史談百花帖・・拾い読み> ・「ある10月4日の離任式と雫石」…石川啄木と雫石ゆかりの人  ・石川啄木と三人の雫石人



「ある10月4日の離任式と雫石」…石川啄木と雫石ゆかりの人

       会員  渡辺 洋一(資料館勤務)  会報第17号(平成23年1月)所載


 21才の人物(男)のある10月4日を記した日記から。

 「親しくしていた同僚○○子先生(24才)が本宮村に転任になった。4日、告別式(離任式)生徒は皆涙ぐんで居た。小生も心に泣いた。送らるる人も涙であった。女史の告別の辞は一言一句涙であった。そして、沈痛なる声に力をこめて、『常に読書をしなさい。わたしも寂しい場所の住宅に居りましたが、本を読めば心おのずから全世界に拡がるような心地でした。読書をしなさい、そして自己を大にしなさい』と。これは女の言葉である!!」「これは女の言葉である!!」と!マークを二つもつけたのはかの石川啄木。明治39年の話。渋民尋常高等小学校に4月から勤務。4月28日の日記にも「余は日本一の代用教員」と記す。自信家の啄木。その彼が驚く女史は同僚の「上野さめ子」。

 「上野さめ子」は雫石出身。明治16年3月生。父そして長兄は県会議員。私立盛岡女学校(明治34年卒)では堀合節子の先輩。明治37年岩手師範女子部卒業。4月に沼宮内に次ぐ渋民尋常高等小学校に郡視学平野喜平の配慮で岩手郡で女子始めての「訓導」。この経歴は明治30年代の岩手県内の女子の教育環境としては大変恵まれたものであったし、啄木の日記や女史がモデルと思われる作品から「真に立派な見識の高い」人間に成長しているのがうかがえる。

 さめ子が渋民尋常高等小学校に奉職した明治37年、さめ子の甥上野広一は盛岡中学校を卒業、絵画修業のため上京、明治38年には盛岡中学校の1年先輩の啄木の仲人役をしている。叔母・甥と啄木の人生に関わった雫石の二人の間に啄木についてどんな会話がかわされたであろうか。それともなかったか。また渋民小のさめ子の上司遠藤校長も雫石出身。学校内で二人の間で雫石の話が出ることもあったかと。これもまた不思議なものである。
      ❉❉❉

 上記文は岩手郡退職校長会報に「雫石町歴史民俗資料館の紹介」にあたって平成20年10月に寄稿した文の一部である。既に20年1月の雫石町史談会第14回「自主研究発表会」で関敬一会員が「石川啄木と雫石のゆかり~~啄木に影響を与えた二人の上野さん」として発表している。

1 初めに……発表にあたって

(1)今回の発表のきっかけは、平成17年に昭和54年発行の町史をたどっているなかで「上野広一、上野さめ」記述を知ったことがスタートである。後日読み直しのなかで1128ページに「明治時代の進学者――明治27年遠藤忠志 尋常師範科卒 上長山 石川啄木が渋民小学校教員時代に同校校長となる」とある記述を知り(読み落としていた)、これが事実とすれば明治39年、啄木を知る上で重要な一つ「代用教員時代」に、職員4人の内、渋民出身が秋山首席訓導と啄木、雫石出身が遠藤校長と上野さめ訓導の体制であることになる。教職を経験した渡辺からすればたった4人の職員で同郷が2人はなかなかない。後日退職校長会に寄稿した文の末尾に書いたように、同郷同士どんな会話がなされたかな、と具体的な興味が湧いたのがスタートである。しかしその後はなかなか…。

(2)平成18年、他市町村の小学校副読本を調べていた時期でもあり、社会科も文科省は人物重視の方針。雫石の先人もチェックしなければの時期であった。

(3)平成18年8月24日~11月5日「Theザ・啄木展―啄木生誕120年記念4館共同企画」があり、石川啄木記念館「啄木をめぐる女性たち」で「上野さめ子」が紹介。町史に記述はあるが写真はなく、この企画展でカラーの(着色写真?)紹介があり、また生誕記念実行委員会発行の図録で「上野さめ子の雑記帳<啄木の思い出>」(さめ子長女・市川テル氏提供)の存在を知った。さめ子女史のカラー写真や展示を見、改めて興味がわき、啄木記念館の山本玲子氏にお会いしノートを拝見したが、まだ読み下していないとのことでこの件は遠藤忠志氏の件とともに後日となった(22年12月山本学芸員にお会いした際、ノート発表の可否がまだ、のこと。遠藤忠志氏の写真は記念館に常掲していることを知った)。まだ上野さめ・遠藤忠志両氏の知らない部分があることを知った。

