史談百花帖・・拾い読み> ・“春木場”での『春木』引き揚げ現場の写真みつかる ・観天望気と東方朔覚書について 

“春木場”での『春木』引き揚げ現場の写真みつかる      

 会 員  関  敬 一 
(附録)田中喜多美氏らが語る「雫石川の筏師たち」のこと  会報第38号(平成28年1月)所載    
右の写真は、雫石町御明神中村(中島行政区)在住の中村一民(かずたみ)氏(67歳)のご提供による白黒2枚組の写真の内の一枚である。もう一枚が、下の写真だ。雫石町御明神にある「春木場(はるきば)」の地名の由来を示す貴重な写真である。写っている「竜川」は駒ケ岳方面を源とする川で一級河川「雫石川」の本流である。撮影した年代・時期は裏面などに記載がなく不明である。帽子や服装などから明治後期から大正中期ごろのものと推測される。

平成27年8月に、町立御明神小学校さんからの情報により、筆者が中村さんにお会いし、原版をお借りして複写させていただいたものだ。中村さんのご承諾を得て町教育委員会社会教育課さんにも提供した。写真を貸してくださった中村一民氏は、春木場の対岸の中島集落に住む方で、自宅は川原から直線で300メートルほどの所にある古くからの農家である。写真は一民氏の祖父吉太郎氏(故人)が所有していたものらしいが、その入手先は分からないという。往時春木の引き揚げ作業が最盛期のころは川原周辺の住民たちも作業に就労していたものと思われることから、その縁で中村家に残っていたものであろう。中村家には木材を引き上げるときに使用した「鳶口(とびぐち)」が残されている。     
 上の写真の現物は、カバーはないが、硬い立派な台紙に張られている。作業関係者およそ30人が勢揃いしての<記念写真>であろうか。今の小学生ぐらいの学生帽をかぶった子供が一緒に並んでいる。素足なので作業員ではないようだ。写真の中で前列の印半纏を着た二人のうち右側の作業員の半纏にははっきりと「吉谷材木部」の文字が読み取れる。左側の人の半纏の文字は「㊞赤戸○山林」(最初の印は判別不能・「赤」は「志」かもしれない)。引き揚げられた丸太は薪とするためか長さは三尺(90㎝)弱ぐらいに見える。竜川(雫石川)の水量は、春の雪解け水で増量しているせいか多いように感じる。対岸の集落の建物の様子から写真の場所を推定するのは困難に感じる。 

そして、右が2枚目の写真である。こちらの1枚は作業員たちが川に入り、流れてきた木材を岸に寄せている写真である。川原に立てられた三本の長木の上にいる白帽、白シャツの男性は流れてくる木材があることを川の中の作業員に知らせる“現場監督”的な立場の人のように見える。流れてくる木材は十分乾燥していないため、川面に出ているのはほんの一部で、特にブナなどの硬い木は、ほとんど沈んだままで流れてくるため川の中の作業員には見えにくい。このため高い所に立ち木材が流れてきていることを教える役目の人が必要だったと思われる。  

それにしても、流してきた木がそのまま下流に流れてしまうことはなかっただろうか。この対策のために「さく(柵?)」と呼ばれる構造物を川の中に設置したという話が現地に伝わっている。「さく」は3、4本の丸太を十字に組み、これを何組も川を横断するように横に並べていたようだ。この十字の木の根元には、フジ蔓(つる)で編んだ網に玉石を入れて重しにしていたという。この「さく」に引っかかったところを作業員たちが鳶口で岸辺に寄せたらしい。 

この「さく」で思い浮かぶのは、春木場の上流にある「日陰堰」という農業用水路の取水口近くに、水を引き入れるために設置した「三本框(かまち)」という構造物である。また、年代は昭和15、16年ごろまで下
がるが、雫石駅の南側、現在は鯉のぼりを掲揚している辺りの雫石川の中にはやはり流木をせき止めるための「さんき」という構造物があったと近くの横手良雄さん(85歳・駅前行政区)が語っている。横手さんは「さんき」は「三基か三木」だったのではないかという。それも太い丸太を流されないように川の中に打ち込んで作っていたのではないか、その名残りらしい川の中に立っている木を見たことがある、と話してくださった。参考までに、日影堰土地改良区の頭首工への取水のために設けられた三本框のイラストを載せてみた。

