴石史談会 共催   
平成29年度 郷土史教室  
 
 御所地区(旧繋村含む)の史跡、伝説を訪ねて
☆日 時 平成29年6月24日(土) 8:45~12:30
☆場 所 元御所・繋温泉地区・矢櫃川渓谷沿線及び戸沢、片子沢
 ダム水没前の下繋地区 
中央、雫石川にかかる橋が尾入橋、橋の手前は現在の繋温泉病院の下あたり。上の造成地が現在のホテル紫苑周辺。右上奥が温泉地
区。
 8:45 雫石町中央公民館 出発 WC   (東町経由)
 8:55 伝説の地「元御所」(水辺園地 ) …下御所観音ほか
 9:15 繋・北の浦 の伝説 …(十石杉、マナイタ淵)
 9:40古碑①「繋の板碑」(修験・正福院瀬川家墓地)          
  ②「あふしゅく道・道標」(南無地蔵大菩薩供養塔)
温泉地区 <猫石~駒繋ぎ石~温泉神社~湯守安楽院のこと>手つなぎ広場 
WC <尾入筏番所のこと>
 10:30藤倉神社と舘市舘、一本松経塚遠望、湖底に沈んだ「萪内(しだない)遺跡」
 11:05矢櫃川渓谷の伝説 <落人伝説「魚の棲まない舘ケ沢」>    
堀合神社 「雨乞いの神様」
 11:45 沼田神社 <江戸時代には譜代大名になった戸沢氏伝説>
 12:00 山形道の古碑 <若い女の亡霊>  …御所公民館 WC
 12:30 雫石町中央公民館前 に帰着

今回探訪する場所  ①中央公民館<WC>  ②元御所 ③繋・北の浦 ④繋温泉<WC・手つなぎ広場>  ⑤矢櫃 ⑥戸沢・沼田神社 ⑦片子沢(WC・御所公民館)


  御所地区の歴史
 ・御所地区の大地の形成 
古舛沢湖の湖底だった   
  御所地区の地形の特徴は、地区の南側紫波町との境にある須賀倉山(940.9m=紫波町の最高峰.)連山(東根山、青木の森)の山腹を源とする深い沢が多数あることです。 
 別記・土井宣夫氏の資料56 雫石盆地の形成をご覧いただくとわかるが、御所地区の区域の大半は、今から500万年前以上前の太古の時代「古舛沢湖」という巨大な湖の中にあり、湖底に堆積した泥岩や頁岩の地層がその後隆起して現在の地形になっているとのこと。つまり比較的柔らかい岩盤が長い年月のうち雨水等で浸食されて、御所地区特有の深い沢ができたと推定されるのです。(参考;土井宣夫氏の「十和田八幡平・自然解説マニュアル」掲載の論文)   

箱ヶ森、毒ヶ森、南昌山はマグマの塊が冷えたもの 
  御所地区の東側、紫波郡との境に、箱ヶ森、毒ヶ森、南昌山などいわゆる「釣り鐘形」の山が並んでいます。地質学では「岩頸(がんけい・ネック)」といいます。まだ、地球内部でのマグマの活動が活発な頃にマグマなどの火山噴出物が地上へ出る途中で冷え固まって生じた火成岩が、長い間に回りの表土が風や水、光による侵食で削られ流されて、棒状あるいは釣鐘状の火成岩だけがとり残されて、それが“山”として残ったものをいいます。     
 宮沢賢治は南昌山などの山を、作品でいち早く「岩頸・ネック」と表現しました。童話「楢ノ木大学士の野宿」では、賢治自身が「岩頸といふのは、地殻から一寸頸を出した太い岩石の棒である」と解説しています。

 ・ 縄文・古代~
 「繋温泉地区」は昭和30年9月までは雫石郷の「旧御所村」に属していた。それ以前、明治22年に合併で御所村が誕生するまでは、雫石川左岸の元御所集落とともに繋村を形成していた。
 この旧繋村は、雫石郷の中でも最も早く開けた地域と推察される。地区内にある縄文時代後期から晩期(4,000~2300年前)にかけての「萪内(しだない)遺跡」からは、日本最古の漁業施設である「魞(えり)」の遺構が発見されており、竪穴式住居群の周辺からは、「大型土偶頭部(国重要文化財)」が出土し、「縄文人の足跡」も発見されている。
 特に繋温泉地区は、今から1200年前に坂上田村麻呂によって造営された盛岡市太田の「志波城」(写真)に近く、大和朝廷の勢力が早くから及んでいたことが想像できる。また、11世紀中半の前九年の役(「~戦い」ともいう。~1062年)のためこの地を訪れたとされる「源義家」に関する伝説が数多く残っている。繋温泉そのものが源義家によって発見されたとする話もある
 湯の館山の頂上付近には11世紀後半から100年続いた平泉藤原文化との関わりを示す「渥美焼 灰釉壷」が出土した「一本松経塚」がある。
 さらに12世紀後半の豪族「戸沢氏」の戸沢舘や滴石城の前衛基地としての「繋舘(舘市舘)跡」があり、地区内の山伏修験の家「正福院(しょうふくいん・江戸初期~)」の墓地には、南北朝時代(1336~)に造立された思われる板碑(いたび=石卒塔婆・供養碑)が建っている。

     〔街道について〕
 現在、御所地区を東西に県道1号線(盛岡横手線)と盛岡鶯宿線の2本が通っている。この道の原ルートは藩政時代に「沢内街道」とか「山形道」と呼ばれていた。文字通り岩手県央部と沢内村経由で山形県の「修験場羽黒山」を結ぶ道である。江戸時代初期、繋温泉地区は盛岡城下から太田方面を経由する山形道(現・盛岡鶯宿線)の途上にあった。このため、盛岡城下への西の入口に当たるこの繋地区には早くから羽黒系の修験者たちが住みついていたと思われる。しかし、当時盛岡城下を支配していたのは、信直以来の「自光坊」に代表される本山派の修験者たちであり、羽黒山系の修験者たちは城下中心部へはなかなか入り込めなかったのではないかと思われる。
 一方で、修験者たちは山形道の沿線に独自の文化を残しており、大村地方に伝わる「山祇(やまつみ)神楽」がその代表的なものである。正式には「正福院山祇(御所)神楽」と呼ばれる。

   〔行政組織について〕
 この沢内街道は、江戸時代の寛文11年に、それまでの鶯宿・切留経由から南畑経由のルートに切り替えられた。南畑経由で沢内村方面への道はそれまでもあったが、この年から南畑経由が本道になり、肝入など藩の行政上の組織も充実され、沿線の様子も大きく変わった。
 天正19(1591)年、雫石通に代官所が置かれ管轄は10か村となった。うち現在の御所地区は「南畑村」、「鶯宿村」「安(阿)庭村」、「繋村」の四か村であった。以降、明治12年、盛岡にあった同名の村との区別のため「安庭村」が、(南岩手郡)「西安庭村」となった経緯を経て、明治22(1889)年の市町村制施行までおよそ300年間続いた。明治22年に四村が合併して「御所村」となった。
 その後、昭和30(1955)年、いわゆる昭和の大合併で、雫石郷一町三か村(雫石町、御所村、御明神村、西山村)が合併し、新生「雫石町」となった。

   〔山林開発について〕
 御所地区は耕地が少なかったが、鶯宿から大村にかけて檜や杉の大密林があり、南部藩による山林開発を中心に発展した。藩政時代は安庭に御山奉行、尾入には筏奉行が置かれて、御所地区から運び出される木材の管理に当たった。
 豊富な森林資源を背景に、御所地区を流れる「鶯宿川」、「南畑川」、それらの合流した「南川」、そして最も東を流れる「矢櫃川」では、古くから伐採した木を下流に送るための木流し(川流し)が行われていた。これらに貯木場敷地提供して財を成した家も少なくない。この川流しは昭和初期に森林軌道(矢櫃川流域を除く)が敷設されるまで続いた。その森林軌道は木材のみならず、地域住民や近郷近在の人達の生活の足として昭和20年代後半まで利用された。

  〔旧家について〕
 御所地区の旧家には、紫波郡から移住したと伝える旧家に、元御所の七郎兵衛(徳田家)、矢櫃の仁右エ門(高橋家)、南畑の孫左衛門(高橋家)、弥左衛門(藤本家)、鶯宿の煙山家がある。
 また落武者と称する旧家も多い。芦ヶ平(よしがたい)の仁右衛門(高橋家)、町場の又二郎(廣瀬家)、安庭の徳右衛門(田屋舘家)、九十九沢の喜左衛門(伊藤家)、鶯宿の庄左衛門(青山家)、大村の掃部(かもん・吉田家)などがそれである。

≪資料・御所地区(繋地区含む)の地形の形成≫


上記峡谷、つまり現在の御所ダムサイトより下流は、江戸時代までは川沿いに通行できず、太田方面から繋温泉までは、峡谷の上の峰伝いの道〔大欠(だいがけ)山の剣(つるぎ)長根〕を歩くか、さらに南側の宰郷山の中の湯坂道(猪去から入って下猿田に抜けるルート)を通らなければならなかった。実は<太田方面から繋温泉まで>のルート、一般の人には難コースだったのである。

 篠木坂通りからの間道
 盛岡城築城以前の雫石街道は ≪諸葛橋付近(現在の前潟イオン付近)から上厨川の土淵に出て、滝沢村西の篠木坂峠を越え、外山(とやま)から大清水を通り、七ツ森の北側を通って雫石(現在の「名子道」)≫に出る経路だった。
 ただ、それはいわゆる「正規ルート」であって、一般の通行人等はできるだけ近道をしようと考えるものであろうから、さまざまな「間道」があったのではないだろうか。この「篠木坂~外山~大清水~(長山街道と交差)~板橋(ハートポート~希望ヶ丘~七ツ森保育所)~雫石街道」ルートもその一つではないかと推測する。この間道は、その動線から見て、雫石街道と交差して御所野原を通る「沢内街道」に結びついても不自然ではない。                 ◆
 滝沢市大釜風林と大清水の網張街道交差点に建てられた地域の案内板に「篠木坂を越えてきた旅人は、ここを通り長山街道に歩を進めた。」という記載がある。
 慶応2(1866)年の絵図面を見ると、この間道の北方向の先の隣村との境〔現在の仁沢瀬川〕の向こう側には「厨川通・大釜村」と書かれている。
 これを現在の管内図に示すと次のようなルートになる。

 
 「板橋」の地名の由来
 東町住宅団地の東側を一本の川が流れています。七ツ森の東側から流れてきて秋田街道(現国道46号)を横断するこの川が「越前堰・西堰」(尾入用水堰とも)です。国道の南側ではこの川が雫石町と盛岡市の境になっています。
 古い絵図面(慶応2年・1866年作図)には「板橋川」とあり、図面に<(板の)橋が架かっている>表示があります。これが雫石町(23地割)板橋の地名(地割)の起こりと思われます。                  ◆
 この付近は、雫石街道から沢内街道の近道(元御所を通る道)への分岐点で、大正の頃まで、現在の蕎麦処「御所野」のあたりに「板橋茶屋」がありました。
                
 ◆ ≪参考≫ 江戸時代、道路や橋梁を保護し、並木の枯損や倒木の補植、一里塚の保護、その他道路管理については通り内の町村で責任を持つように命じている。初期における分担は明らかではないが、寛文3(1663)年には、仁佐瀬以西は雫石通りの分担となっている。雫石通りでは、それをさらに村毎に区域を定めて、保護管理の責任を明らかにした。元禄11(1698)年の分担を「繋村肝入舘市家留書帳」の記録をもとにしたのが表(一)である。その骨子は次のとおりである。
     (略)
資料<一>  道割の覚
  一、仁佐瀬より、板橋迄、繋村御蔵御給所の、請取場所、但し板橋の橋まで、    (以下略)
                  〔雫石町史Ⅰ・藩政下の雫石・交通と生活より〕

◆ ≪参考≫ 越前堰・西堰(にしぜき)
 越前堰の源流は、岩手山中の持籠森(もっこもり)から流れ出る白川沢の上流や、鞍掛山麓のグンダリ沢の上流から発しています。これらの沢や妻の神沢、林の沢などの細い渓流をつなぎ合わせて黒沢川となって流れ越前堰に分流しています。特長は沢と沢を繋ぐために堰を掘ったこと。一つの沢からその沢の水を全部引くのではなく、少しずつ水を取り入れ、その残りは雫石の方へ自然の流れとして流してやっているのです。
 越前堰の西堰といわれる尾入堰(おいれぜき)は、丸谷地でその付近の水を合わせて、雫石町の七ツ森の東麓を通って盛岡市の尾入れへ流れています。
 また、大釜、篠木、大沢方面に向かう越前堰は、東堰、根堰、上堰と呼ばれ、丸谷地で尾入堰と分かれ、逢沢、巡沢、苧桶沢の水を合わせて仁沢瀬から篠木山の麓を巡って大釜や篠木方面、さらに鵜飼、土淵等の水田を潤して流れています。

◆ ≪参考≫ 御所野原(ごしょのはら)
 現在の元御所行政区の東側前面に広がる原野。ほぼ中央を16世紀に建設された「越前堰・西堰」が南北に縦断していて、盛岡市と雫石町の境となっている。この名はこの地方に伝承される「御所伝説」に由来するものと思われる。藩政時代は盛岡城下と沢内方面を結ぶ沢内街道が雫石街道から分岐して西側の山手を通って雫石川方面に向かっていた。土地の古老は「250年ほど前の藩政時代に広大な松林が火災で焼失したとされ、以降は原野のままだ。ここを通る沢内街道は雫石街道と同様に立派な松並木が昭和初期までありました。」と話しています。

