小岩井農場創業に反対した農民 会報第35号(27.6.3)

雫石町史Ⅰからの資料提供
 今や民間総合農場として日本一の規模を誇り、雫石町の自 慢の一つである小岩井農場。明治22(1889)年6月、当時の 鉄道局長(翌年に鉄道庁長官)であった井上勝が岩手山南麓の広漠な原野に牧畜業創業を企図した際、計画地周辺の農民たちから“反対”の大合唱が起こり、一時騒然となったことをご存じでしたか。雫石町史Ⅰ〔昭和 54 年・雫石町、同教教委刊〕の 850 ページに当時の経緯が掲載されています。以下、その一部を紹介します。

 ◆ 小岩井農場の創設は明治 24 年 1 月のことである。国有鉄道盛岡工場七十年史によ れば――、井上勝が鉄道工事視察のために岩手県に来たのは、明治 21 年 6 月 13 日で、人 力車で一関から盛岡に入り、歓迎の会合に臨んだ後、時の岩手県知事石井省一郎に案内さ れて網張温泉に休養した。その際、井上は広漠たる岩手山の裾野の景観に打たれて、同行 の知事を顧みて、「自分はこれまで、鉄道開発のために多くの美田良圃を潰したが、このよ うな荒蕪地を開墾して、せめてその埋め合わせをしたいものだ。」との感懐をもらした。
 その後ある宴席で、日本鉄道会社の副社長であった小野義真にこのことを語り、同席の岩崎彌之助に出資援助を求めたところ、岩崎が即座にその出資を約したのが農場創成の発端であるというのである。
 実はこの土地は官有地であって近隣 11 ヵ村の入会秣(まぐさ)刈地で、農家三千戸の生命線ともいうべき重要性を持っていた。井上勝が、農場用地として南岩手郡西山村、滝沢村、雫石村にわたる官有地 3,622 町歩の借用を岩手県に出願したのは明治 22 年 7 月のこと。同年同月刊行の農界叢書第 2 号に次の記事が載っている。

 ――岩手県南岩手郡長山村より雫石村に連なる一大原野あり。元来近傍 11 カ村、三千余戸 の村民が秣場と頼んで生業を営む。先年末同県知事石井省一郎、鉄道局長井上勝の両氏がこの原野に牧畜業を起さんとの企てあり、これがため関係村民の苦情あり…今尚紛糾中にて人 民の騒ぎ一方ならず、県官、郡吏両三名出張して各村に説諭す。この原野は村民のためには 命の綱なれば、もしこれを引き上げらるることありては忽ち稼業に差し支うるを以って、迚 (とても)この説諭に服すること出来がたく、之がため毎日数百人集会を催し(中略)農事を 棄てて人心恟々たりと。――

 これに対する井上勝の対応は素早く、地元三ヵ村の村長らを 立会人に「開発が及ぶまで秣刈りを無償で認める」との示談を成立させた。また小岩井農場沿革史と題した未刊の稿本の「創業の由来」には、次のように書かれている。
――井上勝が、鉄道建設のために失った 美田良圃の償いとしてこの土地の開墾を思い立ったことを述べ、 さらにこの地方の農家が一般に貧困であるのは適当な副業を持たないことに原因しているからこれに養蚕を授けて副業とする ことが適切であるとし,「従って、農場の事業は桑園を主とし、その他櫨漆等を栽培し、尚これが間作として馬鈴薯の栽培をもする」との計画がたてられた。――<注:農場管理部事務所前の県道沿いには今も桑の木が残る> 

 その後農場では実際そのように取り組んだが、桑園、養蚕事業は採算がとれず失敗。 明治 31(1898)年に打ち切られた。翌年明治32年からは岩崎久彌が経営者となり、「牧畜業主軸」の方針のもと、地元民を雇用しながら現在の一大発展に結びつけてきた。
 
 クニマスと田沢湖のこと 東幹夫 会報第44号(30.1.20)

 子どものころ、小学校高学年だったのか、それとも中学生になっていたのか、記憶が定かでないが、十和田湖のヒメマス卵放流を成功させた和井内貞行の映画を学校から町の劇 場(映画館を兼ねていた)へ揃って観に行ったことがある。主人公の貞行役は、ニヒルな 風貌と特徴的な台詞回しの大河内伝次郎だったと後で教えてもらった。琵琶湖のコアユ (陸封型アユ)を研究テーマにした院生の頃にも時々思い出す懐かしい映画だった。
 雫石へ移り住んでから12 年目を数えるが、その十和田湖や、日本一深い湖として知ら れ、ヒメマスに近いクニマスが棲んでいた田沢湖が家から車で 1 時間もかからない近距離 にあることを知ってうれしくなり、独り車で田沢湖 20 ㎞の湖岸を一周したことがある。 湖水の色の吸い込まれるような青さに魅了された。
 この 6 月 30 日、風邪薬を飲んで休んでいたところ、友人で魚類分類学者の中坊徹次氏が京都から新幹線に乗って雫石に下車し、家まで訪ねてくれた。7 月 1 日に田沢湖畔にオ ープンする「田沢湖クニマス未来館」での記念講演のためである。
 風邪のため彼の講演は聴けなかったが、「クニマス ―過去は未来への扉― 」(秋田県仙北市編 中坊徹次・三 浦久監修)と中坊著の小冊子「奇跡の魚クニマスについて」(富士河口湖町発行、および同 著英語版)を献本してもらった。早速読み、山梨県西湖でのクニマスの発見と「クニマス 里帰りプロジェクト」や田沢湖再生への展望について新しい知見を得ることができた。

 以下、そのポイントを要約しよう。 京都大学農学研究科の水産学研究室にいた中坊教授(現在名誉教授)がクニマスに興味 を抱いたのは、2003 年秋「田沢湖まぼろしの魚クニマス百科」の著者で、私も何度か研究 会などでお会いしたことのある、秋田県水産振興センター海洋資源部長の杉山秀樹さんが 京大に保管されている田沢湖産クニマス標本を見るため管理責任者の中坊氏を訪ねたとき、 「クニマス百科」を彼に献本し、それを読んだ中坊氏が田沢湖の深い湖底でのクニマスの 産卵に強く引き付けられたからである。さらに 2010 年 3 月、富士五湖の一つである山梨 県西湖で獲れた黒いマス 2 個体が中坊氏に届けられ、彼の分析の結果それらがヒメマスで はなくクニマスであることが明らかにされたのである。

 日本では、いや世界を広く見渡しても、田沢湖にしか生息していなかったクニマスが絶滅したのはいつ、そしてどうしてか? 1931(昭和 6)年玉川の水を田沢湖に導入して発電する計画は 漁民全員の同意を得ることができなかったが、そのころ東北地 方では冷害による凶作が続いており、食糧増産のための農業用 水確保と電力が必要とされていた。そのため田沢湖を貯水池と する発電所の建設と、玉川の酸性水と先達川を田沢湖に導水して酸性を薄めて仙北平野に引き込み、2,500 町歩を開墾して食 糧を増産する計画が国策として進められた。
 漁業補償交渉が 1938(昭和 13)年 8 月にまとまり、1940 年 1 月 19 日発電開 始、翌 20 日玉川酸性水が田沢湖に導水された。玉川酸性水は、 玉川上流の玉川温泉の大噴(おおぶけ)と呼ばれる源泉から pH1.2、98Cの温泉水が毎分 8.4 トン湧出し、魚の棲めない毒水と呼ばれた。導水後、田 沢湖の水位は大きく変動するようになり、水位低下によって湖岸が至る所で崩落した。水前pH6.3~6.7 であった湖水は導水後の 1942 年 4 月にはpH5.1~6.7 になり、1948 年 8 月の調査報告で東北大学の佐藤隆平氏は、「湖水はpH4.5~5.3 まで低下し、水深 120m に設置した底刺網ではクニマスは捕れず、クニマスは著しく減少したかあるいは絶滅に近 い状態にあるものと推察される」と報告している。
 いっぽうクニマスの人工増殖試験は 1907(明治 40)年から始まり、1927(昭和 2)年 には人工採卵や孵化放流が田沢湖で行われ、1930(昭和 5)年には他県(長野県野尻湖、 山梨県西湖・本栖湖、富山県(湖名不明)、滋賀県琵琶湖)への 数 10 万粒の分譲が継続され、クニマス探しが続けられた。ヒメ マス研究者の徳井利信氏は疋田豊彦氏との共著「本栖湖のハナマ ガリセッパリマスについて」を北海道さけ・ますふ化場研究報告 に書き(1964 年)、これら 2 尾のマスの本栖湖に移植されたクニ マスとの関係を考察した。田沢湖観光協会の佐藤清雄会長(当時) はクニマスを探すキャンペーンを 1995 年から始めたが、届けら れたマスはクニマスとは判定されず、1998 年キャンペーンを終了 した。

