平成28年度第2回郷土史教室
雫石町教育委員会・滴石史談会      

町内史跡めぐり 

       広大な森林と雫石川、そして秋田街道に沿って発展

     “御明神地区の歴史と文化”を訪ねて

 〔岩手大学農学部附属・旧経済農場官舎跡地近くの松並木〕
◆ 期 日; 平成28年8月30日(火)
  830 町中央公民館前出発
  845  岩手大学農学部附属寒冷フィールドサイエンス教育センター到着・「旧第一拓殖訓練所」の歴史について主催者から解説
 9:00 同センター佐々木一也先生から「演習林について」の事前説明 (一部バスの中で)―― 「ふるさと文化財の森」ほかを見学し、センターへ戻る。
 1030 センター出発
 10:45 橋場集落着 ―― 橋場御番所跡見学 ―― 三柱神社~戊辰戦争・古戦場跡(坂本川周辺)
 12:00 昼食〔道の駅「雫石あねっこ」〕― 1300
 13:15 上和野馬頭観世音堂到着(40分間)――1355
 14:15 通称「春木場」(消防屯所前)到着〔旧秋田街道跡、市街地、流送の薪・木材集積地跡〕
 15:15 町中央公民館前 帰着

 
日程Ⅰ  岩手大学農学部附属演習林内「ふるさと文化財の森」見学


 イーハトーブの詩人宮沢賢治が、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に学んだこ ろ、農業実習のため、盛岡市上田にあった学校から、この御明神経済農場と演習林までかつ ての秋田街道(現在の国道46号)を歩いて通いました。


 この御明神経済農場と演習林の施設は、現在「岩手大学農学部附属 寒冷フィールドサイエンス教育研究センター」として活用されています。演習林の名称はそのままですが、経済農場は「御明神牧場」と名称が変わっています。

岩手大学農学部から北西約23kmの雫石町に位置するフィールドは、広大な面積と優れた自然条件下にあり、中山間地における農林業や自然生態系に関する教育研究に優れた条件を有しています。

(写真)演習林事務所が入る管理棟

 <御明神演習林>東北地方北部の日本海型の気候帯に属し、急峻な山岳地形を含む御明神演習林(面積1040ha)の植物相は日本海型の要素が多く見られます。雫石川支流の赤沢川の上流部はヒバ、ブナ、ミズナラ、スギ等の針広混交林で自然度の高い貴重な天然林が残されています。創設直後から人工林の造成が行われ、植栽樹種の過半はスギが占め、アカマツ、カラマツが次いでいます。山岳地形を生かした伐出技術等の林業技術研究をはじめ、ヒバやスギの森林生態学的研究や天然林施業などの基礎的、応用的研究が行われています。

<御明神牧場>中山間地の立地条件を生かし、放牧・パドック飼養を主体とした粗牧的管理下で、肉用牛や羊を飼養し、教育研究を展開している牧場です。おもに動物系の教員の研究、学生実習に利用されるとともに、牛の繁殖障害防除や体外受精など新規技術の応用など研究が活発になされています。また御明神演習林に隣接することから林内放牧を取り入れているほか動植物環境に関わる研究テーマ、学生実習のフィールドとしても活用されています。72名の収容規模を誇る宿泊施設は御明神演習林と共用され、宿泊を伴う実習等に頻繁に利用されています。

 
 ✿ 宮沢賢治さんの盛岡高等農林入学は、農学科第二部で、大正4(1916)年4月のことである。当時は滝沢村と御明神村(現雫石町)の2カ所に高農の演習林があった。そのうち、雫石町には当時の御明神村赤沢に、高農附属の“御明神演習林”と“経済農場”があって、それは滝沢演習林に比して、はるかに大規模なものであった。 

 この御明神演習林は、明治38(1905)年11月に、広大な国有地を農商務省から移管されて設置、また経済農場は翌明治39年10月に開設されたものである。主として、アカデミックな理論への偏重を避けて、果樹、畜産、林業への実習を基調とした農業分野の演習地として、当時としては時代を魁けた教育研究施設であった。
  したがって、高農での獣医学科・林学科はもちろんのこと、農学科第1部、第2部の科目の中にも「実験及び実習」、「農場実習」その他、この御明神での附属施設利用の学科履習は当然のことであった。
  ここへの往復は当時のことゆえ公共交通機関もなく、すべて徒歩によるほかなかったのである。だが、それは、そこへの道々をはじめ、経済農場や演習林の宿泊においても、自然の懐深くに出入りする賢治さんの人なりや学業そのものをはじめ、往来で地元の人と交わす言葉さえも、いつしか募る文学的感興を、一層豊かにするそれに違いなかった。 

農場二首  
風ふけば まるめろの枝ゆれひかり トマトさびしくみちに落ちたり   
そらしろく 温き堆肥はこほろぎの なける畑にはこばれにけ
り 


この歌も、はたして御明神の経済農場を詠んだものかどうか厳密には判断しがたいが、当時の高農の施設としては“農園”とか“果樹園”というものが校地内にあったことから、「農場」と題されて創作されたその形は、どちらかといえば、やや日常風景から遠い地点のものと言えなくもない。いずれにせよ、経済農場における感興にも該当する作品には違いない。

賢治さんの「東京ノート」に「経済農場レッドチモシイ トップ」、「春木場の河原」のメモが見え、「文語詩篇ノート」には「四月 高農一年 実習」とか「農林第一年 第一学期 辻、中丸、高橋、山村、橋本」とあるのに続けて、再び「経済農場レッド トップ」、「春木場の河原」などのメモが見られる。それらはいずれも、なんらかの作品を心がけたメモに違いなかった。したがって、賢治さんたちは高農一年時に、すでにその地に出入りしていたわけである。

 
 御明神経済農場内にあった「第一拓殖訓練所」について(この項、佐藤一也著「もう一つの学校史」日本の拓殖教育・光陽出版社刊 及び雫石町史Ⅰ 1137~1140Pから抜粋・引用)
           
◆ 第一拓殖訓練所 昭和8(1933)年4月、文部省(文相・鳩山一郎)は「文部省告示第203号」により、盛岡高等農林学校に第一拓殖訓練所、三重高等農林学校に第二拓殖訓練所、そして宮崎高等農林学校に第三拓殖訓練所を、それぞれ開設することとした。拓殖訓練所は「拓訓」、また個別には「一拓」「二拓」「三拓」と呼ばれた。
 告示では「移植民教育施設として本省に於て左記要領に依り拓殖訓練所を開設し生徒を募集す詳細は各訓練所に就き承合すべし」としている。 
 そしてその募集要項によれば「拓訓」の設置目的は一拓と二拓が「満蒙に移住し農業に従事セントする者に須要なる技能を授け心身の訓練を施す」ことにあり、三拓は「南米に移住」する者を対象とするものであった。
 この意義を、当時(昭和8年4月6日)の岩手日報は「移植民教育は我が国教育制度として初めて樹立された。」と紹介している。
 当時の「拓殖訓練所実施要項」の内容は次のとおりである。
 ・教育方針   「心身の訓練」と「実習重視」
 ・訓練内容  (1)訓練期間  1カ年
        (2)入所資格  (イ)学歴  実業学校卒業程度以上
          (ロ)年齢  満18歳以上30歳以下
        (3)収容人員  1個所 30名
        (4)学科目
             移植民地事情(地理歴史・風俗習慣・経済及び制度)
             植民史、移植民地農業(耕種、畜産、農産製造、機械、農具)
             測量及び土木工学、移植民地衛生、貿易、保険、為替、外国語、
             武道および教練、特別講義、実習作業  以上
        (5)生活    起床(4~6月)午前五時、(7・8月)午前四時
                 (9~11月)午前五時、(12~3月)午前六時
                 就寝は通年、午後八時半