   元御所
 雅な地名である。古くからの集落は昭和50年代初 頭には御所ダムの湖底に沈んでしまった。そこに住んでいた人々は、大半はかつての御所野原に移転したほか、町内外の各地に移り住んだ。
 ここは、その地名の由来ともなったように平安時代から開けた場所であろうと推測されており、多くの伝説や旧跡が残されている。この元御所について、2015(平成27)年7月9日に実施した「雫石八景を訪ねて(前篇)」で使用した資料に基づいて解説する。

             < 御所ダム水没地航空写真(昭和48年頃)・徳田庄一さん提供>



“御所”の地名について
 一般に「京都ではないのに御所という名が用いられていること」への疑問があるが、かつての公家・武家の高位者を指す意味では、京都のそれと同義とされる。 御所ダムの「御所」は、ダムの所在地である旧「御所村」に伝わる北畠顕信の居所「滴石御所」に因む。

北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)
 鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。
  弟の顕信については下段に記している。
                  ◆
 建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の1333年(元弘3年/正慶2年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始した事により成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興とも表現される。
             
 雫石町教委発行の「雫石の民話」(昭和47年刊)に…<大昔禁中に仕えていた一人の婦人が、高貴な方の胤を宿して、故あって遠く雫石盆地に来て住んでいました。お生まれになったのは戸沢氏の先祖平親王(たいらしんのう)だといいます。この方の住んだところは元御所で、村の人達はこの方を御所様と申し上げ…>とある。
                  ✿ 
 1338年(延元3年)9月北畠親房は長男 顕家を失ったあと、後任に次男 顕信を陸奥介鎮守府将軍に任命する。陸奥介鎮守府将軍北畠顕信公は1346年(正平元年)春から1352年(正平7年)7月までの約7年間、陸奥国岩手郡滴石大字綱木(つなぎ)の地に駐留し、南朝軍(八戸南部氏、滴石戸沢氏、和賀氏、河村氏)の指揮に当たった。
 このとき顕信の居住地を滴石御所と称し、これが「御所」の地名の起こりとなっている。「滴石御所」に始まり、親族が移り住んだ先々の「袰綿御所」、「浪岡御所」を北畠三御所という。

 
                 ✿
 現在、雫石町繋に「元御所」の地名があるが、ここは昭和48年ごろに御所ダム建設によって水没することになった旧「元御所」の住民が移転して形成した集落(行政区名)である。
 かつての「元御所」はほとんどがダム湖に沈んでしまったが、そこには「君屋敷」「刑部屋敷」「寺屋敷」という地名があり、地名の由緒が偲ばれていた。

 雫石七観音の一つが「元御所」にある
 <かつては“雫石七観音詣で”もあった> 
 明治維新の頃まで、雫石の風習に4月17日の早朝から七ヵ所を回る「七観音詣で」がありました。「七観音」は、臨済寺の「内堀観音」、下久保の「福崎観音」、春木場の「新里観音」、 桝沢の「川井観音」、下御所の「馬頭観世音」、八丁野の「八丁野観音」、上和野の「上和野馬頭観世音堂」を指します。

 雫石七観音 五番 駒形神社(こまがたじんじゃ・下御所観音とも)
所在;雫石町繋第6地割字新城
本尊;馬頭観世音
例祭;九月十九日(一年置き)
別当;細川 正文 家

 由緒
 細川氏系の氏神である。建立の年代等は不明である。
 元禄九(1696)年より正徳五(1715)年の間の記録と推定される「南畑村鳥谷の里 山守甚十郎所蔵の『雫石通拾ヶ村御山林沢に神社佛閣郷村縮図』」に「観音堂」と記載されてある神社である。
 昭和48年のダム水没以前の鎮座地は、雫石町繋第七地割字下御所であった。         町教委「雫石の寺社」より

 源義家伝説(八)才市家の観音様
 才市家は元御所開発の祖といわれています。才市家の観音様は「馬頭観音様」で、昔は部落はずれの下の方(現在の繋大橋に近い場所)の巨岩の下にありました。
 義家公が安倍氏討伐に来た時、この地で義家公の馬が怪我をしました。そこでこの地に社を建てて治癒を祈願したのだといいます。

 源義家伝説(九)繋温泉
 義家公は元御所で馬が怪我をしたので、今の繋の地に連れて来て、つなぎ石に馬を繋ぎ湯に入れて治療しました。馬の怪我が治ったのでこの温泉を繋温泉と呼ぶようになりました。
                  いずれも〔町史第一巻〕より

 5・才市家(細川家)
 元御所から東町に移った。賑屋敷、甚左ヱ門と三人兄弟で、肥後の国から移住したと云う。元御所開発の祖といわれ、開田にあたっては、堀こん田(徳田)の人と共同で指導監督したと伝えられています。寛文十一(1671)年の検地帳に藤村源兵衛領將監二十石一斗一升九合と見え、正徳六(1716)年の検地帳には二十三石七斗一合と見えている。おそらく当時町内第一の豪農だったろうと推察される。
 氏神として駒形神社がある。これは源義家が安倍氏征討のとき、愛馬が傷ついたため建立したと云う。現在の才市家は繋萪内の与惣左エ門(瀬川家)から入って継いだ家である。 同系一族の分家共に3戸。家紋は丸木瓜。            町教委刊行<心のふるさと(第六集)雫石の旧家>より

 雫石八景二   御所(ごしょ)の帰帆(きはん)
軽々と走りし舟や水の面 帆懸けて帰る御所の村人
近江八景;矢橋帰帆 [やばせ の きはん]

 昭和47年ごろに御所ダム工事が始まってからは当然のことであるが、それ以前の川の様子を知る者のひとりとして、かつて雫石川に舟運(しゅううん)があったと聞いてもにわかには信じ難い。藩政時代、山から切り出した木材を河川を利用して下流に流送したり御所湖に架かる繋大橋付近の尾入地区の雫石川畔にかつて筏奉行所があったことは知っていても、運搬用の舟が行き交った歴史をご存じの方はそう多くはないと思う。
【 ▲イメージ参考のために、北上川舟運で活躍した平田舟の復元写真をお借りしました。】
 
 雫石川の舟運について雫石町史は次のように説明している。
 県は、陸上交通以外に、藩政時代から物資の交易や搬出に利用されてきた河川航路の延長を図る方針を定め、明治5年8月、航路区域を指定して、航路内の簗簀留(やなすどめ)の撤去を命じている。雫石川の航路は、内陸部における舟艇航路の幹線であった北上川の、盛岡東中野村の新山河岸から、雫石町の南郊外落合までの間である。この計画に基づいて工事は官営で行われることになった。その後、同13年上野沢炭坑(御明神)を県第二課直営で試掘を行うことによって、石炭搬出のため航路に当たる所の邪魔になる大きな石などは爆薬で砕かれたり、石工の手で割られて航路が開かれたと伝えている。これらの水上交通は、県が地租としての年貢米回送の利便を考えて、官営で航路を開いたものである。しかるに明治7年、地租条例の公布によって、すべての納税が物納から金納に変えられることになり、次第に官営としての存在価値がうすれ、舟航関係が民間に移行するようになった。雫石川の場合でも、明治9年2月西安庭村の儀俄常衛が、前記盛岡から雫石間に回船問屋を開業したい旨を戸長組総代の添印で県に願い出ている。県はこれに対し、就業に当たっては、北上川筋回船規則によることと、川の改修工事や橋梁等の妨害にならないように注意して、これを許可した。しかし、この事業は水量も足りず採算も合わないことから、成功することなく終わったようである。―― 

 昭和8年、元御所と対岸の繋・萪内集落間の雫石川に繋温泉地区の農業用水利確保のため「雫石川」堰堤」が築造された。これによって雫石川での「筏流し」もできなくなった。

 この“御所の帰帆”について、別な資料では、「帆かけ舟」ではなく「渡し船」の情景等を愛でて取り上げていること にも注目したい。この後の<籬野(まがきの)>で資料として紹介する雫石通り「五絶の賦」の第四に「御所の川船」がある。そこにはこう書かれている。

 ――いにしえの何かなる人住みて、最(おおかた)の人家を御所村と呼ぶゆえに、御所の舟渡という。雫石南北の川を一つにして、清き流れなり。左のみ賞すべき程の気色に見えねども、御所という名にめでて、おわりに筆を投じぬ。――

 このように、今では御所湖の底に沈んだ元御所から繋に渡す川舟を取り上げている。“御所の帰帆”の着想も案外、この景色から得たものかもしれない。
 <御所の渡し>…藩政時代から「御所集落」と対岸の「繋集落の舟場沢」間を結んだ。御所だムの工事が始まる直前の昭和47年頃まで、“公的交通機関”として運行された。(右上写真;二葉ともダム対協アルバムから。上は昭和47年ころ。)


◆ 御所集落対岸の繋温泉地区(県営漕艇場)から、旧「元御所集落」方面を望む。左の橋は「元御所橋」。湖面の赤いブイから向こう岸まで「元御所集落」が広がっていた。古の人々も朝な夕なに奥羽の山並みが連なるこの景色を眺めたであろう。

   御所村の誕生
【参考】
雫石町史Ⅰ「第5編明治以降の雫石 第一章 近代雫石四ヵ村の行政・第2節明治中期以降の行政組織」より(737p)…  

1・市町村制の実施
 (明治)政府は、明治21年に公布された大日本帝国憲法に基づいて、地方政治に自治体方式をとることとし、府県法、市町村法を改正して、住民の選出によって構成された議会に条例制定権や予算決算の議決権をもたせ、大幅な自治活動を認めることとした。翌22年4月1日より、改正された法によって運営されることになったが、従来の村単位では規模が小さく、自治活動には能力が及ばず、一村300戸以上を基準として合併を奨励することとなった。こうして、町の大きなところを「市」、商人民家など多く集まって小市街をなしているところは「町」(ちょう)、その他を村と称するようになった。
(一)市町村制実施以前の合併
 県は、市町村制の実施に先立って、同年3月16日、従前の村を合併分離することを発表し、県内642ヵ村を164カ村に編成替えを行った。
 雫石十ヵ村は、この合併分離によって、雫石村、西山村、御明神村、御所村の四ヵ村に編成替えとなったもので、雫石村は従前の区域のまま存続し、西根村と長山村が合併し、村名は両村名から一字ずつ組み合わせて西山村と称し、上野村、橋場村、御明神村の三ヵ村が合併して、その中で由緒ある地名の御明神を新しい村名に定め、安庭村(西安庭村とも)、南畑村、鶯宿村、繋村の四ヵ村が一つになって、新しい村名を村内の旧蹟である「御所の渡し」から採って、御所村と称することとなった。 (以下略) 

 町教育委員会刊 <心のふるさと(第10集)雫石盆地の地名>より
   (13p)…第二節 近代の村  
二 御所村   (前略)繋村、安庭村、南畑村、鶯宿村の合併に際し、諸議があったが繋村御所の徳田七郎兵衛の発議により、御所の伝説と四ヵ村合所の意も含めて「御所村」と決定された。これにより、それまでの「御所集落」は、「元御所」に改められた。


 元御所 <御所野原>に建つ「南無阿弥陀仏」碑
   現在の元御所地区の旧沢内街道沿いの一角に建つ。明治33(1900)年に集落の総力を挙げて建立された。碑身及び台石に、当時建立にかかわった人々の代表者名が刻まれている。(御所ダム建設に伴い現在地(旧沢内街道沿い)に移転)
 南無阿弥陀仏とは、「阿弥陀仏」(阿弥陀如来) に帰依(きえ)する意味であり、「六字 名号」(ろくじみょうごう)または「名号」といって、浄土真宗の本尊を表すものである という。これを口で唱えることを「称名」(しょうみょう)または「念仏」といっている。 雫石町内に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑が三十五基建立されており、最も古いもの は元禄十四年(1701)に建立されたもので、御所地区の安庭にある今から312年前 に建てられている。


◆ 元御所の旧家(雫石町教育委員会刊 心のふるさと第6集「雫石の旧家」より抜粋)

 七郎兵衛(徳田利成家)…昔は元御所在住だが、ダムの関係で東町に移る。紫波郡矢巾町徳田から雫石町繋に移住。氏神様として薬師神社あり。慶長19(1614)年、大坂の陣に田口甚四郎の供として川原掃部(かもん)19歳が出陣しているが、これが徳田家の先祖である。天明3(1783)年、安庭村御蔵肝入に七郎兵衛の名がある。同系一族の分家ともに32戸。家紋は蔓下り藤。

 杉ヶ崎(高橋家)……昔は元御所の杉ヶ崎部落にあった。同部落は全部杉ヶ崎家の所有地だったという。御所ダム水没で東町に移った。繋舘市家の半ざき割の分家という。分家になったとき、籾打ち槌40丁持参したと伝えている。最盛期には使用人を含めて7組の夫婦があったという。同家には、滝ノ上温泉を経営した時、夢枕に立って移ってきたという立派な金色の大日如来像がある。これは南部藩八勝寺の一つ、遠野の伝勝寺の本尊だったものである。同系一族の分家共に10戸。家紋は丸に違い釘抜き。

 吉右衛門(細川家・現在東京在住)…分家喜左衛門(細川家)は、吉右衛門の第一分家であり、家は下御所にあったが、ダム水没のため移転した。分家与左衛門は昭和12年、御所村長を務めている。同系一族分家共に13戸。家紋はあげは蝶。




 繋地区の「堰堤」ー 子供たちにとっては格好の遊び場だった。この堤の上流部に繋の渡しがあった。
 

   御所ダム
 御所ダムは奥羽山脈から流れ出る雫石川をせき止めて造られました。北上川の五大ダムのうちもっとも新しく、これまで造ってきた技術の枠を結集して昭和56年10月に完成しました。このダムは洪水調節や発電が行われるほか盛岡市の上水道や紫波町の農業用水などさまざまな目的に使われています。
 