  2010 年 3 月西湖産の黒いマス 2 尾が中坊氏に届けられ(前述)、さらに同年同湖のワカ サギ漁の最終日に捕られた黒いマス 7 尾が中坊氏に届けられた。彼は 9 尾のマスの鰓耙数 と幽門垂数の組み合わせからクニマスと同定し、遺伝子分析からも裏付けられた。西湖には田沢湖に似た水温 4Cの湧水が深所に湧出する産卵場としての条件が存在することが明 らかにされている。
  2010 年 12 月西湖でのクニマス発見後、秋田県では「クニマス里帰りプロジェクト」を 立ち上げ、2013 年 3 月には田沢湖畔でクニマス稚魚の水槽展示が行われた。2017 年 7 月 14 日、第 22 回北浦史談会と滴石史談会の交歓会が仙北市で開催されて筆者も参加し、「田 沢湖クニマス未来館」の水槽で元気に泳ぐ 5 尾のクニマスの姿と行動を観察することがで きた。これらのクニマスは西湖から届けられたクニマスで、田沢湖にはまだクニマスはい ない。
 玉川酸性水対策として秋田県は 1972(昭和 47)年 から野外に積んでおいた石灰石に酸性水を散布し中和 させて渋黒川へ放流する方法をとったが充分な効果は 得られていない。一方国交省は中和処理施設を建設し 1989 年 10 月試 運転、1991 年から粒状石灰中和方式による本格的運転 を開始した。これによって以前は渋黒川へ直接流して いた玉川温泉水を中和処理し、大噴でpH1.1~1.3 の 酸性水をpH3.5 以上にして放流している。1970 年ころ にpH4.2 を示した田沢湖湖心は一時期pH5.8 まで改善 されたが、現在は玉川温泉水の水質変化等でpH5.2 程 度。農業用水を取水している玉川頭首工では基準のpH6.0 をクリアし、米の増産、土壌酸 性化の緩和、河川構造物の酸害の減少などの効果を上げているが、玉川導水前の状態に回 復するには程遠い水質環境である。電気分解による水質中性化実験が 2011 年から秋田県立 大曲農業高校生物工学部で始まり、500mlを中和するのに 3 時間かかっていたのが 2016 年には 1,000mlを 3 分間で中和できるようになったと報告されている。

 富士五湖の西湖に奇跡的に生き延びていたクニマスを田沢湖に迎え戻す営みにはまだ多 くの解決すべき課題が残されているが、英知を結集し乗り越えていきたいものである。
 

 「元御所」の地名はいつから使われた? 会報第34号平成27年4月

雫石町史Ⅰからの資料提供 (地名編3)
雫石町史(Ⅰ)からの情報提供として、会報第 32 号で「西山村の行政区割について」続く会報 33 号では「雫石村の行政区割について」を紹介しました。 今回は、御所村についてです。

皆さんの中には、“元御所”の地名を中世からの地名と思っている人が案外多いのではないでしょうか。<ここは、その昔、さる高貴な方が住んでいたことから「元御所」という名が付いた…>という昔話のイメージがあるのかもしれません。

しかし実際は、そうではありません。実は「元御所」の地名は明治 22 年に新たにできた たものなのです。そのあたりの経緯を「雫石町史Ⅰ」ほかの資料で見てみましょう。 

✿ 町史「第5編明治以降の雫石 第一章 近代雫石四ヵ村の行政・第 2 節明治中期以降の行政組織」 より(737p)… 

1・市町村制の実施 
(明治)政府は、明治 21 年に公布された大日本帝国憲法に基づいて、地方政治に自治体方式をとることとし、府県法、市町村法を改正して、住民の選出によって構成された議会に条例制定権や予算決算の議決権をもたせ、大幅な自治活動を認めることとした。翌 22 年 4 月 1 日より、改正された法によって運営されることになったが、従来の村単位では規模が小さく、自治活動には能力が及ばず、一村 300 戸以上を基準として合併を奨励することとなった。こうして、町の大きなところを「市」、商人民家など多く集まって小市街をなしているところは「町」(ちょう)、その他を村と称するようになった。

(一)市町村制実施以前の合併 
県は、市町村制の実施に先立って、同年 3 月 16 日、従前の村を合併分離することを 発表し、県内 642 ヵ村を 164 カ村に編成替えを行った。 
雫石十ヵ村は、この合併分離によって、雫石村、西山村、御明神村、御所村の四ヵ村 に編成替えとなったもので、雫石村は従前の区域のまま存続し、西根村と長山村が合併 し、村名は両村名から一字ずつ組み合わせて西山村と称し、上野村、橋場村、御明神村 の三ヵ村が合併して、その中で由緒ある地名の御明神を新しい村名に定め、安庭村(西 安庭村とも)、南畑村、鶯宿村、繋村の四ヵ村が一つになって、新しい村名を村内の旧 蹟である「御所の渡し」から採って、御所村と称することとなった。 (以下略) 

✿ 町教育委員会刊 <心のふるさと(第 10 集)雫石盆地の地名>より 

(13p)…第二節 近代の村 二 御所村 (前略)繋村、安庭村、南畑村、鶯宿村の合併に際し、諸議があったが繋村御所の徳 田七郎兵衛の発議により、御所の伝説と四ヵ村合所の意も含めて「御所村」と決定された。これにより、それまでの「御所集落」は、「元御所」に改められた。

明治時代の新村名の決め方、それぞれですね。安庭村ほか三ヵ村の新村名選択は“雅”です。「御所の渡し(川船)」は、天保時代の「雫石通り五絶の賦」にも入る景勝の地。
現在はダム湖に沈みましたが、由緒ある“御所”の地名を大切にした人々の心が偲ばれます。

 西安庭と東安庭があるわけは? 会報第19号平成25年1月

昨年11月、町立安庭小学校の藤沢校長先生から「江戸時代に雫石通のほか盛岡城下にも【安庭村】があり、紛らわしいため調整されて、雫石は「西安庭村」、盛岡は「東安庭村」に区別されたと聞くが、その経緯について知りたい」との問い合わせがあり、次のようにお答えしましたので、会員の皆さまも参考になさってください。 
明治初年まで盛岡、雫石の双方に阿庭(安庭)村がありましたが、明治 3 年の三陸会議において協定された「郡村規則」によって、それぞれ「東安庭村(現在・北上川に架かる南大橋の東側・ジョイス本店周辺)」と「西安庭村」とに区別され、同4年から実施されました。西安庭村の名称は明治 22 年に「御所村」となるまで続きました。

●なお、「三陸会議」とは次のようなものでした。(滝沢村誌より)
三陸地方(陸前・陸中・陸奧の三国で、現在の宮城・岩手・青森の三県をいう)には、明治二年に新しく藩県の創置されたものがあり、管内は互いに錯綜し施設の混乱も甚だしく、あるいは旧慣に従うものがあるかと思えば、あるいは新制を実施するもの等があり、民政の種々雑多なることは、実に無統制極まる状態であった。 
ここにおいて、民部省から指導官が来り臨み、涌谷町の登米県庁において四県(盛岡・胆沢・江刺・登米)、二藩(仙台・一関)の高官が参集して「三陸会議」が開催されることになった。会議は明治 3 年 11 月 13 日から 17 日まで続行されたが、その内容は左記の十六件であった。 すなわち、(1)明治4年からの検地を実施すること(2)来年から総検見を行うこと (3)年貢米を回漕する船のこと (4)石巻商社を三陸商社と改名すること (5)備荒倉を建てること (6)育子の法 (7)郡村の規則 (8)訴獄の規則 (9)出納の規則 【以下略】

 国道としての「秋田街道」  髙橋與右衛門 会報第18  号平成24 年1月

はじめに
現在、岩手県の県都盛岡市と秋田県の県都秋田市を 118.7 ㎞で結ぶ国道 46 号は、両県の県都を最短距離で結ぶ最重要の幹線道路であり、岩手県では国道4号と国道 45 号そして国道46 号の3路線が国によって直轄管理されている一般国道である。

この国道は、昭和 28 年 5 月 18 日二級国道 105 号秋田-盛岡線となり、次いで昭和 38 年4 月 1 日付けで一級国道 46 号に昇格して、翌、昭和 39 年 4 月 1 日付けで一般国道 46 号となり現在に至っている。

しかし、この道路が歴史上に登場するのは今から約 1,400 年も前のことであり、つい最近まで(筆者が子供の頃)は「秋田街道」と呼ぶのが一般的であったことは、昭和前期生まれの雫石町民であれば誰しも知っていることである。

以上のことを踏まえて、本小稿では、その、現在の国道 46 号が辿って来た数奇な運命について紹介してみよう。

Ⅰ 「街道」の始まり

道路には古くから「本街道」と「脇街道」が存在したことは、読者も聞いたことがあると思うが、この「街道」の歴史は意外と古く、『日本書紀』には5世紀代とも記載するが、この当時の道路は発掘調査でも確認されておらず、詳細が不明のため疑問視する考え方が強い。一般的には、中国から「都城制」と「律令制」の導入に合わせて租庸調が確立したことによる、とするのが一般的な考え方のようだ。実際的には、7世紀初頭頃に宮都が存在した飛鳥に向かう直線道路として、奈良盆地から直線的に飛鳥の都に南下する、現在に残る「上ツ道」、「中ツ道」、「下ツ道」の並行する3本の道路が最初であろう、とする考え方が有力である。古代の道路跡は全国的に発見例があり、官衙を中心とした条坊制(土地を一定の・面積で区画すること。奈良や京都の町並みも条坊制による区画)の実施が道路の設定に大きな役割を果たしたであろうことは容易に推測可能である。

西暦 646 年正月に出された「大化の改新」の詔(みことのり)で、駅伝制を布く旨の記述があり、これが契機となって直線的な道路が全国的に計画されたとする考えが強く、発掘調査によっても一部の地域であるが、発見例の報告がありこれを裏付けている。

特に、律令制の導入により、時の朝廷は国の出先機関である「国衙」や「郡衙」に代表される「官衙」の設置により、中央政府と地方出先機関を直結し租庸調としての年貢を輸送する必要性から、道路網の整備が必要だったと解釈することが出来る。

それでは、東北地方での道路整備はいつからかと言うことになるが、おそらく、仙台平野に「官衙」が設置された7世紀末以降であることは確実であろう。そして、岩手県となると西暦 802 年に「胆沢城」の創建、さらに盛岡市付近では西暦 803 年に「志波城」が創建された事が契機と考えることが出来る。それは、両城跡ともに表門が南(南大門と言う場合が多い)を向き(結果的に都を向いている) 大路と呼ぶ道路に繋がっており、この状況を証明しており、奈良・平安時代に全国的な道路網として如何ほど整備されたかの詳細は不明であるものの、租庸調の関係からも地方官衙から都に物資を輸送するためには道路網の整備が必要不可欠であったこともまた事実であろう。