2 上野さめ・遠藤忠志両氏の知見

 上野さめ・遠藤忠志両氏の知らない部分がまだあることを知った。知らないままでは、誤解はそのまま、間違いもそのままでは。いくらかでも事実に近く、が大事なこと、両者の肉声を知りたいと思った。そこで、平成20年1月会員 関氏の14回発表会「石川啄木と雫石のゆかり」文を受けた上で、資料をさがした。結果的には、先人の聞き取り・談話筆記が多く、新資料は未発表、また調査中があるが、今回途中ではあるが報告する。


(1)平成20年10月、前述の岩手郡退職校長会報に寄稿するにあたり、啄木と上野さめ子・広一氏、そして遠藤忠志氏の資料を探したところ、岩城之徳編「回想の石川啄木」(八木書店昭42)に出会った。同書には「国文学」(昭33年4月号所載)からの転載として「上野さめ子―渋民時代の啄木」が、また、岩手郡視学官 平野喜平が「啄木を採用したころ」(編者の岩城氏の希望により盛岡の歌人武島繁太郎氏が直接平野氏より聞き書きされたものより抄出したもの)が載せられている。また吉田狐羊「啄木発見」(洋々社 昭41)には「啄木とクリスチャンの女教師」で、狐羊氏がさめ子氏から談話筆記したことが載せられている。これらの文は後年の記録という点を差し引いても本人たちの記憶・思い出であり、一級資料に近いと思い紹介する。啄木は身の回りの人物を日記に記しており、また小説に登場させているが、そのまま受け取れない場合がある。

(2)平成20年9月、上野さめ子氏が盛岡女学校卒ということで盛岡白百合学園中学高等学校に電話・ファックスでお聞きした。藤村順二教頭先生より書状でご回答があった。回答には「上野さめ第8回生明治34(1901)年卒」(堀合せつは9回生)。校友会誌大正10年版に「(上野)瀧浦さめー京都市」との消息、大正15年版に7月9日付けで、本人が5人の子どもを育てながら夫が創立した「學純生活社」への盛岡の校友の協力を願っている寄稿文。明治30年前後の他の雫石出身者はわからない、等の回答をいただいた。

(3)21年に資料館勤務時2つの出会いがあった。一つ目は、啄木愛好会の方々の来館があった。館内の上野広一氏展示を上野さめ子女史と共に説明、また町史にある遠藤忠志氏が雫石上長山出身と紹介されていると言うと「えっ、松尾じゃないの?」となり、昭和54年発刊の町史を紹介した。二つ目は、町内の方が一般来館時、館内展示の上野広一氏の写真を見ながら「私の祖母から<兄忠志から、(啄木には)困った、と聞かされたよ>と聞かされた」の話。遠藤忠志の肉声であり大変興味あること、どこで生まれ・育ったかも知りたいものだと申し上げたところ、調べてみます、となった。

3 既資料の資料紹介

(1)岩城之徳編「回想の石川啄木……上野さめ子―渋民時代の啄木」の記述に、明治38年(1905年)5月啄木と節子の結婚式(30日)の世話をした(結果的に花婿なしの結婚式となった)上野広一氏に啄木が「――金がなくて盛岡に来られなかったと後で長いゝ詫びの手紙をよこしたそうですが、甥(上野広一)はかんゝになってて怒って居りました。」と記している。また「かって啄木は岩手県で名をなすものは原敬(当時内務大臣)と僕と広一さん(さめ子さんの甥の上野広一)の三人ですよ、とよく言って居りました。何、法螺をふいてと心で笑って居りましたが、その三人の中の啄木が一番有名になったので何だか済まない様な気もいたします。」「同年(明治37・1904)東京(の啄木)から貰った絵はがきが三通あります。これはどうして残ったか、後年甥の一人(上野君平氏。預かった吉田狐羊氏がさめ子に渡したのは昭和29年8月。さめ子最後の岩手入り。吉田狐羊「啄木発見」昭和41年10月より)が見つけて送ってくれました。第一信は英文で 1904 7/11(後略)、第二信は、1904 7/11(後略)、第三信(1904・絵はがきに)「その後は如何御すごし被遊候や、こゝに移りてより差上げし我文御落手被下候ひしや、昨日は広一兄と半日半夜いとたのしくこの牛門(牛込町)の静居に語り申候、私、今月に入りてより殆ど連夜暁を待って寝につくほどの急はしさ、御察し被下度く、この頃は方々に反響ありて詩運益々愉快に有之候十二月十一日夜二時啄木生」と記している。