 「一拓」では昭和8年6月11日に、開所式と第1回生の入所式が行われた。場所は盛岡高農附属農場(「経済農場」という)であった。その一隅に一拓が設置されたからであるが、そこは岩手県御明神村(現岩手県雫石町御明神)という所で、盛岡駅から橋場線(現田沢湖線)春木場駅から南へ直線で3キロの地点である。
 この年、盛岡高農は1902(明治35)年3月28日に設立されて以来、「開校30周年記念式典」が5月1日から3日まで開催されており、一拓の開所式並びに第1回生入所式はそれに続く大きな行事であった。式は、質実剛健を実際に表現するかのように野外で行われた。当日は快晴であった。設置母体である盛岡高農の上村勝彌校長は式辞の中で「約60名の志望者中より最適当と認められる者30名を厳選し、これに仮入所を命じ…」と述べた。文相代理の粟屋謙 次官が文部大臣告示、永井柳太郎拓相代理、岩手県知事石黒英彦、御明神村長下川原金蔵らが祝辞を述べた。

(参考) 
 
 志願者数
 入所者数
 退所者数
 一拓
 58
 30
 7
 二拓
 117
 38
 1
 三拓
 70
 28
 4

 1934年第一回生が出て行ったあと、各拓訓には清新な希望に燃えた第二回生が入所して来た。一拓には35名、二拓には37名、三拓には24名の新入があった。
 当時は、大きな希望のわりには、「…訓練生は当分これを本校御明神演習林寄宿舎内に起臥せしめ同寄宿舎を本科学生が使用する場合は、小屋掛けないしは天幕内に生活せしむることとし…」というのが実態であった。訓練生は「笹小屋」生活も“体験”した。
 一拓で寄宿舎が建設され、新しい宿舎に入所したのは1935(昭和10)年2月であった。
 寄宿舎は経済農場内に建てられたが、建坪96坪の本屋と20坪の附属舎からなっていた。「各部屋12畳、押入付の和室、南側半間の廊下と障子で仕切られ、職員室も同じ様式で並板敷の講堂兼武道場と食堂兼教室が続き…」という状況であった。一拓では、この新寄宿舎に「明眞寮」と名付けた。「明眞」とは、一拓の綱領の第5項「明朗純真」から採った。この明眞寮は残っていない。跡地に岩手大学農学部附属御明神演習林の管理事務、実習教育のための建物が一棟建っている。岩手大学における一拓の唯一の痕跡は、その建物の前庭に建立されている「明眞寮跡」と刻まれた石碑だけである。

碑文にはこうある。

昭和八年より同二十年まで 
盛岡高等農林学校に附置された文部省第一拓殖訓練所の修了生二六五名 
この地を巣立ち世界に飛び北に南に 
沃土を拓き気高く土に生きた若き世代を偲ばん 
麗しい青春を守る明日に糧に

揮毫者は石碑建立当時の岩手大学農学部長石川武男である。日付は昭和53年6月15日。石川武男は2002年9月9日逝去した。81歳であった。
 ◆雫石町在住者で、この一拓に学んだ者は次の三名である。
  ① 太田原 清 光 氏 (昭和10修了・天戸 故人)
  ② 小田中 民 夫 氏 (昭和17修了・中町 故人)
  ③ 高 橋 重 夫 氏 (昭和20修了・極楽野 故人)

 
日程Ⅱ  橋場御番所跡と周辺の「戊辰戦争古戦場跡」
 
  三柱(みはしら)神社 
 明治三(1870)年、神社統合で橋場村社として残され、現在橋場部落の産土神である。坂本川には鎧(よろい)状の、また小柳沢入口には烏帽子状の明神岩と称する岩があり、共に聖地となっている。最初に村人たちが山の神を祀り、その後、鎧明神、兜(烏帽子)明神を合祀し、「三柱神社」としたものと推察されるが詳らかではない。(町教委刊・雫石の寺社より)
  
  ◆ 戊辰戦争(ぼしんせんそう)・ 橋場口の戦いのようす 
雫石の秋田街道での史上最大の出来事と言えば、やはり今から148年前の戊辰戦争「雫石(橋場)口の戦」であったと思う。中でも「橋場警備隊照井隊長の一騎打ち」と「またぎの“よぎ”の快挙」は今でも語り草である。 

 慶応4(1868)年(明治元年)6月23日に奥羽鎮撫総督九条道孝公の一行を秋田に見送った盛岡藩は、楢山佐渡<左図>、向井蔵人を総大将とする諸隊が7月27日鹿角口(花輪方面)に出陣、一方沢田斉、野々村真澄を隊長として雫石口より生保内を攻撃することとなった。雫石口は、農兵が多かった。
 同年8月21日、ヒヤ潟から出陣した沢田斉率いる一隊が秋田領に侵入し、秋田側と交戦。この後盛岡藩側は善戦。しかし、鎮撫総督府は、9月21日に至って庄内討伐軍に加え長崎振遠隊に急きょ盛岡転身を命令。火力に勝る官軍は国見から一挙に橋場方面に進攻、坂本川沿線で白兵戦を含む激戦が展開された。

 防戦した橋場警備隊の照井隊長は、藩が降伏謝罪中なので攻撃をしないように要請したが聞き入れられず小銃戦になったが決着がつかず、隊長と相手軍指揮官の一騎打ちの決闘となった。相手を組み伏して勝ったかと思われた照井隊長は、一瞬の隙を突かれて運悪く敗れた。
 ≪マタギのヨギが快挙!≫
 隊長を討たれて意気消沈した盛岡勢は、鉄砲の精巧さにも押されて敗退し橋場まで下った時には、橋場は、間道を迂回し竜川を越えた一隊が北方の山上から大砲や小銃の攻撃を受け、盛岡勢自ら部落に火をつけ裏の山中に逃げた後であった。
 敗走する盛岡勢の中で、マタギの与吉が部落の焼ける煙の中を三柱神社の方へ進んで行った。敵の隊長らしき者が敗走する盛岡勢を眺望しているのを見つけ、明神石の陰に身を寄せて手なれた火縄銃で隊長を狙い一発でこれを斃した。これを見ていた味方のマタギが「与吉(よぎ)うまく撃ったぞ」と叫んで山道に逃げ込んだ。敵がその声の方に集中攻撃をかける間に与吉は舟原の山中に逃れた。
 この声援したマタギの名前は伝わっていない。長崎勢は「よぎ」の呼び名をたよりに葛根田のマタギ重兵衛、嘉右ヱ門などを呼んで尋問するなどして後年まで尋ねたが、誰も口を閉ざして与吉の名を知らせる者はいなかった。
 与吉の弾丸が当たって戦死した長崎振遠隊の斥候長福田栄之助の遺骸は雫石村の廣養寺に埋葬された。その墓は明治七年に官修墳墓に指定された。
<上は、マタギの「ヨギ(与吉)」が敵の斥候長を撃ったと伝えられる、坂本川の中にある“明神石”、高さ4m、幅5m、長さは8mもある巨大な岩である>
                
 ✿ そのマタギの与吉は、舟原の沢に近い安栖の佐兵衛方の小屋にかくまわれ、橋場の皆に守られながら一生を隠れ通し、81歳で亡くなった。

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 橋場 御番所(ごばんしょ)跡   
 関門に好適だった「橋場集落」南部側の橋場御番所は、かつての橋場村、現在の雫石町橋場集落の西端(秋田寄り)国道46号に架かる<新竜川橋(昭和51(1976)年竣工>の集落側たもとの右手にあったとされる。そこには現在「橋場御番所跡」「橋場之關遺祉」の碑が建っている。ご番所跡
 ≪現地の2つの碑≫その一つは「橋場之關遺趾」碑(明治27年御明神村建之)である。盛岡石(花崗岩)製の碑は当時の岩手県知事 国分謙吉翁の揮毫による。<写真左側の柱状の碑>
 もう一つは雫石町教育委員会が昭和62年11月に設置した「橋場関所跡」の黒御影石の板状碑である。<写真右側の板状の黒色の碑>