古代の道路としては中央と太宰府を結ぶ山陽道と西海道の一部が大路、中央と東国を結ぶ東海道と東山道が中路、それ以外は小路とされていた。10 世紀前期の延喜式には、駅路(七道)毎に各駅名が記載されており大まかに復元することが出来る。しかし、その後急速に衰退して 10 世紀後期〜11 世紀初頭には、律令の衰退とともに駅伝制も駅路も廃絶したとされている。

Ⅱ 「秋田街道」はいつから

古代の東海道の終点は何処か定かでないが、古代に奥州街道も秋田街道も文言としては記録されておらず、現時点では全く不明である。しかし、現在の国道 46 号は往来筋として記録に残されており、次に歴史上に残る主要な記録について日順を追って記載しよう。

○寳龜 12 年(西暦 780 年)-『続日本紀』に国見峠・生保内峠の旧名「石沢道」の記載がある。
○文治5年(西暦 1189 年)-源頼朝が平泉攻めの時に、別働隊が出羽から国見峠を越えて志和の陣が丘に到達。 (雫石町史)
○建久5年(西暦 1194 年)-滴石郷の戸澤衡盛が、源頼朝から滴石荘の他に、出羽山本郡に 4,600町歩を拝領。このことは陸奥滴石荘と出羽山本郡は国見峠を挟みながらも一衣帯水であったことを示している。(戸澤系図)
○正平6年(西暦 1351 年)-南朝方の鎮守府将軍北畠顯信が滴石から国見峠を越えて多賀城を攻撃し、奪還に成功する。
○長禄2年(西暦 1465 年)-南部氏が峠を越えて横手の小野寺氏と比内の安藤氏連合軍を攻め、勝利を得ると言う(小野寺系図)
○天正 15 年(西暦 1603 年)-『奥羽栄慶軍記』に、南部氏の重臣北左衛門信愛が、加賀前田氏に赴くため産内山(国見峠の別称、おぼない山の意味)を超えたと記載。
○慶長8年(西暦 1603 年)-徳川幕府が諸国の大名に街道の整備と参勤交代を命ずる。
○慶長9年(西暦 1604 年)-南部藩でも幕府の命により藩内道路の里程を定め、一里塚を築く。
○寛永2年(西暦 1625 年)-この年から公儀御馬買が開始、秋田往来が頻繁となり本街道並に整備する。
○寛永7年(西暦 1630 年)-秋田往来に一里塚の設置はこの頃か。
○寛永 10 年(西暦 1633 年)-幕府巡検使の「分部左京亮」ら一行、滴石から国見峠を巡検し、秋田領と南部領の藩境を確定。
○慶応4年(西暦 1871 年)-戊辰戦争勃発。九条総督等一行が雫石から国見峠を越えて生保内に入る。
○明治8年(西暦 1875 年)-国見峠の改修工事に着手し、大久保利通により「仙岩峠」と改名される。

以上が現時点で辿れる主要な記録の内容である。

それでは、本題である「秋田街道(柴田氏の論文では雫石街道、雫石町ではつい最近までアギダケァンドと呼んだ)」が歴史上に何時登場するかが問題であるが、『続日本紀』の宝龜 12 年(西暦 780年)条に「石沢道」と記載されているのが「国見峠」、「生保内峠」に該当すると考えられており、今から約 1,200 年も前から峠として人馬の往来があり、陸奥から出羽に超える主要な道路言うなれば街道的な役割を果たしていたことは確実なようであり、その後も中世まで断片的ではあるが通行の記録があることは、既述のとおりである。 

江戸幕府は慶長 9 年(西暦 1604 年)に江戸の日本橋を起点として、東海道、奥州街道、中山道、甲州街道、日光街道の五路線を本街道として設定し、その他は脇街道とした。奥州街道は現在の国道4号の道筋とほぼ同じとされるが、当時は江戸から白河までが奥州街道であり、その以北、仙台までが仙台道、盛岡そして松前を経由して函館に至る道筋は、松前道として奥州街道の脇街道とされていた。秋田街道(雫石街道と同義)なる名前はまったく出てこない。

雫石地方で呼んだ「アギダケァンド」は標準語では秋田街道となるが、何時からの記憶なのであろうか。どうも、秋田街道の名称が定着するのは仙岩峠が開通した明治以降ではないだろうか。それまでは盛岡藩内は「雫石街道」や「秋田往来」、秋田藩内は「生保内街道」や「角館街道」・「南部道」などと呼ばれ一定していなかった可能性が強く、行き先や目的によってさまざまに呼んでいたのが正しいようである。

ただ、国道 46 号長山街道入り口分岐点の道標には「右 長山 左 秋田往来」と刻まれていることからすると、江戸時代には「秋田往来」と呼ぶのが一般的であったことを推測させる。

Ⅱ 街道の「格」と「規格」 

道路は律令の奈良・平安時代から本街道と脇街道の「格」があり、それによって道路幅の規格が定まっていた。奈良・平安時代の本街道では路幅が9〜12mで両側に 2〜4m の側溝が付くと決まっていたが、鎌倉時代になると狭くなり幅が約半分の6m位と言われている。室町時代の状況の詳細については不明であるが、前時代の制度を踏襲したものと推測されている。

16 世紀代になると甲州の武田信玄と織田信長が道路の規格統一に尽力したことが知られている。特にも織田信長は国内の道路網について本街道で約 6.5m、脇街道で約 4.5m、在所道(田舎道)で3mと三段階に分けた上で統一しようとしたとされている。

この道路筋に対して本格的に整備したのは徳川幕府で、既述したように江戸の日本橋を起点として東海道、奥州街道(奥州道中とも言った)、中山道、甲州街道、日光街道の五路線を本街道と設定し、それ以外は脇街道とした。そして、本街道には一里ごとに一里塚を設置したほか、一定区間ごとに宿場をもうけて往来の宿泊に便宜を図るように整備した。これらの本街道の管理は万治 2 年(西暦 1659 年)に専任の道中奉行をおき、幕府の直接的な管理に置かれた。

当時の奥州街道は江戸から白河までの区間であり、当初はその以北は脇街道とされたが、その後仙台までの区間を仙台道、その北を松前道と呼び、脇街道として各藩が整備管理した。

ましてや、慶長の時代に突如として成立した新都市盛岡城下と同じ状況の秋田城下を結ぶ道筋が、街道的な役割を担う明確な形で開削されたのは、おそらく、慶長以降(西暦 1600 年以降)であろうと推測される。勿論、古代や中世でも人馬の往来路として利用したと思うが、人馬の他に各種の物資も頻繁に運搬されると言う形での物流の基幹道路とは思えない。何故ならば、古代〜中世には陸奥では石巻で陸揚げした物資は北上川を川舟で運搬するのが主であったし、出羽でも状況は同じで、江戸時代の北前船の前身とも言える船運が古代から確立していた。

それでは、生保内峠越えの道筋が人馬の通行に何故頻繁に使用されたかというと、経済活動の道筋ではなく、戦役の際の兵士と資材を運搬する牛馬の通行を主とした道筋であろうか。 ところが、徳川幕府が成立すると戦役が無くなり、新都市盛岡への経済物資が北前船で土崎港に陸揚げされ、そこから陸路を通り生保内峠を越えた方が日数、費用とも得策であったことから、次第に羽州街道から角館街道に入り生保内峠を越えて雫石街道を通って盛岡に入る道筋が成立したと思えるのである。このことは、南部藩の荷物は野辺地港を使うようにとする藩のお触れ書きが、頻繁に出ていることからもこのことを示している。

この秋田往来の整備はどのようにして進められたか、いうことであるが、寛永2年(西暦 1625 年)に公儀御馬買が始まったことにより、人馬の通行量が多くなり道路の改修が余儀なくされたこと、さらに、寛永 10 年(西暦 1633 年)に幕府の巡検使「分部左京亮」が来訪し、秋田藩との藩境を検分して確定した事等が、さらに道路の改修を進める結果となったものであろう。

一里塚の設置は慶長9年(西暦 1604 年)に幕府から藩内の街道に各藩で設置するように、と言う命が出ており、その約 26 年後の寛永7年(西暦 1630 年)に秋田往来にも一里塚が設置されていることから、この時点で地方街道ではあるが脇街道並の管理・整備が進められ、一応その体裁が整ったものと言える。しかし、秋田往来の日常的な経費はその殆どを雫石代官所の管轄内の農民の負担で賄っていたことも、忘れてはならないことの一つだ。さらに、公事(くじ、)といった日常的な修復・整備作業時の人夫としても、地元の農民が駆り出され、維持・管理に努めたのである。

Ⅲ むすび

以上、概略的ではあるが、我々が日常的に活用している国道 46 号について、これまであまり語られることのなかった歴史的な部分について記して見た。

現在では、太平洋側と日本海側を結ぶ経済的に重要な肋骨路線として活用され、その役割を十二分に果たしていることは周知のことである。たとえ、高速自動車道網が完備されても、その網から漏れる地区が常に存在することを勘案すると、今後も幹線的な一般道路としてその重要な位置を占めていくことは確実であろう。

〖参考文献〗○雫石町教育委員会 『雫石街道の歴史』 昭和 42 年
○柴田慈幸 『新説・雫石街道(秋田往来の一里塚)』
○フリー百科事典ウイキペディア掲載『日本の道路年表』・『日本の古代道路』・『街道』・『五街道』・『奥州街道』・『国道 46 号』
○その他インターネット掲載記事の中から以下を参考にした。
 『古代道路の特徴と探し方』・『いわての街道』・『道路レポート国道 46 号旧国道』

