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 裸参り  会報第33号平成27年2月 

去る1月18日(日)午後、雫石町の冬の風物詩、復活第36回雫石町裸参りが行われました。今回は36人が参加し、伝統の装束「鉢巻き」「注注連縄を背負い」「さらしに横綱」「腰みの」に身を包み、「素足にわらじ」を履いた若者たちがさまざまな供物や祈願の幟を持って上町の三社座神社から下町の永昌寺まで約1.2㎞の道のりをおよそ2時間かけてゆっくりと祈願をしながら歩きました。 

✿ いまやすっかり雫石の冬の名物となったこの<裸参り>、歴史的にちょっと掘り下げてみてみましょう。まずこの行事の由来です。裸参りの沿道で、行事の由来やメンバーを記載した栞(しおり)が配られます。そこにはこう書かれていました。

【裸参りの由来】……昔、雫石の広養寺と臨済寺の間に高島屋という大きな酒屋があり、また、大正時代に入っては大久保、和川と二軒の酒屋があった。酒屋の蔵廻りの若者たちが健康を祈願しての行事で、毎年厳寒の12月14日に実施され、お酒を呑んでから、足をそろえてゆっくり歩き、永昌寺の「あみだ様」にお参りした。昭和7年に両酒屋が営業を止めてから中断し、昭和12~13年ごろに青年会で再興したが、再び中断した。その後、昭和55年に雫石町青年団体連絡協議会により再興され、今年で36回目となる。

 【考察】 裸参りの行事は盛岡市でも盛んであり、藩政時代からの歴史がある。盛岡では八幡宮や桜山神社のほか、お阿弥陀さんの教浄寺、酒買地蔵、虚空蔵堂、大日如来、浅草観音に参詣する。期日はまちまちだが教浄寺はお阿弥陀さんの旧 12 月 14 日(1 月 14 日)である。 

雫石の裸参りの参詣先である下町の永昌寺は曹洞宗であり御本尊は「釈迦牟尼仏」だが、本堂には「阿弥陀如来」も安置されている。阿弥陀如来は「四十八願掛けて厳しい修行をされた後に悟りを開いて如来になられた仏様」で日本では一番多く礼拝されている。この“厳しい修行”と厳寒の裸参りと結びつけたのであろうか。永昌寺東堂(先の住職)である藤本徳文和尚さんは「先代の捷紀和尚の話では、最初は和川酒屋の若衆たちが元気に任せて始めたそうで供物などもなく、衣装も下帯にさらしを巻く程度だったと言います。それにしても、三社座神社と当寺の阿弥陀如来の神仏両方への奉納祈願とはうまく考えましたね。これは雫石独特の風習です。旧来、阿弥陀如来の祭礼日(旧暦 12 月 14 日)を恒例としていましたが、現在はご時世に合わせて 1 月の第三日曜日に行われています。」と教えて下さった。

永昌寺に到着した裸参りの行列は本堂前で装束を外し、本堂に入り普段着に着替えて仏前でご住職から般若心経を唱えてもらい一年の無病息災、家門繁栄の祈祷を受ける。 

雫石町が平成 12 年に発行した「七ツ森払い下げ九十年史(121P)」に、次のような記載がある。――あみだ様の日にハダカ参りが行われ、当初は下久保の田中家(助左衛門)から出発し、クキタナイまで歩き、大久保、和川両酒屋で酒を振舞われたと言われる。―― 果たして七ツ森の生森山ふもとを流れるクキタナイ(川)まで歩いたのは何の目的であったのか。本文の年代は不明だが明治3年の廃仏棄釈まで生森山頂に「生森子安地蔵尊」があったことを考えるとその地蔵尊にも参詣(遥拝)して願を掛けた時代があったのだろう。その子安地蔵尊は現在永昌寺境内にある。 
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藩政時代、大いに繁盛した酒造業高嶋屋は、営業不振により明治 10 年頃廃業し盛岡に移った。裸参りを支えた雫石の大久保酒屋(銘酒「鶴正宗」で財をなした。)と和川酒屋も昭和7(1932)年の銀行パニックで岩手・盛岡両銀行の雫石支店閉鎖とともに営業が止まった。以降80年余、 雫石には酒造業はない。されど往時の雫石人の心意気を今に伝える“裸参り”は実に頼もしい。