水力発電
岩手県企業局
出力 13,000kw

水系/河川名 北上川/雫石川
ダムの高さ  52.5m 
ダムの長さ  327.0m
ダムの形式  コンクリート・ロックフィル複合 
着工/竣工  昭和47年/昭和56年

 関連リンク北上川ダム統合管理事務所

<雫石町にとって、未曽有の大事業「御所ダム建設」>

◆御所ダムは、昭和16年に「北上川改修五大ダム」構想の一つとして発表されましたが、その後周辺住民の不安をよそに“幻のダム”として25年間放置されました。
◆昭和41年にようやく建設が発表され、47年着工、発表以来15年後の昭和56年に完成しました。
◆水没面積は604ha、盛岡市分(繋地区)が36%、雫石町分が64%でした。
 この土地は、雫石川の沿線ということで肥沃で、歴史も古く埋蔵文化財の多い地域でした。
◆移転した世帯数は、雫石分が318、盛岡市分が202、合計520世帯にも上りました。
 ダム建設は山間部での例が多く、これだけ多くの世帯が水没対象になるケースは全国的にも少なく、当時話題になるほどでした。
◆昭和46年8月、水没者移住用の住宅団地「七ツ森団地」が着工。114区画が翌47年8月に完工し、移住が開始された。総工費1億3108万円でした。
◆昭和58年10月から、町の事業として第2次の七ツ森団地124区画の分譲が開始されました。この区域の分譲に当たって、当初は雫石町葛根田の滝の上からの地熱熱水の供給計画もありましたが、熱水供給側の問題で、計画はとん挫してしまいました。

 ≪水没前の繋温泉地区≫

 
   江戸時代の繋村

 「雫石通 細見路方記 上」より抜粋
 官家より東へ小道 五六里を去りて 繋温泉あり 此所に繋舘とて舘あり 山上に清水あり 往古は八幡太郎義家の居城の由 此温泉は 御馬屋の 馬のすそ湯に用いし湯の由 駒繋石あり 故に繋の湯と言う 惣名 繋村とも言うよし 今ごみの湯と言う湯 室の脇にあり 平目にして 大いなる石也 穴あり 是へ駒を繋ぎしよし 依て名とす 
 今は浴室三所にあり 箱の湯 薬師の湯 ごみの湯とて 三つあり 近年普請宜しく 入浴の人も多く 茶屋等出 万物自由也 売人は舛や宗兵衛とて万屋也 客舎より四十丁計り水上に 荒湯と云うあり
 繋温泉欲室を去る事 一丁計り手前に猫石と言う石あり 猫のかがまりたる如し
   猫石や 取りまいて咲く 犬子かな   嵐戸
   糸ゆうと 立ちくらべけり 温泉の烟  嵐戸

 繋石は ごみの湯の脇にある石也 馬の手綱を結付けし穴あり
   此石の 名に繋がるゝ 湯浴人  嵐戸

 温泉を手前へ去る事二丁余 三尺町という所あり 昔の町の跡地 制札あり 寄坂 と言う坂あり
 繋湯より西南の間 五六丁山の上に藤倉明神の社あり 祭神毘沙門天 祭日八月四日 俗別当 舘市久右ェ門 古木立にして杉立ち 大藤の古木にまどい 清水山中より湧き出 いとごうごうたる御社地かな
   御手洗(みたらし)を むすぶや藤の 花香ふ   嵐戸
                                
◆「雫石通 細見路方記 上」…今から180年ほど前の文政9(1826)年から同10年にかけての雫石通代官による雫石通全域(雫石町に繋を加えた地域)の記録である。内容は代官所(官家)から歩いた経路の距離・方位を示し、周辺の自然景観、名所旧跡、伝説等を加えて、さらに和歌、俳句を添えるなどしている。単なる行政視察書にとどまらず幅広い視野からの藩政後期の「ガイドブック」とも言える書である。俳号【嵐戸】は、当時の代官の一人【倉舘 久馬】と思われる。
原本は岩手県立図書館蔵。
<雫石町誌・心のふるさとシリーズ(第11集)平成10年・雫石町教育委員会刊行> 

  江戸時代の繋村の図面


湯の道、繋の湯

 名湯、繋の湯は城下盛岡の奥座敷である。多くの人々が長期滞在をして疲れを癒す湯治場であった。
 盛岡城下からのルート「湯の道」は雫石街道と太田筋からの往来があった。本道は仙北町から本宮経由で上太田、そして猪去から湯坂峠を山越えして猿田部落に入り、繋の通称「三尺町」から各湯場に到達するものであった。
 この往還のほかに、同じ太田地内の鹿妻穴口上に「つるぎ長根」越えの経路もあったが、難所であり、多くは湯坂峠を往来した。(現在の雫石川沿いの県道筋の穴口から大欠地内は断崖続きの難所で、なかなか往来できなかった。)
 また、繋は古来、雫石郷の御所村に属していて、従って雫石側の御所野経由、及び尾入野からの渡し場があって舟渡しで西北の方から繋の湯に至る道筋が早くから開けていた。
 この繋からは、さらに西方に沢内街道の往還があって、安庭地内で道が分岐して、西方は鶯宿温泉への道があった。
 注)【本資料 前ページで見た「道標・供養碑」を参照】 
 <以上、「図説盛岡400年」繋・湯の道より>

 【参考資料】仙北町から西に分かれる脇街道に湯坂街道があり、本宮~飯岡十文字~太田を通って繋温泉、沢内街道につながった。古い仙北街道はこの街道だったようで、雫石から秋田への脇街道にもなり、明治になって山形街道と呼ばれた。今でこそ市内から県道が通り車で気軽に行くことが出来るが、かつては穴口から大欠山周辺まで「つるぎ長根」と呼ばれる断崖続きの難所のため、なかなか通行できなかったらしい、そのため盛岡市内側から繋温泉へ行くには穴口付近にある宰郷山(さいごうやま)を峠越えしたという。この峠を「湯坂峠」と言い旧版地形図にも名称こそ無いもののその道が記されている。
 (盛岡市太田「歴史を語る会」資料より)

   繋・北の浦地区


伝説「十石杉」と「マナイタ淵」
≪樹木伝説≫ 日本人の古来の信仰として常緑樹に神仏が宿ると考えていた。正月の門松も、盆の灯篭柱の杉の葉も神仏の依り代としての意味と思われる。特に形の変わった木や巨大な樹木には霊があると信じられ神木として尊んでいた。
<十石杉> 大昔、大字御明神志戸前の十石沢に大木な杉があって、御明神から雫石元御所の杉ヶ崎まで、午後になると日陰になってしまいます。この杉は神木なので伐るわけにいかず、百姓たちは大変困っていました。その頃、盛岡の殿様が船を作るため大きな杉の木を探していました。志戸前に大きな杉の木があると聞き、早速伐り出すようにと役人に命じました。役人はたくさんの人夫を連れて山に入ってきました。人夫を二組に分け、一組が明日から鋸引きができるようにと斧で切って準備しました。
 翌日別な組が行ってみると斧で切った跡が少しもありません。昨日の人夫が怠けたのだろうと何十人かの人夫が斧を振り上げ、鋸引きできるように準備して帰りました。翌日他の組が行ってみるとやはり伐った跡がありません。殿様からは早く早くの催促です。役人は困ってしまいました。その晩のこと、あれこれ考えている役人の前に、白い髭のお爺さんが現れて言うのには「あの杉には魂があるので、今のままでは何日かかっても切れない。明日から斧を使ったら、できた木っ端を全部焼き捨てなさい。私はあの木の下にある欅の精だ。」と言ったと思うとかき消すように見えなくなりました。
 目が覚めてもお爺さんの姿や声がはっきりと残っています。朝早く起きた役人は老杉のところへ行ってみました。木の下には弱々しい「欅の木」がありました。役人は昨夜の話は本当なんだなと思いました。
 その日の作業ではできた葉っぱを全部焼き捨てさせました。それから作業は順調で、さしもの老杉も伐り倒されることとなりました。倒れた時に10キロ以上も離れた南部落に杉の枝が飛んで突き刺さって根付きました。その傍の家を「杉屋敷」と呼んでいます。
 杉は枝を払い、丸木となって志戸前川~竜川~雫石川と流れましたが、繋部落の大欠(だいがけ)の淵の上まで来るとぴたりと止まってびくともしません。二日たっても三日たっても、数十人の人夫がかかっても動かすことができません。殿様からは矢のような催促です。役人はまた頭を痛めました。
 思い悩んでいたらその晩夢枕に白髪の老人が現れ「あの杉を動かすには某家のお嫁さんを頼んで杉の上に乗ってもらい、掛け声をかけてもらいなさい。」とのお告げです。さっそくたくさんの御礼金を用意してそのお嫁さんに乗ってもらいました。
 雫石あねこの衣装のお嫁さんが木の先に乗って「よういわしょ」と掛け声をかけると、どうしたことかびくともしなかった木がスーッと軽く動き、お嫁さんを乗せたまま、大欠の淵に沈んでしまいました。この杉を伐り倒すまで人夫の食料に米十石も使ったので十石杉と呼ぶようになったとさ。(雫石町史から)

 この「大欠の淵」のお話はこれでは終わりません。郷土史研究家で民話の採集にも力を尽くした雫石町出身の田中喜多美氏の「雫石川神女譚」には、こんな話が紹介されている。
 
 その昔「マナイタの淵」の底に潜った男の話。
――深い川底には横穴があってなお進むと、天井の高い洞窟になっていた。そこには機を織る若い女と白髪の老爺がいた。そして言うには「今回だけは生かしてシャバに返すが、お前の見たことを他言してはならぬ。他言した時、お前は死ぬ。」と。その男は後年、死に臨んでこのことをようやく人に話したという。
 雫石の武士だった生内という人も、このマナイタ淵に潜った経験があるというが、その後は決して淵に入らず「あそこは行くところではない」と語っていたという。やはり死に臨んでその時のこと家族に遺言したと伝えられている。

◆ 鹿妻穴堰(かづまあなぜき)・鹿妻明神社
 鹿妻穴堰は南部藩の建設した最大の用水路であり、現在でも岩手県下最大の用水路です。鹿妻穴堰の開設工事は盛岡城の築城と同じ、1597年(慶長2年)に始まり1599年(慶長4年)に、繋郷北ノ浦穴口より鹿妻郷まで一応の完成をみています。
 南部氏が不来方の地に盛岡城を築城し、武士、商人や職人など30,000人の城下町を形成するためには城下近郊に食料基地を開拓し、城下の経済の安定を図る必要がありました。しかし雫石川と北上川をはさむ三角地帯は斯波氏所領の時代から平地でありながら箱ヶ森から流れる沢水の量が少なく、溜池を造り、田に引水している程度で米の生産量は極めて少ないものでした。
 時あたかも、この繋北ノ浦穴口に現われたのが鎌津田甚六でした。鎌津田甚六は小本、鎌津田の鉱山師で用水路を造ることが目的ではなく、当時繋北ノ浦、剣長嶺は金、銀、鉛の鉱脈があるという噂があり、その試掘のためでした。

<繋北ノ浦、穴口は金、銀、鉛の鉱脈地帯!?>
慶長の初め頃、諸国巡回の旅の勧進僧、陸坊という者が、繋北ノ浦、大欠山、剣長嶺、湯坂峠に、金、銀、鉛の鉱脈があると宣伝して歩きました。このため、繋の湯坂峠や北ノ浦地区に多くの鉱山師が集まり試掘が始まりました。
(現国道46号側から北ノ浦、つるぎ長根方向を見る)
 現在でもこの湯坂峠や大欠山地区には試掘の跡が残っています。この鉱山師のなかに鎌津田甚六もいました。鉱脈はとくに穴口付近に存在し、穴口の試掘は鎌津田甚六でした。
 甚六は小本、鎌津田村の鉱山師で盛岡紙町の吉田甚之丞宅に出入りしていました。そこで甚六は吉田甚之丞を通じ藩に採鉱と開田を兼ねて掘ることを提議しました。つまり採鉱に失敗してもその跡は開田に利用できるというものでした。結果は金は出ず、金が米に化けたというものでした。
 鎌津田甚六に関する記述は繋村古文書「舘市家留書帳」、同繋村安楽院の記録「御 領内記」、同村「瀬川家文書」に記述されています。

<鹿妻明神社>

 北ノ浦の鹿妻明神社(穴口大明神社)は雫石郷繋村最東端の部落、北ノ浦の鎮守社として往古から崇敬されてきている古い神祠です。
 1759年(宝暦9年)繋村正福院の調書、書き上げによれば、鹿妻明神社は、北ノ浦部落の鎮守社であり、羽黒派修験である繋林禰宣屋敷正福院の支配下にあり鹿妻明神の祭神を白蛇としている。1858年(安政5年)同社の石碑面には8人の名が刻まれ、堰守吉田甚之丞が当主となり、用水受益者が鹿妻明神に鹿妻堰の無事を祈願し、水上大明神として崇敬している。その後、この穴口堰用水の受益者たちは、同地の鎮守に用水堰無難を祈願し、五穀豊穣を願うようになった。

   繋温泉街の史蹟等

 ①猫石(ねこいし)
 近くにある説明板の文章です。
繋温泉は湯ノ舘山の山裾の湯の沢に開かれ、温泉の玄関口に『猫石』と呼ばれる石があります。昔は、巨大な猫の形をした大石が両側に立っていたことから、まねき猫とも呼ばれていました。
 前九年の役の折、安倍貞任と八幡太郎義家の戦いは激戦をきわめ、義家は追われるように湯ノ山に兵を引きました。食糧に困り果てた義家は「木の実」、「山のけもの」を集めて食料にし、骨を山裾に投げ捨てました。投げ捨てられた骨は、一夜にして猫の形をした石になって義家の殺生(せっしょう)を戒めました。里人はこの大石を猫の霊が宿る「猫石」と呼んで赤飯を上げておまつりをしました。

