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  平成30年度 郷土史教室 2ページの2

   盆花ぼんばな開拓地

 雄大な岩手山の裾野(すその)に広がる盆花開拓。

 いまはこのように美しい風景が見られますが、70年前に入植した人たちのご苦労は筆舌(ひつぜつ)に尽(つ)くしがたいものがありました。

戦後の大規模開拓 … 軍隊の海外復員者、満蒙開拓の引揚者などを受け入れ
 昭和20年8月の太平洋戦争終結により、海外に展開していた軍人や満蒙開拓に代表される海外開拓者など多くの人々が日本へ帰ってきました。自宅に戻れる人はそのうちの一部に過ぎず、多くの人々は日本各地の未開の山林原野、特に国有地に開拓者として入植しました。
 毎日の食にも事欠く惨憺(さんたん)たる社会情勢の中から、食糧増産と失業対策を目的とした、「農地改革(開放)」を伴う“緊急開拓政策”が昭和21年11月から始まり、雫石町内の山林原野にも満州から引き揚げてきた人々や、長野県などの他県から移ってきた人たちや、地元の農家で規模拡大を目指す農家の人々が入植し、大規模な開拓が始まりました。

 雫石町史で見る、戦後の大規模開拓の歴史〔雫石町史第二巻から抜粋〕
 
昭和21年、農地改革実施とともに、国策によって開拓可能地を強制的に買い上げて開拓者を入れ、開発を進めた。極楽野、盆花平、温泉下、上野沢、旭台、清水沢、中沼、笹森等の開拓である。
 開拓の結果は次のとおりである。

 地区別の水田面積の増加状況は上表のとおりである。雫石の水田は昭和32~42年までの10年間でおよそ倍に近い面積となった。

 特に西山地区の開拓について、2つの開拓の歴史を見てみる。  

Ⅰ・盆花開拓―― 盆花開拓農協
 盆花開拓は西山(長山)の猫沢地域を中心に昭和23年4月と5月に、長野県出身の満蒙開拓青少年義勇軍引揚者を中心とする19人が入植して、同年6月盆花開拓農協を設立して開拓に取り組み始めた。
その後、同年10月に13人が温泉下地域に入植して開墾を行った。

 厳しい自然条件に離農相次ぐ 
 三部落編成でカヤ葺きの屋根にクマザサの壁の掘立小屋をつくり、部落ごとに共同し、血のにじむ開拓を始めた。開拓地は標高400m以上で、大部分は雑木の自然林となっており、条件は劣悪で、翌年にかけて10人が離農。その後も毎年のように凍害、冷害、霜害が相次ぐ状態であった。
 昭和26年から乳牛を導入したが、働けど生活環境の向上は進まなかった。昭和33年には隣接の盆花平開拓農協が業務を停止したため、3人が盆花開拓農協に編入してきたが、農業が曲がり角にあるという時代背景と、過剰入植対策等により、37年には8戸、39年には7戸、44年には6戸に減少した。
 その結果、残った農家の経営規模は拡大され、開拓農業協同組合の中で、全員が役員に就任、ちくまヶ丘農場と一体となった開拓地整備を進めた。昭和52年に開拓農協を解散したが、未整理資産が残り、58年には復活し今日に至っている。(昭和62年解散登記)

 主な歩み
昭和25年  3戸が共同化を図り任意組織「ちくまヶ丘農場」を創設。     
30年  盆花集乳所建設される。     
45年  盆花開拓記念碑(公葬地)建設。温泉下の一部(32ha)を東カン(株)に売却。     
48年  全戸に電話が入る。

 ちくまヶ丘農場
 離農者が相次ぐ中、昭和25年1月、所、小松、吉沢の3戸が作業・経営の共同化を図り任意組織“ちくまヶ丘農場”を創設。幾多の困難を克服、学術的な思考と創意工夫を重ね、昭和51年の<朝日農業賞>を受賞するまでに発展。高位安定の経営を築き上げた。(写真右)

〔盆花平開拓農協〕 地元長山五区の増反者や入植者によって昭和23年に組合が設立されたが、自然条件が劣悪なところから離農者が相次ぎ、昭和33年には開拓農協が消滅状態となり、3戸が盆花開拓農協に編入した。    

