雫石御鳥見役荒屋何右衛門の墓を確認!
   荒屋家旧宅近くの永昌寺墓地の一隅にひっそりと   関 敬 一
 会報第45号(31.1.19)


   藩政時代、雫石村に藩の役人である「御鳥見役」が二人配置されて いた。幕末時代に雫石に駐在していた御鳥見役の一人、荒屋何右衛門 の墓石を昨秋、下町の永昌寺で偶然見つけた。 いったい「御鳥見役」とはどのような業務の役人だったのか、雫石町史など手元資料によって調べてみた。(新聞記事の引用もあり)

 昨年 9 月のお彼岸のある日、我が家の菩提寺である下町 永昌寺(通称下寺(しもてら))の墓地で、偶然藩政時代の 雫石御鳥見役であった荒屋何右衛門(あらや なにえもん) の墓石を見つけた。この日、墓掃除に行き、家に戻ろうと 車で墓地の奥にあるロータリーを回りきったところで欅の 巨木の枝の間からの一筋の木漏れ日が車の前方の古い墓石 を照らした。瞬間的に墓碑の側面に刻まれた「荒屋何…」 【永昌寺】 の文字は読めたが、その下の文字は細かくて判然としない。 もしや、と思い車を止めてその墓石を確認したところ、 なんと、そこにははっきりと「荒屋何右衛門」と名前が刻 まれているではないか。かねてから雫石町史をみて覚えていた「雫石御鳥見役」という役職で藩政時代末期の盛岡藩 士であった荒屋何右衛門の墓がここにあったのだ。
 よく見ると「慶應二年 六月十一日」と没年月日らしき 文字が刻まれている。ちょうど史談会で150年記年行事 に取り組んでいた「戊辰戦争」の起こる2年前だ。
  この偶然に興奮した私は急ぎ自宅に帰り、所蔵している 幕末の雫石の町並みを書き上げた「慶應絵圖 雫石通雫石 村雫石甼書上絵圖面」〔慶應二年書上 慶應四年作圖〕の写 し(町歴史民俗資料館展示資料の複写)を広げてみた。まず 下寺の周辺を見る。「あった!」。永昌寺の東側(盛岡寄り) にある雫石八幡宮別当の古舘嘉右衛門家へ入る通路の西隣 の屋敷地に〔雫石 御鳥見 荒屋何右衛門〕の名があった。
 それまで何度も見ていたはずの絵図面であったが、なぜか今までは目に入らなかったようだ。 現在、永昌寺近くに「何右衛門」と同姓の「荒屋家」がある。現在の世帯主は荒屋義通氏 (元町消防団幹部・故荒屋一男さんの長男)だ。義通氏にこの墓のことを尋ねてみると「由緒 はわからないが、我が家では以前から毎年お盆にはお花を上げて拝んでいる。」と答えてくれ た。
 荒屋家の屋号は「源八(げんぱ)」であり、前述の慶應絵図の現在地に「無高山本領源八」の屋敷地が書上げられている。
  以下の資料では、現在の荒屋家は、何右衛門の「分家」とされている。雫石町教委刊行「雫石の旧家」6Pに次の記載がある。
   下町 3 源八(荒屋家) ……元禄二(1689)年から雫石通御鳥見役で あった荒屋某氏の分家で、戦前までは刀などが残っていたという。
筆者関 注 ―― 荒屋某氏とあるのは、上記資料の著作者が「何右衛門」 とい表記が本名ではなく「一字不明」の〇(何?)右衛門、とでも解釈 したのではないかと思われる。間違いなく「何右衛門」が本名である。 雫石町史にも同様の記載があるので注意。 

◆ 御鳥見役とはどんな仕事か
  雫石町史Ⅰでは、お鳥見役について、次のように説明して いる。
 藩では御鷹狩り用の鷹や狩猟用の鳥類の繁殖を目的として 鷹の巣の発見、保護に、また特定の森林、沼地等を指定して その保護に努めた。このような鳥類の保護、繁殖の任に当た ったのが御鳥見役である。
(参考)鷹狩り用の鷹の飼育や訓練は「鷹匠(たかしょう)」 という専門家が務めた。彼らが集団で住んだ街区を盛岡城下で は「鷹匠小路」と呼び、盛岡市内には今もその地名が残っている。
 関連リンク・ 盛岡市ガイド 馬場小路かいわい

◆ 雫石通に居住して、御鳥見役を勤めた家は二軒
  元禄 2(1689)年から元文 5(1740)年までの 51 年間にかけて荒屋家が二代にわ たって御鳥見役を勤め、御鳥見役としては最高の五駄二人扶持〔米三斗七 升入り、二十二俵(1.155㎏)〕を受けていた。 その後も荒屋家が代々この扶持を受け雫石に居住しているが、身帯帳には御鳥見役の役名が 付いていない。 同じく五駄二人扶持で、元雫石町長高橋精造氏の本家が代々御鳥見役を勤めている。 後年、この御鳥見役の役目も次第に広くなり、文政7(1824)年には、藩の御用人より街道並木の警衛を指示されている。 また、弘化 4(1847)年には私有地の木の伐採にあたり官山との境のもめ事があり、その処 理について荒屋何右衛門と髙橋喜代見の連名で、御用人宛の書面が出されている。このことか ら山林保護の面も役目の一つとなっていたと考えられる。
 雫石町史の享和3(1803)年の「雫石通代官所勤務の役人」の名簿には、
御鳥見役 髙橋清之丞 荒屋要之助 の名が見える。 同じく文政 6(1823)年の同資料では
御鳥見役 髙橋清之丞 荒屋要之助
の名が見える。続く天保 6(1835)年の同資料には
御鳥見役 髙橋清之助 荒屋要之助 とあり、高橋家で代変わりしている。 

 残念ながら雫石町史では、「御鳥見役」の説明は以上で終わっている。
 いま手元に 2012(平成 24)年 5 月 3 日付の盛岡タイムス紙 2 面に掲載された「盛岡南部藩鳥見役の実像①」という記事がある。紫波町の彦部公民館長の郷土史料調査で彦部地内の旧家で「盛岡南部藩の鳥見役に関係する文書が見つかった」という内容である。調査 内容が 3 回に分けて掲載されている。調査と分析を行ったのは、彦部公民館長の八重嶋 勲さんと近世こもんじょ館主宰の工 藤利悦さんだ。彦部地区内の旧家上田家の文書を調べた。盛岡藩内の鳥見役に関するもの であり雫石の場合と共通すところが多いようなので記事を引用し参考にさせていただく。
 
 鳥見役とは朝廷や幕府に献上する野鳥を管理する役職、藩の重役である御用人が直轄す る職務だった。 基本的には世襲ではないが新規採用の形を取って上田家では代々の当主が務めている。 (※筆者注…雫石通りでも、歴代の髙橋家と荒屋家が務めており、共通していそうだ。)
 御用人は家老、御側頭(おそばがしら)に次ぐ役職。御用人直轄の職務に置かれた理由は、献上に関係して朝廷や幕府の担当者と連絡を取り合う必要があるため重役の役目にな っていたとのこと。
 飛来する野鳥をかぞえて藩御用人に報告  
 一般的に知られる業務は飛来する野鳥を数え盛岡城の御用人に報告すること。紫波郡や 岩手郡の鳥見役は盛岡城の御用人に日報を届け、遠隔地の場合は数日おきに報告していた。 このほか野鳥が飛来する堤や池などの管理と環境保全。これに加えて「野回り」といって 堤の改修に必要な資材を確保するため山林を見回 りする仕事もあった。
 紫波郡の場合、記録上で寛永年間(1624~44) には「鳥見役」が見えるが工藤さんは「寛政年間 以前から献上しているはずで、南部家や幕府の記 録にないということだけ。どこまでさかのぼれる かわからない。」と話す。 (※筆者注…雫石通の場合は、元禄 2(1689) 年から御鳥見役の名前の記録がある。)  
  雫石名子の「桜沼」も調査地に
 盛岡藩内の鳥見役は安政 2(1856)年の記録では 15 人。うち盛岡地域では日詰・長岡通 に各 3 人、向中野・見前通に 2 人など各地に配置されていた。藩政時代には村々に数多くの ため池が存在した。 雫石の桜沼はかなり大きい沼だったが、昭和 47 年の構造改善事業の開田工事と乾燥化によりほと んどが埋まってしまった。
 地図は終戦直後の昭和 22 年頃の作成
 沼の北側に「桜沼神社」が鳥居の記号で示されている。桜沼神社は上町 の三社座神社に合祀されて今はない。かつての境内地には個人の住宅が 建っている。
 湖沼には鳥が集まる。鳥見役が配置されている地域では大小の規模にかかわらず管理下に置かれ、南部家の家紋になっている鶴をはじめ毎年欠かさず献上していた。
 工藤さんは「鶴の場合は一番鳥は南部家が朝廷に献上。二番鳥は伊達藩が献上するという 取り決めが古い時代からあった。鳥を輸送する時には足軽が何日で運ぶという規程もあった。最初は場所を決めて捕獲させていたが、飛来数の減少に伴い飼育するようになり、それでもできなくなって松前藩から購入した記録もある。 」と野鳥を藩が管理するようになった経緯 を説明する。
 献上鶴などの輸送日数も規定 移動(輸送)日数は献上品によって異なり、白鳥と鶴は 6 日、キジが 8 日、鷹が15 日。魚はサケとタラが 6 日、山芋や片栗が各 13 日間などと決められていて、各藩では領内の名 産品を定期的に献上していた。
 