「春木場」以外にも、町内各地に「流木引き揚げ地」があった

この写真が写されたと思われる雫石町(大字)上野(字)新里地内の竜川沿いの地域は、かつて山から川流しされた「春木」の陸揚げ地であったことから、通称「春木場」と呼ばれている。「春木場」の地名は盛岡市内・中津川沿いにもある。雫石町内には春木場ではないが「土場(どば)」や「留場(とめば)」と呼ばれる川流しされてきた木材の引き揚げ地が御所地区の町場や安庭周辺にもあったようだ。また、町教育委員会刊行の「雫石の旧家」(昭和57年初版)の<御所地区>桝沢の金十郎家(米沢家)の項に「藩政中期頃、水田のあるところは金十郎家のみであった、と伝えている。奥から流した春木が金十郎家の水田に上げられ、そこで筏に組んで、盛岡に出したものと伝えられ、昭和初期まで筏流しの親分であったそうだ。金十郎家の正統は金吉氏の家である。」と記載されている。     
      
在家(ざいけ)千貫(せんがん)、山千貫、川千貫 
 
中世における郷または村を構成する単位は「在家」であった。慶長元(1596)年、旧御明神村の有力者木村丹波が、新たな領主となる南部信直に県北二戸の福岡に呼び出され、雫石郷の説明をした中で述べたのが表題の言葉とされる。丹波は、滴石(雫石)郷の生産力を聞かれて「その総額は三千貫文である」と答え、その内容は「在家たちの生産力千貫、桧、スギ、桂、栗その他山林樹木の生産高が千貫、これを材木または春木(薪)として筏(いかだ)を組み、雫石川を利用して下流の飯岡や栗谷川(厨川)、盛岡に売る収益が千貫である。」と説明したとされます。
 ※「在家」……中世の村は在家のわずかな集落とこれに付帯した耕地で構成され、集落間には無主の林野が横たわっていた。在家とは屋敷(宅地・建家)と耕地を所有し、田一町歩を基準として年貢を納める者を言う。在家の多くは半士半農の郷侍であった。 

また、藩政時代末期、雫石代官所の御物書を勤めた上野広安は雫石の山林概況を「山林に富み、樹木の繁殖なる。加ふるに水路至便の地にして喬木巨材といえども、朝に伐採して、夕に有用の地に達す。(中略)…舟筏の通路至便なること、実に管内無比の勝地たり。…」 と述べている。その木材の集散地となったのが御明神・上野新里の「春木場」である。 

この春木場の川原の北側沿いを旧秋田街道(秋田往来・旧国道46号)が通っており、沿道両側には古くから人家が建ち並び集落を形成していた。江戸時代には「春木場の小宿(しょうしゅく)」(または小字名をとって「新里の小宿」とも)と呼ばれた。昭和初期まではここでの「春木取引」や「酒造業」などによる経済効果もあって「春木場」は雫石郷の中で最も商業の発達した地域であった。現在の「春木場集落」のあちこちにその面影が感じられる。  

その春木場の“春木の集積場”の位置は、今でははっきりは分からないが、土地の古老の話では現在の春木場橋の上流100mから200mほどのあたりだったという。また、前出の資料本「雫石の旧家」の<御明神地区>に「中島・又兵衛(中屋敷家)」の記載があり、又兵衛家では「中屋敷川原」に春木を陸揚げさせ、借地料として一間当たり、春木2~3本を取り上げ、これで財を成した、と紹介されている。「春木」の集積所は左岸の(上野)春木場だけではなく、右岸の(御明神)中屋敷地内の川原にもあったということを示している。 

