北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)
鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。 『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男、母は不詳。官位は正二位、権大納言兼鎮守府大将軍、贈従一位、右大臣。 建武親政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。
弟の顕信については下段に記している。 ◆ 建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府滅亡後の1333年(元弘3年/正慶2年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始した事により成立した政権及びその新政策(「新政」)である。建武の中興とも表現される。
雫石町教委発行の「雫石の民話」(昭和47年刊)に…<大昔禁中に仕えていた一人の婦人が、高貴な方の胤を宿して、故あって遠く雫石盆地に来て住んでいました。お生まれになったのは戸沢氏の先祖平親王(たいらしんのう)だといいます。この方の住んだところは元御所で、村の人達はこの方を御所様と申し上げ…>とある。 ✿ 1338年(延元3年)9月北畠親房は長男 顕家を失ったあと、後任に次男 顕信を陸奥介鎮守府将軍に任命する。陸奥介鎮守府将軍北畠顕信公は1346年(正平元年)春から1352年(正平7年)7月までの約7年間、陸奥国岩手郡滴石大字綱木(つなぎ)の地に駐留し、南朝軍(八戸南部氏、滴石戸沢氏、和賀氏、河村氏)の指揮に当たった。
このとき顕信の居住地を滴石御所と称し、これが「御所」の地名の起こりとなっている。「滴石御所」に始まり、親族が移り住んだ先々の「袰綿御所」、「浪岡御所」を北畠三御所という。
所在;雫石町繋第6地割字新城本尊;馬頭観世音例祭;九月十九日(一年置き)別当;細川 正文 家
由緒 細川氏系の氏神である。建立の年代等は不明である。 元禄九(1696)年より正徳五(1715)年の間の記録と推定される「南畑村鳥谷の里 山守甚十郎所蔵の『雫石通拾ヶ村御山林沢に神社佛閣郷村縮図』」に「観音堂」と記載されてある神社である。 昭和48年のダム水没以前の鎮座地は、雫石町繋第七地割字下御所であった。 町教委「雫石の寺社」より
源義家伝説(八)才市家の観音様 才市家は元御所開発の祖といわれています。才市家の観音様は「馬頭観音様」で、昔は部落はずれの下の方(現在の繋大橋に近い場所)の巨岩の下にありました。
義家公が安倍氏討伐に来た時、この地で義家公の馬が怪我をしました。そこでこの地に社を建てて治癒を祈願したのだといいます。
源義家伝説(九)繋温泉
義家公は元御所で馬が怪我をしたので、今の繋の地に連れて来て、つなぎ石に馬を繋ぎ湯に入れて治療しました。馬の怪我が治ったのでこの温泉を繋温泉と呼ぶようになりました。
いずれも〔町史第一巻〕より
5・才市家(細川家)
元御所から東町に移った。賑屋敷、甚左ヱ門と三人兄弟で、肥後の国から移住したと云う。元御所開発の祖といわれ、開田にあたっては、堀こん田(徳田)の人と共同で指導監督したと伝えられています。寛文十一(1671)年の検地帳に藤村源兵衛領將監二十石一斗一升九合と見え、正徳六(1716)年の検地帳には二十三石七斗一合と見えている。おそらく当時町内第一の豪農だったろうと推察される。
氏神として駒形神社がある。これは源義家が安倍氏征討のとき、愛馬が傷ついたため建立したと云う。現在の才市家は繋萪内の与惣左エ門(瀬川家)から入って継いだ家である。 同系一族の分家共に3戸。家紋は丸木瓜。 町教委刊行<心のふるさと(第六集)雫石の旧家>より
県は、陸上交通以外に、藩政時代から物資の交易や搬出に利用されてきた河川航路の延長を図る方針を定め、明治5年8月、航路区域を指定して、航路内の簗簀留(やなすどめ)の撤去を命じている。雫石川の航路は、内陸部における舟艇航路の幹線であった北上川の、盛岡東中野村の新山河岸から、雫石町の南郊外落合までの間である。この計画に基づいて工事は官営で行われることになった。その後、同13年上野沢炭坑(御明神)を県第二課直営で試掘を行うことによって、石炭搬出のため航路に当たる所の邪魔になる大きな石などは爆薬で砕かれたり、石工の手で割られて航路が開かれたと伝えている。これらの水上交通は、県が地租としての年貢米回送の利便を考えて、官営で航路を開いたものである。しかるに明治7年、地租条例の公布によって、すべての納税が物納から金納に変えられることになり、次第に官営としての存在価値がうすれ、舟航関係が民間に移行するようになった。雫石川の場合でも、明治9年2月西安庭村の儀俄常衛が、前記盛岡から雫石間に回船問屋を開業したい旨を戸長組総代の添印で県に願い出ている。県はこれに対し、就業に当たっては、北上川筋回船規則によることと、川の改修工事や橋梁等の妨害にならないように注意して、これを許可した。しかし、この事業は水量も足りず採算も合わないことから、成功することなく終わったようである。――
――いにしえの何かなる人住みて、最(おおかた)の人家を御所村と呼ぶゆえに、御所の舟渡という。雫石南北の川を一つにして、清き流れなり。左のみ賞すべき程の気色に見えねども、御所という名にめでて、おわりに筆を投じぬ。――