 「橋場御番所」地形上の利点
 奥羽山脈の南部(岩手)側、竜川(雫石川の源流)沿いの橋場集落は左右を峻嶮な山に挟まれた“関所としての好適地”であった。竜川の北側の山地は大きな沢が連続しており、間道抜けは困難であり、南側(舟原沢周辺)の山地も急峻で一般の人が通行するのは困難であった。
 橋場御番所を過ぎて秋田方面に3丁(約330m)ほど行くと、竜川と坂本川の合流点があった。(現在は竜川の川筋が変わっている。)その合流点付近から坂本川沿いに西進するのが秋田往来であった。この坂本川沿いは川も渡渉可能な深さで、半里(2km)ほど進んだ所から右の長根に登りると沢もなく比較的容易に稜線の的方(まとがた)まで登ることができる。このためこの道が古くから開けたようだ。

 関西からの物資が、秋田港から国見峠を越えて盛岡へ
 明治時代になって本州内陸部を鉄道が通り、基幹国道も整備されるまで、大量物資の輸送は日本海回りの海運に頼っていた。京都方面からの繊維などの物資は、丹後の港などから船に積まれ日本海沿岸の各港で交易を繰り返しながら秋田・土崎港に入港した。陸揚げされた物資は馬などに積まれて秋田街道を通って盛岡に入って行った。

 近江商人が国見峠経由で南部盛岡・雫石に経済と文化をもたらした
 これらの物資とともに、上方文化も南部にも移入された。その主役は“近江商人”であった。盛岡(不来方)城築城と重なって商業が発展した。城下の町割が確定するまでは街道の沿線で商売する商人が多かったという。

  橋場御番所に関する雫石町史の記載
 橋場御番所の姿とその役割について雫石町史Ⅰに記載されている内容を紹介する。 第一節 代官所8)橋場御番所と御番人 
 天正13(1585)年と14年の二度の戦いに破れた滴石氏に代わって、滴石を手中に収めた南部氏は国見峠を境に秋田と接することになった。
 寛永10(1633)年幕府の巡見使が国見峠の藩境を検閲している。このことは以前より両藩の間に境界をめぐって紛争が絶えなかった<田口家文書・田沢湖町 田口秀吉氏蔵…寛文7年 高橋囚獄による藩境に関する記録>ものを正式に裁定されたものである。それに伴い秋田街道(現国道46号線)も正道として公認されることとなり、麓の橋場村が地形上、交通の要地として重要視され、ここに国境出入監視のために関所が設けられた。これを橋場御番所と称している。橋場御番所は寛文9(1669)年“南部御判所橋場の…”<岩手県誌資料・南部藩庁雑書抄>の記録から寛文年間(1661~1672)にはすでに設置されていたと思われる。
 御番所に勤務した藩士及び勤務の内容等に関する記録は殆どなく詳らかでないが、呼称は、文化2(1805)年橋場御番所建替についての記載によれば、御番人となっている。御番人の禄高なども不明であるが、藩政末期に雫石代官所の御物書を勤めた上野広安(金八改め良八)の上野家の家系についての記述の中に要約すれば、橋場は国境である。したがってここの監守は百石以上の騎士が任用されることが慣例であった。しかし寶暦6(1756)年上野家五代の上野市兵衛は特別に任用され、供の者に槍を持たせて、橋場御番所に勤務した。このことが当時最高の栄誉であった、という事柄を述べている。このことから推測すると代官と同等位の盛岡諸士が勤務したものと考えられる。


<藩政時代の御番所の大門のイメージ>  
<写真は宮城県鳴子の尿前(しとまえ)御番所(復元)>橋場御番所もほぼ同規模、同形式だったと思われる。









慶応4(1868)年・橋場村絵図(岩手県立図書館蔵)

御番所跡には、「橋場之關遺趾」の石碑が建てられて昔の名残りを留めているが、関所に続く桝形橋(町史は「升」)は国道46号線の開設とともに、新竜川橋(町史は「滝」と誤記)と名も改められ、いまやその名も忘れ去られている。

 #808000
  橋場御番所の施設概要と業務体制 
1) 御番所の位置
 御番所の設けられた場所は、雫石代官所から秋田往来を西へおよそ2里(約8㎞)行った雫石郷最西端の集落である橋場(戸数20数戸)である。
 前ページの慶應4年の橋場村絵図によれば集落の家並みが終わる出口の場所を竜川の支流(名称不明)が街道を横切る形で流れていた。川には「桝形橋」がかかり、そのすぐ先に軍事上の「防禦壁」ともいえる「桝形」が設けられていたようである。御番所の建物は桝形橋の東たもと北側にあった。「橋場」の地名はこの桝形橋に由来するものであろうと思われる。

2)  御番所は建坪12坪程度?の萱葺き 
 御番所のあった場所は、橋場村絵図等によれば、現在の「橋場之關遺祉」の碑がある所より、少し北側であった。( ページの「絵図と現地図を重ねた地図」参照)
 その建物の大きさはどれぐらいあったのか、絵図面からは正確にはわからないが、囲んだ枠線は集落の他の家屋と比べてやや大きめに描かれている。ただこれは御番所敷地を含めての表現かもしれない。それではこれを、さまざまな例をもとに類推してみる。
 宝永7(1710)年に巡見使を迎えるにあたって藩では、国見峠に5間×3間、ふもとの坂本に3間×2間の御茶屋(休憩所)を新築している。この例と下記飛騨地方の御番所の例を参考に、これらの中間の4間×3間、つまり12坪ほどの建物と推測してみた。
 また、この巡見使を迎える準備に合わせて橋場御番所の屋根を葺き替えたことが「橋場宿泊所三軒営繕」(繋村肝入舘市家御留書)に〔萱付伝馬 124頭〕と記載されており、建物は萱葺きであったことが分かる。蛇足だが、この時の記録に「柾付伝馬」が多数あり、巡見使宿舎は「桧 柾葺き」であったことがうかがわれる。
(※ 写真は規模を知るためのイメージ写真で、実際の橋場御番所とは全く関係がありません。)

       飛騨地方の御番所記録を参考に類推
 盛岡領内の類似御番所の建物規模を知る手掛かりとなる資料を見つけることができないので、飛州(飛騨・岐阜県)大野郡牛首村にあった「牛首口留番所」の例を参考にする。

3) 御役屋にはさまざまな道具類を備えていた。
 次に、番所の御役屋で使用されていた道具類について探ってみる。これも地元に資料がないので、やはり牛首口留番所の例を参考にする。この番所は明治5(1872)年に廃止された。その際、明治新政府によって番所の建物や屋敷、道具類などの払い下げ入札が行われ、その記録が残っている。それによると払い下げられた施設と道具類は次のとおりである――
屋敷、建家、門、板戸、障子、雨戸、三ツ道具、鉛、合薬、桶、手桶、飯次、すり鉢、赤銅鍋、やかん、たばこ、鉄鍋、縁取、なた、銀ハカリ、算盤、銭箱、硯、机 以上。(価格は省略した)

 この中で目を引くのは、口役銀(運上金)を徴収する際の道具である「銀ハカリ」や「算盤」「銭箱」であり、赤銅鍋やヤカン、鉄鍋など炊事道具もあった。

 上記道具類の中にある「三ツ道具」とは、御番所内での不審者や狼藉をはたらく者を捕縛するための道具で、ほとんど全ての関所、御番所に備えられていた。これらの道具類は、橋場御番所にも備えられていたであろう。

    
三ツ道具とは…左から突棒(つくぼう)、袖搦(そでがらみ)刺股(さすまた)という捕物道具。 
 これらの道具は、当初は実用向けに用意されたが、次第に御番所(関所)の威厳を示すための飾りに変わった。


  4) 御番所には「高札場」があった。
 下図は「国統大年譜」に描かれている橋場御番所の略図である。集落の西側に「関所の門(木戸)」とその両側に木柵が描かれている。また、集落中央を流れる小川の上方に「制札」と書かれた表示が2カ所見える。
    
 国統大年譜とは(四戸武虎著・南部家所蔵の古文書、記録をもとに明治期に編纂された年表) 上の図面資料は、S22・9.8岩手県文化財愛護協会研修資料より(吉田義昭氏提供) 
 