  ※「春木」……春木と呼ばれる薪は、文化13(1816)年以来、公式には真木、一般には春木と呼ばれてきた。毎年二月、春木の伐木を希望するものは、藩の御山所に願い出て、許可を得なければならなかった。主に、橅(ぶな)などの雑木と呼ばれて用材に不適な樹種を五尺(およそ1.5m)の長さに切り落とし、春先の雪解け水を利用して流送した。皮が剥げるのが特徴だった。◆(右)筏流し風景
御所ダム完成前の昭和40年代半ばの再現写真(ライオン写真館)

 
※「筏(いかだ)」…雫石通の官山から正式な手続きを経て伐採された木材には、それを証明する方法として木口に墨汁を使用した鉄印を打ち付けた。これを「極印」と称した。極印を打ち付けた木材は、筏に組まれ雫石川を流送された。筏は尾入御番所前(現在の繋ぎ大橋の下付近)で止められ、御山奉 行の手によって確認され、確認書ともいうべき送切手(送り状)が発行された。この送り状によって初めて正当な払下げ木材として認められた。 

(附録)田中喜多美氏らが語る「雫石川の筏師たち」のこと

春木場を出発した筏は、盛岡市の明治橋上流の“杉土手”(現商工会議所付近) に運ばれた。雫石からの筏が到着した時の杉土手での筏師たちの様子や、実際に筏師だった田中喜多美さんのお兄さんのお話など、今ではもはや知ることのできない貴重なお話を上記の「もりおか物語」(盛岡の歴史を語る会企画・昭48年発行)から抜粋・要約して下記に紹介する。 

語り手は、海沼儀助氏(明29年生・鉈屋町)、阿部善吉(明19年生・清水町)、田中喜多美(明33年生・山岸。雫石町出身)である。<いずれも故人>
〔もりおか物語(壹)-惣門かいわい- より抜粋〕   
海沼 明治23(1890)年に鉄道が出来て、新山河岸(明治橋下流)に舟がほとんど来なくなった。しかし杉土手に筏はたくさん着いた。雫石の方から三人ずつ筏に乗って川を下り、杉土手の木場に着く。すると若い者が筏の「ふじづる」をほどいて岸に上げて、“ヒト盛り”“フタ盛”といって木を盛り上げる。春木と言って冬の燃料にする三尺五寸(1m余り)ぐらいのもあれば、また材木にする長いものもあった。たくさんの材木が運ばれてきたので、この木場には「外川」という大きな材木屋があって繁盛していた。現在の明治橋付近の川岸(鈴木製材所)のあたりだ。筏流しの人達は、ここで筏から上がると、あとは川原町あたりの茶屋ッコで酒飲んで、木半(きはん)という宿屋に泊まるか、あるいは日帰りで歩いて雫石へ帰って行った。川岸近くにはモッキリ屋も何軒かあって繁盛したものだった。腰かけて呑む飲み屋を「煮売り屋」といっていた。季節季節のものを煮て食わせるということだったと思う。 

阿部 いま明治橋が架かっている所には材木や柾(まさ・屋根葺きに使う。)なども扱う木半(高橋半次郎)という宿屋があった。ここは雫石方面から流してくるユガダ(筏のこと)乗りがよく泊まったところであった。当時、明治橋、杉土手付近には、ノッツリと、川が狭くなるだけ筏が来たもんだ。筏には「材木筏」と「春木筏」とがあった。材木筏というのは、二間物の材木にハナグリという穴をあけて、隣から隣へと木を繋いだものだった。春木筏の方は、盛岡で燃料にする薪(たきぎ)を繋いだものだった。この薪は春の増水期に川を下して流したので“春木”といったもので、この春木を積み重ねておくところを“春木場”といった。このように雫石川を流れ下った筏は、杉土手の木場に着いて、木半の所で陸揚げされた。それでここに外川屋という大きな材木屋ができたわけです。 

