仰ぎ見て立つ名木桜「七ツ田の弘法桜」と呼ばれる巨樹である。
伝説によれば、弘法大師(774~835・空海のこと。真言宗の開祖)が諸国行脚の途中この地で休まれた時、持っていた杖を挿したのが根付いたものという。また別に大師を篤く信じていた巡礼の一人が、吉野から持参した桜の杖をこの地に突き立てたまま立ち去ったものが根付いて成長したという言い伝え、さらには、大師を信仰する老婆がこの桜の下で雨風を厭わず観音経読経の日課を一年あまり続けたところ、不自由な脚の病気が治ったという言い伝えがある。この老婆は地域の寄付を募りお堂を建立し「弘野堂」と名付けたという。
地元のもう一つの呼び名「くせぇぁざくら」は、盛岡地方のイヌザクラの方言で、葉の形が似ていることから混同したものと考えられる。【この項「岩手の巨樹・巨木」から抜粋】
参考 ぐぜい 【弘誓】仏教用語。仏・菩薩の、弘く衆生を救おうとする願いとその誓い。誓願のこと。「くせぇぁ ざくら」はこの〔ぐぜい 〕が転訛したものではないかと思われる。
弘法桜のある「(西山)野中行政区」は、昭和42年度から他に先駆けて<教育振興運動>に取り組んできたことで知られる。その活動25周年を記念して、平成5(1993)年2月に1冊の記録誌が制作された。<ふるさと野中…野中教育振興会25周年記念写真集>である。
今回の郷土史教室の参考資料として、その写真の中から弘法桜の脇に立っていた弘法様の大師堂(戦前のもの)、さらに道路脇の道標を兼ねた「庚申塔」の写真と説明文を引用・複写してご紹介する。 村の石碑を訪ねて 庚申塔(こうしんとう)
野中部落の東の村外れ、昔は追分といわれ、旧道、長山道、新山道の交差点である桜沼弘法堂の古木の下にひっそりと建っている三基の庚申塔がある。
庚申塔は古来、平安時代の宮中の信仰行事の一つでもあったものが、次第に民間信仰と化して普及したものであり、そもそもは中国の道教の思想が日本に入って宮中行事になったものである。
庚申塔を部落の入り口に建立し、悪病、その他の災いが部落に入らぬと信じられ講中をつくって信仰を深めていったのである。また、「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿思想となり、村人の永久の幸福を願って建立されたものである。碑文は下記のとおりである。
左 右岩手山道 庚申五穀成就敬白 安永四年 左岩井花道 |
中央 庚申塔九月大吉祥 文化十三年 |
右 五 穀 奉納庚申塔 寛政十三年 成 就 |
安永4年 1775年
文化13年 1816年
寛政13年 1801年
左の写真は、現在ある『桜沼大師堂』の以前の「大師堂」で昭和16年に写された写真です。(41ページ)場所は現在とほぼ同じ場所ですので廻りにたくさんの木が生い茂っていた当時が伺えます。当時の大師堂は現在よりもかなり大きなもので、屋根は杉皮で葺かれていました。(左側に見えるのが「弘法桜」です。)
現在の大師堂は、周辺の方々の寄付により昭和41年9月21日に完成したものなそうです。
長山の夫婦石(めおといし)
町内長山にある県営屋内温水プールの東側の林の中に、黒褐色の大きな石が二つ寄り添うように並んでいる。これが長山の夫婦石である。かつての地割字名では「長山第48地割字夫婦石」である。通称「アルペン道路」の沿線で、七ツ田の「弘法桜」と「岩手中央森林組合製材工場」のほぼ中間点に位置する。かつては岩手山への参詣道からも見える位置にあり、通行の人々の目印にもなっていたものと思われる。
この夫婦石には悲恋の伝説があり、雫石町史Ⅰに次のように掲載されている。