◆盆花開拓に入り、共同作業、そののち共同経営に移り、そして酪農共同化法人「ちくまヶ丘農場」を立ち上げた吉沢喜美男さん(故人)の開拓関係団体機関紙への寄稿文(1999(平成11)年)から、入植当初の様子を抜粋(ばっすい)してご紹介します。
 <ちくまヶ丘農場>  ちくまヶ丘農場といえば、岩手県ではかなり知られた農場ですが、今年から有限会社ちくまヶ丘農場は法人としての共同経営を廃止し、個人責任に脱皮することにした。
 以下、私の来し方を振り返り、ちくまヶ丘農場の個人責任への脱皮の経緯と考え方を説明したい。
 私は14歳で満州開拓義勇軍の一員として満州にわたり、終戦混乱の中で九死に一生を得て生還。その苦労、苦難、悲惨は筆に尽くせぬものがあります。
 中国の満州から故郷の長野県にたどり着いても、私が耕すべき土地はなく、近くの炭坑で働くうち、募集に応じて満州開拓団の一行として入植したのが、ここ雫石町、当時西山村盆花の土地でした。昭和23年のことでしたが、当時入植した33名(戸)のうち29名(戸)が離農したことだけを申し上げても開拓の厳しさを分かっていただけると思います。なお、29名のうち9名はその年昭和23年に離農しています。盆花開拓の条件の悪さを物語っています。
 さて、盆花における私たちの経営は、共同経営から始まりました。手開墾(てかいこん)の作業をしながらソバ、粟(あわ)、ジャガイモ、カボチャなどの畑作物をつくったわけですが、開墾は共同作業が有効でした。大きな根っ子の掘り取りなどに共同作業は有効、不可欠でしたし、開墾に必要な牛馬は共同でなければ買えませんでしたし、共同で行えば、はかがいって充実感もありました。生活も共同でした。全体が一つの家族だったわけです。(中略)
 私が結婚したのは昭和31年でしたが、結婚後も4戸の部分協業を続けていました。そうするうちに、東北農業試験場から大規模な機械化実験を行わないかという話があり、4戸のうち3戸がこれに参加することになりました。昭和34年に現地調査が行われ、昭和35年に実験が正式発足しました。これが「ちくまヶ丘農場」の誕生だったわけです。
 発足当時の成牛は9頭(育成牛7頭)、肥育牛7頭、豚7頭(繁殖2、肥育5)、鶏295羽、馬3頭で畑作物も作っていました。(中略)
 ちくまヶ丘農場は、朝日農業賞をはじめ、農業フロンティア賞、日本農業パイオニア賞など数々の栄光に輝いています。それらは「見渡す限りのツツジの株を掘り起こし、掘っても掘っても出る石ころに悩まされ、藤やわらびのどこまでも這う細根に悩まされ、スズラン地帯やイタドリ地帯の酸性土壌に手を焼いて」(高村光太郎「開拓に寄す」の詩より)ようやくにして土地を肥沃にしたことへのお褒めであったと受け止めています。

 盆花開拓、そして「ちくまヶ丘農場」は1世代目の喜美男さん(故人)ら戦後の開拓者が築いてきました。喜美男さん亡き後、息子の吉沢貞夫さんが「畜産…黒みつ牛」で新たな挑戦を続けています。その貞夫さんも、子どもの頃を振り返って「一日三食コメを食べるなどというのは夢のようなことだった。昼はイモかカボチャかトウモロコシのどれか。夜はすいとんだった。掘っ建て小屋のような住居を転々と移しては、地道に木を伐り、根を引き抜いて整地してきた。土地を切り拓けば、それだけ自分の家の農地が広がる。親たちのそんなわずかな喜びを信じて頑張る姿を目に焼き付けてきた。だから多少のことではへこたれない。」と語ります。

Ⅱ・極楽野開拓―― 極楽野開拓農協
 岩手山神社遥拝所の下方、長山六区の上方の区域を開墾して始まった。昭和21年の小岩井農場の山林原野の農地解放によって得られた土地300haが中心になっている。昭和21年自作農特別措置法によって開拓が始められ、昭和22年満州開拓の引揚者が入植、1戸に5町歩の土地が配分され、同年55戸によって開拓農協が発足した。その後、開拓地整備事業や農道整備事業等が行われて、水田と酪農で経営の安定に努めた。昭和51年3月15日開拓30周年記念式典が行われた。