<この資料の背景> (この時(明治37年)啄木は2月に堀合節子と婚約、10月には
処女詩集刊行目的で再度上京、啄木父一禎が住職罷免(12月26日)される前であり、明治38年1月5日には新詩社新年会に出席するなど、高揚した日々。3月10日になってようやく父一禎の住職罷免を知るが帰らず。5月3日「処女詩集あこがれ」刊行を果たし、帰郷の途に就くのが5月20日。しかし前述した上野広一が世話をした5月30日の結婚式に出ず、盛岡に帰ったのは6月4日であった。この件で多くの友人を失う。明治39年1月父一禎生活難の為野辺地へ。2月21日野辺地の父一禎を訪ね今後の相談。3月4日妻節子と母カツを伴い渋民の斉藤家に移る。そして代用教員に採用)

(2)岩城之徳編「回想の石川啄木ー平野 喜平氏ー啄木を採用したころ」には、採用そして免職の経緯を
「私は岩手郡沼宮内町の出身で、明治二十七年岩手師範学校を卒業した。その後岩手郡沼宮内小学校長や同郡篠木小学校長をへて、石川啄木を渋民尋常小学校に採用したのは、この郡視学官在任中のことで、それは(明治39年)啄木が二十一歳、私が三十四歳のときのことであった。
 そのころ私の勤務した岩手郡役所には、啄木の岳父にあたる堀合忠操氏が兵事主任兼学事係として勤めていた。(中略)啄木についてはこの堀合氏より聞いたほか、(中略)北岩手郡同郷会の会長をしていたので、同郷会の会合で彼の名を知り、将来性のある春秋に富む青年であると感じていた。こうした関係から、明治三十九年の春、啄木より堀合忠操氏を通じて就職を依頼されたが、(中略)啄木を採用となると、やはりその生活条件からいって、かれの母校の渋民小学校に採用するのが最も良かったが、あいにくこの学校には欠員がなく、無資格者の啄木を代用教員として採用するには、だれか有資格の教員を他へ転出させなければならなかった。しかしこの学校の校長の遠藤忠志(ただし)君は私の岩手師範学校の同窓であり、温厚篤実な人物で、気心もわかっているので啄木を引き受けてもらうのに都合が良かった。           
 当時渋民小学校は、岩手郡の中でも沼宮内町の次に高等科を設置して、小寺校長初め村の有志がすこぶる初等教育に力を入れており、生徒も仲々向学心にもえていたので、私もかねて優秀な教員の配置に協力していた。明治三十八(七?)年春岩手師範女子部を卒業した上野サメ嬢をこの渋民小学校に配置したのもそのあらわれで、当時こうした村の小学校に師範卒業の女子教員を配置することは異例のことで、上野さんは訓導の資格をもつ岩手郡最初の女教師であった。(中略) 
ーーーー(この資料の背景)明治39年 紫波にいた渋民出身の秋浜市郎氏を転入・首席訓導に、準訓導の高橋乙吉氏を滝沢尋常小学校へ転出させ、その後に啄木を「渋民尋常高等小学校尋常科代用教員」として採用。これで遠藤校長・秋浜首席訓導・上野サメ訓導・石川啄木代用教員の4職員。生徒数は尋常科215名・高等科68名。啄木の受け持ちは尋常科2年となった。啄木の「渋民日記――西暦1906年 明治三十九年 の四月二十四日。――二十八日」に、「余は日本一の代用教員である」と記すこともあった。しかし明治40年4月1日辞意を助役や学務委員に留任を勧告され、かつ辞表を堀田秀子訓導<39年9月上野さめ子訓導の後任>に預かられる。
 そして4月19日高等科の生徒を率いて校長排斥のストライキを指導。4月21日啄木免職、校長は土淵尋常高等学校に転出。啄木は5月4日妹の光子と函館へ、妻節子は堀合家、母カツは渋民知人宅へ。父一禎は既に3月5日に野辺地に出奔、一家離散)。ーーー 
(再び平野喜平氏の思い出から)「当時私はこの年(40年)四月十五日付で三ヶ月間の全国視学講習会に出張を命ぜられ上京、(中略)私がもし盛岡にいたらあのような校長の転任、啄木の免職というような最悪の事態にならなかったのではないかとも考えるが・・・・・・。
 啄木が不満に思ったのは、渋民小学校に集約的にあらわれた当時の地方教育界の沈滞した空気であろうと思う。(中略)もっとも啄木は日本一の代用教員と自負していても教育者としての正規の教育を受けたこともないし、代用教員になったばかりで、
当時の教育界の習慣や制度について熟知していなかったこともそうした事件を生む原因の一つであろう。(以下略)」と述べている。