1・市町村制の実施 (明治)政府は、明治21年に公布された大日本帝国憲法に基づいて、地方政治に自治体方式をとることとし、府県法、市町村法を改正して、住民の選出によって構成された議会に条例制定権や予算決算の議決権をもたせ、大幅な自治活動を認めることとした。翌22年4月1日より、改正された法によって運営されることになったが、従来の村単位では規模が小さく、自治活動には能力が及ばず、一村300戸以上を基準として合併を奨励することとなった。こうして、町の大きなところを「市」、商人民家など多く集まって小市街をなしているところは「町」(ちょう)、その他を村と称するようになった。(一)市町村制実施以前の合併 県は、市町村制の実施に先立って、同年3月16日、従前の村を合併分離することを発表し、県内642ヵ村を164カ村に編成替えを行った。 雫石十ヵ村は、この合併分離によって、雫石村、西山村、御明神村、御所村の四ヵ村に編成替えとなったもので、雫石村は従前の区域のまま存続し、西根村と長山村が合併し、村名は両村名から一字ずつ組み合わせて西山村と称し、上野村、橋場村、御明神村の三ヵ村が合併して、その中で由緒ある地名の御明神を新しい村名に定め、安庭村(西安庭村とも)、南畑村、鶯宿村、繋村の四ヵ村が一つになって、新しい村名を村内の旧蹟である「御所の渡し」から採って、御所村と称することとなった。 (以下略)
二 御所村 (前略)繋村、安庭村、南畑村、鶯宿村の合併に際し、諸議があったが繋村御所の徳田七郎兵衛の発議により、御所の伝説と四ヵ村合所の意も含めて「御所村」と決定された。これにより、それまでの「御所集落」は、「元御所」に改められた。
七郎兵衛(徳田利成家)…昔は元御所在住だが、ダムの関係で東町に移る。紫波郡矢巾町徳田から雫石町繋に移住。氏神様として薬師神社あり。慶長19(1614)年、大坂の陣に田口甚四郎の供として川原掃部(かもん)19歳が出陣しているが、これが徳田家の先祖である。天明3(1783)年、安庭村御蔵肝入に七郎兵衛の名がある。同系一族の分家ともに32戸。家紋は蔓下り藤。 杉ヶ崎(高橋家)……昔は元御所の杉ヶ崎部落にあった。同部落は全部杉ヶ崎家の所有地だったという。御所ダム水没で東町に移った。繋舘市家の半ざき割の分家という。分家になったとき、籾打ち槌40丁持参したと伝えている。最盛期には使用人を含めて7組の夫婦があったという。同家には、滝ノ上温泉を経営した時、夢枕に立って移ってきたという立派な金色の大日如来像がある。これは南部藩八勝寺の一つ、遠野の伝勝寺の本尊だったものである。同系一族の分家共に10戸。家紋は丸に違い釘抜き。 吉右衛門(細川家・現在東京在住)…分家喜左衛門(細川家)は、吉右衛門の第一分家であり、家は下御所にあったが、ダム水没のため移転した。分家与左衛門は昭和12年、御所村長を務めている。同系一族分家共に13戸。家紋はあげは蝶。
◆御所ダムは、昭和16年に「北上川改修五大ダム」構想の一つとして発表されましたが、その後周辺住民の不安をよそに“幻のダム”として25年間放置されました。◆昭和41年にようやく建設が発表され、47年着工、発表以来15年後の昭和56年に完成しました。◆水没面積は604ha、盛岡市分(繋地区)が36%、雫石町分が64%でした。 この土地は、雫石川の沿線ということで肥沃で、歴史も古く埋蔵文化財の多い地域でした。◆移転した世帯数は、雫石分が318、盛岡市分が202、合計520世帯にも上りました。 ダム建設は山間部での例が多く、これだけ多くの世帯が水没対象になるケースは全国的にも少なく、当時話題になるほどでした。◆昭和46年8月、水没者移住用の住宅団地「七ツ森団地」が着工。114区画が翌47年8月に完工し、移住が開始された。総工費1億3108万円でした。◆昭和58年10月から、町の事業として第2次の七ツ森団地124区画の分譲が開始されました。この区域の分譲に当たって、当初は雫石町葛根田の滝の上からの地熱熱水の供給計画もありましたが、熱水供給側の問題で、計画はとん挫してしまいました。 ≪水没前の繋温泉地区≫
官家より東へ小道 五六里を去りて 繋温泉あり 此所に繋舘とて舘あり 山上に清水あり 往古は八幡太郎義家の居城の由 此温泉は 御馬屋の 馬のすそ湯に用いし湯の由 駒繋石あり 故に繋の湯と言う 惣名 繋村とも言うよし 今ごみの湯と言う湯 室の脇にあり 平目にして 大いなる石也 穴あり 是へ駒を繋ぎしよし 依て名とす 今は浴室三所にあり 箱の湯 薬師の湯 ごみの湯とて 三つあり 近年普請宜しく 入浴の人も多く 茶屋等出 万物自由也 売人は舛や宗兵衛とて万屋也 客舎より四十丁計り水上に 荒湯と云うあり 繋温泉欲室を去る事 一丁計り手前に猫石と言う石あり 猫のかがまりたる如し 猫石や 取りまいて咲く 犬子かな 嵐戸 糸ゆうと 立ちくらべけり 温泉の烟 嵐戸 繋石は ごみの湯の脇にある石也 馬の手綱を結付けし穴あり 此石の 名に繋がるゝ 湯浴人 嵐戸 温泉を手前へ去る事二丁余 三尺町という所あり 昔の町の跡地 制札あり 寄坂 と言う坂あり 繋湯より西南の間 五六丁山の上に藤倉明神の社あり 祭神毘沙門天 祭日八月四日 俗別当 舘市久右ェ門 古木立にして杉立ち 大藤の古木にまどい 清水山中より湧き出 いとごうごうたる御社地かな 御手洗(みたらし)を むすぶや藤の 花香ふ 嵐戸