 その後50周年で記念碑建立
 極楽野集落のほぼ中央に建つ地域公民館の広場に開拓入植50周年の記念碑が建っている。〔写真右〕平成8(1996)年のことである。碑文は次のとおりである。

 此処、極楽野地域は第二次大戦終結後、国営事業に依る食糧政策の一環として、小岩井農場の山林三百㌶を開放し、昭和二十一年地元西山村を始め岩手県開拓増産隊、拓殖訓練所、満蒙開拓団及び県内外各地から五十数戸の入植に始まる。飢餓と赤貧に耐え、病魔と闘い、道路整備や分校、三十二年以降は電気導入、開拓婦人ホーム、三十九年に開田や水道施設等、国や県町村の支援の元、今日に至る。依って、入植五十周年を記す、之を永遠に顕彰す。  平成八年五月吉日

〔裏面には、五十周年記念実行委員長 村上子々松ほか役員氏名と、会員四十五名全員の氏名が刻まれている。〕
 

 時代の先端だった「旧葛根田発電所」      


葛根田川への発電所建設計画 
 葛根田川の瀑布が水力発電の候補地に挙げられたのは明治31(1898)年のことである。盛岡の電気企業は東北で最も遅く、同29年服部知事の時から動きがあり、盛岡市が中心になって、簗川や北上川などが候補地に挙げられた。こうした中で、盛岡市では雫石の葛根田瀑布(鳥越の滝)が最適であるといって、市長等で実地調査し、その規模の雄大さに賛嘆したが、経費も莫大で資本の点で着工に至らなかった。
 同37年、資本金10万円で盛岡電気株式会社を設立し、最初に簗川の宇津野に発電所を設け、次に葛根田に建設することになったものである。

 県都盛岡の最初の発電所「宇津野発電所」
 旧宇津野発電所は,盛岡電気株式会社(現在の東北電力株式会社)により,1904年(明治37年)に着工され,翌1905年(明治38年)9月から営業を開始しました。盛岡市内77戸に初めて電灯をともした記念すべき発電施設であり,岩手県内現存最古の発電施設として今日まで保存されています。

 電気会社の名称の変遷
 盛岡電気株式会社は,「盛岡電気工業株式会社」と改称,更に1927年(昭和2年)の電気業界の整理・合併により「盛岡電灯株式会社」となり,1938年(昭和13年)には,秋田県域にも業務を拡大し「奥羽電灯株式会社」と改称しました。しかし,戦時体制下の1943年(昭和18年)には配電統制令により全ての電気会社は解散し,新設の「東北配電株式会社」に企業統合されました。そして,戦後の1951年(昭和26年),電力業界再編成により「東北電力株式会社」が誕生しました。現在,かつての盛岡電気株式会社の所在地には,東北電力株式会社岩手支店があります。
 「東北配電株式会社」時代と思われる発電所全景写真。落差約55m下方建物が発電室。(写真;坂本虎男さん提供)

 葛根田発電所の歴史
 明治44年、現在の第二発電所の対岸、長山村「篠ヵ森」の地に発電所工事を着工し、大正2(1913)年竣工した。発電機はドイツ製の輸入品で最新式のものであった。以下、その経過を掲げる。
◆ 
明治44(1911)年 盛岡電灯株式会社葛根田発電所起工。 水利は葛根田川本流及び有根沢上流から管渠で引水するものであった。 
大正2(1913)年 葛根田発電所竣工。この年 雫石村、御所村の一部にランプに代わり電気が入る。「電灯」といっても今日のようなW単位の電球ではなく、五燭光とか十燭光といって、球の中にタングステンの見える茄子のような形で下部にへそのような突起のある暗い電球が1軒に1灯ぐらい入った程度であった。 
大正5(1916)年 西山村岩井花、野中に電気が入る。  写真;岩手郡誌より(昭和16年刊行)
大正8(1919)年 4月 雫石変電所ができる。発電所に発電機が一基増設され、合わせて出力1,000キロワットの発電所となった。 
大正10(1921)年12月御明神村、西山村に通電。 
昭和5(1931)年3月 各村役場に電話架設す。
昭和11(1936)年 御所村南畑、大村方面に通電。
昭和13(1938)年 岩手登山バスが開業し、雫石駅から、葛根田発電所がある篠が森間を運行す。バスの車庫が発電所前に建設された。
昭和22(1947)年ごろ? 御所地区矢櫃に通電。(高橋さん談)