(3)前出の吉田狐羊「啄木発見」で(上野)瀧浦さめさんは、「石川さんは明るくて純真で、先生としてもなかなか熱心で,生徒たちはみんな慕って居りました。お話も文学ばかりでなしに、歴史にくわしく、また、私達など足許にも寄りつけないようなえらい人物との交際ぶりを、よく得意になって語る人で、ちょっと煙に捲かれたものです。ただ、私などの尊敬できる人ではありませんでした。これは村の一部の人達から余計な噂さを耳にしていたせいかも知れません。私が渋民小学校を去ってから、有名なストライキを起こしているのですが、相手にされた遠藤校長先生などは、好人物すぎるくらいの好人物で、何も石川さんが目の仇にして争うような方では全然ありませんでした。このストライキなんかも、石川さん一流の茶目気からやったものとしか思えません。その当時、私は一年生を受持ち、石川さんは二年生を、そして校長先生が高等科をそれぞれ担任していましたが、石川さんは、頑是ない二年生などでなく、高等科を受持ちたかったのです。時々は校長先生に申入れたらしいのですが、無資格の代用教員では、校長先生も承認できなかったのは当然です。それやこれやがつもりつもって爆発したかも知れませんが、これは誰が見ても石川さんの方が無理です。石川さんはその不満を充たすつもりで、高等科の生徒の希望者に、課外として放課後に二時間も三時間も英語を教え出したのですが、それがまた学校の一室に常宿直のようにして家庭をもっている遠藤校長さんにしてみると、何かつらあてがましく感じられたのも無理はなかったのです。私が居さえすれば、あんなストライキなどは決して起こさせませんでした。」と語っている。

4 上野さめ・遠藤忠志両氏の既資料・新知見を調べての今後

(1)上野さめ女史の資料は多い。紹介資料平成18年「Theザ・啄木展―啄木生誕120年記念4館共同企画―で石川啄木記念館「啄木をめぐる女性たち」で「上野さめ子」が紹介。その図録で「上野さめ子の雑記帳<啄木の思い出>」(さめ子長女・市川テル氏提供)の新資料の公開が期待される。白百合学園からの資料がどれだけ調査されているかは調べていない。

(2)遠藤忠志氏の肉声資料は上記町内来館者のお話ししか知り得ていない。「雫石出身」については生地・家族構成・幼少・小学校等学歴(岩手師範卒は確かであるが)・職歴等確かめたいと思っている。町内来館者の知見によれば師範学校以前は町内で育ったことは確かのようである。


5 上野さめ・遠藤忠志両氏の既資料・新知見を知って

(1)明治39~40年の上野さめ・遠藤忠志両者を抄録を含め紹介することは、あの時期の雫石出身者の生き様を残したいが為である。石川啄木という今もって人々の話題になる人物に戸惑う周りの人物のうちの二人、加えて上野広一氏も。啄木も大変な時期ではあったが。

