〔もりおか物語(壹)-惣門かいわい- より抜粋〕
海沼 明治23(1890)年に鉄道が出来て、新山河岸(明治橋下流)に舟がほとんど来なくなった。しかし杉土手に筏はたくさん着いた。雫石の方から三人ずつ筏に乗って川を下り、杉土手の木場に着く。すると若い者が筏の「ふじづる」をほどいて岸に上げて、“ヒト盛り”“フタ盛”といって木を盛り上げる。春木と言って冬の燃料にする三尺五寸(1m余り)ぐらいのもあれば、また材木にする長いものもあった。たくさんの材木が運ばれてきたので、この木場には「外川」という大きな材木屋があって繁盛していた。現在の明治橋付近の川岸(鈴木製材所)のあたりだ。筏流しの人達は、ここで筏から上がると、あとは川原町あたりの茶屋ッコで酒飲んで、木半(きはん)という宿屋に泊まるか、あるいは日帰りで歩いて雫石へ帰って行った。川岸近くにはモッキリ屋も何軒かあって繁盛したものだった。腰かけて呑む飲み屋を「煮売り屋」といっていた。季節季節のものを煮て食わせるということだったと思う。
阿部 いま明治橋が架かっている所には材木や柾(まさ・屋根葺きに使う。)なども扱う木半(高橋半次郎)という宿屋があった。ここは雫石方面から流してくるユガダ(筏のこと)乗りがよく泊まったところであった。当時、明治橋、杉土手付近には、ノッツリと、川が狭くなるだけ筏が来たもんだ。筏には「材木筏」と「春木筏」とがあった。材木筏というのは、二間物の材木にハナグリという穴をあけて、隣から隣へと木を繋いだものだった。春木筏の方は、盛岡で燃料にする薪(たきぎ)を繋いだものだった。この薪は春の増水期に川を下して流したので“春木”といったもので、この春木を積み重ねておくところを“春木場”といった。このように雫石川を流れ下った筏は、杉土手の木場に着いて、木半の所で陸揚げされた。それでここに外川屋という大きな材木屋ができたわけです。
田中 私の兄は、明治から大正にかけて雫石から盛岡までの筏乗りをやっていた。一日かかって筏を組み、翌日は雫石川を下って、盛岡サ下がるのである。天気の良いときは、雫石から三時間かからず、二時間半ぐらいで杉土手まで着いたものだという。筏を操るのは、三人である。筏の先の方に乗るのは“鼻乗り”、真ん中には“中乗り”、筏の後の方に乗るのが“後乗り”である。鼻乗りは心得のある者、中乗りは新参者、後乗りは老練な者が務めた。先頭のものがカジ(舵)を取り、後乗りがそれに上手に合わせて流していく。急流は勇ましく下り、淀みに来ればタバコをふかしたり、歌をうたったりして悠々と流していった。
筏を流すときの櫂(かい)を“うちがい”という。杉土手に筏を付けると、木材事務所へ届ける。そして、“うちがい”を担いで、秋田街道を雫石まで歩いて帰るのである。盛岡でモッキリを一杯ひっかけて出掛ける。途中の仁佐瀬に茶屋ッコがあり、そこでも必ずモッキリをひかっけて、ワイワイ騒いで家に帰ったものだ。
筏乗りの手間賃は、兄の場合は一日五十銭だったかと思う。これは当時としては、良い手間賃だったと聞いている。米一升は十銭ぐらい。普通の日雇い賃金も十銭から十五銭ぐらい、田の草取りは米一升ぐらいだった。大工の賃金と筏流しの賃金とは、だいたい同じぐらいだったようである。だから筏師になることは、若い者にとっては自慢だったのではないか。なにしろ威勢の良い、目立つ職業だったから――。
特に雫石町内でも、安庭付近が盛んで、この辺はたいへん景気がよかった。半面には金回りがよいので、遊びを覚えてしまうものだから、カマド返し(破産)も多かった。
時々大きな“曲り家”が、太田や紫波だのサ売られていったこともあった。
筏を組むとき、木材と木材を繋ぎ合わせるには、昔は“ワクトウシ”といって、細長いマサカリ(ワクつぶしともいう)で木に穴をあけて繋ぎ合わせた。その後になって、鉄製の環(カン)ができた。木材は二間物は十三尺、一間物は七尺位、いずれも余分の長さを保つようにした。筏を杉土手の下流に付けるまでが筏師の仕事で、筏をほどいたり、川から揚げたりするのは、別の木場の人夫がやった。
春木というのは、旧暦二月、雪が“カタ雪”になって、道のないところでも自由に歩けるようになった頃、山に入って伐るのである。二尺八寸ぐらいに切って、棚積みにし、秋までそのままにしておく。秋の稲刈りが終わって、全山木の葉が落ちてしまったころ、それを山の沢にぶち込んで、谷川を流してきて、春木場に揚げるのである。このようにして御明神村の雫石川の春木場には、用材や棚薪が山のように積み上げられていた。
だから春木というのは二年越しの薪で、川を流してくるので全部樹皮がはがれている。よく乾燥していて、値段も高かった。こうして集められた春木を春木場で筏に組み、雫石川を下して盛岡に運んできて燃料としたのである。盛岡全部の燃料となるので、大変な量だった。
筏組みは、用材ものよりも春木の方が短いので、組むのが面倒なものだった。川流しの最中に急流の岩石などにぶっつかると、バラバラッとほどける。それを鳶の口などを使って大急ぎで引き寄せてまとめる。とても忙しくて、危ない仕事である。ボヤボヤしていると、川の中にドンブリ落ちてしまう。急流のところは竿で操り、川幅が広くなり流れがゆるやかになると“うちがい”で漕ぐ。こういうことで「筏流し」も楽な仕事でなかった。
以上、「もりおか物語」終了。