伝説「十石杉」と「マナイタ淵」≪樹木伝説≫ 日本人の古来の信仰として常緑樹に神仏が宿ると考えていた。正月の門松も、盆の灯篭柱の杉の葉も神仏の依り代としての意味と思われる。特に形の変わった木や巨大な樹木には霊があると信じられ神木として尊んでいた。<十石杉> 大昔、大字御明神志戸前の十石沢に大木な杉があって、御明神から雫石元御所の杉ヶ崎まで、午後になると日陰になってしまいます。この杉は神木なので伐るわけにいかず、百姓たちは大変困っていました。その頃、盛岡の殿様が船を作るため大きな杉の木を探していました。志戸前に大きな杉の木があると聞き、早速伐り出すようにと役人に命じました。役人はたくさんの人夫を連れて山に入ってきました。人夫を二組に分け、一組が明日から鋸引きができるようにと斧で切って準備しました。 翌日別な組が行ってみると斧で切った跡が少しもありません。昨日の人夫が怠けたのだろうと何十人かの人夫が斧を振り上げ、鋸引きできるように準備して帰りました。翌日他の組が行ってみるとやはり伐った跡がありません。殿様からは早く早くの催促です。役人は困ってしまいました。その晩のこと、あれこれ考えている役人の前に、白い髭のお爺さんが現れて言うのには「あの杉には魂があるので、今のままでは何日かかっても切れない。明日から斧を使ったら、できた木っ端を全部焼き捨てなさい。私はあの木の下にある欅の精だ。」と言ったと思うとかき消すように見えなくなりました。 目が覚めてもお爺さんの姿や声がはっきりと残っています。朝早く起きた役人は老杉のところへ行ってみました。木の下には弱々しい「欅の木」がありました。役人は昨夜の話は本当なんだなと思いました。 その日の作業ではできた葉っぱを全部焼き捨てさせました。それから作業は順調で、さしもの老杉も伐り倒されることとなりました。倒れた時に10キロ以上も離れた南部落に杉の枝が飛んで突き刺さって根付きました。その傍の家を「杉屋敷」と呼んでいます。 杉は枝を払い、丸木となって志戸前川~竜川~雫石川と流れましたが、繋部落の大欠(だいがけ)の淵の上まで来るとぴたりと止まってびくともしません。二日たっても三日たっても、数十人の人夫がかかっても動かすことができません。殿様からは矢のような催促です。役人はまた頭を痛めました。 思い悩んでいたらその晩夢枕に白髪の老人が現れ「あの杉を動かすには某家のお嫁さんを頼んで杉の上に乗ってもらい、掛け声をかけてもらいなさい。」とのお告げです。さっそくたくさんの御礼金を用意してそのお嫁さんに乗ってもらいました。 雫石あねこの衣装のお嫁さんが木の先に乗って「よういわしょ」と掛け声をかけると、どうしたことかびくともしなかった木がスーッと軽く動き、お嫁さんを乗せたまま、大欠の淵に沈んでしまいました。この杉を伐り倒すまで人夫の食料に米十石も使ったので十石杉と呼ぶようになったとさ。(雫石町史から)
その昔「マナイタの淵」の底に潜った男の話。――深い川底には横穴があってなお進むと、天井の高い洞窟になっていた。そこには機を織る若い女と白髪の老爺がいた。そして言うには「今回だけは生かしてシャバに返すが、お前の見たことを他言してはならぬ。他言した時、お前は死ぬ。」と。その男は後年、死に臨んでこのことをようやく人に話したという。 雫石の武士だった生内という人も、このマナイタ淵に潜った経験があるというが、その後は決して淵に入らず「あそこは行くところではない」と語っていたという。やはり死に臨んでその時のこと家族に遺言したと伝えられている。
繋温泉は湯ノ舘山の山裾の湯の沢に開かれ、温泉の玄関口に『猫石』と呼ばれる石があります。昔は、巨大な猫の形をした大石が両側に立っていたことから、まねき猫とも呼ばれていました。 前九年の役の折、安倍貞任と八幡太郎義家の戦いは激戦をきわめ、義家は追われるように湯ノ山に兵を引きました。食糧に困り果てた義家は「木の実」、「山のけもの」を集めて食料にし、骨を山裾に投げ捨てました。投げ捨てられた骨は、一夜にして猫の形をした石になって義家の殺生(せっしょう)を戒めました。里人はこの大石を猫の霊が宿る「猫石」と呼んで赤飯を上げておまつりをしました。
今からおよそ900年前、源義家が安部貞任を厨川の冊に攻めた時陣を置いた湯ノ舘(現在のつなぎ温泉の南方の山麓)にお湯が湧いているのを見つけました。そのお湯で愛馬の傷を洗うときれいに治ったので自分も入ってみた所素晴らしい効能のある温泉だと分り感動しました。義家はこの時穴の開いた石に繋いでおいたのです。それ以来その石はつなぎ石と呼ばれ繋温泉の名前の由来になりました。(つなぎ温泉観光協会HPより)
御祭神 少彦名命例祭日 9月8日由緒 当神社は、康平(1057-1064)の昔、八幡太郎義家が厨川の柵に安倍一族を攻めたとき、愛馬の傷を癒したと伝えられるつなぎ温泉地内に鎮斎され、薬師神社とも称される。医師の神少彦名命を祀り、現在の佐藤敏家の先祖である安楽院が創建し、約200年の歴史を有する。温泉地内の氏神として深く尊崇され、難病治癒・安産・商売繁昌祈願のため、大衆に親しまれている由緒ある神社である。