(2)今回の報告にあたっては、各者を理解する上での引用・抄録には注意した。ご指摘願いたい。

<引用資料・聞き取りから>
①昭和54年発行の町史1155~1158ページ「上野広一、上野さめ」。1128ページ「明治時代の進学者――明治27年遠藤忠志 尋常師範科卒 上長山 石川啄木が渋民小学校教員時代に同校校長ーー
②平成18年8月24日~11月5日「Theザ・啄木展―啄木生誕120年記念4館共同企画―」で石川啄木記念館「啄木をめぐる女性たち」で「上野さめ子」が紹介。図録44ページ中断に「上野さめ子の雑記帳ーー啄木の思い出」市川テル氏提供 ーー未公開
③岩城之徳編「回想の石川啄木」(八木書店 昭42)同書には「国文学」(昭33年4月号所載)かららの転載として「上野さめ子―渋民時代の啄木」が、また、岩手郡視学官 平野喜平が「啄木を採用したころ」(編者の岩城氏の希望により盛岡の歌人武島繁太郎氏が直接平野氏より聞き書きされたものより抄出したもの)が載せられている。
④吉田狐羊「啄木発見」(洋々社 昭41)には「啄木とクリスチャンの女教師」
⑤平野20年9月、卒業生・上野さめ子の知見を盛岡白百合学園中学高等学校、藤村順二教頭先生より書状で渡辺に。
⑥町内の方が一般来館時、館内展示の上野広一氏の写真を見ながら「私の祖母から<兄忠志から、(啄木には)困った、と聞かされたよ>と聞かされた」の話。遠藤忠志の肉声であり大変興味あること、どこで生まれ・育ったかも知りたいものだと申し上げたところ、調べてみます、となった。

**本原稿脱稿後、(上野)瀧浦さめ氏が結婚・京都在住時(戦後)、町内出身者で京都で学生時代を過ごしていた方が、さめ氏から啄木のことを少し聞いた、とのこと(さめ氏70才過ぎ)。



石川啄木と三人の雫石人   小 田 靖 子 会報第25号所載



はじめに  
学生時代の頃、石川啄木の短歌が大変好きであった。憂いをふくみノスタルジックな言語に魅了されたものである。コーラスにも啄木のものがあり、私は心をこめて歌ったことは言うまでもない。わざわざ渋民まで出かけて川ばたに建つ石碑をしんみりと眺めたり、城跡に出かけて、「・・・かの城跡に寝に行きしかな」に思いを馳せたものであった。
  
ある日、啄木の「雲は天才である」という演劇があるというので、まだそれを読んだことのない私はそれを観に出かけた。石川先生の勇猛果敢さと校長先生のだらしなさが目にあまる劇であったような気持ちがした。 
 
家に帰って、幼いときから一緒の部屋に寝ていた祖母に、劇の様子を話した。聞いていた祖母は、いつもの穏やかな声で「んでも兄さんは、石川先生には困った困ったといってたぞ」と言うではないか。私の思考はここで止まってしまった。祖母の兄さん? あの校長先生が、おばあさんの兄さん?知らなかった、本当に知らなかった。それ以後は、祖母に啄木の話しをすることをしなくなったし、私自身も啄木を客観的に観察するようになった事は言うまでもない。
  
その後は、仕事に追われ、家庭の雑用に追われて啄木は二の次になっていたが、時間にゆとりの出来た今、少し啄木について調べ、更に祖母の兄についても調査してみようと思うに至ったし、啄木と関わりのある方々についても調べてみようと思ったのである。  

雫石の3人 

啄木に関わった3人とは、私の知っている範囲では、遠藤忠志・滝浦さめ(上野)・上野広一(敬称略)であるが、その人々について調べてみようと思いたった。 

1、遠藤忠志
生育歴

明治4年9月25日出生  昭和15年12月17日没
父 遠藤忠敏  母 遠藤タキ
出生時の住所  西山村長山9地割東早坂45-2 
明治10年~ 早坂小学校に在籍尋常師範学校卒業
職 歴  訓導時代は不明
校 長  大更小学校―田頭小学校―渋民小学校―土淵尋常小学校― 観音林尋常高等小学校(農業補修学校長兼務)-晴山尋常小学校―平山尋常小学校―戸田尋常小学校―  50才で退職
退職後  紺屋町にあった執達吏役場に勤務       