「制札」または「高札」は法令・禁令を墨で書いた板札である。江戸幕府(各藩)の施政方針や違反者への厳罰、密告すれば賞金を与えることなどが、かな交じり文で書かれ、掲示された。高札を掲げた場所を高札場とよび、法令が広まるように町の辻、橋詰、関所、渡し場など人目につきやすい場所に設けられた。
 特に橋場御番所などの境口番所には、他領への移出を禁じる物品として検閲を要する物の御定書としての制札(御留物札)が掲げられていたのであろう。秋田藩の横手山内の南部との境口の一つ「小松川御番所」の資料として次のような制札が残っている。〔湯田町史 史料第2集『交通編』より〕
   今 宮大学

花押
 
 宝暦十一年四月



 
一切不可出之者也



 
右之通証拠な


て他領江 
  丹土



たば







黄連




 



綿



麻糸













皮 










 














 








 
 


※これは秋田藩領から他藩領への移出禁制品の目録である。



 橋場御番所の業務・人員体制については、現在のところ地元では上記以外の資料は見当たらない。しかし藩直参の番人ひとりでは番所業務を行えないことは明らかであり、生保内番所と同様に足軽級の者を配下にしていたと推察される。ふだんはそれに町役人の検断と藩任命の御境古人も協力・連携して治安の維持を図り、さらに有事には橋場の住民も協力して境口の守衛、宿場町、伝馬場としての治安に当たっていたものと思われる。


      

   ● 御番所での人と物の改め業務  
1)御番所は朝6時から夕方6時まで開いていた。
 橋場御番所が開いている時間は、朝何時から夕方何時までであったであろうか。橋場はもとより藩内の御番所資料にそれを見つけることはできなかった。
 これも「箱根関所をはじめほぼ全国統一」の例になるが、毎日明け六つ時(午前6時)から暮六つ時(午後6時まで)まで御番所は開いていたようである。もちろん夜間は通行禁止であった。<ただし、江戸、京都、大阪府内では朝廷や幕府の緊急公務の場合、また各藩においても緊急時に対応して夜間通行証が発せられることになっていた。>なお、夏至のころは朝4時ごろから夜7時まで、冬至のころは明け方6時から夕方5時ごろまでと、日の長さによって若干の変更があったとの資料もある。

2)冬季間でも橋場・生保内両御番所は開いていた。
 今からつい38年前の昭和51年10月28日に国道46号仙岩トンネルが開通するまで旧国道46号は初冬の11月から翌年の5月までの半年間は、積雪のため通行不可能となっていた。これゆえに「半年間道路」と揶揄(やゆ)されたものだ。しかし、今よりずっと前の江戸時代、厳冬期の陰暦2月、国見峠を越えた一行の記録が残されている。しかも当時の生保内御番所の番人の“公認”であった。往時は、冬期間でも御番所は開いていたのである。秋田藩士橋本五郎左衛門は、少禄武家の子弟ながら才覚があり能吏として出世コースをたどった人物である。(藩内の出来事を「八丁夜話」という日記(全12巻)に綴っている。)
 天保2(1831)年陰暦2月2日、江戸出張の藩命を受けた橋本は江戸に向かう道筋を国見峠経由として選んだ。冬の羽州街道(現在の国道13号)は院内峠(雄勝峠)を越えてもなお最上地方の豪雪地帯を通らなければならず、その点、生保内街道は難所(国見)峠ひとつを越しさえすれば、あとは南部領から仙台通りと雪のない道を歩けるという利点があったので生保内街道を取ることにしたということである。国見峠は冬でも通行する人がいたのである。<橋本が書いた八丁夜話の「雪の国見峠越え」には、生保内御番所番人とのやり取りを経て、一行10人が38人の人足とともに国見峠を越える様子が克明に描かれている。> 
     
    ● 新たに「桝形(ますがた)」の存在を確認
 今回の発表(平成25年7月北浦・滴石史談会交歓会)に向けての調査で大きかったのは、慶應4(1868・明治元)年の橋場村絵図面を県立図書館で閲覧したこと、そしてそこに「桝形」らしき表示を見つけたことである。
 これまで「桝形」は城郭の中の防禦壁として、あるいは全国各地の“宿場が残る町並み”にみるカギ型に曲がる道路構造がそれであると思っていたので、橋場御番所周辺の絵図面にそれを見た時には意外であった。

 これまで「桝形」は城郭の中の防禦壁として、あるいは全国各地の“宿場が残る町並み”にみるカギ型に曲がる道路構造がそれであると思っていたので、橋場御番所周辺の絵図面にそれを見た時には意外であった。
 「桝形」とは一般的には、高さ6尺(1.8m)ほどの石垣が道の左右から突き出ていて、そこに囲われた内側が米などを量る道具である桝の形をなしていることからこう名付けられたもので、一種の防禦堤であり、また簡単な関所でもある、とされている。また宿場町などでよく見かける直角に曲がる桝形路(ますがたみち)は、宿場の入口に設けられ、外から宿内が見通せないように視界を遮り、侵入者の直進を妨げて、安全防備の役割を果たすものであった。それが、どうしてこの橋場の御番所(橋場宿)の絵図面に描かれているのかわからなかった。しかも、これまで橋場の桝形はほかの資料で見たこともなかったし、我々の話題にすら上らなかったことが不思議であった。
 しかし、前述したが雫石町史171Pに
――御番所跡には、「橋場之關遺趾」の石碑が建てられて昔の名残りを留めているが、関所に続く升(ママ)形橋は国道46号線の開設とともに、新滝(ママ)川橋と名も改められ、いまやその名も忘れ去られている。――
と、はっきりと「桝形」と書かれている。自分の不明を恥じるとともに、さすが雫石町史!頼もしいことよ、と改めて感じた次第である。
 その上で、御番所に軍事上の施設である桝形を設けなければならないほど、南部と久保田の関係は良くなかったのだろうかなどと思いを巡らすが、どうしても思い当たることがない。この桝形は果たして「何のために」「いつ」作られたものであろうか疑問は深まる。

    ● 全国の関所・御番所の廃止
 江戸時代も後半になると、さまざまな制度のひずみが顕著になり、関所や御番所の制度も番人による収賄、横領等の問題が跡を絶たず、腐敗の温床とまで言われるようになった。加えて文久の改革(文久2(1862))による参勤交代(隔年から3年に一度)の緩和によって、関所での手続自体の形骸化が進んだ。そして慶応3年(1867年)8月には慶応の改革に伴って、手形が無くても関所の通行が許可されるようになり、事実上関所改めは廃止されることとなった。
 明治2年(1869)正月20日、箱根をはじめとする全国の関所を廃止する布告が出されました。この年、盛岡領内でも越中畑御番所など各地の番所の閉鎖が相次いだ。
 橋場御番所は、その4か月前の明治元(慶應4、1868)年9月28日、戊辰戦争・橋場口の戦いのさなか、自軍(盛岡藩軍)兵士らにより橋場集落ごと火をかけられ焼失し、1600年代半ばからの200年間余に及ぶその歴史の幕を閉じている。

日程Ⅲ 上和野馬頭観世音堂       68 168 168

国の有形文化財への登録、当町では20年ぶりの快挙! 
 雫石上野下澤田地内に建つ「上和野馬頭観世音堂」(同名宗教法人所有)の本堂と旧堂の二つの建物が、平成28年8月1日付で「国指定登録有形文化財」となりました。〔登録番号・本堂03-0084号 旧堂03-0085号〕
 雫石町では平成8年12月に株式会社小岩井農牧の「小岩井農場本部事務所」ほか古い牛舎など9件がすでにこの国登録有形文化財になっています。(この登録手続きは町教委経由ではなく直接小岩井農牧(株)と文科省との間で行われました。)今回の国指定はまさに20年ぶりの快挙です。