「御鳥見役」。聞きなれない言葉だったかもしれません。今回の説明である程度ご 理解いただけたかと思います。雫石の荒屋さんと高橋さん方は、「公儀の儀礼上」と 「環境保全」の両面で重要なお役目を果たしていたようです。
 「環境保全」では、鳥などの生態系が気候はもちろん、河川、湖沼から山林の状況 と密接な関連があることを早くから見抜き、毎年の経験の積み重ねを基に対策を怠り なく採っていた藩政時代の優れた行政システムを見ることができます。
 せっかく見つけた「荒屋何右衛門さんのお墓」について、永昌寺様や現在の荒屋様 のご協力をいただいてもう少し調べてみたいと思っています。
(編集者お断り 図面、写真は省略しました)
 

戸沢(滴石)氏の系譜で現存するものは 4 つ    会報第17号(平成23年1月)所載


先の北浦史談会との交流会の意見発表の時間に、会場から「わが祖とされる『戸沢(滴石)氏』の系譜は複数あるといわれるが、何種類あるのか?」というご質問がありました。その際に「後日会報か何かでお知らせします。」と回答しておりましたので、この紙面を借りてお答えいたします。戸沢(滴石)氏の系譜で現存するものは 4 つあります。すでにご存じの方もおありかと思いますが、「雫石町史」にその記載がありますのでそのままご紹介します。

一、藩翰( かん) 譜系図
 「藩翰譜」は。元禄十四年(一七〇一)新井白石が編纂したものである。戸沢系図については寛永十八年の書上系図を基本とし、 延宝(一六七三~一六八一)頃まで追加したものである。この系図では戸沢氏の滴石居住が応永三十年(一四二三)迄となっている。しかしその後の天文(一五三二~一五五四頃まで)、滴石に居住したと伝えている。(資料 略)→この系譜では、「戸沢の祖」は平兼盛( 飛騨守) となっており、二代は親盛とされている。

二、寛政重修( ちょうしゅう) 諸家系譜 
江戸幕府系の系譜。初代を平飛騨守衡盛として書き出し、始祖を鎮守府将軍貞盛に求め、大和国吉野に居住して尾輪平新と称した。後、陸奥国磐手郡滴石庄の戸沢に移り戸沢と称した。頼朝に仕えて戸沢・下田・隠明寺( 御明神)、田口、長山、綱木( 繋) 等を領じて戸沢郷に住したと伝えられている。この系譜では、平衡盛( 飛騨守)を初代としているが二代は親盛、三代克盛と前者と同じだ。

三、新庄古老覚書 
戸沢( 注・現山形県)藩士田口良純( 寛保四年卒八七) による記述書である。これによると保元元年( 一一五六) 天皇方と上皇方が争った保元の乱に源氏、平氏の一族が両者分かれて戦った。平通正が上皇方についた。戦いが天皇方の勝利に終わり、通正は斬罪に処せられた。この時通正の妻が吉野尾輪に難を逃れ、そこで男子を産み平新と名付けた。これが尾輪の平新衡盛である。寿永三年( 一一八四) 奥州に下り、一族の樋山弾正良正の許に身を寄せた。良正は衡盛を戸沢に居住させ娘と結婚させた。良正に嗣子がなく、衡盛はその跡を受け、その地を領したと伝えている。系図では始祖は衡盛、二代が兼盛、三代が親盛とされている。

四、奥南落穂( おうなんらくすい) 集 
元禄時代に南部領で作られた史料。滴石氏が八戸南部らとともに北畠顕家・顕信に従って南朝方に加わったのは氏盛の時代であると記載している。その部分を引用すると“ 「光孝平兵部大輔兼盛、奥州岩手郡滴石荘を賜るとあり。その頃から住しや、又頼朝公、兼盛十一代孫飛騨守衡盛に滴石荘給るあり、(後略)”。」とある。

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「ある10月4日の離任式と雫石」…石川啄木と雫石ゆかりの人

       会員  渡辺 洋一(資料館勤務)  会報第17号(平成23年1月)所載


 21才の人物(男)のある10月4日を記した日記から。

 「親しくしていた同僚○○子先生(24才)が本宮村に転任になった。4日、告別式(離任式)生徒は皆涙ぐんで居た。小生も心に泣いた。送らるる人も涙であった。女史の告別の辞は一言一句涙であった。そして、沈痛なる声に力をこめて、『常に読書をしなさい。わたしも寂しい場所の住宅に居りましたが、本を読めば心おのずから全世界に拡がるような心地でした。読書をしなさい、そして自己を大にしなさい』と。これは女の言葉である!!」「これは女の言葉である!!」と!マークを二つもつけたのはかの石川啄木。明治39年の話。渋民尋常高等小学校に4月から勤務。4月28日の日記にも「余は日本一の代用教員」と記す。自信家の啄木。その彼が驚く女史は同僚の「上野さめ子」。

 「上野さめ子」は雫石出身。明治16年3月生。父そして長兄は県会議員。私立盛岡女学校(明治34年卒)では堀合節子の先輩。明治37年岩手師範女子部卒業。4月に沼宮内に次ぐ渋民尋常高等小学校に郡視学平野喜平の配慮で岩手郡で女子始めての「訓導」。この経歴は明治30年代の岩手県内の女子の教育環境としては大変恵まれたものであったし、啄木の日記や女史がモデルと思われる作品から「真に立派な見識の高い」人間に成長しているのがうかがえる。

 さめ子が渋民尋常高等小学校に奉職した明治37年、さめ子の甥上野広一は盛岡中学校を卒業、絵画修業のため上京、明治38年には盛岡中学校の1年先輩の啄木の仲人役をしている。叔母・甥と啄木の人生に関わった雫石の二人の間に啄木についてどんな会話がかわされたであろうか。それともなかったか。また渋民小のさめ子の上司遠藤校長も雫石出身。学校内で二人の間で雫石の話が出ることもあったかと。これもまた不思議なものである。
      ❉❉❉

 上記文は岩手郡退職校長会報に「雫石町歴史民俗資料館の紹介」にあたって平成20年10月に寄稿した文の一部である。既に20年1月の雫石町史談会第14回「自主研究発表会」で関敬一会員が「石川啄木と雫石のゆかり~~啄木に影響を与えた二人の上野さん」として発表している。

1 初めに……発表にあたって

(1)今回の発表のきっかけは、平成17年に昭和54年発行の町史をたどっているなかで「上野広一、上野さめ」記述を知ったことがスタートである。後日読み直しのなかで1128ページに「明治時代の進学者――明治27年遠藤忠志 尋常師範科卒 上長山 石川啄木が渋民小学校教員時代に同校校長となる」とある記述を知り(読み落としていた)、これが事実とすれば明治39年、啄木を知る上で重要な一つ「代用教員時代」に、職員4人の内、渋民出身が秋山首席訓導と啄木、雫石出身が遠藤校長と上野さめ訓導の体制であることになる。教職を経験した渡辺からすればたった4人の職員で同郷が2人はなかなかない。後日退職校長会に寄稿した文の末尾に書いたように、同郷同士どんな会話がなされたかな、と具体的な興味が湧いたのがスタートである。しかしその後はなかなか…。

(2)平成18年、他市町村の小学校副読本を調べていた時期でもあり、社会科も文科省は人物重視の方針。雫石の先人もチェックしなければの時期であった。

(3)平成18年8月24日~11月5日「Theザ・啄木展―啄木生誕120年記念4館共同企画」があり、石川啄木記念館「啄木をめぐる女性たち」で「上野さめ子」が紹介。町史に記述はあるが写真はなく、この企画展でカラーの(着色写真?)紹介があり、また生誕記念実行委員会発行の図録で「上野さめ子の雑記帳<啄木の思い出>」(さめ子長女・市川テル氏提供)の存在を知った。さめ子女史のカラー写真や展示を見、改めて興味がわき、啄木記念館の山本玲子氏にお会いしノートを拝見したが、まだ読み下していないとのことでこの件は遠藤忠志氏の件とともに後日となった(22年12月山本学芸員にお会いした際、ノート発表の可否がまだ、のこと。遠藤忠志氏の写真は記念館に常掲していることを知った)。まだ上野さめ・遠藤忠志両氏の知らない部分があることを知った。

2 上野さめ・遠藤忠志両氏の知見

 上野さめ・遠藤忠志両氏の知らない部分がまだあることを知った。知らないままでは、誤解はそのまま、間違いもそのままでは。いくらかでも事実に近く、が大事なこと、両者の肉声を知りたいと思った。そこで、平成20年1月会員 関氏の14回発表会「石川啄木と雫石のゆかり」文を受けた上で、資料をさがした。結果的には、先人の聞き取り・談話筆記が多く、新資料は未発表、また調査中があるが、今回途中ではあるが報告する。


(1)平成20年10月、前述の岩手郡退職校長会報に寄稿するにあたり、啄木と上野さめ子・広一氏、そして遠藤忠志氏の資料を探したところ、岩城之徳編「回想の石川啄木」(八木書店昭42)に出会った。同書には「国文学」(昭33年4月号所載)からの転載として「上野さめ子―渋民時代の啄木」が、また、岩手郡視学官 平野喜平が「啄木を採用したころ」(編者の岩城氏の希望により盛岡の歌人武島繁太郎氏が直接平野氏より聞き書きされたものより抄出したもの)が載せられている。また吉田狐羊「啄木発見」(洋々社 昭41)には「啄木とクリスチャンの女教師」で、狐羊氏がさめ子氏から談話筆記したことが載せられている。これらの文は後年の記録という点を差し引いても本人たちの記憶・思い出であり、一級資料に近いと思い紹介する。啄木は身の回りの人物を日記に記しており、また小説に登場させているが、そのまま受け取れない場合がある。