2、遠藤忠志の人柄について 
忠志の孫である遠藤澄氏によると、祖父(忠志)と一緒に生活していたことがあるということである。生来温厚であり、小さい頃から澄氏に實語教・童子教・孝教を手解きをし、小学校4年、論語に入ったところで他界したということである。これは本人から私が実際に知らされたことであるが、温厚であったということについては、私の祖母と一致する。  

更に他の文献をひも解いてみると、下記のような文章が所々に出てくるのである。 
   
(1) 早坂小学校生徒のとき岩井花分校もあり、先生は本校掛け持ちで、先生が本校に居なかった時、分校では上級生だった遠藤忠志、同八十九の両氏が先生の代理で教えていたと伝えられています。遠藤さんは七区に領地があった南部藩士遠藤家(知行高百石)の人です。 (上長山小学校創立百年記念誌より)

(2) 吉田孤羊氏来宅の折り「石川さんは、うたの好きな先生であんしたなあ」と静かに話していた。 (遠藤 澄  老人クラブ機関誌) 
 
(3) 「石川さんは明るくて純真で、先生としてもなかなか熱心で、生徒たちはみんな慕って居りました。お話も文学ばかりでなしに、歴史にくわしく、また、私達など足許にも寄りつけないようなえらい人物との交際ぶりを、よく得意になって語る人で、ちょっと煙に捲かれたものです。ただ、私などの尊敬できる人ではありませんでした。これは村の一部の人達から余計な噂を耳にしていたせいかもしれません。私が渋民小学校を去ってから、有名なストライキを起こしているのですが、相手にされた遠藤校長先生などは、好人物すぎるくらいの好人物で、何も石川先生が目の仇にして争うような方では全然ありませんでした。このストライキなんかも、石川先生一流の茶目気からやったものとしか思えません。その当時、私は一年生を受け持ち、石川先生は二年生を、そして校長先生が高等科をそれぞれ担任していましたが、頑是ない二年生などでなく、高等科を受け持ちたかったのです。時々は校長先生に申し入れたらしいのですが、無資格の代用教員では、校長先生も承認できなかったのは当然です。それやこれやが積もりつもって爆発したかもしれませんが、これは誰が見ても石川先生の方が無理です。石川さんはその不満を充たすつもりで、高等科の生徒の希望者に、課外として放課後に二時間も三時間も英語を教え出したのですが、それがまた学校の一室に常宿直のようにして家庭をもっている遠藤校長さんにしてみると、何かつらあてがましく感じられたのも無理はなかったのです。私が居さえすれば、あんなストライキなどは決して起こさせませんでした。 ( 滝浦さめ話 吉田孤羊著 啄木発見より)  
               

遠藤忠志氏は、今盛岡の法華寺に静かに眠っている。長山の早坂から、ほとんどの墓も移築しているが一つだけが、元 居住していた場所に残っている。それには「遠藤忠敏祖母の墓」と記されている。 <右の写真>

忠敏の祖父は、定乃丞と分かったが、墓石の祖母の俗名は、風化して読み取ることができなかった。    

2 上野さめ        
生育歴 明治15年3月 出生

父 上野広安  母 みき 
出生時の住所 雫石村
明治21年4月~ 雫石小学校尋常科に在籍 
明治    盛岡女学校(白百合学園に入学在籍                   
明治37年3月  岩手師範学校女子部卒業                   
明治37年4月  渋民小学校に赴任                   
明治39年10月 本宮小学校に転任                   
明治43年 3月 退職                     
滝浦文弥氏と結婚                   
昭和 6年    京都にて幼稚園を経営                   
昭和39年6月23日没

さめさんの人柄について  (滝浦さめ話 吉田孤羊著  啄木発見より)      
明治21,2年のころ、雫石あたりでは、まだ女子の小学校の就学は認められなかったのを、父の威光で、6歳のときむりやり入学した。従って学友といえば男の子ばかりで、遊びごとも全部男の子と同じであった。相撲は取る、木登りはする、喧嘩しても、たいがい男の子を負かして泣かしてばかりいた。こういう環境が自然彼女の人間形成に強い影響を及ぼしたのではあるまいかと思われる。
渋民小学校の先生時代も、女の先生で生徒がいうことをきかないと鞭でぴしぴしやるのは彼女だけだったそうである。そして彼女は「私はスパルタ教育をやりましたよ」と御自慢であった。   