 万田渡地名考 …双子地名二言語併用時代の名残… 大 村 昭 東  会報第18号平成24年1月

北浦稲荷神社一帯から雫石病院(現在は診療所)付近までは「万田渡」という字名ですが、どのような意味を持っているのでしょうか。その字地名と位置、場所の必然性の解読を試みました。

「万田渡」という地名は、「①万田+②渡」と二つの言葉に分解することができます。①の「万田(マンダ)」とは雫石盆地の先住民の言葉で「通る」又は「渡る」という意味です。②の「渡」は現日本語そのもので「わたる」と同一語です。いわば「万田渡」とは「渡る通る」と解釈、翻訳できます。 

では北浦稲荷一帯をなにが「通る渡る」ということなのか、ということですが、春分・秋分の日に太陽がこの上を通って来るということです。田口医院跡や北浦稲荷神社付近一帯は縄文遺跡の分布地で田口医院跡が所在する小日谷地には配石遺構(ストーンサークル)の遺物、遺跡が埋蔵していたようですが、この小日谷地遺跡のストーンサークルの真東が生森山で、春分・秋分の時に生森山の山頂から日が昇り、北浦稲荷神社の真上を渡って来て、上町の神明社と小日谷地のストーンサークルが春分ラインと秋分ライン上に位置しているということです。因みに、岩手山頂は生森山の真北に位置し、姫神山、早池峰山の位置も春夏秋冬に関係がありそうですが、小日谷地や万田渡の縄文遺跡、神明社がなぜその場所でなければならないのか、つまり場所の選定やカタチの設計には特定の方位が意識されて、春分や秋分、夏至や冬至の日の出、日の入りを知り、1年365日暦の役割をもっていたものと思われます。秋田県鹿角市に有名な大湯遺跡が所在しますが、その大湯の環状列石の北方2㎞の黒又山(クロマンタ)は左右対称の三角錐状で、その位置関係は夏至、冬至、春分、秋分の日の日の出、日の入りの方向が、雫石盆地の三角錐の生森、万田渡、神明社、小日谷地のストーンサークルと位置、条件がほとんど同一であり、黒又山のクロマンタ、特に「マンタ」という言葉から、「万田渡」の万田(マンタ)解読のヒントを得ました。ただし、黒又山(クロマンタ)の意味について、クロマンタ山の山麓の解説板はアイヌ語の「クルマクタキタダ」が転訛して「クロマンタ」になったらしいと説明しており、「大勢の人が集まって山を整形した」と解釈しているようです。

双子地名二言語併用時代の名残りというのは「マンダ(通る)渡」という地名のように言葉が違うのに意味が同じな地名を指すことのようで、二つの民族が混在するか、交替したような歴史を持つ土地にしかみられない現象です。雫石盆地にはそのような地名が何カ所か残っています。

 例えば大村地区の南川の支流を「尻合川(しりあわせがわ)」といい、その支流の上の方の沢を「コツトメ」といいますが、コツトメとは「川が尻を合わせる」という意味で、同じ川に同じ意味の二つの言葉が残っています。また、西根の篠崎に「斉内=さいない」という沢がありますが、「涸れた・石ころの・川」という先住民の言葉で、水が涸れた、水が無いという「弘法水無伝説」が民話として伝えられており、近くには「水無沢」があります。同じような民話が御明神の赤沢にも伝えられております。参考までに「赤沢=アカサ」というのは「アッカ・サツ」という先住民の言葉で「飲む・水・涸れる」という意味で、その近くに弘法大師が杖を地面に刺して穴をあけ清水を出したという湧水が今も残っていて、冷たい清水が湧いていますし、水無という名字の農家も存在しています。

雫石盆地のみならず、北東北三県の古代語は、今から一千年ほど前を下限として、急速に消えてなくなり、地名とか方言(例えば、スンズ、マンチョ、へっぺ)などの名残をとどめているようですが、特に「言葉の化石」といわれる地名に秘められたエミシ、縄文といった古代の人達の心に強くひかれるようになりました。特に「生森山」を中心に夏至、冬至、春分、秋分といった天の運行を観測し、暦を持っていたと思われますが、その知識の深さと自然と共生した縄文精神の豊かさが、きっと今に生きる私達の深層を成しているのではと感じたところです。

次の地名解読として、万田渡のすぐ北側を流れる川を「ガンジャガ(蟹沢川)」といいますが、なして「ガンジャガ」というのか解読に取り組む予定です。
 

 裸参り(その1)  会報第33号平成27年2月 

去る1月18日(日)午後、雫石町の冬の風物詩、復活第36回雫石町裸参りが行われました。今回は36人が参加し、伝統の装束「鉢巻き」「注注連縄を背負い」「さらしに横綱」「腰みの」に身を包み、「素足にわらじ」を履いた若者たちがさまざまな供物や祈願の幟を持って上町の三社座神社から下町の永昌寺まで約1.2㎞の道のりをおよそ2時間かけてゆっくりと祈願をしながら歩きました。 

✿ いまやすっかり雫石の冬の名物となったこの<裸参り>、歴史的にちょっと掘り下げてみてみましょう。まずこの行事の由来です。裸参りの沿道で、行事の由来やメンバーを記載した栞(しおり)が配られます。そこにはこう書かれていました。

【裸参りの由来】……昔、雫石の広養寺と臨済寺の間に高島屋という大きな酒屋があり、また、大正時代に入っては大久保、和川と二軒の酒屋があった。酒屋の蔵廻りの若者たちが健康を祈願しての行事で、毎年厳寒の12月14日に実施され、お酒を呑んでから、足をそろえてゆっくり歩き、永昌寺の「あみだ様」にお参りした。昭和7年に両酒屋が営業を止めてから中断し、昭和12~13年ごろに青年会で再興したが、再び中断した。その後、昭和55年に雫石町青年団体連絡協議会により再興され、今年で36回目となる。

 【考察】 裸参りの行事は盛岡市でも盛んであり、藩政時代からの歴史がある。盛岡では八幡宮や桜山神社のほか、お阿弥陀さんの教浄寺、酒買地蔵、虚空蔵堂、大日如来、浅草観音に参詣する。期日はまちまちだが教浄寺はお阿弥陀さんの旧 12 月 14 日(1 月 14 日)である。 

雫石の裸参りの参詣先である下町の永昌寺は曹洞宗であり御本尊は「釈迦牟尼仏」だが、本堂には「阿弥陀如来」も安置されている。阿弥陀如来は「四十八願掛けて厳しい修行をされた後に悟りを開いて如来になられた仏様」で日本では一番多く礼拝されている。この“厳しい修行”と厳寒の裸参りと結びつけたのであろうか。永昌寺東堂(先の住職)である藤本徳文和尚さんは「先代の捷紀和尚の話では、最初は和川酒屋の若衆たちが元気に任せて始めたそうで供物などもなく、衣装も下帯にさらしを巻く程度だったと言います。それにしても、三社座神社と当寺の阿弥陀如来の神仏両方への奉納祈願とはうまく考えましたね。これは雫石独特の風習です。旧来、阿弥陀如来の祭礼日(旧暦 12 月 14 日)を恒例としていましたが、現在はご時世に合わせて 1 月の第三日曜日に行われています。」と教えて下さった。

永昌寺に到着した裸参りの行列は本堂前で装束を外し、本堂に入り普段着に着替えて仏前でご住職から般若心経を唱えてもらい一年の無病息災、家門繁栄の祈祷を受ける。 

雫石町が平成 12 年に発行した「七ツ森払い下げ九十年史(121P)」に、次のような記載がある。――あみだ様の日にハダカ参りが行われ、当初は下久保の田中家(助左衛門)から出発し、クキタナイまで歩き、大久保、和川両酒屋で酒を振舞われたと言われる。―― 果たして七ツ森の生森山ふもとを流れるクキタナイ(川)まで歩いたのは何の目的であったのか。本文の年代は不明だが明治3年の廃仏棄釈まで生森山頂に「生森子安地蔵尊」があったことを考えるとその地蔵尊にも参詣(遥拝)して願を掛けた時代があったのだろう。その子安地蔵尊は現在永昌寺境内にある。 
◆ 
藩政時代、大いに繁盛した酒造業高嶋屋は、営業不振により明治 10 年頃廃業し盛岡に移った。裸参りを支えた雫石の大久保酒屋(銘酒「鶴正宗」で財をなした。)と和川酒屋も昭和7(1932)年の銀行パニックで岩手・盛岡両銀行の雫石支店閉鎖とともに営業が止まった。以降80年余、 雫石には酒造業はない。されど往時の雫石人の心意気を今に伝える“裸参り”は実に頼もしい。

 裸参り(その2)  会報第45号 平成31年1月

裸参り復活40年…新たな伝統への一歩
 
  「雫石裸参り」が昨年(平成30年)2月、町文化財保護審議会の答申を経て雫石町の無形民俗文化財に指定された。なお、同裸参りは、これまでは「雫石町裸参り」と称していたが、今回の指定を契機に「雫石裸参り」と改称された。藩政時代からの歴史があることをふまえて、「町」の一文字をとったものである。
 雫石の裸参りは藩政時代に始まり、幾度かの中断を経て昭和55年に町の青年団体によって再興されて以来毎年行われ、ことし1月20日(日)に復活40回目の歩行祈願を迎える。
 「裸参り」は寒中の“願掛け行事”として県内各地で行われているが、盛岡市内を中心に雫石町をはじめ周辺のいくつかの市町でも行われている。その形式は古典的でシンプルな「水垢離(みずごり)」型から、よく知られる「行進」型、「蘇民祭」型、さらには「水かけ」型などさまざまある。 盛岡周辺では行進型の裸参りが盛んで、藩政時代から行われてきたことが資料からうかがえる。由来は盛岡市内の場合二通りあるとされる。
 一つは、南部杜氏による酒造りの神事のひとつとして市内の松尾神社(現在の阿さ開酒造の北側)に参詣するものだ。松尾神社は本社が京都・嵐山にあり<亀の井>という湧水が有名な「松尾大社」だ。祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)という女神。南部杜氏の里を自認する旧石鳥谷町にも同じように松尾神社があり、かつては裸参りが行われていた。
 もう一つは、北山の教浄寺などに参詣する「阿弥陀如来」への願掛け信仰の裸参りである。
 