②駒繋ぎ石
 今からおよそ900年前、源義家が安部貞任を厨川の冊に攻めた時陣を置いた湯ノ舘(現在のつなぎ温泉の南方の山麓)にお湯が湧いているのを見つけました。そのお湯で愛馬の傷を洗うときれいに治ったので自分も入ってみた所素晴らしい効能のある温泉だと分り感動しました。義家はこの時穴の開いた石に繋いでおいたのです。それ以来その石はつなぎ石と呼ばれ繋温泉の名前の由来になりました。(つなぎ温泉観光協会HPより)

③温泉神社
御祭神 少彦名命
例祭日 9月8日
由緒  当神社は、康平(1057-1064)の昔、八幡太郎義家が厨川の柵に安倍一族を攻めたとき、愛馬の傷を癒したと伝えられるつなぎ温泉地内に鎮斎され、薬師神社とも称される。医師の神少彦名命を祀り、現在の佐藤敏家の先祖である安楽院が創建し、約200年の歴史を有する。温泉地内の氏神として深く尊崇され、難病治癒・安産・商売繁昌祈願のため、大衆に親しまれている由緒ある神社である。
                  ✿
 神社の説明板には温泉について次のように紹介されている。
 
鎌倉時代、出羽の羽黒山で修行した山伏「安楽院」が薬師如来を安置し建立したと言われています。「安楽院」は代々湯守として繋温泉の源泉を管理して現在に至っている。
 江戸中期の資料で繋温泉は「泉質の良さと盛岡城から近かったことで、藩公一族と上級士族の湯治場として発展、殿様はこの温泉で頻繁に湯治をしており、この地からお城へ伝達、命令を下していました。また上級士族の宴会も当地で行われていました。


 当時、湯坪屋根板四側板囲、庭割板敷とあり、「荒湯」「滝の湯」「中の湯」「薬師の湯」「古宝の湯」「眼洗湯」「込の湯(ごみの湯)」の7ヶ所の湧口があり、俗に「繋7名湯」と呼ばれた温泉でした。(南部領内温泉書上記録より)

*ホテル大観の案内資料に「盛岡城築城中の1603年10月18日に南部利直公が当館先祖の安楽房にお泊りになり、湯守を命ずるとのお墨付きを下さいました。 ホテル大観はその名を「南部湯守の宿 大観」と変えて、これからもこの名湯を守り続けていきます。」 とあります。

〔安楽院(坊)〕の歴史
<岩手山情報・岩手山の歴史>の項に「安楽坊」が登場する。
1190(建久元)年工藤小次郎行光が家臣とともに登拝し、祭祀を行う
1599(慶長4)年領主南部氏、岩手山を領国鎮護の総鎮守社とする
1616(元和2)年登拝の岩手山祭祀が工藤宮司家から繋村の安楽坊に移される。
1633(寛永10)年 (※この項のみ別資料)盛岡に大勝寺創建、岩手山の祭祀権が大勝寺に移される。大勝寺系図に「一世 繋湯守 安楽」、「二世高海」、「三世行海」「四世養海」とある。
1644(正保元)年大勝寺住職養海上人、藩主名代として代参、新山別当として登拝

≪資料 巖手縣鉱泉誌の内「繋温泉記 完」・大正8年11月20日著者兼発行人鈴木守蔵 ≫ 「沿革及び現況」より抜粋
古代の事は文獻の徴すべきものなく原ぬるに由なしと雖も文治年間厨川に工藤氏あり雫石に戸沢氏ありて榛莽の地を拓きしより交通も便利と也しならん其後慶長年間に南部利直公盛岡城に移住せられ同八年公放鷹の爲め此地に来り入浴せられたることあり帰城の際湯守某公を送りて湯坂(今の穴口)に至る公携ふ所の酒を出して湯守に飲ましむ立ちところに數升を傾く公名を賜ひて五升呑の安樂と云ふ当時公より賜ふ所の證文あり岩手郡滴石村の内湯守手作分八斗四升六合六勺遣はし候手作可致者也 慶長八年十月十八日  利直判 湯守安樂へ
後三年の役義家此地去るに際し其臣某を留めて湯守とせしが湯守安樂は即ちその後裔にして今の温泉主佐藤昌次郎の祖先なり(以下略)

④手つなぎ広場
御所湖広域公園の施設の一つで、つなぎ温泉前の広い駐車場のある広場です。トイレやベンチ、湖岸へと続く園路などがあります。夏~秋期間にはつなぎ温泉観光協会による 朝市なども行っています。
 関連リンク  ・御所湖広域公園

<筏奉行> 天然の美林と松、杉の良材を豊富に持ち“山千貫、川千貫”と慶長元(1596年)御明神の地頭であった「丹波」をして言わしめた雫石の山林資源は、竜川、雫石川を利用し容易に城下盛岡まで搬出することができ、さらに北上川を利用して石巻経由で江戸までも運ぶことができた。南部(盛岡)藩では早くからこの山林資源の保護を心掛けて木材の搬出を監視し、川下げの木材を確認するため筏奉行(いかだぶぎょう)を置いた。筏奉行は御山奉行よりも30年早い正保元(1644)年に置かれ、初めは「尾入筏奉行」として1人が配置になり、尾入の越前方を借りていた。次いで川に近い繋村萪内(志田内・しだない)寄りの禰宜屋敷市兵衛方を、元禄2(1689)年までは無料で、その後は五石を御免地としてとして借用していたが、元禄8(1695)年に現在の繋大橋の上流付近に御役屋を建て「尾入御番所」と称して藩政末期まで続いた。
<極印と確認> 雫石通りの官山から、正式な手続きを経て伐採された木材には、それを証明する方法として木口に墨汁を使用した鉄印を打ちつけた。これを<極印(ごくいん)>と称した。この印形は通りによって、また樹種や用途によって異なるが、雫石通りでは亀甲に正の字が使用された。このように証明印を打ちつけた木材は筏に組まれ、雫石川を流送され、尾入御番所前で止められ、御山奉行の手によって確認され、確認書ともいうべき送切手(送り状)が発行された。この送切手により初めて正当な払い下げ木材と認められた。宝暦3(1753)年以来、安庭村の又六家が二代にわたってこの任に就いたことが知られている。
 尾入の筏番所(雫石町史Ⅰ294、394p)

⑤ 藤倉神社
 戸沢氏の一族「高橋氏」創建とされる藤倉神社は応永年間(室町時代1394~1427年)に創建と伝えられ、毘沙門天が祀られている。現在の社殿は後世に再建された建物。建っている場所の地名は繋の舘市(たてぢ―そもそもは舘が建っていた「舘地」の意味か)である。
 
<藤倉神社>…繋字舘市に鎮座の繋村村社で【一言主命】を祀る。当初現在地の左上高台の窪地に建っていたが後年、現在地に遷座。明治3(1870)年に繋村村社に。旧繋村元御所の人々の氏神様でもあり参詣者も多かった。(岩手郡誌・昭和16年刊行より)

 神社の境内には、神社名にふさわしく「藤棚」が植えられており初夏には豪華な藤の花を見ることができる。
 この藤倉神社の境内に湧きでている名水が“藤倉清水”だ。奥羽山脈からではなく、東側の箱が森方面からの水脈ではないかと思われる。ここの水の味はまろやかと評判で、コーヒーやお茶を淹れるために汲んで行く人が多い。中には熱帯魚や金魚の水槽の水に利用している人もいるようだ。かつては、境内にある樹齢1,000年近い桂の古木の根元から湧きだしていたらしいが、最近は石組の水路の中を通って15mほど離れたところに流れ出している。
 ≪藤倉の桂≫ …御所村大字繋第25地割藤倉神社の近くに在る。根本は一株の如くなれども三株に分かれ、その大なるもの周囲30尺、次は各24尺、丈は何れも八、九、十尺と称されている。根本より清水湧出し付近の飲料に供されてゐる。地方における同樹種の巨木である。享保14(1729)年には丈7尺と舊記に見ゆる。(岩手郡誌より抜粋)

 ❁舘市(たてぢ)家……「舘市」は繋村地内の地名であり、現在の「石井家」の屋号でもあります。同家は平氏の末裔と伝えられる中世滴石城の城主戸沢氏の一族と伝え、応永27(1420)年、氏神として藤倉神社を創設しており、天正12(1584)年、戸沢氏が南部氏に破れ、秋田の仙北に逃れた際、当主の出雲が人質として三戸に送られ、戦いの終わった翌年、許されて繋村に帰され、武士を捨てて百姓になり、高橋を氏とし 舘市の久右エ門 を称して繋村の肝入を世襲としており、初代龍次・出雲・隆久・対馬・藤次・藤定・藤重と続くが、家訓として墓碑を立てないので以降は不明。
 善治で明治を迎えるが、その子久米吉の長男安蔵の才を惜しんだ官選戸長市村矩継の配慮で石井姓を創設。安蔵(保蔵とも)は明治30年に繋村二代目村長を勤めた。御明神財産区の下げ戻しに力を尽くしたことは町民の知るところである。以降、藤次・一郎と続き、現当主は幸夫氏である。
 繋村肝入 舘市家留書(とめがき)……今から230年程前に繋の舘市家(現石井家)の当主藤次が書いたもので、古い南部藩の様子から始まり、450年程前からの雫石の様子が詳しく書かれており、雫石の歴史を語るに欠くことのできない記録で、雫石歳代日記の原本と言われるものです。「留書」とは手控え、メモのことであり、特に決まりがなく、年月日、代官名、事件、関係者、結末等が書かれています。この「留書」は、まとまった記録としては町内で最も古い書きものです。
 <上記2項目は、雫石町教育委員会 雫石町誌史料(第四集)繋村肝入舘市家留書【平成12年3月刊】の序文より転写>

⑥ 繋・一本松経塚と渥美(あつみ)古窯(こよう)の灰釉(かいゆう)壺(つぼ)
 繋にある一本松経塚から出土した渥美窯産の灰釉壷です。年代は12世紀前半と考えられています。一本松経塚は,繋温泉神社裏手の湯ノ館山の西尾根にあります。現在,経塚の中腹には鉄塔が建っています。塚の表面には礫(れき)があり,塚の大きさは直径4メートル,高さ1メートル程度です。灰釉とは,草木などの灰を使った釉薬をかける技法のことです。この壷は,口縁部の一部が欠けています。口縁部は薄い玉縁で,肩部はなで肩,胴長の形をしています。胎土(材料の土)には,黄白色の粘土を使い,全面に黄土色の灰釉がかかっています。岩手県内では,渥美窯製品は平泉の奥州藤原氏と関連があると考えられ,この壷も平泉を通じて渥美からもたらされたのでしょう。盛岡と平泉との繋がりをものがたる貴重な資料といえます。
 一本松経塚から見つかった渥美産の灰釉壷は,口縁部の一部分が欠けているものの,ほぼ完全な形です。緑色がかった黄土色の美しい灰釉が全面に施されており,東北地方の中でも優れた製品といえます。

・口径:10.2センチメートル / 底径:8.6センチメートル
・器高:25.9センチメートル / 胴部最大径:18.0センチメートル
 岩手県指定 有形文化財(考古資料) 盛岡市遺跡の学び館展示
(以上、盛岡市公式ホームページから)

 この壺は、昭和20年代後 半(正確な時期は不明)に、旧御所村立繋小中学校の細川某校長先生と 学童達が発掘したとされて いる。

⑦ 湖底となった「繋・萪内(しだない)遺跡」
 萪内遺跡は、御所ダムの建設によって湖底に水没することになり、これに先立って昭和51年と52~55年にかけて2度の発掘調査がおこなわれました。その結果、縄文時代後期~晩期( 4000年から2300年前頃)の遺跡であることがわかりました。
 見つかった遺構は、竪穴住居跡52、配石墓壙・貯蔵穴1460、木を使用した遺構(木造遺構)、縄文人の足跡98個です。住居跡や墓壙・貯蔵穴は比較的標高の高いところから、一方、木造遺構と足跡は雫石川側の低い湿地部分(旧河道)から見つかりました。木造遺構には「えり」や階段状の杭列、水汲み場・洗い場と考えられる施設があります。「えり」とは、川などに設置される、漁のための「わな」で、魚の習性を利用したつくりになっています。これらの遺構から、萪内の縄文人は川をたくみに利用し、その恩恵を受けながら生活していたことが想像されます。

大型土偶頭部【文化庁所蔵;現在岩手県立博物館に展示】
 墓壙群の周辺から、大型土偶の頭顔部が見つかりました。復元されたものは、頭のいちばん上から顎までの長さが23cm、左右の耳から耳までの幅が22.3cmもあり、実際の人間とほぼ同じ大きさに作られていることが分かりました。
 頭部には縄文を施して頭髪を表し、耳は細部にわたるまで人体の特徴を写実的に表現しています。頭のてっぺんの部分には、径0.5cm、深さ1.5cmの穴が5つ、十字に並んでいます。これは羽毛などを刺し、装飾にするために開けられたと考えられます。同じような穴は耳から顎にかけてのラインにも等間隔に並んでおり、飾りを付け、ひげを表していたようです。
 調査では、頭顔部の他にも、脚と思われる部分の破片が見つかっています。本来は全身の像であったと考えると、相当な大きさであったことが想像できます。手代森遺跡の遮光器土偶(身長31㎝)と比べると、大きさの違いは歴然としており、表現の仕方にもかなりの違いがみられます。
 作られた時期は縄文時代後期と推定されていますが、このような大型土偶は縄文時代全体を通しても最大級のものです。縄文時代の風俗や信仰を知るうえで極めて貴重な資料であることから、昭和59年、国の重要文化財の指定を受けました。この萪内遺跡では、縄文人とみられる人の足跡も出土しました。