(2)平成20年9月、上野さめ子氏が盛岡女学校卒ということで盛岡白百合学園中学高等学校に電話・ファックスでお聞きした。藤村順二教頭先生より書状でご回答があった。回答には「上野さめ第8回生明治34(1901)年卒」(堀合せつは9回生)。校友会誌大正10年版に「(上野)瀧浦さめー京都市」との消息、大正15年版に7月9日付けで、本人が5人の子どもを育てながら夫が創立した「學純生活社」への盛岡の校友の協力を願っている寄稿文。明治30年前後の他の雫石出身者はわからない、等の回答をいただいた。

(3)21年に資料館勤務時2つの出会いがあった。一つ目は、啄木愛好会の方々の来館があった。館内の上野広一氏展示を上野さめ子女史と共に説明、また町史にある遠藤忠志氏が雫石上長山出身と紹介されていると言うと「えっ、松尾じゃないの?」となり、昭和54年発刊の町史を紹介した。二つ目は、町内の方が一般来館時、館内展示の上野広一氏の写真を見ながら「私の祖母から<兄忠志から、(啄木には)困った、と聞かされたよ>と聞かされた」の話。遠藤忠志の肉声であり大変興味あること、どこで生まれ・育ったかも知りたいものだと申し上げたところ、調べてみます、となった。

3 既資料の資料紹介

(1)岩城之徳編「回想の石川啄木……上野さめ子―渋民時代の啄木」の記述に、明治38年(1905年)5月啄木と節子の結婚式(30日)の世話をした(結果的に花婿なしの結婚式となった)上野広一氏に啄木が「――金がなくて盛岡に来られなかったと後で長いゝ詫びの手紙をよこしたそうですが、甥(上野広一)はかんゝになってて怒って居りました。」と記している。また「かって啄木は岩手県で名をなすものは原敬(当時内務大臣)と僕と広一さん(さめ子さんの甥の上野広一)の三人ですよ、とよく言って居りました。何、法螺をふいてと心で笑って居りましたが、その三人の中の啄木が一番有名になったので何だか済まない様な気もいたします。」「同年(明治37・1904)東京(の啄木)から貰った絵はがきが三通あります。これはどうして残ったか、後年甥の一人(上野君平氏。預かった吉田狐羊氏がさめ子に渡したのは昭和29年8月。さめ子最後の岩手入り。吉田狐羊「啄木発見」昭和41年10月より)が見つけて送ってくれました。第一信は英文で 1904 7/11(後略)、第二信は、1904 7/11(後略)、第三信(1904・絵はがきに)「その後は如何御すごし被遊候や、こゝに移りてより差上げし我文御落手被下候ひしや、昨日は広一兄と半日半夜いとたのしくこの牛門(牛込町)の静居に語り申候、私、今月に入りてより殆ど連夜暁を待って寝につくほどの急はしさ、御察し被下度く、この頃は方々に反響ありて詩運益々愉快に有之候十二月十一日夜二時啄木生」と記している。

<この資料の背景> (この時(明治37年)啄木は2月に堀合節子と婚約、10月には
処女詩集刊行目的で再度上京、啄木父一禎が住職罷免(12月26日)される前であり、明治38年1月5日には新詩社新年会に出席するなど、高揚した日々。3月10日になってようやく父一禎の住職罷免を知るが帰らず。5月3日「処女詩集あこがれ」刊行を果たし、帰郷の途に就くのが5月20日。しかし前述した上野広一が世話をした5月30日の結婚式に出ず、盛岡に帰ったのは6月4日であった。この件で多くの友人を失う。明治39年1月父一禎生活難の為野辺地へ。2月21日野辺地の父一禎を訪ね今後の相談。3月4日妻節子と母カツを伴い渋民の斉藤家に移る。そして代用教員に採用)

(2)岩城之徳編「回想の石川啄木ー平野 喜平氏ー啄木を採用したころ」には、採用そして免職の経緯を
「私は岩手郡沼宮内町の出身で、明治二十七年岩手師範学校を卒業した。その後岩手郡沼宮内小学校長や同郡篠木小学校長をへて、石川啄木を渋民尋常小学校に採用したのは、この郡視学官在任中のことで、それは(明治39年)啄木が二十一歳、私が三十四歳のときのことであった。
 そのころ私の勤務した岩手郡役所には、啄木の岳父にあたる堀合忠操氏が兵事主任兼学事係として勤めていた。(中略)啄木についてはこの堀合氏より聞いたほか、(中略)北岩手郡同郷会の会長をしていたので、同郷会の会合で彼の名を知り、将来性のある春秋に富む青年であると感じていた。こうした関係から、明治三十九年の春、啄木より堀合忠操氏を通じて就職を依頼されたが、(中略)啄木を採用となると、やはりその生活条件からいって、かれの母校の渋民小学校に採用するのが最も良かったが、あいにくこの学校には欠員がなく、無資格者の啄木を代用教員として採用するには、だれか有資格の教員を他へ転出させなければならなかった。しかしこの学校の校長の遠藤忠志(ただし)君は私の岩手師範学校の同窓であり、温厚篤実な人物で、気心もわかっているので啄木を引き受けてもらうのに都合が良かった。           
 当時渋民小学校は、岩手郡の中でも沼宮内町の次に高等科を設置して、小寺校長初め村の有志がすこぶる初等教育に力を入れており、生徒も仲々向学心にもえていたので、私もかねて優秀な教員の配置に協力していた。明治三十八(七?)年春岩手師範女子部を卒業した上野サメ嬢をこの渋民小学校に配置したのもそのあらわれで、当時こうした村の小学校に師範卒業の女子教員を配置することは異例のことで、上野さんは訓導の資格をもつ岩手郡最初の女教師であった。(中略) 
ーーーー(この資料の背景)明治39年 紫波にいた渋民出身の秋浜市郎氏を転入・首席訓導に、準訓導の高橋乙吉氏を滝沢尋常小学校へ転出させ、その後に啄木を「渋民尋常高等小学校尋常科代用教員」として採用。これで遠藤校長・秋浜首席訓導・上野サメ訓導・石川啄木代用教員の4職員。生徒数は尋常科215名・高等科68名。啄木の受け持ちは尋常科2年となった。啄木の「渋民日記――西暦1906年 明治三十九年 の四月二十四日。――二十八日」に、「余は日本一の代用教員である」と記すこともあった。しかし明治40年4月1日辞意を助役や学務委員に留任を勧告され、かつ辞表を堀田秀子訓導<39年9月上野さめ子訓導の後任>に預かられる。
 そして4月19日高等科の生徒を率いて校長排斥のストライキを指導。4月21日啄木免職、校長は土淵尋常高等学校に転出。啄木は5月4日妹の光子と函館へ、妻節子は堀合家、母カツは渋民知人宅へ。父一禎は既に3月5日に野辺地に出奔、一家離散)。ーーー 
(再び平野喜平氏の思い出から)「当時私はこの年(40年)四月十五日付で三ヶ月間の全国視学講習会に出張を命ぜられ上京、(中略)私がもし盛岡にいたらあのような校長の転任、啄木の免職というような最悪の事態にならなかったのではないかとも考えるが・・・・・・。
 啄木が不満に思ったのは、渋民小学校に集約的にあらわれた当時の地方教育界の沈滞した空気であろうと思う。(中略)もっとも啄木は日本一の代用教員と自負していても教育者としての正規の教育を受けたこともないし、代用教員になったばかりで、
当時の教育界の習慣や制度について熟知していなかったこともそうした事件を生む原因の一つであろう。(以下略)」と述べている。

(3)前出の吉田狐羊「啄木発見」で(上野)瀧浦さめさんは、「石川さんは明るくて純真で、先生としてもなかなか熱心で,生徒たちはみんな慕って居りました。お話も文学ばかりでなしに、歴史にくわしく、また、私達など足許にも寄りつけないようなえらい人物との交際ぶりを、よく得意になって語る人で、ちょっと煙に捲かれたものです。ただ、私などの尊敬できる人ではありませんでした。これは村の一部の人達から余計な噂さを耳にしていたせいかも知れません。私が渋民小学校を去ってから、有名なストライキを起こしているのですが、相手にされた遠藤校長先生などは、好人物すぎるくらいの好人物で、何も石川さんが目の仇にして争うような方では全然ありませんでした。このストライキなんかも、石川さん一流の茶目気からやったものとしか思えません。その当時、私は一年生を受持ち、石川さんは二年生を、そして校長先生が高等科をそれぞれ担任していましたが、石川さんは、頑是ない二年生などでなく、高等科を受持ちたかったのです。時々は校長先生に申入れたらしいのですが、無資格の代用教員では、校長先生も承認できなかったのは当然です。それやこれやがつもりつもって爆発したかも知れませんが、これは誰が見ても石川さんの方が無理です。石川さんはその不満を充たすつもりで、高等科の生徒の希望者に、課外として放課後に二時間も三時間も英語を教え出したのですが、それがまた学校の一室に常宿直のようにして家庭をもっている遠藤校長さんにしてみると、何かつらあてがましく感じられたのも無理はなかったのです。私が居さえすれば、あんなストライキなどは決して起こさせませんでした。」と語っている。

4 上野さめ・遠藤忠志両氏の既資料・新知見を調べての今後

(1)上野さめ女史の資料は多い。紹介資料平成18年「Theザ・啄木展―啄木生誕120年記念4館共同企画―で石川啄木記念館「啄木をめぐる女性たち」で「上野さめ子」が紹介。その図録で「上野さめ子の雑記帳<啄木の思い出>」(さめ子長女・市川テル氏提供)の新資料の公開が期待される。白百合学園からの資料がどれだけ調査されているかは調べていない。

(2)遠藤忠志氏の肉声資料は上記町内来館者のお話ししか知り得ていない。「雫石出身」については生地・家族構成・幼少・小学校等学歴(岩手師範卒は確かであるが)・職歴等確かめたいと思っている。町内来館者の知見によれば師範学校以前は町内で育ったことは確かのようである。