〔新発電所の建設〕 戦後の急速な工業の発展に対応して昭和27年葛根田に新たに第一、第二の二つの発電所が新設された。(理由;東北北部の電源の強化とこれに伴う送電線の損失の軽減を図るため…東北電力資料より) 
 水源は、上流の滝の上温泉地区の瀑布の上流で取水し、管渠で引水している。 
 新葛根田発電所は、下の方を「葛根田第二発電所」と呼び昭和28年に完成。落差65.8mで出力は1500~1600kw/h。
 上の方を「葛根田第一発電所」とし、29年に竣工した。落差210.4mで、出力は最大3000 kw/hである。※これら新発電所の完成により長山側の「(旧)葛根田発電所」は昭和28年に廃止された。

  上の写真二葉は長山・五区在住の坂本虎男さんから提供された当時の発電所内部。坂本さんは昭和24年から27年まで(旧)葛根田発電所に勤務。妻のキヌさんは昭和18年から24年まで同発電所に勤務されている。
  関連記事  葛根田水力発電所の歴史 会報第44号17ページ

   玄武洞 国指定 天然記念物
 周辺の渓谷とともに秋の紅葉の素らしい景勝地として広く知られています。葛根田川の左岸に、幅160m、高さ70mの断崖が続いているようすは、迫力十分です。網張火山初期の噴火によって流れ出た溶岩がここまできて冷えて固まってできた、五~六角形の形をした柱状節理とよばれる見事な天然の造形美には感嘆するばかりです。玄武洞は、「葛根田の大岩屋」という名前で、国の特別天然記念物に指定され、保護されています。
 この岩屋は、今から800年ぐらい前に、征夷大将軍坂上田村麻呂将軍が、岩手山にたてこもる鬼を退治しに京都から攻めてきた時に、鬼の一味が、この岩屋にかくれて戦ったという伝説があります。
 ここは、今から16年前の平成11年9月の地震により大きく崩れてしまいました。この穴には、以前イワツバメが巣を作っていました。なお、玄武洞をつくる岩石は名称のような「玄武岩」ではなく「かんらん石含有両輝石安山岩」と呼ばれる石です。
        (右)崩れる前の玄武洞 

※玄武の湧水 玄武洞のむかいの崖の岩場から、冷たいきれいな水が湧きでています。この水は下流の雫石方面まで太い鉄管で引いて、七ツ森配水場を経由して、御所地区方面の家庭の上水道の水として利用されています。
 この泉、むかしは、ここを行く人たちのオアシスの役目を果たしていたようです。
 湧水の横に、お蕎麦屋さんがありますが、ここはかつて雫石営林署の森林作業員の休憩所として建てられたものです。
 昭和40~50年代、青森営林局から、林野弘済会に管理委託、その後職員OBの方が借り受けて「玄武茶屋」として営業していました。

≪参考≫ 県道「西山生保内線」 昭和24(1949)年に県道指定。(御所紫波線と同じ年の指定)
 玄武洞前の渓谷沿いの森林軌道が、昭和23年9月のアイオン台風による出水や土砂災害等で甚大な被害を受け、使用できない状況になったが、この翌年、この路盤を含めて県道に指定された。
 台風災害を逆手にとって、当時西山村長だった栗木長太郎氏(マムシ村長のあだ名がついていた)が、西山・滝の上温泉と秋田県・生保内村の蟹場(がにば)温泉(乳頭温泉郷)とを結ぶことを夢見て提唱した「西山生保内線」を、「災害復興」の名目で県道指定にするべく各方面に協力に働きかけた成果だといわれる。この路線、地形的には不可能なルートではないと思われるが、現在滝の上からの工事は進んでおらず、秋田側にも動きがない。