≪特別資料≫「繋村の屋号地名考」(昭和60年9月9日・繋地区家庭教育学級資料・講師 高橋祐一氏作成 )から一部抜粋。
<志田内与惣左エ門家>……現・瀬川定見家
 繋村草分けの旧家で舘市久右エ門家に次ぐ家柄と言われる。肝入役(村長)や藩命による山守役を勤めた時代の古文書、古記録が多く保存され文化財県指定に値するもの多し。雫石城滅亡前夜の世に名高き剛勇の士「人質出雲」や大坂の陣に参加した志田内外記は、みなこの家の先祖という。
<湯守別当佐藤刑部少家>……現・佐藤敏家
 この家は羽黒派修験山伏で安楽院と号し、慶長8(1603)年、南部太守利直公から湯守役を命じられて以来、薬師堂別当を兼ねて今日まで温泉源泉主として連綿と続いている旧家である。また、仁王村に創建された岩鷲山別当寺の盛岡大勝寺(寺領111石5斗8升)を支配し、手作拝領地28石を得るなど破格の待遇を受けていた家柄である。
<桝の宗兵衛家>……大坪五郎家
 繋の湯には藩公をはじめ、高知衆とその奥方などが頻繁に来湯されたが、その都度いまの込みの湯上手に人相改めの桝形が置かれその役目をしていたのが万屋の桝の宗兵衛だった。この家の大坪慶光は初代西山村長を勤めた。
<簾(す)おり善助家>……佐藤善助家
 ことのほか繋の湯を好まれた歴代藩公をはじめ、家老、側室などが湯治に訪れた際には、込みの湯の端あたりに大きな簾(すだれ)を下げ、一般民衆の交通止めと覗き見防止に当たったといわれ、その役目をした家なのでこの屋号となった。
<菅美濃部家>……菅茂安家
 江戸詰めを終えて帰藩した藩主の目に田舎侍と映った藩士たちに活力を与えるために、上杉藩に請うて石1500石で招へいしたのが菅三兄弟と言われ、その長子の子孫である。本来は美濃部姓でああったが藩主美濃守にはばかり、菅と改姓した。高1500石は家老職級の俸禄であるが、藩では約束を破って高300石が給され、同行の弟は藩公が大旦那となっていた浄法寺天台寺別当に下ったともいう。
<下茶屋・桐野家>……桐野勇家
 桐野喜三治の父円知は御坊主。多年の勤功により御給人被召出二人扶持金二両被成下、御坊主頭相勤袴着用、帯刀御免藩公御装束御参詣の節は上下着して御側に供するが、不調法の義有之 身帯繋村に居住 湯守別当安樂聟也 当村に老死す(内史略・南旧秘事記 巻六)
<助左エ門家>……高橋祐一家
 この家は明治期に全盛となり、当時農工銀行から個人で借り入れて村役場に繋ぎ資金を融通するほどで、初代消防組頭(助治)、第6代御所村長(助三郎)などの要職のほか、本山登録の寺院総代を代々勤めている。
<下の金兵衛家>……高橋清次郎家
 舘市家の別家第1号と称されているので分家になった年代は古いと思われるが、記録には享保7(1722)年に舘市対馬より金左エ門宛てに持高10石7斗の田地に塗沢山林の一部を与えて分立させたとしている。この家も近世まで、繋村肝入役を交替でたびたび勤めてきた名家で近年まで組頭さんと呼ばれた清次郎は消防組頭を長く勤め、第11代村長となった。
<金九郎家>……高橋金五郎家
 繋村の肝入役は、舘市家、与惣左エ門家、金兵衛家がそれぞれ当番のようにして当たっていた。この家ではその際に本家(金兵衛)に代わって肝入役を勤めるなど才覚を持った家だった。民間信仰隠し念仏の鍵屋派研修会が昭和28年に開かれたが、当主金五郎が繋最後の出席者であった。
<与左エ門家>……徳田正一家
 高見三尺町の旧家で繋村掃部と称していた。本家は御所の川原掃部(徳田七郎兵衛家)で、大坂の陣にも参戦した名家である。
<雫石半次郎家>……雫石辨三家
 半次郎なる者、幼少の頃より才知に優れ神童とまで言われる程だった。手習いの師匠山伏正福院が上席家老奥瀬家に仕官を推薦し御給人となる。雫石通出身の故を以って雫石半次郎を名乗った士族なり。
<瀬川正福院家>……瀬川昌孝家
 南昌山正福院と号した羽黒派修験山伏の家柄で、金石文から民俗資料に至るまで数多くの貴重な文化遺産が現存している。御所神楽の司家でもあり、繋小学校初代校長もこの家の人。
<禰宜屋敷市兵衛家>……高橋市左エ門家
 藩政の中期から南部藩重臣奥瀬家領の肝入を代々勤めてきた旧家で、屋敷内の大宮明神社の禰宜(神官)だったのであろう。未公開の古文書類も多く、とりわけ興味を引くのは、秘記録とされる「繋村壬申戸籍書」である。
<作之亟家>……瀬川昌行家
 この家ははじめ尾入に住して瀬川右京といい、文久年間の1861年には西蔵坊と号した羽黒山伏の修験者がいた。
<猿田甚六家>……瀬川一二家
 猿田本家と呼ばれ、鹿妻穴堰を開削した釜津田甚六の配下の者との説もあるが、それ以前からの居住者とも考えられる。屋敷跡付近の発掘調査によれば鎌倉期から江戸時代にかけての墓壙(ぼこう)から人骨と副葬品が発見されたことが特徴となっている。
<惣左エ門家>……大鷲倉橘家
 大鷲本家を称し、県内の河童伝説にも名を連ねる旧家である。出自が興味深い。
<佐膳坊左右衛四郎家>……藤平左右吉家
 正福院配下も拒絶して独立独歩の修験者左膳坊は桧山佐膳とも呼ばれ、神出鬼没の術は世に恐れられるほどに有名になった。
<尾入喜兵治家>……高橋勇家
 尾入に帰農した藤平一族が、平和主義の証として先住豪族舘市家より分族を迎え、厚遇した家である。尾入温泉の発見は古くから知られていたが、発見者届は明治24年に当家の高橋喜惣治と公示されている。
<尾入作右エ門家>……藤平作右エ門家
 尾入藤平一統の総本家として知られ、鎌倉期の上閉伊領主阿曽沼氏の一族で、遠野綾織郷を領知していた領主一族なり、知識、技能を発揮すべく天正の頃、斯波氏に来援、次いで雫石城に軍師として招かれ、城内引水に成功、尾入堰、根堰用水と次々に成功し、戦雲急を告げるや新城の迷路舘を築城(野城)、雫石城以後は南部仕官を辞して尾入に帰農し、藤平姓を名乗った。その祖は綾織越前広行、広信父子である。                               以上、抜粋。

 <繋温泉の伝説>
 「雀神社物語(上)」雀神社氏子総代編纂委員会(都南歴史民俗資料館資料)より
 ①「むかし、湯沢の里は温泉場だったず…。」から始まる『湯沢の雀神社』というお話と、②「むかし、湯沢の里に温泉が湧き、湯治客で賑わっていた頃の話です…。」から始まる『湧かなくなった温泉』・・・という2話が掲載されています。
 ①、②、ともに共通しているのは巫女とその息子が登場、やがて湯治客の財布またはお金が盗まれ、犯人として巫女の息子に疑いがかかります。①では、ぐうたら息子と書かれていますが後に改心…。しかし、②では、息子は役人の手に渡り、よく調べもしないで殺されてしまいます。
 ①…息子を疑われた母巫女は村人を憎み、この湯沢の里に二度と温泉が湧かないようにと願を懸け、毎晩、雀の卵の殻に湯沢の湯を汲み取っては、ひと山越えた雫石の繋にその湯を運んだそうです。
 やがて、運びに運んでいるうちに、湯沢には温泉が湧かなくなり、湯を運び込んだ繋に温泉が湧くようになったといいます。(これが現在の繋温泉ということです。)
 巫女はそれを見届けると身も心も疲れ果て重い病に倒れ亡くなると思いきや、まだ怨み足りないのか村人の七代まで祟ると言って、にわかに片眼のスズメに変身、空に飛び去ったそうです。
 それからというもの、毎年、秋の収穫時期には片眼のスズメが何千、何万羽と湯沢の里を襲い作物を食い荒らすようになったとか…。
 このままでは村が全滅してしまうと、村人たちは相談し、片眼のスズメになった巫女を神様として祀った神社を建立、盛大なお祭りを催したら、あれほど大群で襲ってきたスズメがピタリとこなくなり、村は豊かになったと伝えられています。その神社を建立したのが9月6日だったので、今も雀神社のお祭りは9月6日に行われ、たくさんの人で賑わっているといいます。
 一方、②では、息子を殺されてしまった巫女はというと、①と同様に村人を怨み続け、毎夜丑三つ時に卵の殻(ここでは雀の卵とは書いていない)に湯沢の里の湯を汲み取り、山を越え繋に運んだものですから、やがて湯沢の里の温泉は枯れ、変わりに繋に温泉が湧いたといいます。(この辺りは①と同じ)
 そして巫女が死ぬときも①同様、村人を呪いながら目を落とすと、不思議や片眼のスズメとなって飛び去り、同じように秋の収穫時期に大群で現れ、作物を荒らすのでした。
 ②で①と少し違うのは、ここで山伏が登場します。木村某という旅の山伏はその事を聞き、「その雀を神として祀り、巫女の魂を慰めればよい」と教えてくれて、村人たちは神社を建立、雀神社と名付けたそうです。以後、片眼の雀は姿を消し、村は平和で豊かな里になったというお話しです。この山伏も、木村大明神として崇めたといいますが、詳しいことはわかりません。(以上要約。)
 
  (西安庭)町場地区
  
 町場地区はいくつかの縄文遺跡がある所で、大昔から開けた場所だったと思われます。南畑方面から西安庭地内(天沼、戸沢)を流れてきた「南川」と紫波町との境の七日休みや須賀倉山方面が源流の「矢櫃川」、「戸沢川」が、中心河川である「雫石川」と合流する地点で、環境もよく、縄文時代にはすでに大小の集落が形成されていたものと思われます。
◆ その遺跡を見てみると、町場地区園地の周辺と西北に次のように分布しています。
 ・「熊野橋遺跡(縄文後期・住居跡)」
 ・「屋舘遺跡Ⅰ、Ⅱ(縄文前~後期)」
 ・「広瀬Ⅰ、Ⅱ遺跡(縄文後期)」
 ・「町場Ⅰ、Ⅱ遺跡(平安)」
 ・「田屋舘址」 (上記右の(展望台からの)写真の広場の奥の森一帯。)
 これらの遺跡の一部では、昭和49~51年にかけて御所ダム建設関連の遺跡発掘調査が行われ、たくさんの遺物や住居跡が出土、発見されています。

◆ 町場地区は周辺から道路が集まってきていました。集落の中を東西に盛岡・繋方面から鶯宿方面に行く県道「盛岡・鶯宿線」(かつては山形街道とも)」が走り、志和方面から矢櫃集落経由で通っている県道雫石紫波線がこの町場で盛岡・鶯宿線と交わります。その道は町場集落をさらに西に進み、南川に架かる熊野橋を渡り対岸の安庭集落に通じていました。
 矢櫃からの通行は、花巻方面~志和~矢櫃~町場~安庭~籬野~黒沢~滝沢~(現・昇瀬橋付近を渡渉)~赤渕(秋田往来・雫石街道と合流)のルートで秋田方面への通行者の利便にかなっていたと思われ、利用者も少なからずあったものと推測されます。


◆南川と矢櫃川、戸沢川の合流点となるこの町場地区にはかつて、各川の上流地域で伐採され、川流し(流送)された木材の集積場があったそうです。地名の「町場」も「流送された木材の『待ち場』」だったのかもしれません。この地区には「留場」という屋号の家があります。
(※参考;雫石町史Ⅰの292pに「橋場・志戸前方面から流送される春木の集木場があった場所が今の春木場の地である。南畑・鶯宿から南川を流送する春木も同様、土場は雫石川との合流地点近くに設けられていた。」の記述あり。)

<町場>の地名
矢櫃舘が沢にいた「旗越前」は、義家公の大軍が滴石に入ったとの報を受け「とてもかなわぬ」と退却することにしました。矢を櫃に入れて川に流し、町場で待って拾い上げたといいます。そこでこの地を「町場」と呼ぶことになったと言います。(「雫石町史第1巻・第三章伝説と昔話」)
  矢櫃川・戸沢川 周辺図 

   矢櫃やびつ地区
<住所の表記は 雫石町西安庭第53(栃ヶ沢)、54(菅ヶ平)、55地割(芦ヶ平)>
 この地区は、雫石町で最も東南の位置にあり、東側にそびえる南昌山や東根山を越えると矢巾町、紫波町に結ばれることから、古くから両地区と交流があったとされます。
 こうしたからこの地には、義家伝説が伝わり、また南北朝時代、九戸政実(くのへ まさざね)の合戦の落武者が住んだところと言い伝えられています。敗戦で落ち延びてきた紫波御所様が舘を築いて住んだという話が伝わる「舘ケ沢」という地名も残っています。
 まさしく雫石郷南端の“隠れ里”です。