 雫石町に伝承される「裸参り」は、口承によれば藩政時代に町内にあった高嶋屋という造り酒屋の蔵回りの若い衆が新酒の出来と自身の健康を祈願して始めたとされることから、もともとは盛岡でいう前者の型であったものが、その後、「阿弥陀如来信仰」の要素が加わって、現在のような形式になったものと考えられる。

雫石の裸参りは他にない独特の形式
 今回の無形民俗文化財指定にあたって、「雫石の裸参り」には他地域の裸参り行事にはみられないいくつかの特色があることから<雫石独特の民俗行事>であると評価された。その第一点は、盛岡周辺の裸参りのほとんどが行進の出発地は宗教施設ではなく一般地であり、参詣先が神社か寺院のいずれかである中で、雫石の場合は出発地が「三社座神社(通称・お神明しんめいさん)」で参詣先が「永昌寺(通称・下寺しもてらさん)」という、いわゆる“神仏合せ拝む”形式であることだ。
 出発地の「三社座神社」は藩政時代の雫石の酒造業・高嶋屋が篤く信仰していたことが資料で知られている。一方参詣先は「曹洞宗・永昌寺」である。永昌寺の御本尊は「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)」であるが、なぜかご本尊と並んで「阿弥陀如来像」が安置されている。盛岡・教浄寺の裸参り祈願と同じだ。また一説には、同寺境内の「生森子安地蔵尊」も参詣の対象であったのではないかとも言われている。
 明治から大正年間の裸参りの様子を伝える記述が「七ツ森払下げ九十年史」(雫石町役場・平成12年12月発行)に次のように掲載されている。

――あみだ様の日にハダカ参りが行われ、当初は下久保の田中家(助左衛門)から出発し、クキタナイまで歩き、大久保、和川両酒屋で酒を振舞われたといわれる。―― 
 この文に書かれた年代ははっきりしないが、現在の行進経路とは別の裸参りが存在していたことがうかがわれる。「永昌寺」は出てこない。
 クキタナイ(生森山のふもとを流れる川・現在の細吉スタンド付近)まで歩いたのは生森頂上に明治3年まであった「生森子安地蔵尊」を麓から遥拝するためだったのではないだろうか。「同子安地蔵尊」は明治3年の神仏分離令により別当であった修験者円蔵院が還俗したことにより管理をする人がいなくなったため、永昌寺が自らの寺の境内に勧請(かんじょう)したとされている。かつて下町の旧雫石農協の場所にあった大久保酒屋、同じく中町のかつての大和お茶屋さんの場所(現在のさわやかトイレ付近)にあった和川酒屋の両酒屋が繁盛したのは明治初期から大正にかけてである。これらの酒屋も昭和7年に昭和恐慌のあおりで大久保酒屋が倒産したのを最後に雫石には一軒もなくなった。
 雫石の裸参りの特色である「神仏合わせ拝む」方式がいつ始まったかは定かではないが、当時の人々はなかなかうまいことを考えたものだと感心させられる。
 参考までに、前述の盛岡の酒造りの神様・松尾神社の境内に雫石の造り酒屋・高嶋屋の力を示す寄進石が残っているので紹介する。
 元文2(1737)年5月、高嶋屋市左衛門(広徳)は藩から要請された大井川普請手伝いの成功の勢いを示すかのように、盛岡にある酒造の神を祀る松尾神社に、お参りの際に手を洗い口をすすぐ禊(みそぎ)の場所に置く「盥漱石(かんそうせき)」を寄進している。この寄進は信仰と報謝の象徴であるとともに、盛岡の豪商たちと張り合った高嶋屋の力を示すものである。 (雫石町史より)
 石には「元文三年 奉寄進 滴石町 高嶋屋市左衛門」と刻まれている。(年号が町史の記載と一年のずれがある?)
 雫石裸参りには、まだ他に例のない独特の内容がある。
 特色第二点は、歩行距離が1.2km、所要時間2時間と長く、まさに本格的な“荒行”であり、自己鍛錬の機会となっていること。
 三つ目は、祈願の満願は10年間連続歩行により達成されることだ。他の裸参りでは3年、または5年満願が多い中、雫石では10年満願と厳しい。しかしこれまでの39回の行事で52名が10年満願を達成していることは驚異的である。
 四つ目は、参加者(祈願者)が特定の集団の構成員ではないことである。盛岡の例では祈願者のほとんどが神社の氏子、寺の檀家、あるいは消防団員とその家族などである。(近年は市民以外の志願者も出てきたという)。一方、雫石裸参りでは発足当時は町の青年団体講成員が多かったが、現在はあくまで一般の志願者となっている。公募もしており、希望すれば通常だれでも参加できるということで、この種の行事の中では極めてオープンと言える。
◆  雫石の篤業家として名を残している藩政時代の豪商・酒造業「高嶋屋」によって発祥したとされる雫石の裸参りの行事。長い歴史の中で、その時代時代の祈願者並びにこれを支える人々の篤い信仰心が良き伝統となった民俗行事であり、無形文化財に値するものである。
 復活40年の節目を迎え、先人たちの思いをこの町の人々の幸せにつなげるために、これから50年目、70年目を目指し、なおも力強く歩き続けてほしいと願う。

 
>雫石の歴史 色彩鳥 いろ・とり・とり  会報第41号(29.1.26)
 今年は酉年 「酉=鳥」にちなんで「鳥」のつく 地名や行事などの話題をいろいろ集めてみました。

 <地名>
 1・鶯宿(おうしゅく)   ご存じのとおり町内随一の温泉です。 温泉の歴史をたどれば… 開湯はなんと天正年間(1573~1593)の頃と言いますから約 450 年前。時代は織田信長全盛の頃。 雫石では南部信直が「雫石城」を攻略していた時期(1585 年)です。 
 加賀の国(現在の石川県)から移住してきた木樵の「助(すけ)」(=加賀助家一族の祖)が、この地の 山中で一羽のウグイス(鶯)が傷ついた脚を川床に浸しては近くの枝で休む、という動きを繰り返してい るのを見て近くに行ってみると、川の中から湯煙が上り温泉が湧いているのを発見したとされています。 偶然通りかかった行脚の僧(実は盛岡・祇陀寺の二世住職)にこのことを尋ねたところ、効能の著しい 温泉であることが分かりました。助と僧はこれを地域の人や盛岡の人々に伝え、やがて多くの人が湯治 に来るようになり、祇陀寺のご縁で藩主とその家族まで来湯するようになりました。そこでここを「鶯」にちなんで「鶯宿」と名付けた、とされています。
  この頃になると加賀助の子孫は切留に移っており、藩主一家の湯治の際には湯守として「弥十郎」 の名が文書に残っています。加賀助の跡を受けた弥十郎家は岩手郡川口から移住したもので、後に姓 を川口と称しています。
  「以上の鶯宿温泉の由緒は、天明元(1781)年ごろ弥十郎老人によって語られた記録によ るもの」と雫石町史Ⅰでは紹介しています。(646p) 
 その後、享保の頃(1716~1735)に雫石の造り酒屋「高島屋」の市左衛門が、費用を惜しむことなく浴槽を広げ、客室を造り、湯治場としての施設を整備しました。そのこともあって藩主や姫君などは湯治の帰 りにしばしば雫石の上野家に立ち寄るようになりました。 (雫石町史から) 雫石町史には、文政 9(1826)年の頃の鶯宿温泉の様子を描いた絵図が掲載されています。 (※昭和54年の町史編集の際に編集者が原本を模写したものです。)

 この絵図を見ると、元湯の「キクノ湯」以外の湯屋は鶯宿川の左岸(現在のホテル加賀助側)に建っ ていることがわかります。薬師神社はそのままです。絵図の左奥には「切留道」の表示が見えます。 
 ご存知のように「旧沢内街道」は寛文 9(1669)年に南畑経由に切り替えられるまではここ鶯宿温泉 を通り、切留~待多部(まったぶ)経由で沢内に通じていました。 

2・鳥谷森(とやもり) …西安庭の西南端の一地区(集落)の地名です。行政区でいえば「外桝沢」です。通称「コテージ村」の東側になります。
 
 雫石町史Ⅰの「伝説と昔話」の五、戸沢氏伝説の(五)鳥谷森 の項に、次のような 昔話が紹介されています。 ――大字西安庭字鳥谷森は、昔は遠矢森といいました。昔雫石城の殿様は弓の名人でした。 お城で射た矢が、しばしばこの地まで飛んできました。そこでこの名が出たといいます。――

  資料「雫石盆地の地名」<心のふるさと(第十集)・平成8年・雫石町教育員会刊行>には次の三つの「鳥谷(または鳥屋)」地名が紹介されています。 
 ①まず「集落」として(15p) 
ハ、鳥谷森 この集落は安庭村の西南端で外桝沢川沿いの山際に位置する集落であ る。この集落名の鳥谷森は、鷹などを入れておく小屋のあった所の意から、集落名を鳥 谷森としたものであろう。この集落は「邦内郷村志」 (関注・江戸時代の地理誌 (安永 9 (1780)年作成・下記解説参照)に鳥谷森十五軒とあり、「本枝村付並位付」には鳥谷森六軒と ある集落である。 