古代の事は文獻の徴すべきものなく原ぬるに由なしと雖も文治年間厨川に工藤氏あり雫石に戸沢氏ありて榛莽の地を拓きしより交通も便利と也しならん其後慶長年間に南部利直公盛岡城に移住せられ同八年公放鷹の爲め此地に来り入浴せられたることあり帰城の際湯守某公を送りて湯坂(今の穴口)に至る公携ふ所の酒を出して湯守に飲ましむ立ちところに數升を傾く公名を賜ひて五升呑の安樂と云ふ当時公より賜ふ所の證文あり岩手郡滴石村の内湯守手作分八斗四升六合六勺遣はし候手作可致者也 慶長八年十月十八日 利直判 湯守安樂へ後三年の役義家此地去るに際し其臣某を留めて湯守とせしが湯守安樂は即ちその後裔にして今の温泉主佐藤昌次郎の祖先なり(以下略)
<筏奉行> 天然の美林と松、杉の良材を豊富に持ち“山千貫、川千貫”と慶長元(1596年)御明神の地頭であった「丹波」をして言わしめた雫石の山林資源は、竜川、雫石川を利用し容易に城下盛岡まで搬出することができ、さらに北上川を利用して石巻経由で江戸までも運ぶことができた。南部(盛岡)藩では早くからこの山林資源の保護を心掛けて木材の搬出を監視し、川下げの木材を確認するため筏奉行(いかだぶぎょう)を置いた。筏奉行は御山奉行よりも30年早い正保元(1644)年に置かれ、初めは「尾入筏奉行」として1人が配置になり、尾入の越前方を借りていた。次いで川に近い繋村萪内(志田内・しだない)寄りの禰宜屋敷市兵衛方を、元禄2(1689)年までは無料で、その後は五石を御免地としてとして借用していたが、元禄8(1695)年に現在の繋大橋の上流付近に御役屋を建て「尾入御番所」と称して藩政末期まで続いた。<極印と確認> 雫石通りの官山から、正式な手続きを経て伐採された木材には、それを証明する方法として木口に墨汁を使用した鉄印を打ちつけた。これを<極印(ごくいん)>と称した。この印形は通りによって、また樹種や用途によって異なるが、雫石通りでは亀甲に正の字が使用された。このように証明印を打ちつけた木材は筏に組まれ、雫石川を流送され、尾入御番所前で止められ、御山奉行の手によって確認され、確認書ともいうべき送切手(送り状)が発行された。この送切手により初めて正当な払い下げ木材と認められた。宝暦3(1753)年以来、安庭村の又六家が二代にわたってこの任に就いたことが知られている。
尾入の筏番所(雫石町史Ⅰ294、394p)
<藤倉神社>…繋字舘市に鎮座の繋村村社で【一言主命】を祀る。当初現在地の左上高台の窪地に建っていたが後年、現在地に遷座。明治3(1870)年に繋村村社に。旧繋村元御所の人々の氏神様でもあり参詣者も多かった。(岩手郡誌・昭和16年刊行より)
≪藤倉の桂≫ …御所村大字繋第25地割藤倉神社の近くに在る。根本は一株の如くなれども三株に分かれ、その大なるもの周囲30尺、次は各24尺、丈は何れも八、九、十尺と称されている。根本より清水湧出し付近の飲料に供されてゐる。地方における同樹種の巨木である。享保14(1729)年には丈7尺と舊記に見ゆる。(岩手郡誌より抜粋)
❁舘市(たてぢ)家……「舘市」は繋村地内の地名であり、現在の「石井家」の屋号でもあります。同家は平氏の末裔と伝えられる中世滴石城の城主戸沢氏の一族と伝え、応永27(1420)年、氏神として藤倉神社を創設しており、天正12(1584)年、戸沢氏が南部氏に破れ、秋田の仙北に逃れた際、当主の出雲が人質として三戸に送られ、戦いの終わった翌年、許されて繋村に帰され、武士を捨てて百姓になり、高橋を氏とし 舘市の久右エ門 を称して繋村の肝入を世襲としており、初代龍次・出雲・隆久・対馬・藤次・藤定・藤重と続くが、家訓として墓碑を立てないので以降は不明。 善治で明治を迎えるが、その子久米吉の長男安蔵の才を惜しんだ官選戸長市村矩継の配慮で石井姓を創設。安蔵(保蔵とも)は明治30年に繋村二代目村長を勤めた。御明神財産区の下げ戻しに力を尽くしたことは町民の知るところである。以降、藤次・一郎と続き、現当主は幸夫氏である。 繋村肝入 舘市家留書(とめがき)……今から230年程前に繋の舘市家(現石井家)の当主藤次が書いたもので、古い南部藩の様子から始まり、450年程前からの雫石の様子が詳しく書かれており、雫石の歴史を語るに欠くことのできない記録で、雫石歳代日記の原本と言われるものです。「留書」とは手控え、メモのことであり、特に決まりがなく、年月日、代官名、事件、関係者、結末等が書かれています。この「留書」は、まとまった記録としては町内で最も古い書きものです。 <上記2項目は、雫石町教育委員会 雫石町誌史料(第四集)繋村肝入舘市家留書【平成12年3月刊】の序文より転写>
<志田内与惣左エ門家>……現・瀬川定見家 繋村草分けの旧家で舘市久右エ門家に次ぐ家柄と言われる。肝入役(村長)や藩命による山守役を勤めた時代の古文書、古記録が多く保存され文化財県指定に値するもの多し。雫石城滅亡前夜の世に名高き剛勇の士「人質出雲」や大坂の陣に参加した志田内外記は、みなこの家の先祖という。<湯守別当佐藤刑部少家>……現・佐藤敏家 この家は羽黒派修験山伏で安楽院と号し、慶長8(1603)年、南部太守利直公から湯守役を命じられて以来、薬師堂別当を兼ねて今日まで温泉源泉主として連綿と続いている旧家である。また、仁王村に創建された岩鷲山別当寺の盛岡大勝寺(寺領111石5斗8升)を支配し、手作拝領地28石を得るなど破格の待遇を受けていた家柄である。<桝の宗兵衛家>……大坪五郎家 繋の湯には藩公をはじめ、高知衆とその奥方などが頻繁に来湯されたが、その都度いまの込みの湯上手に人相改めの桝形が置かれその役目をしていたのが万屋の桝の宗兵衛だった。