 西東根山を越えて紫波町(志和)の「山王海(さんのうかい)ダム」や「志和稲荷」に抜ける道路はかつてはあったが、今はほとんど使われていない。一方、南昌山を越える道は、現在の県道281号線(矢巾西安庭線)である。しかし山中の道はあまり整備されておらず、部分的に通行不可能の所もある。

1992(平成4)年に南昌第一、第二トンネルによって矢巾町の町道と雫石町の町道とが一本の道路として結ばれ、観光や物流の面で大きな効果を生み出している。この道路は雫石町管内の 毒ヶ森 の真下を通っている。また、ここには県営防災ダム群の一つ「矢櫃ダム」もある。

◆ 秘境 芦ヶ平(よしがたい・地元では「よさて」 )
 まさに“雫石の秘境”と呼ぶにふさわしい場所です。御所湖広域公園町場地区園地から車で15分。地図上で雫石町西安庭地区の最奥の集落です。
 回りを500mから800m近い峻険な山々に囲まれ、その山の陰は険しい峠道を越えて紫波町や矢巾町となります。奥地というイメージがある矢櫃川沿線のその一番奥であり、まさに「隠れ里」という趣きがある。回りの山の所々に、矢櫃川の川面から岸壁がそそり立っている風景が見られます。二戸の“馬仙峡”に似ているところから「やっぱり俺たちは九戸政実の末裔だ。」と冗談めかして言う住人たちもいます。
 30年ぐらい前までは7戸あった住人も現在は4戸になってしまいました。
 この辺りの旧家の来歴を見ると<落ち武者>と伝えられる家が少なくありません。町教委刊行の「雫石の旧家」を広げて見みます。


矢櫃の入り口「林平(はやしたい)」の渓谷美
かつて巨大な湖の底だったことから「雫石町御所地区」の地盤は泥岩や頁(けつ)岩層が多く、川の水等の浸食を受けやすく、このような地層が露出している場所が多いのが特徴です。

   <この地域の旧家(屋号)の来歴>
 町場の又二郎(広瀬家)……町場集落広瀬家の本家である。現在、野中団地に居住。先祖は落ち武者といわれ、最初芦ヶ平に移住。分家一戸を残しずっとくだって、町場に移り、開拓に当たったという。先代までは堀合神社の別当であった。明治3(1870)年繋・安庭村副村長又二郎の名がある。旧宅地内に元禄14(1701)年10月22日の墓石がある。昔の町場、矢櫃部落の集まりはこの家で開催したものだという。

 平場(三河家)……町場三河家の総本家。寛文13(1673)年、岩名目御立山となり、御山守平場の兵庫助の名が見える。分家栗木家は九十九沢に移り住んだ。享保元(1716)年矢櫃山御山守弥左エ門の名が見える。

矢櫃の仁右エ門(高橋家)……芦ヶ平の旧家。九戸戦争の落ち武者という。九戸戦争で破れてから飯岡の葛本館にいたが、南部信直公が盛岡築城と聞き、芦ヶ平に帰農したという。山津田市左エ門が兄で紫波郡境の峠の五右エ門が弟とも伝えられている。

九十九沢の金四郎(杉澤家)……九十九沢(つくもさわ)杉澤家の本家。同家16代に 万太夫という美男美声の人があり、本宮村大宮神社の神楽踊りになり、南部公に抱えられた。万太夫も殿様から与えられた名という。万太夫の使用した「手平鉦(てびらかね)に「文化4(1807)年」の年号がある。殿様から拝領したという椀がある。

喜左エ門(伊藤家)……九十九沢の伊藤家の本家。先祖は厨川にあった安倍氏の一武将だったが、ある年宴会の席上で猫に膳の中の魚をとられたが、、その猫を斬ることができなかったため修行に出されたと伝えられている。
 平成25年8月9日の集中豪雨で矢櫃川沿線は
 大きな被害を受けました。その時の写真です

 この矢櫃地区には、さまざまな伝説が伝わっているが、前九年の戦い(1051~1062)年における源義家の軍の話が多い。前述と重複するが、いくつかを挙げる。
<源義家伝説>
 前九年の役に義家軍が雫石盆地に入った史実はないが、安倍氏の根拠地厨川の柵も隣村の天昌寺付近と確認されているし、太田の方八丁遺跡、繋の湯の舘はこの頃のものといわれている。これらのことを考えてみると、義家軍の一部隊が雫石に入ったことが推測される。御所地区に義家伝説が多く残されている。これは紫波方面から矢櫃に入ったことを示していると思われる。
<七日休み>
 紫波から安倍氏を追って進軍した八幡太郎義家公の大軍は滴石に入ろうと峠にやって来ました。広々としたどろの木の林です。ものすごい大風で、どろの木は倒れそうです。こんな大風では雫石に入っても戦はできないだろうと野宿することとしました。翌日になっても止みません。とうとう七日間も野宿してしまいました。そこでこの峠を「七日休み」と名付けました。

<矢櫃>の地名 雫石の地名伝説によれば… 義家公の軍は桂(かつら)部落【現在の町場行政区】まで来て、いよいよ戦の準備をしました。櫃(ひつ)に入れて背負ってきた矢をぬき取り、櫃を矢櫃部落の方へ捨てたのでこの地名がついたと言われます。

◆源義家とは―― 「前九年(ぜんくねん)の戦い」、そして「後三年(ごさんねん)の戦い」で活躍した武将。出羽と陸奥の国(今の秋田、岩手)に数多くの伝説が残る。
長暦3年(1039)生.―― 嘉承元(1106)年7月4日没 67歳
 平安時代後期の武将。父は頼義。母は平直方の娘。幼名,源太丸。八幡太郎と称した。父に従って前九年の戦いで功をあげ,康平6 (1063) 年従五位下,出羽守に任じられた。のち陸奥守,鎮守府将軍となり,陸奥で清原氏一族の争いを鎮定した 。

11世紀の中頃(平安時代の後期)、陸奥の国で勢力をのばしていた安倍頼時(あべよりとき)の勢いを抑えるため、朝廷では陸奥守として源頼義(義家の父)を遣わしたが、安倍一族の反撃に源軍は苦戦を強いられた。戦いの途中頼時は流れ弾に当たり亡くなったが,頼時の子貞任を中心に、なおも激しい戦いが続いた。こうして源軍と安倍一族との戦いは数年にわたり続けられ、地形や気候になれない源軍は、出羽の国の豪族・清原武則に助けを求めた。
 源軍に一万を超える清原軍が加わり、安倍軍は見る見るうちに攻め込まれ、康平5(1062)年、陸奥の雄と呼ばれた安倍氏は厨川(現在盛岡市)の柵で滅んでしまった。この戦いを「前九年の戦い」という。
 前九年の戦いから20年、源氏は義家が父頼義の跡を受け、出羽の清原氏は武則から武貞、真衡の時代へと移っていた。前九年の戦功により陸奥の国で勢力を広げた清原一族であったが、複雑な血縁がもとで内紛が生じていた。長男真衡が亡くなったが、次に異父兄弟の清衡、家衡が対立し、清衡は義家に助けを求めた。源軍は苦戦の末に金沢の柵(横手市)で家衡軍を滅ぼした。この戦いを「後三年の戦い」という。このあと清衡は陸奥の平泉に拠点を移し栄えた。

<堀合(ほりあい)神社>
  通称 シバリ明神
  祭神 大己貴命
  例祭 9月6日
 【由緒】 天喜・康平(1053~1064)のころ、源義家公が安倍貞任追討のため紫波郡から雫石盆地に入ろうと進軍を開始したが、郡境の「七日休」に来ると広いどろの木の林がものすごい風で揺れ動いている。義家公は大風をやり過ごすため大休止を命じた。しかし風はやまずそのまま七日間もこの地で休止した。そこでこの地を七日休みと名付けたと伝えられる。
 風が収まったので進軍を再開した義家軍は、矢櫃川に沿って下り、引矢は櫃に入れ、槍は石突きをつけ狭い谷間を進んだ。谷が最も狭くなる所に戦勝を祈願して社を建て、「ここは狭い谷間で身を縛られるようだ」ということから<シバリの明神>と名付けたと伝えられる。
 桂部落まで進軍して来た義家公は、戦闘開始とばかり櫃を下して引矢を出し、槍の石突きを捨てて戦いに臨んだ。空になった櫃を捨てた所が「矢櫃」、槍の石突きを捨てた前の沢を「つくも沢」と呼ぶようになった。矢櫃舘にいた賊将は、義家来ると聞き、矢を櫃に入れて川に流し、町場で待って拾って逃げたという。そこでその地を「町場」という。……雫石町教育委員会発行「心のふるさと」第八集 「雫石の寺社」より……

参考……大己貴神(おおなむちのかみ) この神は一般的には『だいこくさま』と呼ばれて広く崇拝され親しまれています。〔大穴牟遅 おおあなむち〕と読み、安産の神、洞窟の神ともされます。

 2008(平成20)年5月10日付け「広報しずくいし」…“おらほのふるさと自慢”に掲載された「矢櫃行政区(高橋トミさんの談話)」の記事を紹介します。

✿ 約五百年前に建立されたと言われている堀合神社。この地域を見守るお社として矢櫃を流れる矢櫃川と館の沢の合流点から少し離れた小高いところにあります。むかしは合流点のすぐそばにありましたが、およそ四十年前の砂防ダム建設により移設され現在地に建っています。

(この記事に添えられた写真・右)1924(大正13)年旧9月3日撮影 堀合神社の「御釜」の写真

 堀合神社の近くには、神社を建立した殿様が山と沢の地形を利用し館をつくったそうです。そこには、お酒をつぐお銚子に形がよく似ていることから銚子の滝と呼ばれる滝がありました。その下流にはとても深く美しい御釜が二つあり、雨乞いの神様の象徴として地域の人たちがとても大切にしていました。現在も続く堀合神社の秋のお祭りでは、当時の様子を思い出しながら地域の皆さんと語り合います。
 砂防ダムにより御釜の姿は見えなくなりましたが、矢櫃にはまだまだ大切にしていかなければならない場所や自然がたくさんあります。それらを守っていくためにもごみ拾いをしたり、また当時のお祭りや御釜の話などを語り継いでいくことで後世に伝えていきたいと思います。

 「堀合神社」に関する町外の方の記事を紹介します。
1・近世こもんじょ館〔れぽーと館〕(会長・工藤 利悦 氏)紫波町・阿部勲さん
 (前略)阿部勲さんは「60年以上前、この辺は非常に水が不足していた。そのために雨乞いに山に入った記憶がある。沢内川から七日休を越えて行った。それ以来、いつかもう一度、七日休に行ってみたいと思っていた」と調査の動機を明かした。
 「雨乞いをした時には、確か堀合神社(雫石町の矢櫃)があって、そこにいたずらすると雨が降ると聞いて行って来た。朝早く家を出て、七日休まで来て下って堀合神社に到着し昼食を食べ、沼にいたずらをして帰った。それから繋温泉を目指して行き、その途中で雨がぽつぽつと降ってきたて、これならあしたは田の代かきができると喜んだことを覚えている」と、慢性的な水不足に神頼みした若いころの記憶をよみがえらせていた。
 
2・続・山王海(さんのうかい)物語( 立花廉二著・昭和61年発行)
(前略)芦ヶ平の部落を矢櫃川沿いに下ると、林平(はやしたい・地元では「はやして」)に着く。その途中に堀合神社がある。(中略)地元の古老がいうには「女神様であり、雨乞いの神様」である。昭和の初期に山王海の演芸団一行17、8名が9月12日に祭典の実績がある。プログラム内容は不明だが、夜の公演だったという。前述した山道を通って、矢櫃部落に達したという。矢櫃部落には山王海から嫁いだ方があって、一夜の宿はその家に世話になったという。帰りは矢櫃から歩いて10キロも先の雫石駅から橋場線に乗り、盛岡駅で東北線に乗り換え、日詰駅で下車、徒歩で山王海へ帰ったという。一泊二日の強行軍小旅行であった。