 ②「旧西安庭村の字名」として(73p) 〔※関注上記の「鳥谷森」と同じ場所〕 
鳥谷森(とやもり) 御所村大字西安庭第四十三地割の字地名である。 この字地名の鳥谷森は、この地域に昔鷹狩りに用いる鷹を飼育する小屋のあった所 から鳥屋から転訛したもので字地名を鳥谷森としたものであろう。 

③「旧南畑村の字名」として(85p) 
二十三、鳥屋(とや) 御所村大字南畑第二十三地割の字地名である。 この字地名の鳥屋は、この地域に鳥屋という集落があることから、字地名を鳥屋と したものであろう。 
  〔※関注・この集落は現在は赤滝行政区で、県道沿いの深沢集落より東側に入った所に 数軒ある。コテージ村区域の西端と隣接する位置でもある。〕
 「鳥谷森」「鳥屋」、この二つの字区域及び集落は大字が「西安庭」と「南畑」と 別だがコテージ村を挟んで東西に位置し近接している。もとは同じ区域だったも のが何らかの事情により二つの村に分離したものと思われる。現在もここに集落 があり、他地区の人はここの住人を「鳥谷森の誰それ」、「鳥屋のだれそれ」と、 集落名を冠して呼んでいる。 
 資料「雫石盆地の地名」では、「鳥谷(屋)」地名の由来を「江戸時代の鷹狩り用 の鷹を飼育する小屋があった」としているが盛岡城からの距離を考えると鷹の飼育 の場所としては遠すぎるような気がする。むしろ鷹の餌となる小鳥を捕まえて入れ ておく「鳥屋」があったと考える方が自然な気がする。 参考までに、盛岡市内には「餌差小路」の地名が残っている。 餌差小路は,文字通り御餌差が住んでいたことに由来。鷹の餌にする小鳥を捕獲、飼育する 微禄の者が住んでいた。鷹匠小路には,藩主が鷹狩りに使う鷹を調教する鷹匠が住んでいた。 この鷹の必要な餌を調達するのが,御餌差の役であった。 (事務局・関)
【解説】 「邦内郷村志」(明和~寛政) 筆者 大巻秀詮 
 大巻秀詮は、花巻の人で、盛岡藩に仕え各地の代官を歴任した。 本書は、郡町村の石高、戸数、人口、社寺などが記され、藩内の の地誌として詳細なものである。はじめは 6 巻であったが、松井 道円の著と伝えられる和賀・稗貫二郡の郷村志を加えて、8 巻と して流布した。 「本枝村付並位付」地理誌の一つと思われるが作成時期・筆者は不明。 「雫石盆地の地名」には、享和三(1803)年とだけ書かれている。

今から38年前の昭和54年に発刊された雫石町史Ⅰの表紙の裏側に印刷されている <岩手郡内雫石通拾ヶ村御山林澤々神社仏閣郷村縮図>(原本は雫石町歴史民俗資料館蔵) には、絵図の右下に 南畑村鳥谷之里 甚十郎 所蔵 と書かれています。

(おまけ) 現在、雫石町内に鳥谷(とや)姓の世帯が一軒あります。30年ほど前には 二軒ありました。両家は親が兄弟の間柄です。今は転出したもう一軒の鳥谷 さんのご主人は雫石営林署に勤務されていました。その長男 S さんは昭和 22 年生ま れで私の一年先輩です。雫石小学校から雫石中学校、県立盛岡工業高校と進み、高校 時代は成績が極めて優秀でNHKに技術職として入社。全国各地を転勤後、本局勤務 が長く最近まで東京に住んでいらしたとお聞きしました。この S さんの長男がプロ野 球・阪神タイガースの人気内野手である鳥谷 敬 選手です。選手名はご存知のように 鳥谷(とりたに)です。四文字の方がなんとなく語感がいい、とでも考えたのでしょ うか。でもあの有名選手が雫石町ゆかりの人だと思うとなんだかうれしくなります。 なお、この鳥谷家は、町内御所地区の出身ではないとのことです。(事務局・関)

3・岩鷲山(がんじゅさん)…岩手山の別名。 標高 2,038m の名峰岩手山。
この岩手山の別名は『巌鷲山(がんじゅさん)』です。 元々は「いわわしやま」と呼ばれていたものが「岩手」の音読みの「がんしゅ」と似 ていることから、これを音読みにしたものだと言われています。 この別名「いわわしやま」の由来は、4 月下旬から 5 月上旬にかけて岩手山の山頂 付近に<翼を広げた鷲の形の雪形>が現れることから、こう呼ばれるようになった と言われています。 しかし、この雪形、見えるのは盛岡市内からだけで、残念ながら雫石方面からは見え ません。
 参考までに、雫石方面から見た岩手山の別名は「南部片富士」。また、古くは 坂上田村麻呂伝説に「霧山嶽(きりやまだけ)」の名で登場します。これはいつも霧(雲) がかかっていて不気味な山、という意味のようです。

 <御役目>
 ・盛岡藩 御鳥見役…雫石町史Ⅰに「御鳥見役」について次のような記載があります。
藩では御鷹狩り用の鷹や狩猟用の鳥類の繁殖を目的として、鷹の巣の発見・保護に、 また、特定の森林、沼地等を指定してその保護に努めた。このような鳥類の保護、繁殖 の任にあたったのが御鳥見役である。(関注・今でいう環境省の職員のような業務ですね。) 雫石通りに居住して御鳥見役を勤めた家は二軒ある。 元禄二(1689)年から、元文五(1740)年にかけて、荒屋某氏が二代に亙って御鳥  見役を勤め、御鳥見役としては最高の五駄二人扶持(三斗七升入りの米俵二十二俵) を受けた。その後も代々この扶持を受け雫石に居住しているが、身帯帳には御鳥見役 の役名は付いていない。 同じく五駄二人扶持で、元雫石町長高橋精造の本家(高橋喜代見)が代々御鳥見役 を勤めている。 この御鳥見役の役目も次第に広くなり、文政 7(1824)年には藩の御用人より街道 並木の警衛を指示されている。(後略)

 雫石町史の「御鳥見役」についての説明は上記の程度です。ここに出てきた御鳥見役「荒屋某(〇右衛門)」とは、下町の舘坂(永昌寺向か い)を登り切った右側のお宅「(元消防団ラッパ長だった)故荒屋一男さん(屋号;玄 八(げんぱ))」の家を指すのではないかと思います。 またもう一人の御鳥見役「高橋喜代見」という方は、同じ下町で雫石駅に下りる 道路のT字路の左角の家、かつての「高橋酒店」の家(屋号;喜六さん)を指します。 現在のご当主は高橋良和さんです。 
 冒頭、町史の説明に御鳥見役の業務として「鳥の繁殖用の沼地等の指定と保護」 とありましたが、町内名子に昭和 50 年ごろまであった「桜沼神社」(現在の「丸水 工業」事務所の北側)の周辺は、その名のとおり大きな沼地で、神社の周囲には岸 辺にヨシが生い茂った大小3つほどの沼がありました。このあたり一帯は御鳥見役 「高橋家」の所有地でした。どういうわけか我が家も沼の一部の所有者でした。
 小 生が子供の頃は、沼に多数棲息する「オオヨシキリ」(この辺では鳴き声から「バ バッチ」と呼んでいた。)の巣を見つけるのが遊びの一つでした。 この沼の周辺には町内有数の縄文遺跡「桜沼遺跡」があり、至る所から土器のか けらや石の矢尻が出土していました。その沼も、周辺農地の耕地整理を行うため埋 め立てられることになり、それに先立って昭和 50 年から「桜沼遺跡発掘調査」が 行われ貴重な出土品などの成果を得て遺跡は埋め戻され、水田に変わりました。(関)
 上記に出てきた「鳥の繁殖用の沼」などの池沼について、滝沢村誌はより詳しく記載していま すので紹介します。南部公は滝沢方面にはよく鷹狩りに来ていたようです。

<滝沢村誌より>
 六 南部藩の築堤 1 はじめに 南部藩の幕府へ献上する品目中に三鳥、すなわち、鶴・白鳥・菱食がある(  関注…菱食(ひしくい)…カモ科の 体長 80~100 ㎝の中・大型鳥。個体 減より 1971 年国天然記念物指定)。これら を捕獲するために各地に堤を構築している。
『太田村誌』は堤の普請個所として、上田 三堤、向中野通七ヵ所、見前通拾ヵ所、厨川通は滝沢・大喰・斉藤・赤袰三堤・半ヵ堤 〆六ヵ所となっており、盛岡周辺だけで二十六ヵ所を普請している。現在の滝沢村に当 時どれほどの堤を設定したか明らかではないが、『太田村誌』の滝沢堤は、恐らく『南 部藩事務日記』の寛文十一年(1671 年)三月十八日に「滝沢御新田堤築き候奉行に丹子 惣右ェ門申付」とあるから、ここは湯舟沢堤と推定されている。大喰堤については、項 を改めて述べることにする。 
斉藤堤については、駿河久兵衛氏は観武が原にあるといい、赤袰堤と共に現在盛岡市 に属している。 (中略) 
15 南部氏は三鳥捕獲と開田の一石二鳥をねらった築堤により、本村は飛躍的に増反されたの である。 鳥類捕獲について、大坊直治氏の調査した『南部城事務日記』中の抜書を列記しておく。
 慶安五年(1652 年)三月十四日 今日郭御鷹野に鵜飼へ辰の刻御出御供毛馬内九左ェ門 
 寛文六年(1666 年)正月十三日 雪 殿様今日卯ノ刻大釜へ御鷹野ニ御出御供奥瀬治太夫にて申ノ刻御帰城 
 同六年十一月十五日 追鳥奉行被遣箇所 山向源四郎 松屋敷・湯舟沢・滝沢・鵜飼・大沢・篠木・大釜・飯岡・煙山・郡山(其他略之) (以下略)