5 上野さめ・遠藤忠志両氏の既資料・新知見を知って

(1)明治39~40年の上野さめ・遠藤忠志両者を抄録を含め紹介することは、あの時期の雫石出身者の生き様を残したいが為である。石川啄木という今もって人々の話題になる人物に戸惑う周りの人物のうちの二人、加えて上野広一氏も。啄木も大変な時期ではあったが。

(2)今回の報告にあたっては、各者を理解する上での引用・抄録には注意した。ご指摘願いたい。

<引用資料・聞き取りから>
①昭和54年発行の町史1155~1158ページ「上野広一、上野さめ」。1128ページ「明治時代の進学者――明治27年遠藤忠志 尋常師範科卒 上長山 石川啄木が渋民小学校教員時代に同校校長ーー
②平成18年8月24日~11月5日「Theザ・啄木展―啄木生誕120年記念4館共同企画―」で石川啄木記念館「啄木をめぐる女性たち」で「上野さめ子」が紹介。図録44ページ中断に「上野さめ子の雑記帳ーー啄木の思い出」市川テル氏提供 ーー未公開
③岩城之徳編「回想の石川啄木」(八木書店 昭42)同書には「国文学」(昭33年4月号所載)かららの転載として「上野さめ子―渋民時代の啄木」が、また、岩手郡視学官 平野喜平が「啄木を採用したころ」(編者の岩城氏の希望により盛岡の歌人武島繁太郎氏が直接平野氏より聞き書きされたものより抄出したもの)が載せられている。
④吉田狐羊「啄木発見」(洋々社 昭41)には「啄木とクリスチャンの女教師」
⑤平野20年9月、卒業生・上野さめ子の知見を盛岡白百合学園中学高等学校、藤村順二教頭先生より書状で渡辺に。
⑥町内の方が一般来館時、館内展示の上野広一氏の写真を見ながら「私の祖母から<兄忠志から、(啄木には)困った、と聞かされたよ>と聞かされた」の話。遠藤忠志の肉声であり大変興味あること、どこで生まれ・育ったかも知りたいものだと申し上げたところ、調べてみます、となった。

**本原稿脱稿後、(上野)瀧浦さめ氏が結婚・京都在住時(戦後)、町内出身者で京都で学生時代を過ごしていた方が、さめ氏から啄木のことを少し聞いた、とのこと(さめ氏70才過ぎ)。



石川啄木と三人の雫石人   小 田 靖 子 会報第25号所載



はじめに  
学生時代の頃、石川啄木の短歌が大変好きであった。憂いをふくみノスタルジックな言語に魅了されたものである。コーラスにも啄木のものがあり、私は心をこめて歌ったことは言うまでもない。わざわざ渋民まで出かけて川ばたに建つ石碑をしんみりと眺めたり、城跡に出かけて、「・・・かの城跡に寝に行きしかな」に思いを馳せたものであった。
  
ある日、啄木の「雲は天才である」という演劇があるというので、まだそれを読んだことのない私はそれを観に出かけた。石川先生の勇猛果敢さと校長先生のだらしなさが目にあまる劇であったような気持ちがした。 
 
家に帰って、幼いときから一緒の部屋に寝ていた祖母に、劇の様子を話した。聞いていた祖母は、いつもの穏やかな声で「んでも兄さんは、石川先生には困った困ったといってたぞ」と言うではないか。私の思考はここで止まってしまった。祖母の兄さん? あの校長先生が、おばあさんの兄さん?知らなかった、本当に知らなかった。それ以後は、祖母に啄木の話しをすることをしなくなったし、私自身も啄木を客観的に観察するようになった事は言うまでもない。
  
その後は、仕事に追われ、家庭の雑用に追われて啄木は二の次になっていたが、時間にゆとりの出来た今、少し啄木について調べ、更に祖母の兄についても調査してみようと思うに至ったし、啄木と関わりのある方々についても調べてみようと思ったのである。  

雫石の3人 

啄木に関わった3人とは、私の知っている範囲では、遠藤忠志・滝浦さめ(上野)・上野広一(敬称略)であるが、その人々について調べてみようと思いたった。 

1、遠藤忠志
生育歴

明治4年9月25日出生  昭和15年12月17日没
父 遠藤忠敏  母 遠藤タキ
出生時の住所  西山村長山9地割東早坂45-2 
明治10年~ 早坂小学校に在籍尋常師範学校卒業
職 歴  訓導時代は不明
校 長  大更小学校―田頭小学校―渋民小学校―土淵尋常小学校― 観音林尋常高等小学校(農業補修学校長兼務)-晴山尋常小学校―平山尋常小学校―戸田尋常小学校―  50才で退職
退職後  紺屋町にあった執達吏役場に勤務       

2、遠藤忠志の人柄について 
忠志の孫である遠藤澄氏によると、祖父(忠志)と一緒に生活していたことがあるということである。生来温厚であり、小さい頃から澄氏に實語教・童子教・孝教を手解きをし、小学校4年、論語に入ったところで他界したということである。これは本人から私が実際に知らされたことであるが、温厚であったということについては、私の祖母と一致する。  

更に他の文献をひも解いてみると、下記のような文章が所々に出てくるのである。 
   
(1) 早坂小学校生徒のとき岩井花分校もあり、先生は本校掛け持ちで、先生が本校に居なかった時、分校では上級生だった遠藤忠志、同八十九の両氏が先生の代理で教えていたと伝えられています。遠藤さんは七区に領地があった南部藩士遠藤家(知行高百石)の人です。 (上長山小学校創立百年記念誌より)

(2) 吉田孤羊氏来宅の折り「石川さんは、うたの好きな先生であんしたなあ」と静かに話していた。 (遠藤 澄  老人クラブ機関誌) 
 
(3) 「石川さんは明るくて純真で、先生としてもなかなか熱心で、生徒たちはみんな慕って居りました。お話も文学ばかりでなしに、歴史にくわしく、また、私達など足許にも寄りつけないようなえらい人物との交際ぶりを、よく得意になって語る人で、ちょっと煙に捲かれたものです。ただ、私などの尊敬できる人ではありませんでした。これは村の一部の人達から余計な噂を耳にしていたせいかもしれません。私が渋民小学校を去ってから、有名なストライキを起こしているのですが、相手にされた遠藤校長先生などは、好人物すぎるくらいの好人物で、何も石川先生が目の仇にして争うような方では全然ありませんでした。このストライキなんかも、石川先生一流の茶目気からやったものとしか思えません。その当時、私は一年生を受け持ち、石川先生は二年生を、そして校長先生が高等科をそれぞれ担任していましたが、頑是ない二年生などでなく、高等科を受け持ちたかったのです。時々は校長先生に申し入れたらしいのですが、無資格の代用教員では、校長先生も承認できなかったのは当然です。それやこれやが積もりつもって爆発したかもしれませんが、これは誰が見ても石川先生の方が無理です。石川さんはその不満を充たすつもりで、高等科の生徒の希望者に、課外として放課後に二時間も三時間も英語を教え出したのですが、それがまた学校の一室に常宿直のようにして家庭をもっている遠藤校長さんにしてみると、何かつらあてがましく感じられたのも無理はなかったのです。私が居さえすれば、あんなストライキなどは決して起こさせませんでした。 ( 滝浦さめ話 吉田孤羊著 啄木発見より)  
               

遠藤忠志氏は、今盛岡の法華寺に静かに眠っている。長山の早坂から、ほとんどの墓も移築しているが一つだけが、元 居住していた場所に残っている。それには「遠藤忠敏祖母の墓」と記されている。 <右の写真>

忠敏の祖父は、定乃丞と分かったが、墓石の祖母の俗名は、風化して読み取ることができなかった。    

2 上野さめ        
生育歴 明治15年3月 出生

父 上野広安  母 みき 
出生時の住所 雫石村
明治21年4月~ 雫石小学校尋常科に在籍 
明治    盛岡女学校(白百合学園に入学在籍                   
明治37年3月  岩手師範学校女子部卒業                   
明治37年4月  渋民小学校に赴任                   
明治39年10月 本宮小学校に転任                   
明治43年 3月 退職                     
滝浦文弥氏と結婚                   
昭和 6年    京都にて幼稚園を経営                   
昭和39年6月23日没

さめさんの人柄について  (滝浦さめ話 吉田孤羊著  啄木発見より)      
明治21,2年のころ、雫石あたりでは、まだ女子の小学校の就学は認められなかったのを、父の威光で、6歳のときむりやり入学した。従って学友といえば男の子ばかりで、遊びごとも全部男の子と同じであった。相撲は取る、木登りはする、喧嘩しても、たいがい男の子を負かして泣かしてばかりいた。こういう環境が自然彼女の人間形成に強い影響を及ぼしたのではあるまいかと思われる。
渋民小学校の先生時代も、女の先生で生徒がいうことをきかないと鞭でぴしぴしやるのは彼女だけだったそうである。そして彼女は「私はスパルタ教育をやりましたよ」と御自慢であった。   

啄木との関わりについて    
こうしてみると、渋民小学校で啄木と同じく勤務したのは半年ぐらいのものである。しかし、啄木が代用教員に採用される前から学校にぶらりと遊びに行っていたりしている所をみると、後述する上野広一の叔母であるさめさんと、話しあったり、オルガンを弾いたりしていたのではないかと思う。    
啄木も、一番、齢の近いさめさんは、話しやすい相手であったろう。上記のようさめさんの性格にも尊敬しながらも惹かれるものがあったと思われる。
あはれかの 男のごときたましいよ 今は何処に なにをおもうや   啄木   

3、上野広一 
生育歴                
明治19年 月 日出生(※月日は現在調査中)                
  