 〔予定時間 12:15~12:55〕
 昼食 雫石高倉民宿「しらかば」
 

  篠崎八郎と坂上田村麻呂
 篠崎の「山祇(やまつみ)神社」境内の篠崎八郎の碑
 雫石町の西根地区の最北端に位置する集落が「篠崎」である。東北電力の葛根田第二発電所(水力)があり、昭和55年雫石スキー場が立地している。
 この篠崎の西北方に山祇神社〔山神社〕が鎮座しており、その境内に<篠崎八郎>の碑がある。巨大な五角柱の自然石である。碑の後方に樹齢200年近い桂の古木が立っている。
 篠崎八郎は、征夷大将軍坂上田村麻呂が活躍していた平安時代の延暦年間(801年~)に田村麻呂の腹心の一人として同行し陸奥国に来ていた人とされる。(東京都江戸川区に「篠崎村→篠崎町」があり、八郎はそこの出身とも伝えられる。)(写真右斜めの棒は、後ろの桂の木の枝を支える支柱)

 山祇神社 【由緒】 桓武天皇延暦二十(801)年、坂上田村麻呂東征の折、北上して逃れた大猛丸は、最後の砦として霧山嶽(岩手山)にこもり抗戦する。田村麻呂は武蔵国篠崎村より八郎というマタギを道案内として連れてきたが、八郎の居所も篠崎と名付け屯所とした。田村麻呂の女婿田村兼光を討手の大将とし、篠崎八郎が先達となって遂に大猛丸を討伐した。奥州平定後、篠崎の八郎が霧山嶽周辺の山守を命ぜられ篠崎屯所跡に山の神を勧請し、現在に至っている。
 神社は明治四(1871)年廃社となったが明治十三(1880)年9月16日に再興され今日に至っている。【雫石の寺社 …雫石町教育委員会刊行 より】

Ⅰ・資料に見る「篠崎八郎」
 岩手山信仰の縁起は坂上田村麻呂に始まる。 すなわち延暦二十年(801)田村麻呂が蝦夷征討の功成って当地に三神を勧請し、国土の守護神となしたことが創始と伝えられる。 雫石口新山堂の伝承では、坂上田村麻呂が鬼ヶ城にこもる鬼賊を平鎮した際、麓のマタギで巨人の篠木五郎・篠崎八郎の二人が八尺の鉈を振るいながら先立案内し、そのゆかりによって田村将軍は雫石口新山堂を創建したという。 また、田村将軍はこの霊山において祭事を行ったとか、山頂に田村将軍の尊霊を祀って田村権現と称したなどともいう。
 さらに柳沢口新山堂の沿革には次のように伝えられる。 すなわち文治五年(1189)九月、源頼朝が藤原泰衡を廚川に滅ぼしたが、このとき彼は戦功のあった工藤小次郎行光に岩手郡三十三郷を与え、また岩鷲山へ奉斎する阿弥陀・薬師・観音の三尊像を行光に賜わり、大宮司に任じたという。 行光は建久元年(1190)五月二十八日、家臣とともに岩手山に登拝し祭祀を行ったと言われる。[中略]
 明治二年、柳沢新山堂は維新の令により権現号を廃止して岩手山神社と改称し、権現の本地とする弥陀・薬師・観音を廃して上記の三神を祀り、明治四年に郷社、大正五年十一月に県社に列した。〔岩手山 ― 本地垂迹便覧 小形信夫・文〕 
 
「篠崎」には坂上田村麻呂の部下だった武将<篠崎八郎>の伝説が残っている。
 鈴鹿山の鬼を退治した田村麻呂の前に女神が現れ「我は鈴鹿山の立鳥帽子よ、陸奥の岩手山の鬼を鎮めよ」と言う。田村麻呂は白馬に乗って飛び、女神の案内で雫石に着き駒木野に馬をつなぎ篠崎八郎という狩人の道案内で岩手山の鬼と戦う。やがて鬼は退治され逃げ遅れた片目の鬼が捕まり権現様のもとで掃除をおおせつかることになった。だから、いつも岩手山は綺麗に掃き清められている、というものである。     
 篠崎八郎は、大きな山刀を振り回してダングダングと木を伐り開きながら奮戦して田村麻呂の勝利に貢献した。戦勝後、田村麻呂は都に帰ったが八郎はそのまま残り、地域の開発の祖となった。「篠崎」の地名は八郎の姓をとったものだと伝えられる。
  