この家の大坪慶光は初代西山村長を勤めた。<簾(す)おり善助家>……佐藤善助家 ことのほか繋の湯を好まれた歴代藩公をはじめ、家老、側室などが湯治に訪れた際には、込みの湯の端あたりに大きな簾(すだれ)を下げ、一般民衆の交通止めと覗き見防止に当たったといわれ、その役目をした家なのでこの屋号となった。<菅美濃部家>……菅茂安家 江戸詰めを終えて帰藩した藩主の目に田舎侍と映った藩士たちに活力を与えるために、上杉藩に請うて石1500石で招へいしたのが菅三兄弟と言われ、その長子の子孫である。本来は美濃部姓でああったが藩主美濃守にはばかり、菅と改姓した。高1500石は家老職級の俸禄であるが、藩では約束を破って高300石が給され、同行の弟は藩公が大旦那となっていた浄法寺天台寺別当に下ったともいう。<下茶屋・桐野家>……桐野勇家 桐野喜三治の父円知は御坊主。多年の勤功により御給人被召出二人扶持金二両被成下、御坊主頭相勤袴着用、帯刀御免藩公御装束御参詣の節は上下着して御側に供するが、不調法の義有之 身帯繋村に居住 湯守別当安樂聟也 当村に老死す(内史略・南旧秘事記 巻六)<助左エ門家>……高橋祐一家 この家は明治期に全盛となり、当時農工銀行から個人で借り入れて村役場に繋ぎ資金を融通するほどで、初代消防組頭(助治)、第6代御所村長(助三郎)などの要職のほか、本山登録の寺院総代を代々勤めている。<下の金兵衛家>……高橋清次郎家 舘市家の別家第1号と称されているので分家になった年代は古いと思われるが、記録には享保7(1722)年に舘市対馬より金左エ門宛てに持高10石7斗の田地に塗沢山林の一部を与えて分立させたとしている。この家も近世まで、繋村肝入役を交替でたびたび勤めてきた名家で近年まで組頭さんと呼ばれた清次郎は消防組頭を長く勤め、第11代村長となった。<金九郎家>……高橋金五郎家 繋村の肝入役は、舘市家、与惣左エ門家、金兵衛家がそれぞれ当番のようにして当たっていた。この家ではその際に本家(金兵衛)に代わって肝入役を勤めるなど才覚を持った家だった。民間信仰隠し念仏の鍵屋派研修会が昭和28年に開かれたが、当主金五郎が繋最後の出席者であった。<与左エ門家>……徳田正一家 高見三尺町の旧家で繋村掃部と称していた。本家は御所の川原掃部(徳田七郎兵衛家)で、大坂の陣にも参戦した名家である。<雫石半次郎家>……雫石辨三家 半次郎なる者、幼少の頃より才知に優れ神童とまで言われる程だった。手習いの師匠山伏正福院が上席家老奥瀬家に仕官を推薦し御給人となる。雫石通出身の故を以って雫石半次郎を名乗った士族なり。<瀬川正福院家>……瀬川昌孝家 南昌山正福院と号した羽黒派修験山伏の家柄で、金石文から民俗資料に至るまで数多くの貴重な文化遺産が現存している。御所神楽の司家でもあり、繋小学校初代校長もこの家の人。<禰宜屋敷市兵衛家>……高橋市左エ門家 藩政の中期から南部藩重臣奥瀬家領の肝入を代々勤めてきた旧家で、屋敷内の大宮明神社の禰宜(神官)だったのであろう。未公開の古文書類も多く、とりわけ興味を引くのは、秘記録とされる「繋村壬申戸籍書」である。<作之亟家>……瀬川昌行家 この家ははじめ尾入に住して瀬川右京といい、文久年間の1861年には西蔵坊と号した羽黒山伏の修験者がいた。<猿田甚六家>……瀬川一二家 猿田本家と呼ばれ、鹿妻穴堰を開削した釜津田甚六の配下の者との説もあるが、それ以前からの居住者とも考えられる。屋敷跡付近の発掘調査によれば鎌倉期から江戸時代にかけての墓壙(ぼこう)から人骨と副葬品が発見されたことが特徴となっている。<惣左エ門家>……大鷲倉橘家 大鷲本家を称し、県内の河童伝説にも名を連ねる旧家である。出自が興味深い。<佐膳坊左右衛四郎家>……藤平左右吉家 正福院配下も拒絶して独立独歩の修験者左膳坊は桧山佐膳とも呼ばれ、神出鬼没の術は世に恐れられるほどに有名になった。<尾入喜兵治家>……高橋勇家 尾入に帰農した藤平一族が、平和主義の証として先住豪族舘市家より分族を迎え、厚遇した家である。尾入温泉の発見は古くから知られていたが、発見者届は明治24年に当家の高橋喜惣治と公示されている。<尾入作右エ門家>……藤平作右エ門家 尾入藤平一統の総本家として知られ、鎌倉期の上閉伊領主阿曽沼氏の一族で、遠野綾織郷を領知していた領主一族なり、知識、技能を発揮すべく天正の頃、斯波氏に来援、次いで雫石城に軍師として招かれ、城内引水に成功、尾入堰、根堰用水と次々に成功し、戦雲急を告げるや新城の迷路舘を築城(野城)、雫石城以後は南部仕官を辞して尾入に帰農し、藤平姓を名乗った。その祖は綾織越前広行、広信父子である。 以上、抜粋。
通称 シバリ明神 祭神 大己貴命 例祭 9月6日 【由緒】 天喜・康平(1053~1064)のころ、源義家公が安倍貞任追討のため紫波郡から雫石盆地に入ろうと進軍を開始したが、郡境の「七日休」に来ると広いどろの木の林がものすごい風で揺れ動いている。義家公は大風をやり過ごすため大休止を命じた。しかし風はやまずそのまま七日間もこの地で休止した。そこでこの地を七日休みと名付けたと伝えられる。 風が収まったので進軍を再開した義家軍は、矢櫃川に沿って下り、引矢は櫃に入れ、槍は石突きをつけ狭い谷間を進んだ。谷が最も狭くなる所に戦勝を祈願して社を建て、「ここは狭い谷間で身を縛られるようだ」ということから<シバリの明神>と名付けたと伝えられる。 桂部落まで進軍して来た義家公は、戦闘開始とばかり櫃を下して引矢を出し、槍の石突きを捨てて戦いに臨んだ。空になった櫃を捨てた所が「矢櫃」、槍の石突きを捨てた前の沢を「つくも沢」と呼ぶようになった。矢櫃舘にいた賊将は、義家来ると聞き、矢を櫃に入れて川に流し、町場で待って拾って逃げたという。そこでその地を「町場」という。……雫石町教育委員会発行「心のふるさと」第八集 「雫石の寺社」より……