父 上野 広成の長男  母 くら
出生時の住所 雫石村                 
明治25年   雫石尋常小学校に入学                 
明治32年4月 盛岡中学校(現盛岡第一高等学校入学)                 
明治37年3月 盛岡中学校卒業 
       上京し肖像画を学ぶ。 
       パリに留学 (原 敬の援助による)
       宮中や歴代総理大臣の肖像画を描く。  

啄木との関わり   
盛岡中学校で一級下であったが、下宿近いこともあり、交流をしていたようである。   
しかし、啄木に金を貸していたことも確かである。だが啄木に返してもらったことはなかったようである。   
こういうことがあった事も記されている。
節子との華燭の典の世話を頼まれて準備をすすめているのに、啄木は現れない。広一は近親者と相談したうえ、花婿の分の陰膳を据え、式を挙げることにした。仲人役の広一は言い訳を交えて簡単な祝辞を述べた。祝宴が始まった。両家の親たちは恐縮し、出席者一人ひとりに酒を注いでまわって行儀悪くなる出席者の笑い声を、どこか冷めた思いで聞いている。広一にはそのように映った。落ち着いた節子と、おろおろする親たちとの対照的な姿が印象に残った。
―中略―
啄木は広一の伯母にあたる上野さめ子に、「将来、岩手県で名を成すのは、原敬と上野広一と、俺だ」と話している。広一は後に原敬に認められてパリに留学し、洋画家として大成する。しかし、ニ度と啄木に会うことはなかった。  

(松田十刻著  26年2か月――啄木の生涯より)     
右の写真は、雫石町内にただ一枚残る上野広一画伯の絵。廣養寺先々先代住職の肖像画である。        
<廣養寺本堂>  
 
考 察   
本件はまだ調査継続中であるが、こうしてみると啄木という青年は神童と言われ育ち、自己中心に物事を考え他人の思惑に気持ちをはらう心のゆとりのなかった人物であった事は確かである。複雑な家庭の事情にも起因しているものと思うが、短い人生のあいだに、やり残したことが無い位のことをしたと思う。啄木に関わった3人の雫石人は、啄木に迷惑をかけられながらも、真っ当な人間としての人生を歩んだことを、今回学習させていただいた。 
啄木を社会主義者ではないかと言う人もいる。盛岡中学時代にストライキを覚えたが、その中心にはなれなかった。遠藤校長の前の相馬校長の排斥運動にも関わったが、それも中心になることがなかった。その後、生徒を扇動し、前にたってストライキに突入したことなどを考えると、なんとなく“がき大将”めいてくるが、次の歌を見ると啄木の 言い知れぬ寂しさが伺われる。     
そのかみの 神童の名のかなしさよ ふるさとに来て泣くはそのこと  啄木   

<付録>    雫石町内にある啄木の二つの歌碑           
県立雫石高校「思郷の森」     
(碑文) 病のごと 思郷のこころ湧く日な り 目にあをぞらの煙かなしも 
岩手山・御神坂登山口駐車場 
(碑文) 岩手山 秋はふもとの三方の 野に満つる蟲を 何と聴くらむ

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“春木場”での『春木』引き揚げ現場の写真みつかる 関  敬 一 

(附録)「雫石川の筏師たち」のこと     会報第38号(平成28年1月)所載    
右の写真は、雫石町御明神中村(中島行政区)在住の中村一民(かずたみ)氏(67歳)のご提供による白黒2枚組の写真の内の一枚である。もう一枚が、下の写真だ。雫石町御明神にある「春木場(はるきば)」の地名の由来を示す貴重な写真である。写っている「竜川」は駒ケ岳方面を源とする川で一級河川「雫石川」の本流である。撮影した年代・時期は裏面などに記載がなく不明である。帽子や服装などから明治後期から大正中期ごろのものと推測される。

平成27年8月に、町立御明神小学校さんからの情報により、筆者が中村さんにお会いし、原版をお借りして複写させていただいたものだ。中村さんのご承諾を得て町教育委員会社会教育課さんにも提供した。写真を貸してくださった中村一民氏は、春木場の対岸の中島集落に住む方で、自宅は川原から直線で300メートルほどの所にある古くからの農家である。写真は一民氏の祖父吉太郎氏(故人)が所有していたものらしいが、その入手先は分からないという。往時春木の引き揚げ作業が最盛期のころは川原周辺の住民たちも作業に就労していたものと思われることから、その縁で中村家に残っていたものであろう。中村家には木材を引き上げるときに使用した「鳶口(とびぐち)」が残されている。
     
 上の写真の現物は、カバーはないが、硬い立派な台紙に張られている。作業関係者およそ30人が勢揃いしての<記念写真>であろうか。今の小学生ぐらいの学生帽をかぶった子供が一緒に並んでいる。素足なので作業員ではないようだ。写真の中で前列の印半纏を着た二人のうち右側の作業員の半纏にははっきりと「吉谷材木部」の文字が読み取れる。左側の人の半纏の文字は「㊞赤戸○山林」(最初の印は判別不能・「赤」は「志」かもしれない)。引き揚げられた丸太は薪とするためか長さは三尺(90㎝)弱ぐらいに見える。竜川(雫石川)の水量は、春の雪解け水で増量しているせいか多いように感じる。対岸の集落の建物の様子から写真の場所を推定するのは困難に感じる。 

そして、右が2枚目の写真である。こちらの1枚は作業員たちが川に入り、流れてきた木材を岸に寄せている写真である。川原に立てられた三本の長木の上にいる白帽、白シャツの男性は流れてくる木材があることを川の中の作業員に知らせる“現場監督”的な立場の人のように見える。流れてくる木材は十分乾燥していないため、川面に出ているのはほんの一部で、特にブナなどの硬い木は、ほとんど沈んだままで流れてくるため川の中の作業員には見えにくい。このため高い所に立ち木材が流れてきていることを教える役目の人が必要だったと思われる。  

それにしても、流してきた木がそのまま下流に流れてしまうことはなかっただろうか。この対策のために「さく(柵?)」と呼ばれる構造物を川の中に設置したという話が現地に伝わっている。「さく」は3、4本の丸太を十字に組み、これを何組も川を横断するように横に並べていたようだ。この十字の木の根元には、フジ蔓(つる)で編んだ網に玉石を入れて重しにしていたという。この「さく」に引っかかったところを作業員たちが鳶口で岸辺に寄せたらしい。 

この「さく」で思い浮かぶのは、春木場の上流にある「日陰堰」という農業用水路の取水口近くに、水を引き入れるために設置した「三本框(かまち)」という構造物である。また、年代は昭和15、16年ごろまで下
がるが、雫石駅の南側、現在は鯉のぼりを掲揚している辺りの雫石川の中にはやはり流木をせき止めるための「さんき」という構造物があったと近くの横手良雄さん(85歳・駅前行政区)が語っている。横手さんは「さんき」は「三基か三木」だったのではないかという。それも太い丸太を流されないように川の中に打ち込んで作っていたのではないか、その名残りらしい川の中に立っている木を見たことがある、と話してくださった。参考までに、日影堰土地改良区の頭首工への取水のために設けられた三本框のイラストを載せてみた。

「春木場」以外にも、町内各地に「流木引き揚げ地」があった

この写真が写されたと思われる雫石町(大字)上野(字)新里地内の竜川沿いの地域は、かつて山から川流しされた「春木」の陸揚げ地であったことから、通称「春木場」と呼ばれている。「春木場」の地名は盛岡市内・中津川沿いにもある。雫石町内には春木場ではないが「土場(どば)」や「留場(とめば)」と呼ばれる川流しされてきた木材の引き揚げ地が御所地区の町場や安庭周辺にもあったようだ。また、町教育委員会刊行の「雫石の旧家」(昭和57年初版)の<御所地区>桝沢の金十郎家(米沢家)の項に「藩政中期頃、水田のあるところは金十郎家のみであった、と伝えている。奥から流した春木が金十郎家の水田に上げられ、そこで筏に組んで、盛岡に出したものと伝えられ、昭和初期まで筏流しの親分であったそうだ。金十郎家の正統は金吉氏の家である。」と記載されている。     
      
在家(ざいけ)千貫(せんがん)、山千貫、川千貫 
 
中世における郷または村を構成する単位は「在家」であった。慶長元(1596)年、旧御明神村の有力者木村丹波が、新たな領主となる南部信直に県北二戸の福岡に呼び出され、雫石郷の説明をした中で述べたのが表題の言葉とされる。丹波は、滴石(雫石)郷の生産力を聞かれて「その総額は三千貫文である」と答え、その内容は「在家たちの生産力千貫、桧、スギ、桂、栗その他山林樹木の生産高が千貫、これを材木または春木(薪)として筏(いかだ)を組み、雫石川を利用して下流の飯岡や栗谷川(厨川)、盛岡に売る収益が千貫である。」と説明したとされます。
 ※「在家」……中世の村は在家のわずかな集落とこれに付帯した耕地で構成され、集落間には無主の林野が横たわっていた。在家とは屋敷(宅地・建家)と耕地を所有し、田一町歩を基準として年貢を納める者を言う。在家の多くは半士半農の郷侍であった。 

また、藩政時代末期、雫石代官所の御物書を勤めた上野広安は雫石の山林概況を「山林に富み、樹木の繁殖なる。加ふるに水路至便の地にして喬木巨材といえども、朝に伐採して、夕に有用の地に達す。(中略)…舟筏の通路至便なること、実に管内無比の勝地たり。…」 と述べている。その木材の集散地となったのが御明神・上野新里の「春木場」である。 

