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秋田街道を訪ねる
秋田街道の道筋は、盛岡城下から雫石、橋場を通り、国見峠で奥羽山脈を越えて秋田生保内から角館方面へといたっていた。
この街道は、雫石に戸沢氏の居城があった中世の時代より頻繁に利用されていたが、本格的な整備が始まったのは慶長2年(1597)のこと。盛岡に南部氏の居城が決まったことで盛岡‐秋田間を結ぶ最短の道として重要視されたからだった。とくに、江戸時代前半は、京や大阪の物資は日本海を利用する西回り航路で秋田湊まで輸送されており、それらの物資を南部藩まで運ぶ際の陸路として、秋田街道は重要な道筋であった。これにより、盛岡、秋田両藩の境口となる橋場(現・雫石町)と生保内(現・仙北市)には御番所が設けられ、物資や人の出入りの取締りが行われていた。
村と村、そして藩と藩とを結ぶ秋田街道には商人や牛方をはじめ、様々な人が往来した。なかでも御馬買い衆の存在がこの街道の役目を象徴している。南部の地は古の時代より知られる馬産地。幕府をはじめ、関東以西の大名衆が憧れの「南部駒」を求め、御馬買い衆を南部の地に送り込んだのである。このとき、御馬買い衆は、秋田街道を通って盛岡に入来するのが慣例となっていた。
「南部史要」によると、幕府から派遣されていたいわゆる公儀御馬買役人が盛岡に入来するのはたいてい晩秋の頃。鷹狩りや鹿狩り雉子追いなど軍事教練を兼ねた勇壮な騎乗を試し、南部駒の優秀さに改めて舌を巻いたという。
秋田街道は、南部駒の実力を日本中に知らしめた「馬の道」でもあったのである。
(奥山淳志著:岩手日報社発行「いわて旅街道」より抜粋)
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2 長山街道分れ
3 生森一里塚
4 雫石城跡
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6 臨済宗臨済寺
7 曹洞宗廣養寺
8 雫石代官所跡
9 三社座神社
10 高前田一里塚
2013 雫石町中央公民館 生涯学習 歴史講座 「雫石版 街道をゆく」
-秋田往来、雫石街道を行き交わった人と物の歴史を訪ねて- <資料>
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