Ⅱ・小説に登場する「篠崎八郎」
 この話は、地元篠崎(神社の向かいの家)の出身で東京在住の山本重孝氏の著書「野火――篠崎八郎と坂上田村麻呂――」にまとめられている。著者のふるさと、岩手県雫石町には、坂上田村麻呂の部下と記された篠崎八郎の石碑が立っている。そこでその篠崎八郎の活躍した時代を調べ、朝廷の蝦夷侵略を記していく。また、それに対抗する蝦夷のアテルイ一族の活躍を描き、岩手出身の著者ならではの現地ことばを語り、戦いの現場が生き生きと描かれていく。また、戦い終了後の蝦夷融和策、稲作の奨励をも記し、800年頃の歴史がリアルに甦ってくる。下記にこの小説の一節を紹介する。
 地神として  (482P)  篠崎八郎が田村麻呂将軍の、一ノ郎党として陸奥の国に来て、はや十年の歳月が流れていた。おもえば、延暦十三(794)年の田村麻呂、副将軍の頃の戦い。そして、延暦二十(801)年田村麻呂、征夷大将軍の時の戦い、と二つの大戦に将軍に従って、生死を共にした八郎にとって、田村麻呂は父でもあり、軍師でもあった。この日本国に二人と存在しない傑出した将軍であった。また、田村麻呂は民の幸、民の生活を重視した陸奥経略を進めるなど、民の信頼も厚かった。田村麻呂が陸奥を去ってすでに六年が過ぎていた。
 田村麻呂など、位階が五位以上の国司は、朝廷から任命され、四年の任期を終える と京に戻ることができた。しかし、篠崎八郎は、陸奥平定後、陸奥の開墾を命じられた。胆沢、志波、そして陸奥北辺の開墾に汗を流すうち、八郎は陸奥の国に土着しようと思ったのである。
 八郎には壮大な夢、燃える理想(おもい)があった。それは、北方の原生林を開墾し、黄金の稲穂が波打つ農耕社会の建設であった。あれから十年、今では志波北方の中野、滴石、湯舟、魔地(松尾)、爾薩体など十数カ所の集落は農耕生活を営むまでに発展していた。八郎が、この陸奥開拓に燃やす、力(精力)の源はなんであろう…妻の愛か、霧山嶽の雄姿か、先住民族の礎ならんと欲する大義か。
 二ヶ月後、弘仁二(811)年正月、胆沢鎮守府北方に、朝廷は、稗縫(ひえぬき)、和賀、斯波(しわ)の三郡を置いた。この律令統治組織の施行により、篠崎八郎は初代の斯波郡司に任命され、大領従六位を受けた。また、斎藤五郎は中野郷(現在の盛岡周辺)の司に任ぜられた。そして筑波ノ長臣は、斯波国衙で調帳使として勤仕(ごんし)することになった。

   駒木野

 篠崎から南下すると大きく平野部が広がる「駒木野(こまぎの)地区」に至る。その名のとおり、藩政時代以前から馬の放牧地であったと思われる。
 ここは明治維新時に、盛岡藩士たちが入植した開拓地としても名が知られている。
 <士族の帰農> 明治2(1869)年6月、明治維新により南部利恭(としゆき・南部15代藩主)の白石転封に際し、家臣の中から大勢の解雇者が出た。その後若干の復職者も出たが、大部分の者は失業し転職を余儀なくされた。これら離職者への転職指導や授産によって、困窮を救助することが為政上の大きな課題となり、政府に請うて開拓資金の下付を受け、荒地や原野を開墾して帰農させる政策が打ち出された。
 与えられる原野は、村方出身の所与力や中使等陪臣の者には村内の原野が与えられているが、村に何のゆかりもない下級藩士、藩卒には場所を指定して集団入植を募集している。入植の場所として岩手郡内では、駒木野(雫石町西根)、寄木平(松尾村)、山後谷地(大更町)、籬野(雫石町安庭)等である。駒木野、寄木平では明治3年5月から始められているが、籬野は翌4年からの開拓であった。希望者には建家を貸与し、開墾費用として高一石当たり金五両を支給するという内容で550戸の入植者が募集された。駒木野には99軒が入植した。
 <およそ100戸で開拓がスタート>駒木野は、初めて順調に開拓が進んだ所で、明治5年には網張温泉の開発にも乗り出し、さらに子弟の教育機関として仁恵学校も設置されている。入植者は県の記録では99戸とあるが、統治の記録では経農指導者として西根村矢幅新兵衛次男生堀新之助を加えて101戸とある。明治5年には分家、その他で104戸に増加している。(中略)
 しかし、開拓事業の成績は思わしくなく、明治11年8月までに耕地を捨て、北海道に渡り屯田兵となる者、または盛岡に出て他に職を求める者等の数が19名にも上った。さらに、土地を隣人に預けて「西南の役」に参加して鹿児島に行く者や、巡査となり北海道や青森、東京、あるいは盛岡や釜石に寄留する者18名、合わせて37名が駒木野を離れている。残る者は県に開拓地の免除期間延期を願い出るなどして事業を継続したが、成果を上げることができず、明治11年の末ごろから開拓を断念し、土地を二束三文に手離して他に職を求め転居する者が続出した。
 <数戸は今なお地元に残る> 入植者は、前身が「同心」であることから筆も立ち、開拓事業が順調な時には地域の指導的立場にあった。しかし、不振になり離村する者が多くなるにつれて、指導的立場を離れ地域と一体となったもので、入植以来今日まで居を構えている家はわずか数戸を数えるのみである。〔以上、雫石町史Ⅰより〕