蛇型倉(じゃがたくら)伝説 〔魚の棲まない“舘ケ沢”〕
 雫石町役場の屋上より東南を見れば箱ヶ森、赤林山、毒ヶ森、万九郎森、南昌山、東根の山々が見える。この山々は紫波郡と岩手郡の境をなす連峰である。毒ヶ森だけは雫石の山である。この森についてこんな昔話が伝えられている。
 その昔、紫波の南昌山の登山口の鷹平という所に家が三軒あった。この三軒の家の男の人達が、夏ともなればマダの皮を剝ぐために来て小屋掛けをして、泊まって仕事をするのであった。このマダの木の皮は、ゴザ、畳表、ムシロを織るときに使う縦糸にするためで、毎年この毒ヶ森付近に来て仕事をするので、山のことはよく覚えている人達であった。この毒ヶ森から流れ出る小沢に「毒沢」という沢がある。三人はこの小沢の入り口に小屋を掛けて仕事をしていた。
 ある日のこと、一人が夕飯の支度をするため山から早く下りてきて、米を磨ぐため沢に行ったら何となんと見たこともない大きな岩魚が三匹泳いでいた。良いものが見つかった。一人一匹ずつ食べるのには都合がよいと思い、捕まえて串刺しにして焼いた。ご飯が出来上がる頃になったら良い匂いがしてきたので、我慢ができなくなり、「なに、俺の分だけ食ってやろう。」と思い、一匹食べたが、あまりうまくて、とても我慢ができなくなったので、三匹ともみんな食べてしまった。喉が渇いてきたので、沢に水を飲みに行った。あまり喉が渇くので沢に口を当てて水を飲み始めたが、とうとう沢の水を飲み干してしまった。
 この時あとの二人が山から下りてきた。小屋にきてみたらご飯はできているが、人は見えない。不思議に思い大声を出して呼んだが、返事がないので、沢に下りてみた。何と驚いたことに、人間の姿ではない大蛇の姿となっていた。二人は大声で、「どうしてこんなざまになった。」と聞いたところ「こうこう、こういう訳だ。」と大蛇になった男が答えた。そして「俺は、こんな姿では家に帰れない。このまま雫石のお世話になっているからお前達だけで帰ってくれ。帰ったなら、わしの家にも知らせてくれ。」とのことだったので、仕方なく二人は家に戻った。
 家に帰った二人は大蛇になった男の家に知らせたが家の人は驚いて、どんな姿になったのか一目見たいというので、案内して行って見たが、姿がみえなかったので、家に戻った。
 大蛇になった男は、どうせこれから雫石のお世話になるのだからと、まず矢櫃川を下りてみたが、良い場所が見当たらなかった。そこで隣の九十九沢川の下流まで来て、ちょいと南西を見たらよさそうなところがあるので、見ているうちに体を滑らせて岩肌に背中をぶつけてしまった。起き上がって後ろを見たら岩肌に大蛇の形がついたので、これが俺の背中の形とすれば、こんなちっぽけな所に入る訳にはいかないと思い、また毒ヶ森に戻り、山の上から雫石を見下ろしたが良い場所が見当たらないので、雫石を諦め、当てもない西の方へ立ち去ったとのことである。この時の足跡(這った跡)がいまも残っているという。
 毒ヶ森の毒沢より流れ出て、下流は舘ケ沢となって堀合神社の先で矢櫃川と落ち合っている大きな沢がある。この時から、舘ケ沢にいる魚を食うなとの言い伝えが残っているが、不思議なことに魚はおろか、お玉じゃくし一匹いない沢である。川魚を放したこともあるが未だカジカ一匹見た人がいない珍しい沢である。毒ヶ森から毒が流れているから魚は棲めないという人もいるが、毒物を発見した人もいない。魚のいない沢としては雫石はおろか、県内でも珍しい沢であろう。
 大蛇の男が背中を岩にぶっつけた時に付いた形は、九十九沢公民館の向かいにある。今も形がはっきり見え、蛇型倉(じゃがたくら・倉は「崖」の意味。)の名前がついている。
 ◆(著者 杉沢直次郎 氏(故人)=九十九沢・金四郎かまどの人・杉沢 武氏(故人)の父上)

  この物語が書かれた冊子を九十九沢行政区の杉沢敏明氏からご提供いただきました。

     解 説   蛇型(形とも)倉のこと
 「矢櫃の夫婦石」から南におよそ300m離れた所。地域公民館の近くを流れる九十九沢川(つくもざわがわ)の岸辺からそそり立つ岩肌の地層が【ぐちゃぐちゃに潰れた】になったように見えるのが、“蛇型倉(じゃがたくら)”である。「倉」とは全国的に「がけ地」に名付けられる地名だ。さしづめ<蛇のような形の文様がある崖>という意味だ。いつ頃からこう呼ばれているか定かではないが。なかなかいいネーミングではないか。このような自然の造形はおそらく全国的にも稀であろうと思われる。
 ただ、残念なことに平成25年8月の豪雨災害以降、地層の凹凸に上部から土砂が流れ落ちてたまり、そこに雑草、雑木が生えはじめ地層が目立たなくなっている。
 それでは、このような地層がどうしてできたのであろうか。考えてみよう。
 今から1650万年前から900万年前、この雫石地方は海の底であった。それが隆起して現在の奥羽山脈ができたのであるが、500万年から900万年前に再び火山噴火が起こり、溶岩の大量噴出でマグマ溜まりが陥没、そこに淡水湖ができた。その湖の底や岸辺に堆積した泥などが崩れ、流れてこのような造形になった。それが隆起、またはその地層が水の浸食で露出したものと考えられる。
 ちなみに、この時できた淡水湖の名前は「古舛沢湖」。現在の桝沢を中心に、南は男助山、西は春木場、北は駒木野、東は繋付近までの広大な湖であったと推定されている。このことを裏付けるように、特に西安庭の矢川地区、水上沢などでは泥岩や頁岩の中から木の葉など植物の化石がよく発見される。
  
◆ 九十九沢の地名由来… 雫石町史第一巻1281p「じゃ型くらと九十九沢」より
 (行く先々で追われ…)蛇の姿になって九十九沢の地に来た八郎太郎は、もしここに沢が百あったら、棲みかにしようと考えましたが、いくら数えても九十九しかないのであきらめました。八郎太郎が蛇の姿でうろうろしているのを見たこの地の守り神「墓どこ森の権現様」は「こんな化物がこの辺におられたら大変、みんなが困る。」と山の上から大きな岩を投げつけました。桂部落の田んぼの中の大きな岩は、その時の岩で、夫婦石と呼んでいます。九十九沢の山の上に見える蛇型くらはその時の八郎太郎の姿だといいます。

    沼田神社
  (西安庭戸沢・行政区は「天戸」)
 西安庭(旧御所村)の戸沢にある沼田神社は、中世の豪族戸沢氏(または滴石氏とも)の祖先を祀った神社とされている。
 神社は町立安庭小学校のやや北東の方向にあり、県道盛岡鶯宿線を挟んで北側にある。昭和47年に御所ダム建設計画により現在地に移転されたが、それまでは現在地から北東200mの一段低い台地状の場所にあった。
 移転前の沼田神社はかつて「戸沢舘跡」と呼ばれていた。雫石町史Ⅰには――往古戸沢上総介の拠った所として古文書に“御城、地名松之木といい、本丸高三間位、廻二百五十尺 川出水無し”と、居城の規模を伝えている。――と紹介されている。

  雫石の寺社(雫石町教育委員会刊・心のふるさと第八集)には次のように紹介されている。
沼田神社は戸沢五郎の創建と伝えられているが、年代は不明である。祭神は「市岐島姫命」「宇迦御魂命」で、虚空蔵様、八幡様、毘沙門天(関注;弁財天の誤りか)を合祀している。弁財天は戸沢公の奥方を祀ったものという。南部実光と戦い、落城のとき稲籾童子を抱いて沼之中(関注;沼の平の誤りか)というところに身を沈めたと伝えられ、それより弁財天として祭っているということである。(後略)
 境内に地蔵様を刻んだ石碑があり戸沢公の姫君の墓と伝えられている。

稲籾童子(とうちゅう どうじ)  またの名を大神童子といい、本地は文珠菩薩。左肩に稲束を担いで、右手に宝珠を持ちます。弁財天と稲荷神が習合しましたので、稲荷神の功徳を稲籾童子に表現したものでしょう。

◆「神社の神霊札」が東京都・多摩史談会菊地氏の所蔵に――
金銅製梵字透彫文字楷書 戸澤東作号東且翁平盛徳靈神 戸澤視之齊平盛方靈
 
戸澤明神平衡盛公神靈陸奥磐手郡滴石庄戸澤邑所祭戸澤長
由翁平盛忠靈神
戸澤文蔵平盛業靈神
 この沼田神社の神霊札銅板が、いかなる経路によってか、現在東京都に住む人の所持する所となっている。初代戸沢衡盛(ひらもり)以前の系譜については信ずるところが少ないにしても、これら系譜並びに諸資料から言えることは、安倍氏の奥六郡支配以前から、滴石庄には数個所の舘に支族を配する豪族が住み、清原氏や藤原氏の支配に属し、土地所有を認められ、貢賦を納めて相当独立性を持っていた。これが中央政権から離脱した者と一体となって時代の波に乗る政治力を持つようになり、頼朝の征討にも敵対することなく、その所領を安堵されたものと考えられる。

 これが滴石氏を称する衡盛で、以来、家盛までの約350年滴石に居住し、その間南北朝争乱に南朝に味方して、正史にその名を残し天文9(1540)年、南部氏に追われて出羽に移ったことが頷かれる。(雫石町史第1巻)

 戸沢氏の系譜の一つ「新庄古老覚書」に、平通正の男子、尾輪の平新衡盛が、寿永3(1184)年に奥州に下り、一族の樋山弾正良正の許に身を寄せた。良正は衡盛を樋山を去る一里の戸沢に居住させ娘を娶したが、良正に嗣子がなく、衡盛はその跡を受け、その地を領有したと伝えている ーとある。ここがその「戸沢」なのであろうか?

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戸沢氏伝説 (戸沢の殿様と野菊姫の話) 雫石には「戸沢氏伝説」として次のような話が残っている。
――雫石の野中にあった弥十郎(徳田)家の裏に野菊の井戸という清水があってここで顔を洗うと美人になると言われていました。大昔、この地に「野菊」という美女があって、雫石城のお殿様に召されていました。お殿様は殊のほか寵愛していました。ある年城中で酒宴があった時、野菊は思わず粗相(おなら)をしてしまいました。殿様はたいそう腹を立て野菊を城中から追放してしまいました。野菊は里の野中に帰り小屋を建てて生活していましたが、その時すでに殿様の子供を身ごもっていました。間もなく男の子を生みました。それから10年ばかり経った頃です。お城の近くを「黄金のなる瓢箪の種はいらんかね」といって種物を売り歩く少年がありました。賢そうな気品のある少年です。城中でこの売り声を聞いた殿様は、その少年を城中に召し連れさせました。そして怒った顔で「でたらめを言ってはならん。本当に黄金の瓢箪は成るのか」と尋ねました。少年は恐れる色なく殿様を見つめ「はいっ、きっと成ります。ただ、一生に一度もおならをしない人が播かねば成りません。」と答えました。殿様は笑って「一生に一度もおならをしない者なんているはずがない。」と言いました。すると少年がすかさず「では、何故、私の母を殿様は城から追い出したのですか。」と言いました。この少年が自分の子供であることがわかった殿様は、野菊親子を再び城中に迎え入れたといいます。雫石の祝い唄に“雫石は名所どこ野菊の花は二度咲く”とあるのはこの話を歌ったものといいます。―― (雫石町史Ⅰより)
≪参考資料≫  
     【平成28年11月23日(祝)・雫石町中央公民館野菊ホールで開催】 
       第4回戸沢サミットin雫石 
       <開催記念アトラクション>
    
寸劇   あれから800年
   戸沢の殿 雫石に帰る

 中世から続く日本の名族のひとりとされる旧新庄藩主の<戸沢氏>は、今から820年余り前、源頼朝による平泉討伐(1194年・平泉の藤原四代泰衡追討のこと)の頃、雫石に興ったとされます。
 その戸沢氏の歴史は大きく次の5つの時代に分けられます。  
 時代区分
 在住地の市町村名
 ①「角館」に入る以前のこと【 1206年 滴石から羽州鳳仙岱へ移るとの説あり】その後、旧西木村の上戸沢に移り、桧木内川沿いに南下、1228年門屋城に入ったとされる。岩手県雫石町
秋田県旧田沢湖町
同 旧西木村
 ②出羽国「角館」の時代(1423?~  ) 秋田県仙北市
 ③常陸国「小河」の時代(1602~   ) 茨城県小美玉市
 ④常陸国「松岡」の時代 (1605~   ) 同 高萩市
 ⑤出羽国「新庄」藩主の時代(1622 ~1868) 山形県新庄市

 しかし、上表の「①「角館」に入る以前」のことは確定的な史料が全くなく――≪戸沢氏の神代(かみよ)の時代≫と呼ばれるほどです。
 現在、“通説”となっている内容は、平泉討伐(つまり戸沢氏発祥の頃)のおよそ500年後の江戸時代、元禄15(1702)年に徳川幕府の政治顧問新井白石が編纂した諸大名337家の由来と事績を集録した「藩翰譜(はんかんふ)」や旧新庄藩士の田口良純(1744年没)による歴史随筆風の「新庄古老覚書」(成立は1727~28年)などが元になっています。ただ、これらの記録は往々にして誇大になりがちな大名家の「始祖家伝」や家臣の記憶や伝承に基づくあいまいな内容が多いことから「角館入城以前」の記述はその客観性や信ぴょう性に疑問符がついているのが実態です。
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 今回は発祥の地「雫石町」で開催されるサミットです。戸沢氏の発祥の史実にできるだけ迫れるような寸劇を目指しました。ヒントになったのは、当日の基調講演の講師で平氏研究家の細川久美さん(雫石町出身・東京都在住)が平成23年11月に滴石史談会主催の講演会で話された次のような言葉です。
――「『史料がないから歴史がない』ということではない。歴史は世相を反映するし、伝承や伝説には歴史が込められているはずだ。これらと中央の史料などから得られる間接証拠を積み上げれば史実に迫ることができる。」――  
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 今回の寸劇のストーリーは、「新庄古老覚書」の内容を基本に、時代背景にある「平泉藤原家」、「金山」との関わりは欠かせないと考えて採り入れました。また岩手山南麓の豪族「樋山弾正」についても新たな視点で考えたものです。さらに兼盛が秋田に去った後の雫石郷において勃興した「滴石氏」についても触れてみました。
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【舞台の設定】戸沢サミットの日、町立安庭小学校の児童たちは、学校近くの沼田神社で戸沢氏の祖である戸沢衡盛(ひらもり)、兼盛(かねもり)親子に遭遇し、自分たちが学習した戸沢氏の歴史について語り合います。   

【以下、寸劇のセリフです。】
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児童「いまからおよそ850年前のことです。衡盛様のお父上は、平氏の中でも位の高い人だったそうですが戦に敗れて亡くなりました。幼い衡盛様は、お母様に連れられて、奥州平泉の藤原氏三代目の秀衡様のもとに身を寄せました。」