<行事>
 ・夜鳥(よどり)ぼい…「ぼい」は「ぼう」で「後を追う」「追い払う」の意味。
 
 小正月(1 月15日)の行事であった。害鳥追い出しによる豊作祈願で、子どもや青 年の行事。わらで「かも」と「うさぎ」の人形を作り、暗くなってから太鼓と手平鉦 (てびらがね)、鍋、釜、洗面器などを鳴らし、「夜鳥ほぃほぃ、朝鳥ほぃほぃ」と叫 びながら各家々を回った。 <しずくいしの行事と行事食>から 

 同じ行事について、雫石町史Ⅰでは、さらに詳しく紹介しています。 
『小正月行事①』 夕食後、田植組の者が集まって「夜鳥ほいほい 朝鳥ほいほい いぐ ねえぁ鳥ぁいんげん島さぼってやれ」と叫びながら組中回って歩いた。 
『小正月行事②』 橋場部落の夜鳥ぼい。数人の若者が中心となって部落内の子供を集め、 藁で「かも」と「うさぎ」を作る。青年が「うさぎ」をもって先頭となり、子供達が「か も」を木の先につけて持ち、「夜鳥ほいほい 朝鳥ほいほい いぐねえぁ鳥 頭割って塩つ けて蝦夷ケ島さ ぼってやれ ほいほい」と叫んで家々を回る。各家では餅をくれた。部 落外れの人形立橋で「かも」と「うさぎ」を捨てて「宿」に帰ってもらった餅を料理して 食べた。昭和30年頃まで行われた。

 一方、新聞紙上で見つけた、似たような行事、「カラス呼ばり」のニュースです。 
遠野の小正月行事「カラス呼ばり」。子供たちが「カーラス、カラス、小豆餅けっから こーこ」と歌い、餅をまいた。カラスに餅を振る舞うことで、農作物の鳥獣被害がない ように願うという。 (平成29年1月16日読売新聞岩手版・遠野市伝承園での小正月行事紹介記事より)

 同じ県内でもカラスに対する小正月行事の内容が、こうも違うものなんでしょうか。 

<食材>
 ・南部かしわ …雫石町特産の南部地鶏の肉 
 南部かしわは、昔の「かしわ肉」の味を持った鶏で、増体能力や飼料要求率にも優れて いる鶏です。種鶏の産卵能力が高い鶏を目標として岩手県畜産試験場が開発し、昭和 60 年に 1 代目、平成 15 年に 2 代目が誕生して完成した特産肉用鶏です。
 南部かしわの特徴は、天然記念物「岩手地鶏」の血液が入った岩手独自の地鶏です。 放し飼いと長期飼育による「土の香り」のする昔懐かしい「かしわ肉」の味を持ち「美 味しくてコク」があります。大型で発育が良く早熟で生産性、経済性に優れています。 特定 JAS 規格「地鶏肉」の認証の 1 つの条件である、在来鶏血液百分率の条件を満たし ています。赤い羽装は有色コーニッシュ(雄)と美しく、天然記念物でもある岩手地鶏の 赤笹種(雌)から生まれた二元交雑鶏(雌)と、美味しい軍鶏(雄)から、非常に旨味の ある独自の交雑鶏(雄)をつくりだしました。 
 先日は、盛岡のちゃんこ料理店の鍋が「ちゃんこ‐1 グランプリ」で優勝したことが話 題になりましたが、その鍋に使っている鶏肉は「南部かしわ」の肉なそうです。 現在、雫石町内では三戸の農家が<南部かしわ>を飼養しています。

 なぜ鶏肉を「かしわ」というのでしょうか? 諸説あるようですが、その昔、天武天皇の御代に、国教として仏教が採用され肉 食禁止令(牛馬鶏犬猿猴)が定められました。(西暦675年のことです) しかしながら庶民は肉食を続け、動物の名前は別の名前に置き換え隠語で流通し ました。(うさぎを一羽、二羽と数える、あの発想と同じですね) その例です。
 鶏肉:かしわ 鶏の羽の色と柏の紅葉の色 
猪肉:ぼたん 鮮やかな肉の赤色と牡丹の花の色 
馬肉:さくら ピンクの肉の色と桜の花の色 
鹿肉:もみじ 真っ赤な肉の色とモミジの紅葉の色 

 そして、これが脈々と受け継がれてきました。 明治になり、堂々と鶏肉を食す事の出来るご時世になりましたが、名前は生き残 りました。戦後ブロイラーが出回るようになり、「かしわ」は和鶏の呼び名に限定 されるようになりました。 
現 在、「かしわ」という言葉を使うのは、東日本では秋田県だけ、愛知県・富山 県、近畿地方一帯と愛媛県の一部・福岡県・鹿児島県など西日本に集中していま す。どうして西日本中心なのでしょう。実は江戸時代の文献にも『江戸は しゃも』 とあり、どうやら関東では黄鶏より軍鶏(しゃも)が好まれていたようなのです。 「名古屋あたりではトリ肉を食べるという言い方は品がないとされていたよう だ」と、言語学者の金田一春彦さんは言っています。そこで隠語の「カシワ」で 呼んだらしいというのです。 ガッテン!ですか?

<その他> 
『ねむた鳥』…… 田中喜多美著の、草稿のままで未刊行だった「昔話集」作品名。 
 このことについて、田中喜多美氏を文学の分野から取り上げて研究をされている東京 学芸大学教授 石井正巳氏(1958-)の「田中喜多美『ねむた鳥』考」から紹介する。 

 雫石町出身の郷土史家田中喜多美氏(1900~1990)の研究活動の原点は民俗研究であ った。この民俗研究と後年の歴史研究の二つを駆使して郷土を解明しようとしてきたと 考えられている。 民俗研究の代表的著述が『ねむたどり』と『山の生活』(後に書き改めて『山村民俗誌 ――山の生活編――』)とであった。これらは初期の著述であるが。そこには、早くから 一徹な姿勢で研究に取り組んでいた田中の志を見ることができる。『ねむた鳥』もそうし た態度で誠実に書き残された資料であったので、佐々木喜善の『聴耳草紙』に吸収され、さらに『旅と伝説』の「柳田国男特輯 昔話号」にも迎えられたのだ。その結果、一冊の昔 話集としては骨抜きにされてしまったと言えなくもない。 
 だが、この昔話集はこれ一冊で読 まれるべき内容と叙述を持ち、日本昔話研究史上、特筆すべき著述であると思われる。 表紙には黒鉛筆で「滴石郷民潭集 ねむた鳥」と書き、両脇に青鉛筆で線を引いている。 中には、序文が四百字詰原稿用紙四枚、本文が四百八十字詰原稿用紙(赤沢号製)百三十 二枚、考察が四百八十字詰原稿用紙(赤沢号製)二枚と五百字詰原稿用紙一枚でそれぞれ書 かれ、一冊に綴じられている。これら原稿には、すべて黒の万年筆を使い、黒鉛筆の注記が 入ることもある。 
 序文は冒頭に「岩手昔話 ねむた鳥(未定稿)」と題して、末尾に「昭和五年四月十二日、 雫石川畔にて/田中喜多美識す。」と書かれている。 
 その文章によると、この集に書いた話の大部分は、田中の母が冬の夜、麻糸を續みながら 寝かし付けるときに語ってくれたものだという。仕事に疲れ居眠りをし始めた女親たちは、 ピーピーと鳴く川原千鳥の声を聴いた後、床に入ったが、それを「ねむた鳥」と呼んだ。そ れを思い出し、「ねむた鳥」という名をこの集に付けて、亡くなった母の形見にするのだ、と いう説明がある。(後略) 

 千鳥(ちどり) …田中喜多美氏の母も鳴き声を聴いた「川原 か わ ら 千鳥 ち ど り 」とは…。 
(関注;田中の生家は下久保という集落にあった。 下久保は御所ダム建設で水没したが、雫 石川の川原に近いところだった。(雫石川 園地桜並木の堤防の最下流のあたり) 千鳥にはたくさんの種類があるようだが、 下記の資料を見ると下久保の周辺に棲む のは「イカルチドリ」であろうか。 和名のイカルは古語で「大きい、厳めしい」の意。その鳴き声は「ピヨ、ピヨ」と紹介されている。 日本では大小合わせて 10 種類以上のチドリ類が見られますが、日本で繁殖するのは、小型のコチドリ、 シロチドリ、イカルチドリの 3 種と、大型のケリ 1 種だけです。それぞれ年間を通じて見られますが、少しずつ 住む場所が違います。コチドリは海岸や川の中流域以下の砂礫地や荒れ地に、シロチドリは河口部から海 岸の砂浜に、イカルチドリは河川の中流域より上流の河原の中州や砂礫地に、ケリは水田や荒れ地、河原 などに生息し、繁殖します。(中村登流・中村雅弘 (1995)原色日本野鳥生態図鑑(水鳥編) 保育社)
 
再見!『雫石通細見路方記  しずくいしどおりさいけんろほうき』  
会員 丸山 塁(長山・小松) 会報第17号平成23年1月

文政 9 年(1826 年)から 10 年にかけてまとめられた『雫石通細見路方記』は、町内全域の名所、旧跡、伝説等についてまとめたもので、代官所からの距離、方位なども示されていて、“藩政後期のガイドブック”とされています。 