✿ 約五百年前に建立されたと言われている堀合神社。この地域を見守るお社として矢櫃を流れる矢櫃川と館の沢の合流点から少し離れた小高いところにあります。むかしは合流点のすぐそばにありましたが、およそ四十年前の砂防ダム建設により移設され現在地に建っています。(この記事に添えられた写真・右)1924(大正13)年旧9月3日撮影 堀合神社の「御釜」の写真 堀合神社の近くには、神社を建立した殿様が山と沢の地形を利用し館をつくったそうです。そこには、お酒をつぐお銚子に形がよく似ていることから銚子の滝と呼ばれる滝がありました。その下流にはとても深く美しい御釜が二つあり、雨乞いの神様の象徴として地域の人たちがとても大切にしていました。現在も続く堀合神社の秋のお祭りでは、当時の様子を思い出しながら地域の皆さんと語り合います。 砂防ダムにより御釜の姿は見えなくなりましたが、矢櫃にはまだまだ大切にしていかなければならない場所や自然がたくさんあります。それらを守っていくためにもごみ拾いをしたり、また当時のお祭りや御釜の話などを語り継いでいくことで後世に伝えていきたいと思います。
1・近世こもんじょ館〔れぽーと館〕(会長・工藤 利悦 氏)紫波町・阿部勲さん (前略)阿部勲さんは「60年以上前、この辺は非常に水が不足していた。そのために雨乞いに山に入った記憶がある。沢内川から七日休を越えて行った。それ以来、いつかもう一度、七日休に行ってみたいと思っていた」と調査の動機を明かした。 「雨乞いをした時には、確か堀合神社(雫石町の矢櫃)があって、そこにいたずらすると雨が降ると聞いて行って来た。朝早く家を出て、七日休まで来て下って堀合神社に到着し昼食を食べ、沼にいたずらをして帰った。それから繋温泉を目指して行き、その途中で雨がぽつぽつと降ってきたて、これならあしたは田の代かきができると喜んだことを覚えている」と、慢性的な水不足に神頼みした若いころの記憶をよみがえらせていた。
2・続・山王海(さんのうかい)物語( 立花廉二著・昭和61年発行)(前略)芦ヶ平の部落を矢櫃川沿いに下ると、林平(はやしたい・地元では「はやして」)に着く。その途中に堀合神社がある。(中略)地元の古老がいうには「女神様であり、雨乞いの神様」である。昭和の初期に山王海の演芸団一行17、8名が9月12日に祭典の実績がある。プログラム内容は不明だが、夜の公演だったという。前述した山道を通って、矢櫃部落に達したという。矢櫃部落には山王海から嫁いだ方があって、一夜の宿はその家に世話になったという。帰りは矢櫃から歩いて10キロも先の雫石駅から橋場線に乗り、盛岡駅で東北線に乗り換え、日詰駅で下車、徒歩で山王海へ帰ったという。一泊二日の強行軍小旅行であった。
雫石町役場の屋上より東南を見れば箱ヶ森、赤林山、毒ヶ森、万九郎森、南昌山、東根の山々が見える。この山々は紫波郡と岩手郡の境をなす連峰である。毒ヶ森だけは雫石の山である。この森についてこんな昔話が伝えられている。 その昔、紫波の南昌山の登山口の鷹平という所に家が三軒あった。この三軒の家の男の人達が、夏ともなればマダの皮を剝ぐために来て小屋掛けをして、泊まって仕事をするのであった。このマダの木の皮は、ゴザ、畳表、ムシロを織るときに使う縦糸にするためで、毎年この毒ヶ森付近に来て仕事をするので、山のことはよく覚えている人達であった。この毒ヶ森から流れ出る小沢に「毒沢」という沢がある。三人はこの小沢の入り口に小屋を掛けて仕事をしていた。 ある日のこと、一人が夕飯の支度をするため山から早く下りてきて、米を磨ぐため沢に行ったら何となんと見たこともない大きな岩魚が三匹泳いでいた。良いものが見つかった。一人一匹ずつ食べるのには都合がよいと思い、捕まえて串刺しにして焼いた。ご飯が出来上がる頃になったら良い匂いがしてきたので、我慢ができなくなり、「なに、俺の分だけ食ってやろう。」と思い、一匹食べたが、あまりうまくて、とても我慢ができなくなったので、三匹ともみんな食べてしまった。喉が渇いてきたので、沢に水を飲みに行った。あまり喉が渇くので沢に口を当てて水を飲み始めたが、とうとう沢の水を飲み干してしまった。 この時あとの二人が山から下りてきた。小屋にきてみたらご飯はできているが、人は見えない。不思議に思い大声を出して呼んだが、返事がないので、沢に下りてみた。何と驚いたことに、人間の姿ではない大蛇の姿となっていた。二人は大声で、「どうしてこんなざまになった。」と聞いたところ「こうこう、こういう訳だ。」と大蛇になった男が答えた。そして「俺は、こんな姿では家に帰れない。このまま雫石のお世話になっているからお前達だけで帰ってくれ。帰ったなら、わしの家にも知らせてくれ。」とのことだったので、仕方なく二人は家に戻った。 家に帰った二人は大蛇になった男の家に知らせたが家の人は驚いて、どんな姿になったのか一目見たいというので、案内して行って見たが、姿がみえなかったので、家に戻った。 