  ※巷間知られているのは「豊間根家」、「東根家」であり、わかば幼稚園創設者の「宮家」である。
 入植者の方々の墓地が、現在も同地に残っている。同所の上駒木野地域公民館(町道西根線Y字路付近)の西方およそ250mの松、雑木林の中にある。時間の経過で、今では草むらの中に3、4基の墓石が残っている程度になった。ただ、今でもお墓によってはお盆にお線香、供物が供えられているという。「盛岡藩士桑田」が法人格を持たないため、墓地は、土地管理者の「(株)盛岡桑田」である。地元のNPОが草刈りなどの作業を行っている。

 駒木野神社 
 駒木野開拓地は明治維新の大変革によって禄から離れた南部藩士百人が入植した藩兵の開拓地であった。入植者は民心の安定と生活の安定を祈願して南部家からお厨子入鞘堂を添えて贈られた豊受大神の御神体を氏神として開拓地の一画に神殿を造営して祭祀を行った。
 しかし、開拓の業は悪条件が重なり、数年にしてこの地を離れて四散した。この時、御神体と他の一切を上西根の豪農中村治惣氏に預かった。中村氏ははじめ自宅に安置したが、後に雫石神社(たんたん)にお厨子鞘堂のまま遷座した。
 以来、九十年間雫石神社の神殿に間借りの形で鎮座した。終戦後駒木野に開拓のため入植した人々は十年余で葛根田川からのかんがい水利権の獲得によって開田も進み、生活も安定した昭和37(1962)年、神社創建の意識が期せずして起こり、昭和38年11月1日、神殿、神楽殿が完成し、御神体を雫石神社から遷座をした。

 雫石八景のひとつ「駒木野の雨」
 安政6(1859)年早苗月、雫石村の 歌人諏訪歌随と廣養寺十四世益雄法寛師が臨済寺住職の石叟師を訪ね、三人で南部八景や近江八景を思慕し、これらに匹敵する景勝の地として<雫石八景>の選定を行いました。
 この八景とは次のとおりであり、この中のひとつに「駒木野の雨」があります。
                   ✿
廣(こう)養寺(ようじ)の晩鐘  〔廣養寺=上寺のこと〕
巌(がん)鷲(じゅ)の残雪 〔巌鷲=岩手山のこと〕 
御所の帰帆(きはん) 〔帰帆=仕事から帰ってきた舟の帆〕
籬野の月〔360度展望の籬野で見る月は見事〕
恵(え)照山(しょうさん)の納涼〔恵照山=中寺のこと〕
姥(うば)屋敷の落雁(らくがん)〔落雁=雁(かり)が水辺に舞い降りる様子〕      
駒木野の雨 駒木野=西根小学校より北側付近〕
舟(ふな)原沢(らさわ)の紅葉〔舟原沢=橋場と安栖の中ほどの山沢〕
 上記の八景には、それぞれ歌が添えられている。「駒木野の雨」の歌は次のとおり。
   万々と草葉に伝ふ駒木野の 雨の景色ぞ詠め尽きせず 