田中 私の兄は、明治から大正にかけて雫石から盛岡までの筏乗りをやっていた。一日かかって筏を組み、翌日は雫石川を下って、盛岡サ下がるのである。天気の良いときは、雫石から三時間かからず、二時間半ぐらいで杉土手まで着いたものだという。筏を操るのは、三人である。筏の先の方に乗るのは“鼻乗り”、真ん中には“中乗り”、筏の後の方に乗るのが“後乗り”である。鼻乗りは心得のある者、中乗りは新参者、後乗りは老練な者が務めた。先頭のものがカジ(舵)を取り、後乗りがそれに上手に合わせて流していく。急流は勇ましく下り、淀みに来ればタバコをふかしたり、歌をうたったりして悠々と流していった。

筏を流すときの櫂(かい)を“うちがい”という。杉土手に筏を付けると、木材事務所へ届ける。そして、“うちがい”を担いで、秋田街道を雫石まで歩いて帰るのである。盛岡でモッキリを一杯ひっかけて出掛ける。途中の仁佐瀬に茶屋ッコがあり、そこでも必ずモッキリをひかっけて、ワイワイ騒いで家に帰ったものだ。

筏乗りの手間賃は、兄の場合は一日五十銭だったかと思う。これは当時としては、良い手間賃だったと聞いている。米一升は十銭ぐらい。普通の日雇い賃金も十銭から十五銭ぐらい、田の草取りは米一升ぐらいだった。大工の賃金と筏流しの賃金とは、だいたい同じぐらいだったようである。だから筏師になることは、若い者にとっては自慢だったのではないか。なにしろ威勢の良い、目立つ職業だったから――。

特に雫石町内でも、安庭付近が盛んで、この辺はたいへん景気がよかった。半面には金回りがよいので、遊びを覚えてしまうものだから、カマド返し(破産)も多かった。

時々大きな“曲り家”が、太田や紫波だのサ売られていったこともあった。

筏を組むとき、木材と木材を繋ぎ合わせるには、昔は“ワクトウシ”といって、細長いマサカリ(ワクつぶしともいう)で木に穴をあけて繋ぎ合わせた。その後になって、鉄製の環(カン)ができた。木材は二間物は十三尺、一間物は七尺位、いずれも余分の長さを保つようにした。筏を杉土手の下流に付けるまでが筏師の仕事で、筏をほどいたり、川から揚げたりするのは、別の木場の人夫がやった。

春木というのは、旧暦二月、雪が“カタ雪”になって、道のないところでも自由に歩けるようになった頃、山に入って伐るのである。二尺八寸ぐらいに切って、棚積みにし、秋までそのままにしておく。秋の稲刈りが終わって、全山木の葉が落ちてしまったころ、それを山の沢にぶち込んで、谷川を流してきて、春木場に揚げるのである。このようにして御明神村の雫石川の春木場には、用材や棚薪が山のように積み上げられていた。

だから春木というのは二年越しの薪で、川を流してくるので全部樹皮がはがれている。よく乾燥していて、値段も高かった。こうして集められた春木を春木場で筏に組み、雫石川を下して盛岡に運んできて燃料としたのである。盛岡全部の燃料となるので、大変な量だった。

筏組みは、用材ものよりも春木の方が短いので、組むのが面倒なものだった。川流しの最中に急流の岩石などにぶっつかると、バラバラッとほどける。それを鳶の口などを使って大急ぎで引き寄せてまとめる。とても忙しくて、危ない仕事である。ボヤボヤしていると、川の中にドンブリ落ちてしまう。急流のところは竿で操り、川幅が広くなり流れがゆるやかになると“うちがい”で漕ぐ。こういうことで「筏流し」も楽な仕事でなかった。
 以上、「もりおか物語」終了。    
            ◆◇◆   
明治以降もこの流送は続けられた。雫石でも多くの筏師たちがここで生計をたてていたと思われる。それが伺える賢治作品がある。
 賢治作品「腐植土のぬかるみよりの照り返し」(文語詩稿「一百篇」より) 
 こはいかに赤きずぼんに毛皮など 
 春木流しの人のいちれつ    
 なめげに見高らかに言い木流しら 
 鳶をかつぎて過ぎ行きにけり