大蛇になった男は、どうせこれから雫石のお世話になるのだからと、まず矢櫃川を下りてみたが、良い場所が見当たらなかった。そこで隣の九十九沢川の下流まで来て、ちょいと南西を見たらよさそうなところがあるので、見ているうちに体を滑らせて岩肌に背中をぶつけてしまった。起き上がって後ろを見たら岩肌に大蛇の形がついたので、これが俺の背中の形とすれば、こんなちっぽけな所に入る訳にはいかないと思い、また毒ヶ森に戻り、山の上から雫石を見下ろしたが良い場所が見当たらないので、雫石を諦め、当てもない西の方へ立ち去ったとのことである。この時の足跡(這った跡)がいまも残っているという。 毒ヶ森の毒沢より流れ出て、下流は舘ケ沢となって堀合神社の先で矢櫃川と落ち合っている大きな沢がある。この時から、舘ケ沢にいる魚を食うなとの言い伝えが残っているが、不思議なことに魚はおろか、お玉じゃくし一匹いない沢である。川魚を放したこともあるが未だカジカ一匹見た人がいない珍しい沢である。毒ヶ森から毒が流れているから魚は棲めないという人もいるが、毒物を発見した人もいない。魚のいない沢としては雫石はおろか、県内でも珍しい沢であろう。 大蛇の男が背中を岩にぶっつけた時に付いた形は、九十九沢公民館の向かいにある。今も形がはっきり見え、蛇型倉(じゃがたくら・倉は「崖」の意味。)の名前がついている。 ◆(著者 杉沢直次郎 氏(故人)=九十九沢・金四郎かまどの人・杉沢 武氏(故人)の父上)
◆ 九十九沢の地名由来… 雫石町史第一巻1281p「じゃ型くらと九十九沢」より (行く先々で追われ…)蛇の姿になって九十九沢の地に来た八郎太郎は、もしここに沢が百あったら、棲みかにしようと考えましたが、いくら数えても九十九しかないのであきらめました。八郎太郎が蛇の姿でうろうろしているのを見たこの地の守り神「墓どこ森の権現様」は「こんな化物がこの辺におられたら大変、みんなが困る。」と山の上から大きな岩を投げつけました。桂部落の田んぼの中の大きな岩は、その時の岩で、夫婦石と呼んでいます。九十九沢の山の上に見える蛇型くらはその時の八郎太郎の姿だといいます。
沼田神社は戸沢五郎の創建と伝えられているが、年代は不明である。祭神は「市岐島姫命」「宇迦御魂命」で、虚空蔵様、八幡様、毘沙門天(関注;弁財天の誤りか)を合祀している。弁財天は戸沢公の奥方を祀ったものという。南部実光と戦い、落城のとき稲籾童子を抱いて沼之中(関注;沼の平の誤りか)というところに身を沈めたと伝えられ、それより弁財天として祭っているということである。(後略)
――雫石の野中にあった弥十郎(徳田)家の裏に野菊の井戸という清水があってここで顔を洗うと美人になると言われていました。大昔、この地に「野菊」という美女があって、雫石城のお殿様に召されていました。お殿様は殊のほか寵愛していました。ある年城中で酒宴があった時、野菊は思わず粗相(おなら)をしてしまいました。殿様はたいそう腹を立て野菊を城中から追放してしまいました。野菊は里の野中に帰り小屋を建てて生活していましたが、その時すでに殿様の子供を身ごもっていました。間もなく男の子を生みました。それから10年ばかり経った頃です。お城の近くを「黄金のなる瓢箪の種はいらんかね」といって種物を売り歩く少年がありました。賢そうな気品のある少年です。城中でこの売り声を聞いた殿様は、その少年を城中に召し連れさせました。そして怒った顔で「でたらめを言ってはならん。本当に黄金の瓢箪は成るのか」と尋ねました。少年は恐れる色なく殿様を見つめ「はいっ、きっと成ります。ただ、一生に一度もおならをしない人が播かねば成りません。」と答えました。殿様は笑って「一生に一度もおならをしない者なんているはずがない。」と言いました。すると少年がすかさず「では、何故、私の母を殿様は城から追い出したのですか。」と言いました。この少年が自分の子供であることがわかった殿様は、野菊親子を再び城中に迎え入れたといいます。雫石の祝い唄に“雫石は名所どこ野菊の花は二度咲く”とあるのはこの話を歌ったものといいます。―― (雫石町史Ⅰより)
――「『史料がないから歴史がない』ということではない。歴史は世相を反映するし、伝承や伝説には歴史が込められているはずだ。これらと中央の史料などから得られる間接証拠を積み上げれば史実に迫ることができる。」――
児童「いまからおよそ850年前のことです。衡盛様のお父上は、平氏の中でも位の高い人だったそうですが戦に敗れて亡くなりました。幼い衡盛様は、お母様に連れられて、奥州平泉の藤原氏三代目の秀衡様のもとに身を寄せました。」児童「秀衡様は、衡盛様をたいそうかわいがり、自分の名前の一文字を与え、初代清衡の孫である紫波郡の樋爪(ひづめ)俊衡様のもとで金山の仕事につかせました。」児童「衡盛様はふだん志和稲荷社の裏の山を越えて雫石側の戸沢川に沿って下り、河口である戸沢の里を中継地に、滴石たんたんの山の中を通り、滝の上から奥羽の山を越えて秋田の鹿角の方まで足を延ばして各地の金山を行き来していたそうです。」児童「当時雫石盆地の岩手山南麓一帯の豪族だった樋山弾正殿(西暦807年の坂上田村麻呂将軍東征時、現地に残って同地の開発に当たった大宮人の末裔か?)が、衡盛様の活躍に目をとめ、自分の娘と結婚させ、滴石の戸沢に新しい館を建ててくれたのです。それが「戸沢氏のはじまり」だと教えてもらいました。