✿ 大字長山高八卦部落の奥地に大小二つの大きな石が立っています。大昔田村麻呂将軍が岩手山の賊退治に来た時、家来の好丸をこの地に残して住民の指導にあたらせました。若い好丸はさびしかったのでしょう、部落の少女と懇ろになりました。数年後好丸は将軍の命によって都に帰らなければならなくなりました。二人は部落の奥に入って泣き別れしているうちに石になってしまいました。この石を夫婦石と云って、この地の字名となりました。
✿この石については江戸時代の文献「雫石通 細見路方記 上」(平成10年雫石町教育委員会が「心のふるさと」第11集として新たに発刊)に次のように取り上げられている。
長山の夫婦石 市中の北 長山の東 黒石野の内に
夫婦石と言う 二つ並びし大石あり
むつましき 中にも咲くや 鬼あざみ 嵐戸

郷土史家の田中喜多美氏は資料「旅と伝説」の中でこの夫婦石も紹介している。その内容は町史とほぼ同じであるが、この石は別名「カラト石」と呼ぶこと、部落の少女は「この部落の長者某の娘お糸」としている。
「夫婦石」はほかに、町内矢櫃(やびつ・町場寄り)の県道沿いにもある。この夫婦石は、八郎太郎の乱暴狼藉を懲らしめるために、権現様が投げつけた石だとしている。
※上記からは、岩手山噴火の噴石を連想させるが、小岩井山地における他の大石の例と同様、数万年前の岩手山の山体崩壊による岩屑なだれによって運ばれてきたものではないかとの推察もある。
〔前出の江戸時代の文献「雫石通 細見路方記 上」に次のような記述もある〕
此長山 黒石野 高根野にかけて 大覆盆子(いちご)原也
此所より つみとりて城下へ 売り出す也
いちご原 二里四方もあるべし 雫石の名産也
まっしぐら 野末白雨ふる いちご哉 嵐戸
(長山・行政区は「極楽野」)
雫石町長山(51地割)頭無野(かしらなしの)60番地に所在する。正式には「岩手山神社遥拝所」である。通称は「新山(しんざん)」という。
807(大同2)年、坂上田村麻呂が創建したと「南部叢書(なんぶそうしょ)」にある。
時代がくだって1189年、工藤小次郎行光が頼朝から岩手山神社の別当を拝命したとされる。また、藩政時代に南部藩はこの神社を岩手山信仰の拠点となる「地方総鎮守社」として庇護した。岩手山を巌(岩)鷲山(がんじゅさん)と呼び、山頂付近を聖地として崇め、女人禁制の岩鷲大権現として祀ったのである。慶長8(1603)年、木村円蔵院は南部利直公より、滴石口(御神坂口)の別当を拝命した。【雫石町史より】
その後、延宝2(1624)年「重信公新山堂再興す。」(雫石歳代日記)。
宝暦年間(1751~1763)頃は三間四方の御宮であった。文政5(1822)年地元民(氏子)が新山堂を再興する。昭和60年全面改築。平成16年改築。
由緒 <雫石町教育委員会刊「雫石の寺社」より>
大同二(807)年、田村麻呂創建と南部叢書に記されてある。坂上田村麻呂将軍が、岩手山にたてこもる赤頭の「高丸」を討つため御陣屋を設けた所と伝えられている。岩手山は年間を通して霧に閉ざされることが多かったため別名「霧山嶽(きりやまだけ)」とも呼ばれた。
慶長八(1603)年、木村円蔵院(在雫石)は、南部利直公より岩手山西口の別当を命ぜられ四十四石五斗一升を賜った。
歳代日記に「延宝二年南部重直公、新山堂を再興す。」とある。
「文政五年雫石御中惣勧化にて新山堂再興す。世話人長山村肝入嘉右ヱ門ほか重作、弥兵ヱ、九兵ヱ、篠川原久右ヱ門、御社領肝入八兵ヱ」の記事がある。
昭和六十(1985)年本殿拝殿休憩所の全面改築を行った。
岩手山神社の祭典には円蔵院様が藩公名代として行列をそろえ、新山堂に参詣した。行列道具の一部が林崎の高田家にある。神代文字の額が神社に奉納されている。
◆ 岩手山信仰
有史以来、たびたび噴火してきた岩手山。その荒らぶる姿ゆえに人々は霊力を感じ、神の山として岩手山を信仰するようになりました。かつて信仰登山のために開かれた東の柳沢口は柳沢ルートとして、南の雫石口は御神坂ルートとして現在も使われています。ほかに北口として旧西根町・平舘口に上坊登山口があります。