この春木場の川原の北側沿いを旧秋田街道(秋田往来・旧国道46号)が通っており、沿道両側には古くから人家が建ち並び集落を形成していた。江戸時代には「春木場の小宿(しょうしゅく)」(または小字名をとって「新里の小宿」とも)と呼ばれた。昭和初期まではここでの「春木取引」や「酒造業」などによる経済効果もあって「春木場」は雫石郷の中で最も商業の発達した地域であった。現在の「春木場集落」のあちこちにその面影が感じられる。  

その春木場の“春木の集積場”の位置は、今でははっきりは分からないが、土地の古老の話では現在の春木場橋の上流100mから200mほどのあたりだったという。また、前出の資料本「雫石の旧家」の<御明神地区>に「中島・又兵衛(中屋敷家)」の記載があり、又兵衛家では「中屋敷川原」に春木を陸揚げさせ、借地料として一間当たり、春木2~3本を取り上げ、これで財を成した、と紹介されている。「春木」の集積所は左岸の(上野)春木場だけではなく、右岸の(御明神)中屋敷地内の川原にもあったということを示している。 

  ※「春木」……春木と呼ばれる薪は、文化13(1816)年以来、公式には真木、一般には春木と呼ばれてきた。毎年二月、春木の伐木を希望するものは、藩の御山所に願い出て、許可を得なければならなかった。主に、橅(ぶな)などの雑木と呼ばれて用材に不適な樹種を五尺(およそ1.5m)の長さに切り落とし、春先の雪解け水を利用して流送した。皮が剥げるのが特徴だった。◆(右)筏流し風景
御所ダム完成前の昭和40年代半ばの再現写真(ライオン写真館)

 
※「筏(いかだ)」…雫石通の官山から正式な手続きを経て伐採された木材には、それを証明する方法として木口に墨汁を使用した鉄印を打ち付けた。これを「極印」と称した。極印を打ち付けた木材は、筏に組まれ雫石川を流送された。筏は尾入御番所前(現在の繋ぎ大橋の下付近)で止められ、御山奉 行の手によって確認され、確認書ともいうべき送切手(送り状)が発行された。この送り状によって初めて正当な払下げ木材として認められた。 

(附録)田中喜多美氏らが語る「雫石川の筏師たち」のこと

春木場を出発した筏は、盛岡市の明治橋上流の“杉土手”(現商工会議所付近) に運ばれた。雫石からの筏が到着した時の杉土手での筏師たちの様子や、実際に筏師だった田中喜多美さんのお兄さんのお話など、今ではもはや知ることのできない貴重なお話を上記の「もりおか物語」(盛岡の歴史を語る会企画・昭48年発行)から抜粋・要約して下記に紹介する。 

語り手は、海沼儀助氏(明29年生・鉈屋町)、阿部善吉(明19年生・清水町)、田中喜多美(明33年生・山岸。雫石町出身)である。<いずれも故人>
〔もりおか物語(壹)-惣門かいわい- より抜粋〕   
海沼 明治23(1890)年に鉄道が出来て、新山河岸(明治橋下流)に舟がほとんど来なくなった。しかし杉土手に筏はたくさん着いた。雫石の方から三人ずつ筏に乗って川を下り、杉土手の木場に着く。すると若い者が筏の「ふじづる」をほどいて岸に上げて、“ヒト盛り”“フタ盛”といって木を盛り上げる。春木と言って冬の燃料にする三尺五寸(1m余り)ぐらいのもあれば、また材木にする長いものもあった。たくさんの材木が運ばれてきたので、この木場には「外川」という大きな材木屋があって繁盛していた。現在の明治橋付近の川岸(鈴木製材所)のあたりだ。筏流しの人達は、ここで筏から上がると、あとは川原町あたりの茶屋ッコで酒飲んで、木半(きはん)という宿屋に泊まるか、あるいは日帰りで歩いて雫石へ帰って行った。川岸近くにはモッキリ屋も何軒かあって繁盛したものだった。腰かけて呑む飲み屋を「煮売り屋」といっていた。季節季節のものを煮て食わせるということだったと思う。 

阿部 いま明治橋が架かっている所には材木や柾(まさ・屋根葺きに使う。)なども扱う木半(高橋半次郎)という宿屋があった。ここは雫石方面から流してくるユガダ(筏のこと)乗りがよく泊まったところであった。当時、明治橋、杉土手付近には、ノッツリと、川が狭くなるだけ筏が来たもんだ。筏には「材木筏」と「春木筏」とがあった。材木筏というのは、二間物の材木にハナグリという穴をあけて、隣から隣へと木を繋いだものだった。春木筏の方は、盛岡で燃料にする薪(たきぎ)を繋いだものだった。この薪は春の増水期に川を下して流したので“春木”といったもので、この春木を積み重ねておくところを“春木場”といった。このように雫石川を流れ下った筏は、杉土手の木場に着いて、木半の所で陸揚げされた。それでここに外川屋という大きな材木屋ができたわけです。 

田中 私の兄は、明治から大正にかけて雫石から盛岡までの筏乗りをやっていた。一日かかって筏を組み、翌日は雫石川を下って、盛岡サ下がるのである。天気の良いときは、雫石から三時間かからず、二時間半ぐらいで杉土手まで着いたものだという。筏を操るのは、三人である。筏の先の方に乗るのは“鼻乗り”、真ん中には“中乗り”、筏の後の方に乗るのが“後乗り”である。鼻乗りは心得のある者、中乗りは新参者、後乗りは老練な者が務めた。先頭のものがカジ(舵)を取り、後乗りがそれに上手に合わせて流していく。急流は勇ましく下り、淀みに来ればタバコをふかしたり、歌をうたったりして悠々と流していった。

筏を流すときの櫂(かい)を“うちがい”という。杉土手に筏を付けると、木材事務所へ届ける。そして、“うちがい”を担いで、秋田街道を雫石まで歩いて帰るのである。盛岡でモッキリを一杯ひっかけて出掛ける。途中の仁佐瀬に茶屋ッコがあり、そこでも必ずモッキリをひかっけて、ワイワイ騒いで家に帰ったものだ。

筏乗りの手間賃は、兄の場合は一日五十銭だったかと思う。これは当時としては、良い手間賃だったと聞いている。米一升は十銭ぐらい。普通の日雇い賃金も十銭から十五銭ぐらい、田の草取りは米一升ぐらいだった。大工の賃金と筏流しの賃金とは、だいたい同じぐらいだったようである。だから筏師になることは、若い者にとっては自慢だったのではないか。なにしろ威勢の良い、目立つ職業だったから――。

特に雫石町内でも、安庭付近が盛んで、この辺はたいへん景気がよかった。半面には金回りがよいので、遊びを覚えてしまうものだから、カマド返し(破産)も多かった。

時々大きな“曲り家”が、太田や紫波だのサ売られていったこともあった。

筏を組むとき、木材と木材を繋ぎ合わせるには、昔は“ワクトウシ”といって、細長いマサカリ(ワクつぶしともいう)で木に穴をあけて繋ぎ合わせた。その後になって、鉄製の環(カン)ができた。木材は二間物は十三尺、一間物は七尺位、いずれも余分の長さを保つようにした。筏を杉土手の下流に付けるまでが筏師の仕事で、筏をほどいたり、川から揚げたりするのは、別の木場の人夫がやった。

春木というのは、旧暦二月、雪が“カタ雪”になって、道のないところでも自由に歩けるようになった頃、山に入って伐るのである。二尺八寸ぐらいに切って、棚積みにし、秋までそのままにしておく。秋の稲刈りが終わって、全山木の葉が落ちてしまったころ、それを山の沢にぶち込んで、谷川を流してきて、春木場に揚げるのである。このようにして御明神村の雫石川の春木場には、用材や棚薪が山のように積み上げられていた。

だから春木というのは二年越しの薪で、川を流してくるので全部樹皮がはがれている。よく乾燥していて、値段も高かった。こうして集められた春木を春木場で筏に組み、雫石川を下して盛岡に運んできて燃料としたのである。盛岡全部の燃料となるので、大変な量だった。

筏組みは、用材ものよりも春木の方が短いので、組むのが面倒なものだった。川流しの最中に急流の岩石などにぶっつかると、バラバラッとほどける。それを鳶の口などを使って大急ぎで引き寄せてまとめる。とても忙しくて、危ない仕事である。ボヤボヤしていると、川の中にドンブリ落ちてしまう。急流のところは竿で操り、川幅が広くなり流れがゆるやかになると“うちがい”で漕ぐ。こういうことで「筏流し」も楽な仕事でなかった。
 以上、「もりおか物語」終了。    
            ◆◇◆   
明治以降もこの流送は続けられた。雫石でも多くの筏師たちがここで生計をたてていたと思われる。それが伺える賢治作品がある。
 賢治作品「腐植土のぬかるみよりの照り返し」(文語詩稿「一百篇」より) 
 こはいかに赤きずぼんに毛皮など 
 春木流しの人のいちれつ    
 なめげに見高らかに言い木流しら 
 鳶をかつぎて過ぎ行きにけり

※この文語詩は、大正10年代に旧秋田街道沿いの橋場駅周辺の様子をつづったものと思われます。賢治さんもきっと「筏流し」を興味深く見ていたのでしょう。
 
筏流しが廃れたのは、大正11年に橋場線の開通をはじめ陸路も順次整備されたことによる。そして全く姿を消したのは、繋地区の雫石川に発電用の堰堤(えんてい)ができた昭和10年だった。


観天望気と東方朔覚書について
 会員   関 敬 一(下町)  会報第17号平成23年1月
私たちが毎日テレビや新聞などで特に関心を持って見聞きする「天気予報」。かつては“当たらないもの”の代名詞と揶揄(やゆ)された時代もあったが、最近は科学技術の進歩や測候技術の向上で的中率がかなり高くなっていることはご承知のとおりである。