1・はじめに〔上和野馬頭観世音堂のこと〕
 数多ある町内の神社、仏堂(町内三寺院の本堂を除く)の中で最も華麗な建築物といえば、まず上野地内の上和野馬頭観世音堂(宗教法人上和野馬頭観世音堂・別当家;岩持斗季子氏)が挙げられる。
 しかし、十年ほど前までは≪知る人ぞ知る≫といった存在であった。
 近年、町教委と滴石史談会による町民対象の郷土史教室、少年少女歴史教室、町内小学校の遠足などの見学場所になり、また建築界の全国誌に紹介されるなどによって、たくさんの人の目に触れるようになった。ここを訪れた人たちは総欅(けやき)造りの堂々たる本堂と、外観の彫刻に誰もが目を奪われる。子供たちも目を見張る精緻(せいち)さだ。さらに、管理が行き届いた格天井(ごうてんじょう)のある内観の立派さとあわせて、まさに町内随一壮麗な仏堂である。
 それではお堂のあらましをご紹介しよう。このお堂は、建物西側掲額の記載によれば大正3(1914)年4月17日(祭礼日)の完成である。そして、この場所にそれまであったお堂(駒形神社)は境内の南側に移されて鎮座している。こちらのお堂は棟札から明治14(1881)年に上棟されたことが分かっている。(これが今回、本堂とともに国登録有形文化財に指定された『旧堂』である。)なお、現在の本堂に収められている石像には「元禄10(1697)年建立」と彫られている。
◆この上和野馬頭観世音堂は、町教育委員会刊行の「雫石の寺社」によれば
 所在は雫石町上野下沢田105。祭神は馬頭観世音である。上和野、土橋、岩持部落の産土神である。拝殿は宮大工の建立したものと伝えられ、町内でも屈指の立派さである。例祭日は旧4月17日と旧9月17日である。
とある。 

上和野馬頭観世音堂 ……華麗な彫刻は宮大工(一説に東北の左甚五郎の異名を持つ秋田の高橋円満造)の作と言われる。渋民の芋田、滝沢の蒼前社とともに岩手郡の三馬神として広く信仰を集めた。「雫石の七観音」のひとつでもある。お堂正面の掲額は馬町の先生こと「新渡戸仙岳翁」の筆によるものだ。<2016・1・1撮影>


◆お堂内部の写真
正面 掛け軸の裏側に石像が安置されている。
右側 祭壇は「神仏混淆」の名残であろうか。

 元禄時代の年号が刻まれた石 格天井に描かれた絵
  
  騎乗している人を囲むように十二支が描かれている。

 

願主「南野庄次郎」とある。
 本堂内の「石仏の刻記」と「棟札」の内容
 本堂内に石仏が収められている。像には「元禄十丁丑年七月廿八日」と刻まれており今から319年前、江戸時代の元禄10(1697)年に石像が存在したことがわかる。
 棟札は三点確認されており、そのうちの一枚には、表に「奉再興馬頭観世音氏子中諸馬栄盛安全祓」、裏面に「明治十四年辛巳日生四月十七日」と記されており、今から135年前の明治14(1881)年旧4月17日の上棟であることがわかる。
 また同面には「南岩手郡上野村願主講中 大工高橋吉五郎」とあり、詳細は不明ながら大工が地元の高橋吉五郎であることがわかる。
 残る2枚はいずれも同じ年のもので、その一枚は表面に「奉上棟天御中主神堂営永久吉杵」で、裏面が「大正三甲寅年旧四月拾七日建造」とある。また「棟梁 下澤田三蔵」以下、「脇棟梁」が17名、「木挽」5名、「石屋」2名、「屋根葺」3名のほか、「彫刻者 小原喜代治 菊池脩一郎 佐々木忠次郎 八重樫康次郎」の4名の名が記されている。さらにもう一枚は、表面に「奉再建馬頭観音堂一宇専祈信心本命」で、裏面が「大正三甲寅年旧四月十七日改築之」とあり、今から102年前の大正3(1914)年旧4月17日に上棟されていることがわかる。

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    ≪馬産地雫石に建つ華麗な“馬頭観世音堂”≫
 上和野馬頭観世音堂は、近郷近在にないほど華麗なお堂であり、特にも建物の外観を飾る彫刻の数々は見る人の目を引き付ける。
 この彫刻の彫り主はいったいだれであろうか。上記に示した棟札にある「宮大工」ではあろうが、一方で高名な彫刻師ではないかということが以前から話題に上っている。

✿その「彫刻師」として名前が挙がっているのが、秋田県中仙町(現大仙市)豊川出身の「高 橋 円満造(たかはし えまぞう)」さんという宮大工だ。
 明治元(1868)年に生まれた円満造じいさんは、本名を高橋市蔵(いちぞう)といい、大工は16歳で一人前になり、18歳の時には指し物(さしもの)から彫刻にまで手を伸ばす器用さで、特に彫刻においては、神社仏閣に多くの優れた作品を残し、“東北の左甚五郎(ひだりじんごろう)”という異名(いみょう)をとるほどの腕前であったという。
✿その円満造さんが作ったのではないかとされるのが、この上和野観音堂の拝殿の左右奥でにらみをきかせている2体の仁王像(におうぞう)だ。円満造じいさんは、かつて、この観音堂の東のふもとにある旧家上和野與惣右衛門家の小屋に寝泊まりして拝殿の大工仕事に取り組んだと伝えられている。

 この円満造さんには、もう一つの顔がある。「ドンドンパンパン~ドンパンパン」の歌い出しで始まる全国的に有名な秋田の民謡「どんぱん節」。この曲の元唄は、円満造さんが作ったとされる「円満造甚句」だとされています。
 さらに、この「円満造甚句」は、雫石の「ドドサイ節」を取り入れて作ったものともいわれています。円満造さんは、元来歌好きで、棟上げや建前の祝いの席で即興詩人ぶりを発揮して人びとの間で評判だったという。
 その円満造さんが、秋田甚句の調子を工夫し、何度も歌詞をつくり替えてできたのが「円満造甚句」で、昭和10年頃民謡編曲家の手によって大衆向けに変えられてできたのが今の「ドンパン節」である。
   〔写真は在りし日の円満造さん「旧中仙町観光資料から」〕

  <お堂の前には駒繋ぎの石も>
 江戸時代、公儀の御馬買衆がやってくるほど南部の馬は評価が高いものでした。盛岡周辺地域の人々もまた馬神信仰が篤く、馬の霊を慰める馬頭観世音の碑を建て、仏像の馬頭観世音を安置して崇仰しました。
 570余坪の境内地を有するこの上和野観音もその一つで、渋民村の芋田、滝沢村の蒼前社とともに、岩手郡三所の馬神として広く信仰されました。
 拝殿の前には馬を繋ぐ鉄の輪が付いた「駒繋ぎ石」が一対置かれています。

  <かつては“雫石七観音”の一つであった>
 明治維新の頃まで、雫石の風習に4月17日の早朝から七ヵ所を回る「七観音詣で」ががありましたが、ここはその一つです。
 なお「七観音」は、他に臨済寺の「内堀観音」、下久保の「福崎観音」、春木場の「新里観音」、桝沢の「川井観音」、下御所の「馬頭観世音」、八丁野の「八丁野観音」を指します。
 岩手郡誌(昭和16年刊)には次のように紹介されている。
「馬頭観音堂」 御明神村大字上野字下澤田に在る。曹洞宗で雫石村廣養寺の受持ちで、本尊馬頭観世音、創建年代は詳らかではないが、明治三年八月廢堂になったが、同十四年一月再興して今日に至った。境内五百七十四坪、三間半四面の堂宇は頗る壮麗である。他に十坪の休息所がある。澁民村の芋田、瀧澤村の鬼古里の蒼前と共に本郡三所の馬神として、人口に膾炙してゐる。往時は雫石七観音の一といはれてあった。