※この文語詩は、大正10年代に旧秋田街道沿いの橋場駅周辺の様子をつづったものと思われます。賢治さんもきっと「筏流し」を興味深く見ていたのでしょう。
 
筏流しが廃れたのは、大正11年に橋場線の開通をはじめ陸路も順次整備されたことによる。そして全く姿を消したのは、繋地区の雫石川に発電用の堰堤(えんてい)ができた昭和10年だった。


観天望気と東方朔覚書について
 会員   関 敬 一(下町)  会報第17号平成23年1月
私たちが毎日テレビや新聞などで特に関心を持って見聞きする「天気予報」。かつては“当たらないもの”の代名詞と揶揄(やゆ)された時代もあったが、最近は科学技術の進歩や測候技術の向上で的中率がかなり高くなっていることはご承知のとおりである。

天気(気象)予報は、我々の日常生活はもちろん農作物の栽培管理や農作業をする上で極めて重要な情報である。これは農業に限らず、山林業、漁業にとっても同じだ。このため、古くから人々はなんとかして天気を予測できないか、あれこれ考えてきた。

こうしたことから編み出されたのが、太陽や月の動き、山や雲の状態とそれに対する動植物などの反応などをもとに、数日間のお天気や中長期の気象を予想する「観天望気(かんてんぼうき)」といわれるものである。これは長い年月にわたり自然界の動きを綿密に観察し、その記録を丹念に積み上げ、“確率”として導き出してきた気象予報で、「お天気ことわざ」や格言の形で、今なおわれわれの身近かに伝えられている。また江戸時代に「東方朔(とうぼうさく)」という書物にもまとめられている。

お天気ことわざのかずかず

町出身の郷土史家田中喜多美さんの著作「山村民俗誌」によれば……
かつて、岩手山南口(雫石・御神坂口)からお山がけする人々は「岩手山の中腹に雲が横に棚引けば『お山、帯した雨が降る』と言い、頂上近くにかかれば『お山、鉢巻きした天気になる。』と言い、岩手山がはっきり近くに見えると『お山近く見える、荒れ日が来るぞ』言っていた。また岩手山に三度積雪があれば、次は里まで来ると信じていた。」
…ということである。

町内大村地区でも、雫石盆地内の最高独立峰とされる男助山にかかる雲の状況で天気を予測することわざが同じような言葉で残っている。

昔の人々はこのように山や雲の状態や動きから天気を予想し、日々の暮らしや山仕事、農作業に対応してきた。これを前述のとおり「観天望気」と言い、格言やことわざの形で全国いたるところに伝えられている。 

このことわざ類は余りに数が多いので全てを紹介できないが、その主なものを見てみると、――「夕焼けは晴れ、朝焼けは雨」、「朝虹は雨の兆し、夕虹は晴れ」、 「遠くの音(汽車、川の瀬音、鐘など)がよく聞こえると雨が近い」、 「飛行機雲がなかなか消えないときはやがて雨」、「ツバメなど鳥が低く飛ぶ時は、やがて雨になる」「月にかさ(暈)がかかると雨」――などが広く知られている。

日本列島の場合は、一般的に西から天気が変わるとか西風が吹くと晴れると言われ、これに関したお天気ことわざも多い。これは日本のはるか上空を強烈な「偏西風」が西から東に吹いており、雲や前線の動きに影響するからなのであろう。