天気(気象)予報は、我々の日常生活はもちろん農作物の栽培管理や農作業をする上で極めて重要な情報である。これは農業に限らず、山林業、漁業にとっても同じだ。このため、古くから人々はなんとかして天気を予測できないか、あれこれ考えてきた。

こうしたことから編み出されたのが、太陽や月の動き、山や雲の状態とそれに対する動植物などの反応などをもとに、数日間のお天気や中長期の気象を予想する「観天望気(かんてんぼうき)」といわれるものである。これは長い年月にわたり自然界の動きを綿密に観察し、その記録を丹念に積み上げ、“確率”として導き出してきた気象予報で、「お天気ことわざ」や格言の形で、今なおわれわれの身近かに伝えられている。また江戸時代に「東方朔(とうぼうさく)」という書物にもまとめられている。

お天気ことわざのかずかず

町出身の郷土史家田中喜多美さんの著作「山村民俗誌」によれば……
かつて、岩手山南口(雫石・御神坂口)からお山がけする人々は「岩手山の中腹に雲が横に棚引けば『お山、帯した雨が降る』と言い、頂上近くにかかれば『お山、鉢巻きした天気になる。』と言い、岩手山がはっきり近くに見えると『お山近く見える、荒れ日が来るぞ』言っていた。また岩手山に三度積雪があれば、次は里まで来ると信じていた。」
…ということである。

町内大村地区でも、雫石盆地内の最高独立峰とされる男助山にかかる雲の状況で天気を予測することわざが同じような言葉で残っている。

昔の人々はこのように山や雲の状態や動きから天気を予想し、日々の暮らしや山仕事、農作業に対応してきた。これを前述のとおり「観天望気」と言い、格言やことわざの形で全国いたるところに伝えられている。 

このことわざ類は余りに数が多いので全てを紹介できないが、その主なものを見てみると、――「夕焼けは晴れ、朝焼けは雨」、「朝虹は雨の兆し、夕虹は晴れ」、 「遠くの音(汽車、川の瀬音、鐘など)がよく聞こえると雨が近い」、 「飛行機雲がなかなか消えないときはやがて雨」、「ツバメなど鳥が低く飛ぶ時は、やがて雨になる」「月にかさ(暈)がかかると雨」――などが広く知られている。

日本列島の場合は、一般的に西から天気が変わるとか西風が吹くと晴れると言われ、これに関したお天気ことわざも多い。これは日本のはるか上空を強烈な「偏西風」が西から東に吹いており、雲や前線の動きに影響するからなのであろう。

 しかし、日本は複雑な地形が多く、お天気も全国共通ではない。このためそれぞれの地方独特のお天気ことわざも伝えられてきた。たまたま、本年(平成 22 年)夏に雫石町内の数人の山岳関係者に対してアンケート調査をお願いし、『里から山を見て』及び『山の上における』お天気ことわざや格言を挙げてもらったデータがあるのでここに紹介する。 
・岳(だけ)で風が遠鳴りすると天気が変わる。
・西の山の三角窓(曇りの日に谷間の雲が晴れて上の暗雲との間が逆三角形に明るくなること)が開く時は風が強くなる。
・志戸前の山が曇れば雨が来る。(御明神地域では大洞<おおほら=天川沢の奥の山>も同じように言われる)。
・奥羽山系の山に土手雲がかかると里は晴れでもやがて天気が崩れる。
・男助山に雲がかかると雨。
・駒ケ岳、三ツ石で東から風(のぼり風)が吹くと雨になる。
・春から夏季に裏岩手で鳥海山が見えれば翌日雨が降る。
・西の山に傘雲がかかると天気は悪くなる。
・「雷三日」(雷は一日だけではなく続くので要注意!の意)
・山小屋で星空が見える時は、翌日の午前中は晴れる。
・烏帽子が曇れば岩手山の天気は下り坂。
・蟻が巣から外へ土を運び出す時は晴れる。
・山でリスを見かければ天気は下り坂。 など。

 <お天気ことわざ>の多くは現代科学で も説明のつくものであり、また長年の経験から確信しているものも多いようだ。だからこそ長く伝えられているのではないかと思われる。現に私が取材した山好きの町民たちは、こうした“ことわざ”は当たる、と言っている。

江戸時代の気象手引書となった「東方朔(とうぼうさく)」とは

 次に口承ではなく、書き物として残る気象手引書について紹介する。

 「雫石町史第一巻」に『町内黒沢川の旧家に江戸時代の天保2(1831)年に書写されたと思われる「東方朝覚書」という古文書が残っていて、古老たちはこの書を<とうぼうさく>と呼んだ』 という記載がある。町史ではさらに、『さまざまな気象条件、特にも冷害によって幾多の飢饉(ききん。飢褐(きかつ=けがぢの語源?))に見舞われた江戸時代の農民たちが、過去の経験と伝承から、その年の気象と作柄、さらに疫病、物価等を予想して対処する手引きとしたものだ。』 と解説している。

これと同様の題名の書き物は「東方朔 秘伝置文」<とうぼうさく ひでんおきぶみ>、「東方朔覚書」<とうぼうさくおぼえがき>などの名で全国各地に残っている。
(筆者注;私は実際に町内に残っているという当該史料を見ていないので断言できないが、町史では本の題名を「東方朝覚書」と“朝”としているが、全国的には「東方朔」である。「朔」の字体を草書などでくずせば、「朝」と読めなくもない。確認が必要と思われる。)
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「東方朔」はそもそも人名である。紀元前1世紀ごろの中国、漢の武帝側近の博識の文人で諸事に通じていた人だったという。東方朔は自然現象、気象にも知識が深く、こうした手引書の原型になるような資料を当時作っていたのかもしれない。「東方朔」といわれる古文書の中で、研究者の間でよく知られているのが埼玉県嵐山(らんざん)町の旧家新井家に伝わる秘伝置文。その文書の序に次のような「趣旨」が綴られていて興味深い。内容の目次(目録)とあわせて紹介する。 

東方朔秘伝置文の序


凡人倫の大事は農家の努にありよく天地の気運に達し風雨曇晴を察して稼穡(かしょく)を為すときは百穀登りて万民快楽(けらく)す 然りといへども悉く天文に通ぜざればこれを察する事能はず こゝに東方朔(とうほうさく)は漢の武帝の侍臣にして歳星化身也といふ 後世を避て無為の間に遊ぶ曽て天文地理に明にして万世の吉を知る故に此一巻を遺(のこす)をもて人民の利益少からす 最(もっとも)世に伝る事久し間(このごろ)予遇(たまたま)この原本を得て謹で梓(あずさ)に鏤(ちりば)め世に公にして稼の過(あやまち)なからんことを欲する而巳(のみ) 岩山道人誌【※( )内は筆者のふりがな】

東方朔秘伝置文 巻中目録 
第一 六十甲子(かつし)吉凶の事 
第二 日輪を候(うかがい)て吉凶を知事 
第三 月輪を候て吉凶を知事 
第四 星を候て吉凶を知事 
第五 雲気を見て年の吉凶を知事 
第六 虹を候て吉凶知事 
第七 電光(いなひかり)を見て雨風を候知事 
第八 雲気を見て雨風を候事 
第九 雨降出る時によ 降晴るを知事 
第十 毎月定て風雨吹降日の事 
第十一 煙気を見て吉凶知事 
第十二 四季の気を見て吉凶知事 附火気病気知事 
第十三 軍中に雲煙の気を見て吉凶知事 
第十四 五音の気候吉凶知事 
惣目録終

序文はなんとも格調の高い文で綴られているが、要は「天文・気象に通じた人こそが農作物の実りをもたらす農事(稼穡)がうまくできる。漢の武帝の臣であった東方朔はまさしくその人であり、その彼が農事に関する一巻の参考書をまとめた。私はたまたまこの原本を手に入れたのでここに上梓して公にする。これをもとに間違いのない農事をしてもらいたいと願う。」という意味のようである。ただ、上梓といっても印刷・製本ではなく実際は「書き写し」だったようだ。

「東方朔」は農民の経験と知恵の結晶 


この「東方朔」の書物は、こうして全国に広まっていった。県内でも各地にこの書き物が残っているようだが、雫石の近くでは花巻でも確認されている。花巻歴史民俗資料館収蔵の史料に「東方朔置文(おきぶみ)」があり、これに基づく行事として「東方朔占い」が次のように紹介されている。
 東方朔占い(とうほうさくうらない)1 月 15 日

むかしから当地方で行われていた占いで、15日の夜「東方朔置文」という本を持っている家に集まってこれを読む行事です。「東方朔置文」とは、十干、十二支の組み合わせによる 60 通りの天候・作柄などの予想が書かれているものです。それによって、仕事の手順や品種の選び方を工夫しました。なおこの日には、田植え行事、成り木責めなど、豊作予祝の行事も行われました。 
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雫石町内に残っている文書も含めて、この「東方朔――」は、印刷されたものではなく、書ける人は書き写し、書けない人は借りるなどして耕作への対策を考えたとされる。町内でも最近まで、古老が「伊勢暦」などを見ながら、特定の日の「月」を見、雲の形を調べて書き留めておく習慣があったとされるが、これもこの「東方朔――」とのかかわりがあるのかもしれない。 

町内の「東方朝覚書」の内容から気象と耕作との関係について一部を紹介すると、
①例えば、干支からの予想「葵巳年は、二・三月風、霧、霜多し…」 
②「月」の色からの予想「月色黄にして青きは飢饉なり、…」
③虹の立つ方角からの予想「虹立て、西に有るは、明日必ず雨降り、…」
④節句から予想「秋分の日入時分に、西方に雲懸かるはその年ゆたかなり五穀実る」等がある。また、このほかに煙の昇り方、稲先の様などからの予想も書いてある が省略する。