啄木との関わりについて    
こうしてみると、渋民小学校で啄木と同じく勤務したのは半年ぐらいのものである。しかし、啄木が代用教員に採用される前から学校にぶらりと遊びに行っていたりしている所をみると、後述する上野広一の叔母であるさめさんと、話しあったり、オルガンを弾いたりしていたのではないかと思う。    
啄木も、一番、齢の近いさめさんは、話しやすい相手であったろう。上記のようさめさんの性格にも尊敬しながらも惹かれるものがあったと思われる。
あはれかの 男のごときたましいよ 今は何処に なにをおもうや   啄木   

3、上野広一 
生育歴                
明治19年 月 日出生(※月日は現在調査中)                
  
父 上野 広成の長男  母 くら
出生時の住所 雫石村                 
明治25年   雫石尋常小学校に入学                 
明治32年4月 盛岡中学校(現盛岡第一高等学校入学)                 
明治37年3月 盛岡中学校卒業 
       上京し肖像画を学ぶ。 
       パリに留学 (原 敬の援助による)
       宮中や歴代総理大臣の肖像画を描く。  

啄木との関わり   
盛岡中学校で一級下であったが、下宿近いこともあり、交流をしていたようである。   
しかし、啄木に金を貸していたことも確かである。だが啄木に返してもらったことはなかったようである。   
こういうことがあった事も記されている。
節子との華燭の典の世話を頼まれて準備をすすめているのに、啄木は現れない。広一は近親者と相談したうえ、花婿の分の陰膳を据え、式を挙げることにした。仲人役の広一は言い訳を交えて簡単な祝辞を述べた。祝宴が始まった。両家の親たちは恐縮し、出席者一人ひとりに酒を注いでまわって行儀悪くなる出席者の笑い声を、どこか冷めた思いで聞いている。広一にはそのように映った。落ち着いた節子と、おろおろする親たちとの対照的な姿が印象に残った。
―中略―
啄木は広一の伯母にあたる上野さめ子に、「将来、岩手県で名を成すのは、原敬と上野広一と、俺だ」と話している。広一は後に原敬に認められてパリに留学し、洋画家として大成する。しかし、ニ度と啄木に会うことはなかった。  

(松田十刻著  26年2か月――啄木の生涯より)     
右の写真は、雫石町内にただ一枚残る上野広一画伯の絵。廣養寺先々先代住職の肖像画である。        
<廣養寺本堂>  
 
考 察   
本件はまだ調査継続中であるが、こうしてみると啄木という青年は神童と言われ育ち、自己中心に物事を考え他人の思惑に気持ちをはらう心のゆとりのなかった人物であった事は確かである。複雑な家庭の事情にも起因しているものと思うが、短い人生のあいだに、やり残したことが無い位のことをしたと思う。啄木に関わった3人の雫石人は、啄木に迷惑をかけられながらも、真っ当な人間としての人生を歩んだことを、今回学習させていただいた。 
啄木を社会主義者ではないかと言う人もいる。盛岡中学時代にストライキを覚えたが、その中心にはなれなかった。遠藤校長の前の相馬校長の排斥運動にも関わったが、それも中心になることがなかった。その後、生徒を扇動し、前にたってストライキに突入したことなどを考えると、なんとなく“がき大将”めいてくるが、次の歌を見ると啄木の 言い知れぬ寂しさが伺われる。     
そのかみの 神童の名のかなしさよ ふるさとに来て泣くはそのこと  啄木   

<付録>    雫石町内にある啄木の二つの歌碑           
県立雫石高校「思郷の森」     
(碑文) 病のごと 思郷のこころ湧く日な り 目にあをぞらの煙かなしも 
岩手山・御神坂登山口駐車場 
(碑文) 岩手山 秋はふもとの三方の 野に満つる蟲を 何と聴くらむ

ページトップ