 ● さまざまな本などに紹介されている「上和野馬頭観世音堂」

① <馬産地雫石に建つ華麗な“馬頭観世音”>
 江戸時代前期、将軍家並びに各藩の御馬買衆は、仙岩峠を越えて秋田から岩手に来ました。玄関口にある雫石も名馬産出の地。人々の馬神信仰は篤く、馬の霊をなぐさめる馬頭観世音の碑を建て、仏像の馬頭観世音を安置して崇仰しました。570余坪の敷地を有する御明神上和野の観音様もその一つ。渋民村の芋田、滝沢村の蒼前社とともに岩手郡三所の馬神として広く信仰されました。明治維新のころまで、雫石の風習に、四月十七日の早朝から七カ所を回る「七観音詣」がありましたが、その一つでもあります。
 この馬頭観音は明治3(1870)年、いったんは廃堂になりますが、十四年に再興。大正初めに再建された堂宇は総欅(けやき)で、正面を飾る彫り物は、東北の左甚五郎と讃えられた円満造こと高橋市蔵(秋田県中仙町出身・現大仙市)の作です。円満造は奇行の人で名人肌。たいそう歌好きで、秋田の有名な「ドンパン節」は「円満造甚句」が元唄と言われています。
 馬頭観世音は、九月十七日が縁日。雫石町内の曹洞宗寺院(廣養寺、永昌寺)がお勤めします。〔岩手のお寺さん(テレビ岩手)〕より

②  <帰ってきた愛馬のために御堂を建立>
<その1> (岩持)嘉兵衛家の初代祐助は、ことのほか愛馬精神に富んだ人で、雫石産馬組合長や盛岡産馬組合の役員なども務めていた。常時二十頭ほど飼育し、預託馬も五十頭ぐらい有し、長く馬産改良に務めてきた。
 所有馬のなかでも馬産岩手の歴史にその名を刻む名馬「進風号」は、大正天皇の乗馬として献上されたものである。砂壁(しゃっかべ)勇次郎の育成した名馬と伝えられ、後に伊勢神宮の神馬となった。
 大正三年、祐助が特に慈しんでいた一頭の馬が行方不明となり、いくら探しても、何日も帰って来なかった。祐助は祈願した。昔は上和野三右ヱ門家の敷地内にあったといわれる(「雫石町史」)観音堂を、行方不明の馬が無事帰って来た暁には、当代一流の宮大工の手により改築し、寄進しますと誓った。
 ところが、祈りがかない、お馬さんは帰って来たのである。祐助は当時のお金で一千円寄進し、現存する立派な観音堂を建立したのである。
    
 <御堂の掲額は「新渡戸仙岳翁」の書>
<その2> 上和野馬頭観音堂に掲額されている「馬頭観世音」の書は、新渡戸仙岳(にとべ せんがく)の染筆によるものである。
 新渡戸仙岳は安政五年(1858年)盛岡の馬町に生まれた。教育者として名高く、石川啄木は盛岡高等小学校(現市立下橋中学校)の教え子である。
 啄木は「馬町の先生といへば、説明するまでもない。此地方で一番有名な学者で、俳人で、能書家で、特に地方の史料に就いては、極めて該博精確な研究を積んで居る。自分の旧師である。」と小説「葬列」の中で述べている。
 仙岳翁に書を依頼したのは初代祐助。馬頭観音の書を「馬町の先生」に頼むなど、祐助もなかなかのユーモリストであったようだ。<岩持静麻「農の心を求めて」(JA岩手県五連岩持会長顕彰事業実行委員会 刊)>より

③  <上和野・観音堂… 別当と氏子が一心となった風格の社殿>
 雫石盆地では、先人たちが縄文の古より、まわりの山々はもちろんのこと、一本の草や小さな虫の果てまで神と崇め、敬虔に生きてきた。その証が、神社や祠、あるいは道端の石仏、郷土芸能などになって、いまに数多く残っている。
 御明神の上和野にある観音堂も、その一つである。産土の神さんであったり、愛馬の息災を念じ霊を安んじる観音さんであったり、神仏に渾然一体となって信心を寄せて祭ってきた。別当さんの岩持家を中心として、氏子の心と力でつくりあげた総欅づくりの風格ある社殿は見応えがある。
 現在の社殿は、大正のはじめに再建されたものだ。馬が盛んだったころには、愛馬を伴って早朝からお参りする人が絶えなかったといわれる。それが、いつとはなく働き者のシンボル「ひるの観音さん」とよばれ敬愛を集めたとのこと。
 「ひるの観音さん」がいるとすれば、「よるの観音さん」もおわすことになるのだが、尋ねてみると町内にちゃんとおられるとのことであった。
 ただし、観音さまのために釈明しておくと、人間の都合で「よる」にされてしまったようだ。でも観音さんは、そんな人間をおおらかに許しておられるように思う。 <矢羽々 昭夫編「不思議な気分になるところ・雫石」>より

 
<初代岩持祐助氏と大正天皇献上馬「進風」>
 上和野馬頭観世音堂を建立した初代岩持祐助氏(安政2(1855)年2月8日生~昭和7(1932)年11月9日没・78歳)は、上記にもあるとおり多数の馬を自ら飼育し、また近所の農家に預託するなどして優良馬の生産に当たっており、当時の産馬界ではつとに知られた人であった。
 岩持祐助氏のことについては、雫石町史(昭和54年刊)に「安政二年御明神村上野の旧家嘉兵衛家の十四代目として生まれた。慶応四年戊辰の役橋場口の戦いに強制されて官軍の雑役夫となった。身体頑強にして恰幅よく、慎重ながら剛腹、大声ながら気性優しく目的を達成しなければ止めることのない気概の人であった。(中略) 御明神村会議員、郡会議員そして県議に三回当選し副議長になっている。(中略)特に公共のために尽力されたのは志戸前山4800余町歩の下げ戻し運動と裁判への対応で、結果的に下げ戻しに成功し地元御明神村と合併後の雫石町に莫大な利益をもたらした。」と紹介されている。
 さらに特筆すべきこととして前述のとおり祐助生産の「進風号」という馬が大正4(1915)年、盛岡産馬組合を通じて皇室に献上され大正天皇のご乗馬になったことも記されている。【▲祐助氏の生没年と写真は志戸前山下げ戻し百周年記念誌(平成13年9月・雫石町発行)より】

 
(写真左)大正11(1922)年1月1日付の大阪毎日新聞日曜版一面に掲載された当時の摂政宮裕仁親王殿下(後の昭和天皇)が騎乗する「進風」の姿。

この写真は今から94年前の大正11(1922)年1月1日付大阪毎日新聞日曜付録の第一面のトップ中央に掲載されたものである。
 セピア色をした時代を感じさせる新聞で、「皇室の御栄江」(其の一)特集として、当時の皇族、宮家の方々のお写真を掲載している。その紙面中央に四皇子のひとり摂政宮裕仁殿下(当時皇太子、のちの昭和天皇)の乗馬姿が大きく掲載されており、馬の名前が「進風」と紹介されている。雫石から大正天皇(直後からご病気がちになられた)に献上された馬である。誠に美しい姿である。


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記事
雫石産の大正天皇献上馬『進風号』の写真見つかる
 
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資料   上和野馬頭観世音堂の国有形文化財登録について  柴田 慈幸  雫石町教育委員会生涯学習課

1.経緯
 大正3 年に建立された上和野馬頭観世音堂(本堂)は、堂々たる造りと精緻な彫刻から文化財としての価値が高い建造物である。以前から、将来的な文化財指定を視野に入れ調査を進める必要性が指摘されていた。

 <上和野馬頭観世音本堂>
 平成23 年3 月11 日に発生した東日本大震災を契機とし、被災文化財に関する調査及び復旧等の支援を行うため文化庁が主体となり「文化財ドクター派遣制度」が設けられ、上和野馬頭観世音堂もその対象となって調査が行われた。平成23 年度の初動調査の後、平成25 年10 月14 日に詳細調査を実施した際に「国登録有形文化財として以 後保存活用を図ってはどうかと」いう助言があり、平成26 年11 月18 日の文化庁調査官現地視察において、町の歴史文化の側面から、本堂のみならず旧堂(絵馬堂・写真下) も登録対象になり得るとの見解が示された。
 以降、町教委・所有者間の協議を重ね、併せて両建造物に関する資料を整備し、平成27 年9 月30 日に「上和野馬頭観世音堂本堂」「上和野馬頭観世音旧堂」の国登録申請を行った。
  平成28 年3 月11 日に国文化審議会から登録すべきとの答申を頂き、間もなく正式に登録される見込みである。