兼盛「この後しばらくして、源頼朝殿が平泉を滅ぼし、藤原様の領土を自分が鎌倉から連れてきたご家来たちに分け与えました。」衡盛「幸いわしらは、義父の樋山殿の画策もあって、戸沢の庄をそのまま与えていただいた。頼朝様に逆らったわけでもなかったからのう。それにしても、村人たちもよく働き、戸沢での生活はとても楽しいものであった。」兼盛「父上が亡くなられてから、しばらくは平和な時期が続き、私も野中の里で<菊>という娘と出会い、結婚しました。とても幸せな日々でした。(いまも雫石には「野菊伝説」が語り継がれています。)しかし、隣の地頭工藤行光殿とのいさかいが多くなり、わたしたちは平泉藤原様の平和の教えを守り、戦を避け止むを得ず17人の家来とともにひとまず秋田に越えたのでした。あとに残した村の人たちのことを考えると、まさに断腸の思いでした。」衡盛「それにしても、秋田に越えてからのそなたとそれに続く戸沢家歴代の方々の活躍は目覚ましいものがあった。」児童「滴石の戸沢を後にした一行は、羽州、現在の秋田県仙北市の玉川・鳳仙岱(ほうせんたい)に落ち着き、その後上桧木内に入り旧西木村の戸沢に移ったとされています。ここでは、衡盛様の代からの砂金を採る技術を生かし、勢力を拡大。桧木内川沿いに下って門屋(かどや)城を築きました。その後、さらに下流の角館に進出、豊臣秀吉の信頼を得て所領を安堵されました。」
兼盛「私が戸沢を去るにあたって後の事を託し、この滴石に残ってくれた方々は、戸沢の一族であることを誇りに思いながら800年間、こうして立派に「雫石の戸沢」の名前を守り、沼田神社や雫石八幡宮を守り支えてきてくださった。実にあり難いことだ。ここに改めて厚く御礼を申し上げる。」
衡盛「今日は雫石での戸沢サミット。明治、大正、昭和を加えると、実に800年ぶりに戸沢家のご当主を、発祥の地にお迎えでき、わしはもう感激でいっぱいじゃ。」「何より、古里雫石にこの子らのように賢くたくましい、わが子孫たちが育っていることを実に喜ばしく思う。本当にうれしいことじゃのう。」
◆ 西安庭片子沢の県道の側に梵字一字だけの上部が斜めに欠けた石碑があります。中世に建立されたもので、町内で最も古いものと思われます。ある日のことです。代官所に勤める若い武士が急用で鶯宿に出かけることになりました。晩秋の夕暮れのことです。片子沢に化け物が出るという噂は聞いていましたが、彼は免許皆伝の刀の名手でしたから怖いと思いませんでした。 片子沢の近くに来ると、ヒタヒタと後をつける者がいます。振り返ってみると、青白い光の中に若い女の姿が見えたと思ったらパッと消えてしまいました。目の迷いかと思って一歩踏み出すと、供養碑の側に佇んでいる女の姿が青白い光の中にはっきりと見えます。狐狸のいたずらだろうと、腕に自信のある彼は抜く手も見せず切りつけました。カチリと音がして女の姿は消えてしまいました。 若侍が鶯宿に一泊して翌日帰る途中片子沢の供養碑をみると上が斜めに欠けていました。若侍は昨夜の化け物はこの石だったのかと思いました。その後若い女の出る話はなくなったと伝えられています。
◆ (片子沢の)道成寺塚と呼んでいるのは、二間四方位で高さは三尺足らずである。塚は砂利交じりの土丘で原型は方形であったと推定される。塚の上には二基の石碑があり、一方は頂部五寸ばかりを斜めに欠き、文字は全く消滅してないが人工を加えた石だと知れる。質は脆弱な安山岩であって頂部が欠けていることについては次に述べるような伝説がある。 一方の石碑は高さ三尺五寸位、幅一尺二~三寸、ふつうにみる梨割型である。文字は少しく剥落し欠けて読みづらいが右の如くであった。(左から二行目 送 はしんにゅうに未)
伝説を筋書き通り追ってみると、次のとおりである。
――昔、出羽の羽黒山から毎年毎年沢内街道を来て此の地方に勧進して歩く修験の若い僧があった。この美形の若い僧は安庭の豪家に宿泊するのが例になっていたが、或る年、此の家の愛娘から頻りと恋慕の情を打ち明けられて困ったが、それでは次に来た時に連れて帰ろうという事にして宥めすかして帰った。 其の翌年、件の若い僧は何気なくその家にたどり着いてみると、又、娘は恋慕の情に堪えなかったことを告げて迫ったので、此の度は同伴しようと約束したが、出家紗門の身で女を連れる事が出来ないので、密かにその家を遁れて立ち去った。 娘は後を追うて天沼に至り、南川の渡船場で船を頼んだが、件の僧はこれこれの事情だと言って船を寄こすことを固く止めて行ったので、如何に頼んでも渡してもらえず、憤怒のあまり、南川に飛び込み向岸に越え渡った。その時は最早、旅僧は遠く去った頃なので、娘は其の薄情を恨み悲しんで、片子沢の沼に身を投げて死んだのである。 其処で、安庭の長者は愛娘の果敢ない死を悼んで、沼のほとりに塚を築き、篤く葬って回向を怠らなかったのである。 しかし、其の後長者の家は跡絶えて、娘の霊を回向することが途絶えると怨霊が現れ始めた。或る夜の如きは、塚に若い娘が恨めしげに立っていたり、旅人は此の付近で若い娘に後をつけられたりした。…(ここで前出の「若い侍の話」が登場するが、重複するので省略する。) このように供養石が切られるという事件が起きたので、元禄十一(1698)年、里人たちは第二の石碑を建立して霊を回向・供養したという。其の後は途絶えて娘の霊は出ないと言っている。 現在、土地の所有者としてこの碑を守っているのは当該部落の旧家・高橋弥兵衛家である。同家は碑面に見える「弥助家」の分家である。――