 しかし、日本は複雑な地形が多く、お天気も全国共通ではない。このためそれぞれの地方独特のお天気ことわざも伝えられてきた。たまたま、本年(平成 22 年)夏に雫石町内の数人の山岳関係者に対してアンケート調査をお願いし、『里から山を見て』及び『山の上における』お天気ことわざや格言を挙げてもらったデータがあるのでここに紹介する。 
・岳(だけ)で風が遠鳴りすると天気が変わる。
・西の山の三角窓(曇りの日に谷間の雲が晴れて上の暗雲との間が逆三角形に明るくなること)が開く時は風が強くなる。
・志戸前の山が曇れば雨が来る。(御明神地域では大洞<おおほら=天川沢の奥の山>も同じように言われる)。
・奥羽山系の山に土手雲がかかると里は晴れでもやがて天気が崩れる。
・男助山に雲がかかると雨。
・駒ケ岳、三ツ石で東から風(のぼり風)が吹くと雨になる。
・春から夏季に裏岩手で鳥海山が見えれば翌日雨が降る。
・西の山に傘雲がかかると天気は悪くなる。
・「雷三日」(雷は一日だけではなく続くので要注意!の意)
・山小屋で星空が見える時は、翌日の午前中は晴れる。
・烏帽子が曇れば岩手山の天気は下り坂。
・蟻が巣から外へ土を運び出す時は晴れる。
・山でリスを見かければ天気は下り坂。 など。

 <お天気ことわざ>の多くは現代科学で も説明のつくものであり、また長年の経験から確信しているものも多いようだ。だからこそ長く伝えられているのではないかと思われる。現に私が取材した山好きの町民たちは、こうした“ことわざ”は当たる、と言っている。

江戸時代の気象手引書となった「東方朔(とうぼうさく)」とは

 次に口承ではなく、書き物として残る気象手引書について紹介する。

 「雫石町史第一巻」に『町内黒沢川の旧家に江戸時代の天保2(1831)年に書写されたと思われる「東方朝覚書」という古文書が残っていて、古老たちはこの書を<とうぼうさく>と呼んだ』 という記載がある。町史ではさらに、『さまざまな気象条件、特にも冷害によって幾多の飢饉(ききん。飢褐(きかつ=けがぢの語源?))に見舞われた江戸時代の農民たちが、過去の経験と伝承から、その年の気象と作柄、さらに疫病、物価等を予想して対処する手引きとしたものだ。』 と解説している。

これと同様の題名の書き物は「東方朔 秘伝置文」<とうぼうさく ひでんおきぶみ>、「東方朔覚書」<とうぼうさくおぼえがき>などの名で全国各地に残っている。
(筆者注;私は実際に町内に残っているという当該史料を見ていないので断言できないが、町史では本の題名を「東方朝覚書」と“朝”としているが、全国的には「東方朔」である。「朔」の字体を草書などでくずせば、「朝」と読めなくもない。確認が必要と思われる。)
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「東方朔」はそもそも人名である。紀元前1世紀ごろの中国、漢の武帝側近の博識の文人で諸事に通じていた人だったという。東方朔は自然現象、気象にも知識が深く、こうした手引書の原型になるような資料を当時作っていたのかもしれない。「東方朔」といわれる古文書の中で、研究者の間でよく知られているのが埼玉県嵐山(らんざん)町の旧家新井家に伝わる秘伝置文。その文書の序に次のような「趣旨」が綴られていて興味深い。内容の目次(目録)とあわせて紹介する。 

東方朔秘伝置文の序


凡人倫の大事は農家の努にありよく天地の気運に達し風雨曇晴を察して稼穡(かしょく)を為すときは百穀登りて万民快楽(けらく)す 然りといへども悉く天文に通ぜざればこれを察する事能はず こゝに東方朔(とうほうさく)は漢の武帝の侍臣にして歳星化身也といふ 後世を避て無為の間に遊ぶ曽て天文地理に明にして万世の吉を知る故に此一巻を遺(のこす)をもて人民の利益少からす 最(もっとも)世に伝る事久し間(このごろ)予遇(たまたま)この原本を得て謹で梓(あずさ)に鏤(ちりば)め世に公にして稼の過(あやまち)なからんことを欲する而巳(のみ) 岩山道人誌【※( )内は筆者のふりがな】