坂上田村麻呂が地域の鎮(しず)めとして社を創建大同2(807)年、坂上田村麻呂がみちのくの総鎮守として祀ったのが岩手山信仰の始まりとされています。しかし、それ以前のはるか昔から、山麓の人々は霊山として礼拝していたようです。源頼朝の挙兵(1180年)から87年間の武家記録である史書「吾妻鏡」によれば、厨川城主であった工藤氏は岩手山の祭典に奉仕してきた家柄と伝えられています。時代は下って寛永10(1633)年、南部藩主となった重直公は岩鷲山大権現の別当寺となった大勝寺を創建。修験者によって盛岡総領鎮守の「岩鷲山大権現」として祀られるようになりました。
江戸時代の岩手山の参拝登山の正式な登山口は、東の柳沢口(柳沢ルート)、南の雫石口(御神坂ルート)、北の平館口(上坊ルート)の三つ。各口には岩鷲山を山号とする新山堂がありました。その祭日にはだれでも参詣でき、奥宮である頂上は女人禁制でした。頂上参拝は山伏によって山開きがあってから、男子だけが許されていたのです。
参拝登山は「おやまがけ」と呼ばれました。白衣に金剛杖を持ち、六根清浄を唱えながら暗いうちから登り、日の出を礼拝するなどのしきたりがありました。遠くから拝む「遥拝所(ようはいじょ)」である新山堂からは<御守り札>、御山(おやま)の奥宮からは<這い松の枝>、<薬草(当帰・とうき)>、<硫黄(いおう)>を頂戴して帰った。御札は家庭の神棚に供え、這い松の枝を田の水口(みなくち)や苗代(なわしろ)、また、畑や麻畑の入り口に立てておくと、巖鷲山大権現様の守護で五穀豊穣(ごこくほうじょう)がもたらされると信じていた。これらは「お山参詣」の出来なかった隣家や親戚にも配った。まさに農民生活に密着した信仰だった。
未婚男子は概ね15歳になって、岩手山に登れば一人前の男になったものとされることから、“お山参詣(おやまがけ)”をした。江戸時代以降は登拝者も増え、岩手山登拝や代参(代理人をたのんで拝んでもらう)を記念して、参詣者あるいは集落の人々による“講中(こうちゅう)”によって“岩手山”や“巖鷲山”と刻んだ石碑が、それぞれの地に建てられた。町内にも何基かある。岩手山の頂上には、本宮(ほんぐう)としての奥宮の御室(「おむろ」とも、また「みむろ」ともいう)があり、その手前には三十三観音の石像が盛岡講中(城下の商人などの奇特な人びと)によって建てられている。<右は昭和初期富士登山講中の写真>
山頂奥宮の参拝後は守札、ハイマツ、硫黄、薬草を持ち帰り、五穀豊穣と無病息災を祈願しました。このおやまがけは、南部藩では藩主の名のもとに行う「三十三騎詣り」として藩随一の祭礼行事となり、幕末まで大々的に執り行われました。
明治2年、岩鷲山大権現は「岩手山神社」と改められて、各登山口に神社が造られました。岩手山頂(妙高岳)の東に岩手山神社奥宮があり、いまでも頂上にたどりついた登山客の多くはこの奥宮への礼拝を忘れません。
正一位巖鷲山権現
貞享三(1686)年の大噴火により、巖鷲山へ神位を与えることになり、京都吉田家より「正一位巌鷲山権現」との宣旨(せんじ)があり、同年10月3日に盛岡に達せられた。
それで、盛岡の大勝寺を当山の別当として、寺領二百石を賜り、柳沢付近を新田に願い上げ、その百姓を当山の用とした。
また、巖鷲山の本宮を「本山」と号し、新たに遥拝所を建立して「新山堂(しんざんどう)」と称した。 【「滝沢村の歴史」から引用】
✿ この岩手山神社には深夜や早朝に登山する人のための長床(ながとこ)もあった。 現在は再建されている。参詣者はここの湧水で口をすすいで身を清め、杖をつき、祈祷詞を唱えながら登った。
