郷土の歴史紹介

 雫石の歴史と歩み

雫石町は、ほとんどが雫石盆地に含まれるという地理的な特徴から、古来比較的一体となってその歴史を歩んできました。その概要と特色は、大きく時代ごとに次のとおりです。

1)先史以前

太古、雫石地方は海であり、湖でした。その名残として町内の各地には当時の地層を観察できる場所があり、海だった時代の地層(国見層ほか)からは魚や貝の化石が、湖だった時代の地層(舛沢層)からは木の葉の化石が発見されています。

2)先史時代~古代

雫石地方と人のかかわりは旧石器時代に始まり、板橋Ⅲ遺跡(板橋)からは、約32 千年前のものと見られる石器が発見されています。

縄文時代には多くの人々が暮らすようになりました。町内で確認されている210か所の遺跡のうち、およそ8 割はこの時代の遺跡です。早期(約1 万年前~)以降、町内の各地に生活の場が広がっていきますが、とりわけ、塩ヶ森遺跡(繋5 地割・旧字塩ヶ森)や小日谷地I B遺跡(小日谷地)など、雫石川の流域には大きな集落がつくられ、発掘調査でさまざまなものが見つかっています。また、桜沼遺跡(名子)は、『岩手郡史』でも「本郡稀に見る先史時代遺跡」と称されたほどの大きな遺で、遮光器土偶が特徴的です。

対して、弥生・古墳時代の遺跡は非常に少なくなり、当時の暮らしはよく分かっていませんが、弥生時代の住居のようなものが見つかった伝久遺跡(西安庭第31 割・旧字伝久)や、古墳時代のお墓が見つかった仁沢瀬Ⅳ遺跡(仁佐瀬)など、町内外から広く注目を集めている遺跡があります。

奈良・平安時代、盛岡市では志波城をはじめ数多くの遺跡が見つかっていますが、その反面、町内の遺跡は多くありません。平安時代の竪穴住居跡が見つかったとされる籬野遺跡(西安庭第11 地割・旧字皀角)の他は、仁沢瀬Ⅱ遺跡(仁佐瀬)が大きな集落跡と考えられていますが、調査の事例も少なく、詳しいことはあまりよく分かっていないのが現状です。

3)中世

中世になり、ようやくこの地域が「しずくいし」と呼ばれるようになるようですが、当初は「滴石」と表記されていたことが知られています。

記録によれば、12 世紀末頃、後の新庄藩主となる戸沢氏初代の衡盛(ひらもり・一説にはひでもり)が移り住んだ場所が戸沢館(西安庭第28 地割・旧字戸沢)であったと言われています。

南北朝時代には、戸沢(滴石)氏は南朝方に味方し、南部氏らとともに北朝方と争ったことが伝えられています。

戦国時代には、勢力を拡大してきた南部氏との抗争が激しくなり、天文91540年、戸沢氏(一説には手塚氏)の滴石城は南部氏の攻撃により落城しました。その後の混乱の中滴石に入った斯波氏は、「滴石」を「雫石」に改め自らも雫石氏を名乗り城を復興したものの、天正141586 年)、南部信直の攻略によって城は再び落城したと言われています。この戦のさなか、雫石城につながる秘密の水路をめぐる、茶屋のおかみと南部氏の隠密のやりとりから生まれたという話が「よしゃれ」の伝承として後世に伝わり、座敷踊りとしての「雫石よしゃれ」に発展、さらには岩手を代表する民謡「南部よしゃれ」となったことは有名な話です。

4)近世

江戸時代に入ると、雫石地方は盛岡藩の広域行政区域「雫石通」となります。後期には、雫石・繋・安庭・南畑・鴬宿・御明神・上野・橋場・西根・長山の10 村に区分され、現在の「大字」の基礎ができあがりました。

雫石通の中心となる雫石村には、それまであった城に代わって代官所が設置されました。盛岡と角館・秋田を結ぶ街道は町内を横断し、「雫石街道」や「秋田往来」と呼ばれ、幕府の巡見使や馬買衆が国見峠を越えるため、特に整備が図られました。

街道沿いには一里塚(生森・高前田など)も築かれ、藩境に近い橋場には御番所が置かれました。

街道は、戊辰戦争の際には官軍の通り道となり、橋場では実際に戦いが繰り広げられました。

江戸時代には、多くの生活文化が生まれ、雫石に根付いていきました。農家の住居様式である南部曲り屋をはじめ、農業(水田・畑作)・林業(山林の維持管理・筏流し)・狩猟・水産業(漁労)に関わる各種の生活様式や使用する道具類など、その多くは戦後の高度経済成長期前まで伝わりました。年中行事や、神楽や田植踊・念仏剣舞など町内に伝わる民俗芸能の多くも、その発祥を江戸時代に求めることができます。

5)近代~現代

明治22 年、市町村制の施行によって、先の10 か村は雫石・御所・御明神・西山の4 つの村になり、昭和15 年には雫石村が町制を敷きました。

明治時代中には、現在は日本最大の民間総合農場となっている小岩井農場の開場、七ツ森の払い下げや志戸前山の下げ戻しなどの大きな出来事がありました。

近代に至っても、雫石には独特の文化が築かれ続けましたが、その最たるものは、雫石あねっこの衣装に代表される、各種の織り・染めの技術といえます。地域独自の織物として伝承されてきたとされる「亀甲織」をはじめ、昭和12 年開催のパリ万博で銅賞に輝いたテーブルセンター(マダ皮と絹糸で編んだ敷物)の他、マダケラ(シナノキの皮で編んだ蓑)など、芸術作品とも言うべき工芸品も数多く生み出されました。

また、雫石は、宮沢賢治と深いつながりがあることが知られています。彼の作品の多くに雫石の地名が登場することが知られていますが、中でも「七つ森」と「狼森」(丸谷地・小岩井農場内)は、平成17 年に「イーハトーブの風景地」として国の名勝に指定されています。

昭和304月に1町3 村が合併し雫石町となった後、御所ダムの建設がはじまり、それまで雫石川沿いに暮らしていた住民は移転することとなりましたが、その際に収集した民俗資料(民具類)が歴史民俗資料館に収められています。

雫石町は平成17 年に合併50 周年を迎え、現在に至っています。

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  以上歴史と文化の学習拠点整備基本構想・平成233月・雫石町から抜粋。




          日本の中の雫石の歴史(ミニ通史)