児童「秀衡様は、衡盛様をたいそうかわいがり、自分の名前の一文字を与え、初代清衡の孫である紫波郡の樋爪(ひづめ)俊衡様のもとで金山の仕事につかせました。」

児童「衡盛様はふだん志和稲荷社の裏の山を越えて雫石側の戸沢川に沿って下り、河口である戸沢の里を中継地に、滴石たんたんの山の中を通り、滝の上から奥羽の山を越えて秋田の鹿角の方まで足を延ばして各地の金山を行き来していたそうです。」

児童「当時雫石盆地の岩手山南麓一帯の豪族だった樋山弾正殿(西暦807年の坂上田村麻呂将軍東征時、現地に残って同地の開発に当たった大宮人の末裔か?)が、衡盛様の活躍に目をとめ、自分の娘と結婚させ、滴石の戸沢に新しい館を建ててくれたのです。それが「戸沢氏のはじまり」だと教えてもらいました。

兼盛「この後しばらくして、源頼朝殿が平泉を滅ぼし、藤原様の領土を自分が鎌倉から連れてきたご家来たちに分け与えました。」衡盛「幸いわしらは、義父の樋山殿の画策もあって、戸沢の庄をそのまま与えていただいた。頼朝様に逆らったわけでもなかったからのう。それにしても、村人たちもよく働き、戸沢での生活はとても楽しいものであった。」

兼盛「父上が亡くなられてから、しばらくは平和な時期が続き、私も野中の里で<菊>という娘と出会い、結婚しました。とても幸せな日々でした。(いまも雫石には「野菊伝説」が語り継がれています。)しかし、隣の地頭工藤行光殿とのいさかいが多くなり、わたしたちは平泉藤原様の平和の教えを守り、戦を避け止むを得ず17人の家来とともにひとまず秋田に越えたのでした。あとに残した村の人たちのことを考えると、まさに断腸の思いでした。」

衡盛「それにしても、秋田に越えてからのそなたとそれに続く戸沢家歴代の方々の活躍は目覚ましいものがあった。」

児童「滴石の戸沢を後にした一行は、羽州、現在の秋田県仙北市の玉川・鳳仙岱(ほうせんたい)に落ち着き、その後上桧木内に入り旧西木村の戸沢に移ったとされています。ここでは、衡盛様の代からの砂金を採る技術を生かし、勢力を拡大。桧木内川沿いに下って門屋(かどや)城を築きました。その後、さらに下流の角館に進出、豊臣秀吉の信頼を得て所領を安堵されました。」

 以下、角館から、常陸国小河、松岡、そして新庄にと出世を重ねた経緯についてはここでは省略いたします。
 
 
 しかし、お話はここで終わりません。秋田に越えた二代兼盛は、いつも滴石の戸沢に残してきた領民たちのことを案じていました。兼盛たちが秋田に越えて140年後、滴石郷に天然の地形を利用した「滴石城」が築かれました。現在の雫石八幡宮が鎮座している場所です。

 今から676年前、初めて「滴石」の名が歴史に登場
 南北朝時代の興国元(1340)年、鎮守府将軍北畠顕信の祐筆五辻清顕が書いた文書に「滴石」と名乗る一族が「滴石に城を築いた」という内容が書かれています。この時「滴石」の地名と「滴石氏」の名前がこの地方の歴史にはじめて登場しました。
 当時の雫石郷の周辺状況から、この「滴石氏」は戸沢氏が秋田に移る際に、後事を託された(後のことを頼む、とお願いされた)家来たちの子孫である郷士(ごうし)たちが「いつの日か戸沢の殿様に帰ってきていただきたい」という強い願いを抱き、忍耐と努力を重ねながら力を付け、ついに雫石の天然の高台に「滴石城」を築いたのではないかと考えられます。
 その子孫のひとりとされるのが繋温泉地区の舘市(たてぢ)家の「高橋一族」です。天正12(1584)年、滴石城主の戸沢氏が南部氏に破れ、秋田の仙北に逃れた際、高橋家の当主の出雲が人質として三戸に送られ、戦いの終わった翌年、許されて繋村に帰された時に、武士を捨てて百姓になり、高橋を氏とし、その後代々村の肝入を務めた一族です。

 寸劇では、ラストシーンで兼盛が戸沢に残った人々への感謝の気持ちを吐露します。
 
兼盛「私が戸沢を去るにあたって後の事を託し、この滴石に残ってくれた方々は、戸沢の一族であることを誇りに思いながら800年間、こうして立派に「雫石の戸沢」の名前を守り、沼田神社や雫石八幡宮を守り支えてきてくださった。実にあり難いことだ。ここに改めて厚く御礼を申し上げる。」

                ✿
 戸沢氏の祖である衡盛も、800年ぶりに戸沢の殿様【新庄藩第15代】を発祥の地雫石に迎えて感無量の面持ちで、次のように語ります。
衡盛「今日は雫石での戸沢サミット。明治、大正、昭和を加えると、実に800年ぶりに戸沢家のご当主を、発祥の地にお迎えでき、わしはもう感激でいっぱいじゃ。」「何より、古里雫石にこの子らのように賢くたくましい、わが子孫たちが育っていることを実に喜ばしく思う。本当にうれしいことじゃのう。」
    滴石史談会制作
<サミット開催記念アトラクション>
あれから800年 戸沢の殿 雫石に帰る
配役:戸沢衡盛 古舘謙太郎 / 戸沢兼盛 高橋俊則
 〔安庭小学校児童〕村田敬心(6年)中島朔(6年)杉澤直輝(5年)鎌田りん(5年)
脚本・演出:関敬一(滴石史談会)演技指導;高橋司(町立安庭小学校長・史談会員)協力;雫石町民劇場実行委員会
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 山形道の古碑〔片子沢の化け石〕

 町内の御所小学校前の県道盛岡・鶯宿線を西に行くと、御所保育園の前から片子沢という地域に入る。そこにはJAの店舗や御所駐在所などがあり御所公民館もある。県道から御所公民館に左折する角に電力の高圧線鉄塔があり、その下に二つの石碑が並んでいる。そのひとつ、向かって左側の黒っぽい碑が「片子沢の化け石」と呼ばれる碑である。
 この県道は、盛岡城下から繋温泉を経由して、戸沢~片子沢~桝沢~鶯宿まで行く道である。途中桝沢で盛岡横手線と分岐する。盛岡横手線は、秋田県横手を通って山形まで行くことができるルートである。山形には、羽黒山という霊山があり、山伏、修験者の聖地となっている。
 その昔、繋温泉には山伏の修験場が数カ所あった。そのため繋と羽黒山の間を山伏たちがよく通ったことから、この西安庭の県道盛岡鶯宿線は「沢内街道」「山形街道」とも呼ばれた。もちろん庶民の「羽黒山参り」のルートでもあった。途中には山伏峠もある。

 この「片子沢の化け石」は雫石町史Ⅰの「昔話」に次のように紹介されている。(写真は片子沢の古碑 ー 左が中世の碑とされるもの。右はその後建てられた供養碑)
◆ 西安庭片子沢の県道の側に梵字一字だけの上部が斜めに欠けた石碑があります。中世に建立されたもので、町内で最も古いものと思われます。ある日のことです。代官所に勤める若い武士が急用で鶯宿に出かけることになりました。晩秋の夕暮れのことです。片子沢に化け物が出るという噂は聞いていましたが、彼は免許皆伝の刀の名手でしたから怖いと思いませんでした。
 片子沢の近くに来ると、ヒタヒタと後をつける者がいます。振り返ってみると、青白い光の中に若い女の姿が見えたと思ったらパッと消えてしまいました。目の迷いかと思って一歩踏み出すと、供養碑の側に佇んでいる女の姿が青白い光の中にはっきりと見えます。狐狸のいたずらだろうと、腕に自信のある彼は抜く手も見せず切りつけました。カチリと音がして女の姿は消えてしまいました。
 若侍が鶯宿に一泊して翌日帰る途中片子沢の供養碑をみると上が斜めに欠けていました。若侍は昨夜の化け物はこの石だったのかと思いました。その後若い女の出る話はなくなったと伝えられています。

 実は、このお話には「前段」があったのです。
 この片子沢の「化け石」について、前出の田中喜多美氏が書いた「旅と伝説(岩手雑纂)」の中の「雫石道成寺塚(どうじょうじづか)」と題した一文に次のような件(くだり)があるので紹介する。        






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生   同
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◆ (片子沢の)道成寺塚と呼んでいるのは、二間四方位で高さは三尺足らずである。塚は砂利交じりの土丘で原型は方形であったと推定される。塚の上には二基の石碑があり、一方は頂部五寸ばかりを斜めに欠き、文字は全く消滅してないが人工を加えた石だと知れる。質は脆弱な安山岩であって頂部が欠けていることについては次に述べるような伝説がある。
 一方の石碑は高さ三尺五寸位、幅一尺二~三寸、ふつうにみる梨割型である。文字は少しく剥落し欠けて読みづらいが右の如くであった。(左から二行目 送 はしんにゅうに未)

 伝説を筋書き通り追ってみると、次のとおりである。
――昔、出羽の羽黒山から毎年毎年沢内街道を来て此の地方に勧進して歩く修験の若い僧があった。この美形の若い僧は安庭の豪家に宿泊するのが例になっていたが、或る年、此の家の愛娘から頻りと恋慕の情を打ち明けられて困ったが、それでは次に来た時に連れて帰ろうという事にして宥めすかして帰った。
 其の翌年、件の若い僧は何気なくその家にたどり着いてみると、又、娘は恋慕の情に堪えなかったことを告げて迫ったので、此の度は同伴しようと約束したが、出家紗門の身で女を連れる事が出来ないので、密かにその家を遁れて立ち去った。
 娘は後を追うて天沼に至り、南川の渡船場で船を頼んだが、件の僧はこれこれの事情だと言って船を寄こすことを固く止めて行ったので、如何に頼んでも渡してもらえず、憤怒のあまり、南川に飛び込み向岸に越え渡った。その時は最早、旅僧は遠く去った頃なので、娘は其の薄情を恨み悲しんで、片子沢の沼に身を投げて死んだのである。
 其処で、安庭の長者は愛娘の果敢ない死を悼んで、沼のほとりに塚を築き、篤く葬って回向を怠らなかったのである。
 しかし、其の後長者の家は跡絶えて、娘の霊を回向することが途絶えると怨霊が現れ始めた。或る夜の如きは、塚に若い娘が恨めしげに立っていたり、旅人は此の付近で若い娘に後をつけられたりした。…(ここで前出の「若い侍の話」が登場するが、重複するので省略する。)
 このように供養石が切られるという事件が起きたので、元禄十一(1698)年、里人たちは第二の石碑を建立して霊を回向・供養したという。其の後は途絶えて娘の霊は出ないと言っている。
 現在、土地の所有者としてこの碑を守っているのは当該部落の旧家・高橋弥兵衛家である。同家は碑面に見える「弥助家」の分家である。――

 さて、ここで登場するのは「道成寺塚」という言葉だ。「道成寺(どうじょうじ)」は「歌舞伎」や「能」の演目でよく知られる寺の名前である。なぜこの雫石で道成寺なのか不思議に思うかもしれないが、地域の古老の話では、かつてこの碑の近くに道成寺という寺があったらしいというのである。田中喜多美さんは、この本の中で寺の存在については触れていないが、実は、現在の御所公民館の西方を流れる農業用水路の名を「道成川(どうじょうがわ)」という。
 能や歌舞伎に出てくる安珍(あんちん)・清姫(きよひめ)の伝説で名高い「道成寺」は、和歌山県日高郡日高川町にある天台宗の寺である。山号、天音山。701年の開創と伝えられる。開基は義淵。
 「道成寺の説明」で目を引くのは、この寺の宗派名である。天台宗は仏教であるが<神仏習合>の色彩が強く、山伏、修験者とも密接な関係にあった。先の伝説に出てくる若い僧は「羽黒山」で修業・実践しているように描かれている。(ちなみに羽黒山、月山は天台宗系、湯殿山は真言宗系)
 こうしたことから、この伝説はあながち架空のことではなく、一部脚色はあるかもしれないが、実際にあった話が元になっているのではないかと思われるがどうだろうか。

 〔安庭・戸沢の旧家〕
<賑屋敷(にぎやしき)>……細川兵武家
 安庭の熊野橋の近くにあった。ダムで東町に移った。
 寛永年間(1624~) 南畑御山守兵部、正徳五年(1715) 岡田領肝入兵部、文化二年(1805) 安庭村山肝入兵部の名がみえる。延宝二年(1674)雫石御山奉行始まるや、奉行の御宿を兵部方に置かれる。
 延享五年(1748)、雫石酒屋高島屋惣吉に水田22石余を、宝暦五年(1755)には、家屋・畑を売り渡し、村民に代わって年貢を支払ったと伝えている。村民から絶対的な信頼を得て、村役はほとんど同家が代々勤めている。南部公鶯宿御入湯の節は必ず同家で休まれたと伝え、本座敷は立派なものだった。同系一族の分家共に24戸。家紋は丸蔦。

<弥助(やすけ)>……高橋家
 弥藤治ともいう。繋舘市家分家で、御所地区高橋系の総本家である。現在は盛岡に住んでいるので、「あつね家(高橋元家)」が本家となっている。沼田神社の別当家であった。
 明治初年、戸長役場がこの家に置かれた。現在の道路の下で、直屋の大きな家だたっと伝えている。
 寛文12年(1672)戸沢御山守弥助、正徳5年(1715)吉沢領肝入、文政4年(1821)御山守弥助、元禄8年(1695)戸沢御山守弥助の名がある。元禄16年(1703)の墓石がある。
 天沼の長治、片子沢の弥兵エは分家である。
 分家あつね家の清は大正15年御所村長。県議会議員2期務めている。家紋は釘抜紋。