 2.解説(登録申請時の町教委意見書抜粋)
 (1)上和野馬頭観世音本堂
 上和野馬頭観世音本堂は、大正3 年(1914)に建立され、築101 年を経過している建造物である。 建物の造りもさることながら、特に目を引くのが内外の装飾彫刻である。棟札には氏名の記載はないものの、伝承及び作風からその作者は秋田県中仙町豊川(大仙市)出身の宮大工・髙橋市蔵と推定されている。市蔵が当地に滞在中に覚えた「どどさい節」を秋田に持ち帰って作り直したものが「ドンパン節」になったという有名な逸話もまた、このことを裏付ける傍証となろう。藩政時代からの住居形式である曲り屋や、町内各所に残る馬頭観世音など、古くから雫石町は馬と深い関わりがあり、その意味からも本堂は建立以降長く周辺住民の心のよりどころとして存在感を示し続けてきた貴重な建造物である。
  (2)上和野馬頭観世音旧堂
 上和野馬頭観世音旧堂(絵馬堂)は、正確な建築年代は不詳ながら江戸時代中期から後期には建立されていたと推定され、その後明治14 年(1881)に大規模な改修が行われた建造物である。 全体的には質素な造りの建物であるが、大正3 年(1914)に現在の本堂が建立されるまでは、本堂として長く地域住民の信仰を集めてきた。そのことは、現本堂の建築時にも取り壊さず移築していることや、堂内外に飾られる数々の絵馬が物語っている。現在は、通称絵馬堂として、当地の馬に関わる信仰の歴史を知ることができるようになっており、文字が識別できる絵馬の中では弘化3 年(1846)のものが残っている。藩政時代からの住居形式である曲り屋や、町内各所に残る馬頭観世音など、古くから雫石町は馬と深い関わりがあり、その意味からも旧堂は現在の本堂建立以前には長く周辺住民の心のよりどころとして存在感を示し続けてきた貴重な建造物と言える。 
       
 絵馬、掲額、木馬が奉納されている
 旧堂の内部
  

 関連リンク

 
 ●資料  「上和野馬頭観世音堂」を建立した初代岩持祐助氏の玄孫(やしゃご)である岩持河奈子さん(県立図書館勤務)が、去る3月11日に同観音堂が国の文化審議会から<国登録有形文化財への答申>がなされたことに対して、岩手県文化財愛護協会からの依頼に応じて同協会の機関誌第267号に寄稿しました。
 別当家の家族として答申を喜ぶとともに同観音堂を単に歴史的建築物としての価値のみならず地域に息づく人々の信仰心の象徴として後世に伝えていきたいという強い気持ちが伝わってきます。



 日程ⅠV  春木場 はるきば

 御明神地区に「春木場」と呼ばれる地域がある。旧国道46号(現在県道雫石上野線)沿線にあり「御明神公民館(地域振興センター)」や「JR春木場駅」のほか若干の商店や理容店などがあり集落をなしている。雫石町役場の便宜上の区域である行政区名には「上春木場」と「下春木場」があるが、字名にはなく、いわば通称である。字名でいうと、大字上野『新里』『片子』『二ツ森』『上野沢』『観音堂』の地域である。集落とほぼ並行して、JR田沢湖線が走り、「竜川(りゅうがわ・一級河川雫石川の本流)」が流れている。

  <春木場の地名の由来>
「春木場」の地名は、かつてこの地域に、山で伐った木を雪解け水で増水した沢や川に流し、この地の河原で陸に揚げて集積したことからついた。この地名は、同様の地理的条件の場所によくみられる。例えば、盛岡市では中津川沿いに加賀野春木場があり、梁川にも春木場があった。

 <春木場の歴史>その1
ここ上野の「春木場」は、どうやら藩政時代以前から流送した集積、盛岡への中継地として栄えていたようである。それを示すのが次の逸話である。
         在家(ざいけ)千貫(せんがん)、山千貫、川千貫
 中世における郷または村を構成する単位は「在家」であった。慶長元(1596)年、旧御明神村の有力者木村丹波が、新たな領主となる南部信直に県北二戸の福岡に呼び出され、雫石郷の説明をした中で述べたとされる言葉である。
 丹波は、滴石(雫石)郷の生産力を聞かれて「その総額は三千貫文である」と答え、その内容は「在家たちの生産力千貫、桧、スギ、桂、栗その他山林樹木の生産高が千貫、これを材木または春木(薪)として筏(いかだ)を汲み、雫石川を利用して下流の飯岡や栗谷川(厨川)、盛岡に売る収益が千貫である。」と説明したとされます。 

※「在家」……中世の村は在家のわずかな集落とこれに付帯した耕地で構成され、集落間には無主の林野が横たわっていた。在家とは屋敷(宅地・建家)と耕地を所有し、田一町歩を基準として年貢を納める者を言う。在家の多くは半士半農の郷侍であった。
 
※「春木」……春木と呼ばれる薪は、文化13(1816)年以来、公式には真木、一般には春木と呼ばれてきた。毎年二月、春木の伐木を希望するものは、藩の御山所に願い出て、許可を得なければならなかった。主に、橅(ぶな)などの雑木と呼ばれて用材に不適な樹種を五尺(およそ1.5m)の長さに切り落とし、春先の雪解け水を利用して流送した。皮が剥げるのが特徴だった。
川流しされた春木の集積所を「春木場」(「木場」または「土場(どば)」とも)と称した。滴石郷最大の森林地帯を背後にする橋場や志戸前方面から流送される春木の集積所があったこの場所が「春木場」であり、南畑・鶯宿方面から南川で流送する春木も同様に雫石川との合流点に設けられていた.。

筏奉行(いかだ ぶぎょう)
雫石通の官山から正式な手続きを経て伐採された木材には、それを証明する方法として木口に墨汁を使用した鉄印を打ち付けた。これを「極印」と称した。極印を打ち付けた木材は、筏に組まれ雫石川を流送された。筏は尾入御番所前(現在の繋ぎ大橋の下付近)で止められ、御山奉行の手によって確認され、確認書ともいうべき送切手(送り状)が発行された。この送り状によって初めて正当な払下げ木材として認められた。
◆筏流し風景(再現写真)御所ダム完成前の昭和40年代半ばの写真 (ライオン写真館)

 藩政時代、この春木場から木材等を盛岡城下まで筏(いかだ)に組んで流していた。
流送された木材は、土場での取引きより倍以上の値段となったという。
 明治以降もこの流送は続けられた。雫石でも多くの筏師たちがここで生計をたてていたと思われる。それが伺える宮沢賢治の作品がある。
 賢治作品「腐植土のぬかるみよりの照り返し」(文語詩稿「一百篇」より)
(前略こはいかに赤きずぼんに毛皮など 春木流しの人のいちれつなめげに 見高らかに言い木流しら 鳶をかつぎて過ぎ行きにけり (後略)
 ※この文語詩は、大正10年代に旧秋田街道沿いの橋場駅周辺の様子をつづったものと思われます。賢治さんもきっと「筏流し」を興味深く見ていたのでしょう。

 また、藩政時代末期、雫石代官所の御物書を勤めた上野広安は雫石の山林概況を――
「山林に富み、樹木の繁殖なる。加ふるに水路至便の地にして喬木巨材といえども、朝に伐採して、夕に有用の地に達す。(中略)舟筏の通路至便なること、実に管内無比の勝地たり。」
 と述べている。その木材の集散地となったのが御明神・上野新里の「春木場」である。この春木場の川原の北側沿いを旧秋田街道(秋田往来・旧国道46号)が通っており、沿道両側には古くから人家が建ち並び集落を形成していた。