東方朔秘伝置文 巻中目録 
第一 六十甲子(かつし)吉凶の事 
第二 日輪を候(うかがい)て吉凶を知事 
第三 月輪を候て吉凶を知事 
第四 星を候て吉凶を知事 
第五 雲気を見て年の吉凶を知事 
第六 虹を候て吉凶知事 
第七 電光(いなひかり)を見て雨風を候知事 
第八 雲気を見て雨風を候事 
第九 雨降出る時によ 降晴るを知事 
第十 毎月定て風雨吹降日の事 
第十一 煙気を見て吉凶知事 
第十二 四季の気を見て吉凶知事 附火気病気知事 
第十三 軍中に雲煙の気を見て吉凶知事 
第十四 五音の気候吉凶知事 
惣目録終

序文はなんとも格調の高い文で綴られているが、要は「天文・気象に通じた人こそが農作物の実りをもたらす農事(稼穡)がうまくできる。漢の武帝の臣であった東方朔はまさしくその人であり、その彼が農事に関する一巻の参考書をまとめた。私はたまたまこの原本を手に入れたのでここに上梓して公にする。これをもとに間違いのない農事をしてもらいたいと願う。」という意味のようである。ただ、上梓といっても印刷・製本ではなく実際は「書き写し」だったようだ。

「東方朔」は農民の経験と知恵の結晶 


この「東方朔」の書物は、こうして全国に広まっていった。県内でも各地にこの書き物が残っているようだが、雫石の近くでは花巻でも確認されている。花巻歴史民俗資料館収蔵の史料に「東方朔置文(おきぶみ)」があり、これに基づく行事として「東方朔占い」が次のように紹介されている。
 東方朔占い(とうほうさくうらない)1 月 15 日

むかしから当地方で行われていた占いで、15日の夜「東方朔置文」という本を持っている家に集まってこれを読む行事です。「東方朔置文」とは、十干、十二支の組み合わせによる 60 通りの天候・作柄などの予想が書かれているものです。それによって、仕事の手順や品種の選び方を工夫しました。なおこの日には、田植え行事、成り木責めなど、豊作予祝の行事も行われました。 
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雫石町内に残っている文書も含めて、この「東方朔――」は、印刷されたものではなく、書ける人は書き写し、書けない人は借りるなどして耕作への対策を考えたとされる。町内でも最近まで、古老が「伊勢暦」などを見ながら、特定の日の「月」を見、雲の形を調べて書き留めておく習慣があったとされるが、これもこの「東方朔――」とのかかわりがあるのかもしれない。 

町内の「東方朝覚書」の内容から気象と耕作との関係について一部を紹介すると、
①例えば、干支からの予想「葵巳年は、二・三月風、霧、霜多し…」 
②「月」の色からの予想「月色黄にして青きは飢饉なり、…」
③虹の立つ方角からの予想「虹立て、西に有るは、明日必ず雨降り、…」
④節句から予想「秋分の日入時分に、西方に雲懸かるはその年ゆたかなり五穀実る」等がある。また、このほかに煙の昇り方、稲先の様などからの予想も書いてある が省略する。

雫石町史では、このことを「今の科学的 判断から見れば全くもの笑いであるが、この時代には、真剣な観察であり、唯一の手引きであった。」と書いている。 頭から「…全くもの笑い…」と決めつけるのはどうかと思うが、当時としては“真剣な観察”であり、その丹念な積み重ねなど血のにじむような努力あったことは確かであろう。まさに農民の経験と知恵の大いなる成果といえるものだ。 

現在は、わずかに町史にその片鱗を残すのみの「東方朔」であるが、花巻市の例のように町内においても年中行事にその姿が残されていないかどうか、調査・研究に値すると思われる。 

以上「お天気ことわざ」、「観天望気」、 そして「東方朔覚書」などについて見てきた。いかに科学技術が進み、コンピューターが発達した時代になろうとも、我々のように物ごとを歴史に学ぼうとする者にとっては、自分自身の「観察力」、「分析力」、「洞察力」を養うことがいかに必要であるかを改めて教えられた気がする。