町立図書館にある『雫石通細見路方記・上』の中から景勝地およびそれに類するものを挙げると次のようなものがあり、現在も名が知られているものもあれば、所在はもとより、現存しているのかすら分からないものもあります。 
 ①雫石タンタン 
 ②玄武洞 
 ③鳥越の滝 
 ④長山の夫婦石 
 ⑤善知鳥石(鵜鳥石・うとういし) 
 ⑥多賀神社
 ⑦西根の貝形石
 ⑧大池高倉と三階滝
 ⑨志戸前砥石 
 ⑩八百平(の伝説) 
 ⑪忍石 
 ⑫繋 塗り沢の風穴 
 ⑬矢櫃の夫婦石 

①~③、⑥は所在がはっきりしているし、⑩についても最近はツアーなどが企画されていますが、それ以外はどうでしょうか。今回はそれらについて調査したので、報告します。 題して、再見!『雫石通細見路方記』です。

④「長山の夫婦石」 

雫石の街中から岩手山詣での人々が通った古(いにしえ)の道、“新山道(しんざんどう)”そのルートは、「滴石城(現雫石八幡宮)」を起点とし、「岩手山神社鳥居(下長山小学校東側)」、「茶屋の清水(よしゃれ茶屋)」、「七ツ田の弘法桜」を経由し「岩手山神社(遥拝所)」を経て「御神坂(登山口)」に至ります。 

晩秋に、自転車で新山道のルートを辿っていたときのこと、道路脇の雑木林の中に大岩を発見しました。かなりの大きさだったので「きっと新山道の目印として多くの往来人がこの岩を眺めてきたのだろう・・・」などと想像しました。 

ところで、この大岩の近くには県営の温水プールがありますが、ある時、温水プールの営業状況を知ろうとインターネットで調べていたときのこと、その住所が「夫婦石」となっていることに気づきました。 

そこで、温水プールに行ったときにフロントの人に夫婦石について尋ねてみると、「ここへ来る道路沿いにあるのですが、道路から離れた山の中にあって、道はないし今の時期は薮で見えない」と教えてくれました。これを聞いてピンと来ました!昨年の秋に見た大岩が夫婦石に違いないと!場所は七ツ田の弘法桜から 1.5km ぐらい北の道路左手の雑木林の中にあります。道路からの距離は 60m ぐらいだけれど、多少の薮漕ぎが必要になります。 

夫婦石はそれはそれは立派なもので、高さは 3m はあるでしょうか。 

岩手山が噴火した時の火山弾なのか、夫婦とも同じような岩肌で、細かな模様が付いています。間近で見ると“名所”と呼ぶにふさわしい感じだけれど、歩道すらないのは残念・・・雑木林の中にひっそりと佇む夫婦石は、薮が枯れたときにしか見る事のできない、正に“枯れた味わい”です。ちなみに、夫婦石の少し後ろには、両親に形の似た“子っこ石”もありました。

⑧「大池高倉と三階滝」 
『志戸前山下げ戻し百周年記念誌』によれば、志戸前川の支流大地ノ沢に「高倉千丈岩」と呼ばれる景勝地があるらしく、葛根田玄武洞(既に崩落)と共に「東北一の奇勝」と書いてあります。 

一方、雫石通細見路方記によれば、「高倉千丈岩」ではなく「大池高倉(オオジタカクラ)」として「三十丁計り 岩倉大崩れにて 鳥も飛び付く事不叶 大山 谷合い見上る也」と紹介されています。

志戸前川の林道から大地ノ沢の林道に入り、しばらく行くとJR田沢湖線の鉄橋をくぐり、そしてすぐにそれと分かる岩場を発見しました。玄武洞とは異なり、柱状節理が横方向に走る大岩壁です。 

しかし、千丈岩と呼ぶのは大袈裟で、玄武洞と比べてスケールは小さく、実際のところは雫石通細見路方記に記されているとおり、高さ20~30丈(60~90m)位のようです。大池高倉は、田沢湖線の車窓からも見ることができます。すぐ手前の田沢湖線には高倉トンネルがありますが、付近に高倉の地名がないことから、きっとこの岩場の名前を冠したのでしょう。三階滝は大池高倉のさらに先にあります。 

雫石通細見路方記では、要訳すると次のように記述されています。 「志戸前川は大いなる沢で、支流も多い。上流には左に大水沢、右に大池の沢という大きな沢がある。大池の沢の上流には沢々が多く、三階滝という大滝もあるが、道が難所で訪れるのが難しいので、大池高倉で切り上げることにしてこれ以上は細見しないことにする。」

つまり、三階滝のみ踏査省略の“伝え聞き”なのです。

不思議に思うのは、車もない時代に、人里離れた山奥に潜む滝の存在にどうやって気付き、そしてどうやって語り継がれてきたのかということ・・・ 

例えば街道沿いの滝であれば、その存在に気付くのは容易だろうし、また、その近くに人里があるのであれば、語り継がれるのも分かる気がするけれど、三階滝の場合はどちらも当てはまりません。 

現代、三階滝についての資料はほとんどありません。 

最近出版された岩手の滝を紹介する本や、インターネットの滝を紹介するサイト、国土地理院の地形図にもその存在は記されていません。 

そこで役場へ行き、場所についての大まかな情報を仕入れることにしました。 

三階滝は志戸前川の支流の大地ノ沢のそのまた支流のシロミ沢の上流にあるようでした。 シロミ沢への分岐は地形図と実際の道路の形状が異なっているので注意が必要です。 

大地ノ沢を心もとない橋で渡り、道は2つに別れます。右に行けば田沢湖線の仙岩隋道入口に至るので、それを確認してから左の方の道に戻り田沢湖線をくぐるとよいでしょう。堰堤を何度か乗り越え、1kmも行かないうちに車は行き止まりになります。2,3台駐車できるスペースがあり、そこにバイクが 1 台だけ止まっていました。きっと渓流釣りの人がいるのでしょう。その先もか細いながらも踏み後は続いていて、何ら標識はないけれどそれを辿ることにします。渡渉を何度か繰り返すうちに道は次第に不明瞭になります。 

10 分ぐらい歩き、少し不安になってきたころ、上流から渓流釣りの老人がやってきました。ちょうど滝のことを聞こうかと思い近づいてみると、老人の方から「この先に素晴らしい滝があったよ」と話しかけてきました。 


老人は見事な岩魚を沢山仕留めていて、聞けば滝の存在は知らずにこの沢に入り、偶然にその滝に出会ったようでした。地元の山慣れた老人ですら知らない、三階滝は知られざる滝なのです。 

老人に教えられたとおり、シロミ沢から名もなき支流に入ります。分岐点に標識や目印は何もないけれど、滝の掛かりそうな狭い谷なので注意すれば気付くでしょう。 

三階滝はすぐにその姿を現してくれました。水量、スケールともダイナミックな期待していた通りの名瀑でした。 

これだけの名瀑なのに地図にものらず、そして標識も目印もなにもないというのがいかにも秘境らしいし、それだけ雫石の自然の懐の深さを証明しているとも言えるでしょう。

⑬「矢櫃の夫婦石」 

矢櫃川沿いにある林平地区の対岸一帯を当時夫婦石と呼んでいたことを県立図書館にある古い絵地図で確認したので、まずはそこを目標に探索しました。 

雫石通細見路方記によれば「田の中 二つならべる石あり 長山 黒石野の夫婦石の如し」とあります。 

県道矢巾西安庭線の林平地区入口から対岸に渡る道を下ります。すると、夫婦石ではないけれど、矢櫃川左岸に景勝地と呼んでも良いような場所があります。 

3つの岩塔が林立し、紅葉の時期ならばさぞかし美しいことでしょう。その先の道路を進みますが、田の中に二つならべる石は見当りません。付近の民家で尋ねてみても、そのようなものは知らないと言われてしまいました。田の中に石があっては邪魔になるだろうから、既に除去されてしまったのでしょうか。仕方ないので、半ば諦めムードながら対岸の林平に戻り、地区内を探索します。 

畑にお婆さんが 3 人いたので、尋ねてみました。
「ちょっとすみませんが・・・」
「なんだ?野菜が欲しいのか?」
「いやいや、この辺り、昔、夫婦石と呼ばれていませんでしたか?」
「んだ!そうだぁ。お前さんどっから来た?」
「町内ですけど」
「いや、そうでなく、広域農道通ってきたか?」
「いや、広域農道をくぐって来ました。」
「んだば、通り過ぎてきたんだぁー」
と言う具合に、夫婦石の場所を教えてもらうことができました。しかし、お婆さん曰く
「最近、土を盛られてしまって、埋まっているかもしれねぇ。あの石は埋めてはわかんねぇんだと言ったんだども。でも、まだ大丈夫かもしれねぇ。いずれ、橋の袂の土を盛ってあるところ。こっちから行けば道路の右側な」と。

言われたとおりに行ってみると・・・ありました! 

九十九沢橋という小さな古い橋の先に盛土してある場所があり、その盛土に埋まるというよりも、盛土尻にある畑に下りるための道の盛土により半分ぐらい埋まった感じで・・・ 

雑草も生い茂っていて、忘れられた状態で可哀相ですが、往時は目立つ存在だったのでしょう。規模的には長山夫婦石の方が大きいですが、それでも高さはそれぞれ 1.5m程度あります。

二つの石にはそれぞれに個性があって、尖がっている方が夫で、まろやかでどっしりとした感じの方が妻でしょうか。そう思って見ると、二つの石に、愛着が感じられてきます。 

矢櫃の夫婦石は、雫石から伝説の峠「七日休」を経由して志和稲荷神社に至るルートのランドマークとして、古くから行き交う旅人に愛されてきたことでしょう。