 商業が発達していた春木場集落
 江戸時代には「春木場の小宿(しょうしゅく)」(または小字名をとって「新里の小宿」とも)と呼ばれた。昭和初期まではここでの「春木取引」や「酒造業」などによる経済効果もあって「春木場」は雫石郷の中で雫石村に次いで商業の発達した地域であった。現在の「春木場集落」のあちこちにその面影が感じられる。
 <春木場の歴史>その2
✿ 
藩政時代、春木場は「新里の小宿」とも呼ばれ、秋田街道の<宿泊・休憩地>であった。春木の集積場所では燃料用の「薪(まき)」の売買が行われ、仲買人たちが宿泊する簡易な宿屋もあったと思われる。
✿ 明治の初め頃、春木場の西方にあたる上和野に「和野山炭鉱」が県営により開発され石炭の採掘が行われた。採掘された石炭を搬出するのに雫石川を利用しようと、雫石川の河川改修工事が行なわれ、この石炭を搬出したといわれる。(雫石町史Ⅰ)おそらく、この時期も県の関係者や作業員、鉱夫たちで春木場は活況を呈したであろう。
✿ 明治38年、春木場の南にある赤沢集落に「盛岡高等農林学校附属経済農場」「同演習林」が開設された。同施設に行くには春木場を経由する必要があり、関係者の「休憩地」、「諸物品の調達場所」として春木場にメリットがあったことは想像に難くない。
✿ 大正10年から11年にかけて鉄道省の橋場線雫石駅~橋場駅間の工事が行われ、春木場は 鉄道関係者や線路工夫らが多数入り込み、工夫の宿舎は別な場所だったものの、遊興飲食で再び大いににぎわい、集落全体が活況だったものと思われる。現在の谷藤酒店は明治の建築ということである。その隣で営業していた「小松屋旅館」が繁盛したのはこの頃である。
 
この鉄道工事により大正11年7月15日に橋場駅が開業した。工事の終盤である大正11年1月6日に、花巻農学校教諭だった宮沢賢治がこの工事現場を訪れている。賢治は工事区間の中で――何度路盤の砕石を盛り上げても翌朝にはまた崩れてしまうという現象で工事が難航している場所があることを聞きつけ訪ねてきた― のであった。賢治は、このことを同年8月に「化物丁場」という短編作品にしている。
 作品の一部、春木場の河原で線路盤に盛る砂利を採取している工夫たちの様子の描写をご紹介する――。
―― 私は、あのすきとほった、つめたい十一月の空気の底で、栗の木や樺の木もすっかり黄いろになり、四方の山にはまっ白に雪が光り、雫石川がまるで青ガラスのやうに流れてゐる、そのまっ白な広い河原を小さなトロがせはしく往ったり来たりし、みんなが鶴嘴を振り上げたり、シャベルをうごかしたりする景色を思ひうかべました。それからその人たちが赤い毛布でこさへたシャツを着たり、水で凍えないために、茶色の粗羅紗で厚く足を包んだりしてゐる様子を眼の前に思ひ浮べました。――

✿開業年月日は不詳であるが、明治12年ごろの資料によると、雫石村に三軒(横手・和川、沼田(後の大久保))、上野村・春木場に二軒(小田友吉・小田治太郎)があって明治30年に組合を組織していた。
✿今から百年ほど前の大正半ばごろ、雫石村下町(大定商店向かい)で「大久保酒屋」として酒造業を営んでいた大久保千代松(明治2年、林の生まれ)が、春木場にあった小田酒屋の跡を買って酒造を始めた。昭和のはじめには2か所で合わせて千石の酒を出し、酒税2万円を納めるほどの経営となった。酒の銘柄は<鶴正宗>、商標は「向鶴」。昭和5年頃、並みの酒が1升50銭位の時に、70銭で売られていた。大久保は潤沢な資金をもとに網張温泉の権利を取得、葛根田まで引湯して新網張温泉をつくった。石仏橋の架け替えに多額の寄付。浅岸に山林2,000町歩を取得、岩手川口に牧場を購入…などなど手広く事業を展開した。
✿大正7年、岩手銀行と盛岡銀行が雫石に支店、春木場に出張所を設け、同9年には岩手無尽会社が設立されて春木場に出張所を開いた。
✿大正13年5月、春木場で大火、23戸焼失。
✿第一次世界大戦後の好景気によって地方に進出した銀行は経済不況から昭和3年に岩手、盛岡両銀行の春木場出張所を閉鎖。同4年に大恐慌が発生。両銀行は極度な経営不振に陥り雫石支店も閉鎖した。
✿こうした銀行パニックで四か村の商工業者は大きな打撃を受けた。特にも二軒の酒造業者は破産の憂き目に遭った。以来、今日まで雫石には酒造業を営む者は出ていない。 
✿大久保酒屋の大久保千代松は昭和7年の銀行パニックに遭い、9万円の負債を抱え、300筆以上の土地を手放して倒産、翌昭和8年に64歳で没した。 
✿昭和10年、繋温泉上流の雫石川に灌漑・発電用の堰堤が造られて木材の流送が出来なくなった。 
(戦後)
✿第二次大戦後、需要の拡大から、石炭等の必要性が高まり各地で炭坑が開発された。明治に採炭された上野の「和野山炭坑」が清水建設の手によって操業が再開され「金竜山炭鉱」と称された。現在の町道上野沢線の沿線には鉱夫たちの宿舎が立ち並び、久しぶりに活況を呈し、春木場もその恩恵を蒙った。しかし、この需要も戦後数年続いたが、石油に押されて次第に少なくなり、昭和22、23年頃操業が閉鎖され廃山となった。  
✿春木場地区はその後も国道沿線の地の利を生かし御明神地区の商工業地として栄え、昭和30年ごろまで一時期映画館などもありにぎわった。
 
昭和39年橋場線が雫石駅から西に延長され、赤渕駅、春木場駅ができた。
昭和41年田沢湖線と改称、秋田と結ばれる。この工事のために春木場に工事関係者の事務所兼宿舎が設けられたが、地域への経済効果は大きくはなかった。 
昭和51年国道46号の「新仙岩道路」が開通。
昭和54年、御明神小学校が現在地に移転。
昭和57年、国道雫石バイパスが全線開通。春木場の道路は県道に移管。


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● 春木場の川原  
写真;加賀野春木場「図説盛岡四百年」より
 春木場の“春木の集積場”の位置は、今でははっきりは分からないが、土地の古老の話では現在の春木場橋の上流100mから200mほどのあたりだったという。  

◆ なお、対岸の大字御明神の字中屋敷地内でも春木の陸揚げが行われたという。
 町教育委員会刊行の「雫石の旧家」の<御明神地区>に「中島・又兵衛(中屋敷家)」の記載があり、又兵衛家では「中屋敷川原」に春木を陸揚げさせ、借地料として一間当たり、春木2~3本を取り上げ、これで財を成した、と紹介されている。
 「春木」の集積所は左岸の(上野)春木場だけではなく、右岸の(御明神)中屋敷地内の川原にもあったということを示している。 
 町内各地に木材集積地があった。雫石町内にはこのように春木場ではないが「土場(どば)」や「留場(とめば)」と呼ばれる川流しされてきた木材の引き揚げ地が御所地区の町場や安庭周辺にもあったようだ。町教育委員会刊行の「雫石の旧家」(昭和57年初版)の<御所地区>桝沢の金十郎家(米沢家)の項に――「藩政中期頃、水田のあるところは金十郎家のみであった。と伝えている。奥から流した春木が金十郎家の水田に上げられ、そこで筏に組んで、盛岡に出したものと伝えられ、昭和初期まで筏流しの親分であったそうだ。金十郎家の正統は金吉氏の家である。」と記載されている。
関連資料   <滴石史談会会報第38号(28・1・23)より抜粋>
 “春木場”での『春木』引き揚げ現場の写真みつかる
(附録)田中喜多美氏らが語る「雫石川の筏師たち」のこと
            会 員  関  敬 一
 
 附録  上野地区の天満宮の御祭神「菅原道真公」(中央)