雫石町史では、このことを「今の科学的 判断から見れば全くもの笑いであるが、この時代には、真剣な観察であり、唯一の手引きであった。」と書いている。 頭から「…全くもの笑い…」と決めつけるのはどうかと思うが、当時としては“真剣な観察”であり、その丹念な積み重ねなど血のにじむような努力あったことは確かであろう。まさに農民の経験と知恵の大いなる成果といえるものだ。 

現在は、わずかに町史にその片鱗を残すのみの「東方朔」であるが、花巻市の例のように町内においても年中行事にその姿が残されていないかどうか、調査・研究に値すると思われる。 

以上「お天気ことわざ」、「観天望気」、 そして「東方朔覚書」などについて見てきた。いかに科学技術が進み、コンピューターが発達した時代になろうとも、我々のように物ごとを歴史に学ぼうとする者にとっては、自分自身の「観察力」、「分析力」、「洞察力」を養うことがいかに必要であるかを改めて教えられた気がする。

 
雫石町内における森林鉄道<その2>
丸山 塁 
会報第18号平成24年1月 

1、はじめに

雫石町内にかつて張り巡らされていた営林署の森林鉄道については、2010 年 1 月の滴石史談会第 16 回「自主研究・成果発表会」において、渡辺洋一、関 敬一の両氏により「雫石町内における森林軌道<その 1>」と題して、その全貌が明らかにされている。

小生もかねてから、雫石町内の森林鉄道について個人的に調査を行ってきたが、資料的なものがほとんどなく、旧版の国土地理院地形図を頼りに、現地調査するばかりであった。その点で両氏の発表は、実際に森林鉄道に携わった方々への聞き取りや、自らの記憶などによる真に貴重な調査報告であり、埋もれかけた歴史を発掘するものとして敬意を表する次第である。

写真-1 仁別森林博物館にて 軌道集材車
そんなある日、東北森林管理局の仁別森林博物館(秋田県秋田市仁別)(写真―1)で「森林鉄道のパネル等展示」という企画展を開催しているとの情報を知り、早速出かけてみた。
すると、そこには、森林鉄道の車両の展示などの他、路線毎のデータなど貴重な展示もあり、思いがけない収穫があった。特に路線毎の正式なデータは、ほとんど入手困難な資料と思われることから、今回はこれを中心に、「雫石町内における森林鉄道<その2>」と題して、発表させていただきたい。

2、森林鉄道と歴史
雫石町内の森林鉄道の系譜は、旧営林署別土木台帳の旧雫石営林署データから表―1 のとおりである。中でも南畑支線高松沢線については、旧版の国土地理院地形図では大倉沢を分けてから先に線路の記載がなく、市販の森林鉄道に関するガイドブックにも記載がない路線だけに、今回その存在を確認できたのは貴重だ。

このデータによれば、旧雫石営林署管内で昭和 19 年~23 年までのピーク時には 6 路線合計で 74,257mの路線延長があったことがわかる。それが、昭和 23 年以降廃止が始まり、同 39年には全廃されている。

ちなみに、東北森林管理局管内(青森県、岩手県、秋田県、宮城県、山形県)で見れば、ピーク時期は昭和 20 年~34 年で、開設と廃止が均衡し、総延長で 2,400 ㎞台をキープしていた。雫石町内のピーク時期が、東北森林管理局管内と比較して短いのは、森林鉄道による同時大量輸送に見合うだけの資源が枯渇したことが大きな理由ではないかと推察する。というのも、昭和 35 年に木材輸入自由化が始まる以前に、既に町内の森林鉄道は、総延長12,698m(ピーク時の 17%)にまで縮小しているからだ。

日本の木材自給率は、昭和 30 年には 94.5%あったものが、同 35 年以降段階的に始まった木材輸入自由化(同 39 年には完全自由化)の影響もあり、同 44 年には自給率が 50%を割り込み、平成 7 年には 2 割にまで落ち込んでいる。

この点、東北森林管理局管内で見れば、ピーク時期の終焉と輸入自由化が一致し、完全自由化後の昭和 40 年以降は廃止路線のみとなり、昭和 45 年には年間 330 ㎞という廃止のピークを記録し、同 49 年には全廃されるなど、完全に輸入自由化の歩みと同調している。資源の枯渇という環境下において安い外国材に対抗するには、森林鉄道より、性能が向上したトラック輸送でコスト低減した方が得策であるとの縮小均衡政策に至った格好だ。

旧雫石営林署管内の森林鉄道の系譜

注:路線の標記は台帳では線ではなく林道            
(表―1)
 路線名 昭和 延長m 累計m 状況
  鶯宿線 
(森林鉄道
1級)
217331 17331  雫石 駅から待多部貯木場まで開設
 42190 19521  既設終点から待多部分水嶺まで延長開設
 23-3476 16045  一部区間を牛馬道に格下げ
 34-13000 3045  区間廃止
 39-3045  全線廃止
 鶯宿線 
沢内延長線(軌道)
 47086 7086  待多部分水嶺から沢内村大志田まで開設 
 51840 8926  大志田から大荒沢まで延長開設
10278011706  大荒沢から小杉沢落合まで延長開設
 23-80373669  一部区間を牛馬道に格下げ 
24-3669 全線を牛馬道に格下げ 
 鶯宿線 
南畑支線
(森林鉄道
1級)
 91033010330 御所村字桝沢で鶯宿線から分岐し上黒沢52林班入口  まで開設 
11376414094既設終点上黒沢官民地界から男助山国有林55林班喜助沢落合まで延長開設
23-43609734 南畑黒沢山国有林52林班から56林班まで牛馬道に格下げ 
 33-5349200 区間廃止
34-92000 全線廃止
 鶯宿線
南畑支線
高松沢線
(森林鉄道1級)
 175010 5010 南畑支線17㎞地点から分岐し、高松山国有林42林班まで開設 
26-27102300 一部区間を牛馬道に格下げ
33-4161884 区間廃止
 34-18840 全線廃止 
鶯宿線 
南畑支線大倉沢線(森林鉄道1級)
192029 2029  高松沢線3㎞地点から分岐し高松山国有林46林班まで開設
 33-529 1500  区間廃止
36-15000 全線廃止
葛根田線(軌道) 1344074407 雫石貯木場から西山村西根まで開設 
 141323517642 延長開設
15159019232 大松倉沢落合から冷水沢まで延長開設
 16266521897 高倉山国有林152林班い小班既設終点から159林班い小班北白沢対岸まで延長開設
31-120889809  高倉山国有林149林班から152林班まで区間廃止
32-16568153 区間廃止
36-8153全線廃止 
出典:旧営林署別土木台帳抜粋
注:(表-1)のうち沢内延長線については、同様の内容が旧川尻営林署管理分にも掲載されている。


3、森林鉄道と森林資源
雫石町内の森林鉄道では、最初に開設されたのも、最後まで残ったのも鶯宿線で、台帳によれば森林鉄道 1 級とされている。

実際に、多くの支線が分岐し、橋梁などにもコンクリート構造物が使われ、遺構として現存していることから考えても、1 級路線として重視されていたことが理解できる。

ちなみに、森林鉄道を開設するということは、それだけの投資に見合う森林資源の存在が前提となるが、鶯宿線とその支線沿線には、鶯宿スギを筆頭にヒバ、クロベといった優良な天然の針葉樹資源が存在していたことが推察される。

現在、天然の鶯宿スギはほとんど残されていないが、旧沢内村と雫石町のそれぞれにある天然鶯宿スギ保護林(旧沢内村分は長橋スギの名称)が、いずれもかつての森林鉄道鶯宿線の沿線にあるというのは、先ほどの推察に現実味を持たせるものである。

一方、葛根田線については、軌道とだけ台帳に記載されているようで、沿線の森林資源から見ても、経済的には価値が低いとみなされる広葉樹林ばかり目立つことが、その要因として推察される。

ちなみに、森林鉄道 1 級線と 2 級線とでは、最小半径や縦断勾配といった路線の設計諸元だけでなく、車両限界や建築限界も異なり、枕木の長さや、路盤幅、路盤厚までも区別していることが分かった。
写真-2 大小屋山の天然スギ切り株
胸高直径は150㎝程度
つまり、搬出運搬する木材が大径の優良材であれば、それに見合うよう、森林鉄道も高規格な 1級線で開設する必要があるということになるわけで、これも、かつての森林鉄道沿線の森林資源の状態を推察する助けになろう。

ちなみに、小生が鶯宿天然スギ保護林近くの大小屋山を調査した際には、天然スギと思われる大径木の切り株(写真-2)を確認することができた。

4、森林鉄道の遺構
小生がこれまでに単独もしくは関 敬一氏と共同で行ってきた現地調査では、町内の森林鉄道について、いくつかの遺構を確認している。

県内の全ての森林鉄道について調査を試みたわけでなく確かなことは言えないが、おそらく雫石町は、県内では遺構の残存率が高い方ではないかと考える。

というのも、他の市町村は大部分が森林鉄道 2 級もしくは軌道と台帳に記載されているからだ。とはいえ、雫石町内の森林鉄道遺構についても、決して豊富とは言えず、また、探訪困難な個所もあり、これらの貴重な産業遺構を歴史と共に埋もれさせてしまうのは残念な気がしてならない。

観光スポットの一つとして、あるいは天然スギと合わせたエコツーリズムとして、観光の町雫石のセールスポイントに加えてはどうだろうか。

そこで、これまでに把握した個所を図―1 に示すので、少しでも多くの方に現地を探訪していただき、そのような機運を高めていけたらと考えている。

雫石町内 森林鉄道(林用軌道) 遺跡概略図 (図―1)