長床(ながとこ) -神社建築の一つ。
本殿の前方にたつ細長い建物で,拝殿と明確に区別されていない例もあるが、長床は熊野系の神社に多くみられ,単なる拝殿ではなく,修験者,行人(ぎようにん)ら長床衆に一時の宿泊・参籠の場を提供する。また山形県庄内地方では部屋に区切られ,いろりがあり,宮座や氏子の集合場所にあてられて,膳,椀,鍋釜などの格納設備をもつものが多い。長床の名称で重要文化財に指定されている建物に,福島県喜多方市の熊野神社長床(鎌倉時代),宮城県仙台市の大崎八幡神社長床(江戸時代)などがある。
◆ 御山参詣をする者は山に登り始めれば往時は一同揃って祈祷の詞を述べたものである。中には南無阿弥佗仏を唱えるものもあり、登山中所々拝礼をして唱える祈祷の詞もある。雫石口かからの参詣者の祈祷詞に次のようなものがある。
南方・雫石口の祈祷詞
(途中で)
南無帰命頂礼、懺悔懺悔
六根罪消 お注連は八大
金剛童子の一時礼拝
(御本社で)
南無岩手山大権現 之め のごう御峯は三十六童子
御宮本社は三社の権現
田村明神 能気之皇子
一時に御本尊
ワラハバキ一時礼拝
(帰路)
南無帰命頂礼、懺悔懺悔
六根罪消 お注連は八大
金剛童子の早池峰権現
一時礼拝
(また、傍線のところを「姫神権現」と読み替えて唱えたりしている)
懺悔…「さんげ」と唱える
六根とは、五感と、それに加え第六感とも言える意識の根幹である眼根(視覚)、耳根(聴覚)、鼻根(嗅覚)、舌根(味覚)、身根(触覚)、意根(意識)
※ お山参詣(おやまがけ)とお天気
かつて、岩手山南口(雫石・御神坂口)からお山がけする人々は「岩手山の中腹に雲が横に棚引けば『お山、帯した雨が降る』と言い、頂上近くにかかれば『お山、鉢巻きした天気になる。』と言い、岩手山がはっきり近くに見えると『お山近く見える、荒れ日が来るぞ』と言っていた。また岩手山に三度積雪があれば、次は里まで来る、と信じていた。」そうである。(田中喜多美著・山村民俗誌より)
昔の人々はこのように山や雲の状態や動きから天気を予想し、日々の暮らしや山仕事、農作業に対応してきました。これを「観天望気(かんてんぼうき)」と言い、格言やことわざの形で全国いたるところに伝えられてきました。
※湧水……境内には「神山秘水」と呼ばれる湧水がある。
年中水量が豊富であるうえ、雑菌がほぼ皆無ということで、水汲みに訪れる人が跡を絶たない、2015年夏から湧水の水樋が二口になって喜ばれている。
右の写真は、盛岡市本町通りにある「岩手山神社遥拝所」入り口の「巌鷲山」の石碑。
岩手山神社の夫婦杉
≪創建1200年の神社の境内で仲睦まじく≫
・この「夫婦杉」は町内有数の歴史と伝統ある神社、岩手山神社の御神木である。
・南側(左)の杉については、雫石神社の杉(平成6年度・町天然記念物指定)に匹敵する大きさ(太さ・高さ等)といえる。北側の杉の大きさは南側のものより一回り小さいものの、それが夫婦杉たる由縁となっているものと推測する。
樹種 スギ
樹齢 400年以上
指定 町天然記念物 (2012・3・1)
高さ 南(24m) 北(26m)
目通り周囲 南(523cm) 北(408cm)
・樹齢については、直接測定、推測できる古文書などの史料がなく、樹勢と樹齢の相関関係も示されなかったため、正確な数値は算定することはできなかったが、歴史的背景や聞き取り調査から推定するに少なくとも400年以上あることは確実であると判断される。
✿
・岩手山神社そのものは、諸記録によると大同2(807)年、坂上田村麻呂創建と伝えられている。新山堂(遥拝所)は、古文書によると延宝2(1674)年に再建されたとあることから、それ以前から存在していたことは確実である。〔雫石町文化財保護審議委員会・天然記念物諮問会議資料より〕