 ≪学校教育に先駆けた駒木野地区民たち≫
 明治5年3月、太政官布告をもって学制が公布された。国民皆学の方向性を示す近代社会の教育宣言であった。
 雫石十カ村は人口600人を基準にして7つの小学区が設けられた。こうして旧来の寺小屋は廃止され、行政指導によって小学校が設立されることになった。
 雫石十カ村における学校創立の第一歩は、駒木野(西根)、籬(御明神)の開拓地に、明治5年学制によらずに設けられていた仁恵学校の学制移管から始められた。こうして新たに発足した学校が駒木野学校(西根一番小学校・現西根小学校)と、籬学校(御明神一番小学校・これをもとに矢川学校が開かれ、安庭小学校となる)がある。
 両校は月額6円の教育補助があったため容易に学制に沿うことができたが、寺小屋教育だけで十分過ぎると考えている農民には新教育制度が理解される訳もなく、また、米などの現物謝礼程度で済んだものが、受益者負担の原則によって、小学校は村民の寄附と授業料によって維持されることになったため学校の創設は容易に進まず、同年8月瀬川義義賢の出願による繋小学校が創られただけで一年が過ぎた。 
 翌7年にようやく私塾のあった雫石、上野、長山に学校が創設され、合わせて6校となった。
 仁恵学校…学制発布当時、受益者負担の原則に対応できずに就学できない庶民の子弟も多数いた。彼らのために「無月謝・給資」を原則に有志の醵金によって開校した学校を「貧民子弟ノ自活シ難キモノヲ入学セシメン為ニ設ク、其費用ハ富者ノ寄進金ヲ以テス、是専ラ仁恵ノ心ヨリ組立ルモノナリ」として「貧人小学」あるいは「仁恵学校」と呼んだ。

 駒木野学校跡と学校創設の先駆者となった駒木野開拓野武士の名簿〔昭和48(1973)年・西根小学校百年誌より〕
 

 正調雫石よしゃれ普及の功労者
 おえちさんの墓碑銘
 町内西根にある共同墓地の一角におえちさんのお墓がある。このおえちさんは、明治から昭和初期にかけてよしゃれ踊りの普及に貢献した人として当時名を馳せた一人である。
 当時長山に村上松太郎という芸人がいた。松太郎には多くの弟子があった。その中で、西寄内のおえち、三十郎のおとく、小屋敷のおきくの三人は、身のこなし、手ぶり足さばきなど衆に優れており、三羽烏の異名さえあったほどであった。三人のうち西寄内のおえちは、葛根田の長五郎に嫁いで、昭和7年他界するまで、部落の人はもとより、その遠近の人々に松太郎直伝の秘曲とでもいうべき唄や踊りを伝授した。葛根田部落に現在なお、正調よしゃれが伝わっているというのは、こうした由緒によるものである。
 近所の人たちは、おえちが他界する直前まで、部落の娘たちや若妻たちが手土産を持って新年の挨拶に来ているののを目の当たりに見て、えらいものだと感じたことを今改めて思い出しているという。
 おえちは踊りの師匠とされているが、踊りばかりではなく唄も衆に抜きん出ていて、その美声は有名であった。西根の墓地に立つ自然石の大きな墓碑に刻まれている戒名は「鵑聲妙感信女」の六文字の諡名(おくりな)がこれを物語るものである。墓碑には昭和7年5月20日享年66歳とあり、前記の戒名のほか桜田えちと刻まれている。〔雫石の郷土芸能… 雫石町教育委員会より〕 

   雫石神社(通称 しずくいし たんたん)

 今からおよそ960年前に起きた源義家らによる「前九年の戦い(1051~1062)」とほぼ同じ時期の康平年間(1058~1064)に創建されたと伝わる神社。
 雫石町西根字北妻の小高い丘の上に深い杉林に囲まれて鎮座している。「西根北妻」は、雫石から盛岡に出る歴史上の「盛岡道」の起点でもある。
 社伝では、康平年間に近くの萩平(萩台とも)の八代家がここに神祠を建て、滴に光る十三夜の月を拝み、月夜見(読)命を祀り、岩清水に豊秋津彦命を祀って<たんたん様>と崇め、さらにその後、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を合祀して、<雫石大明神>とした、とある。
 明治3(1870)年正月、西根村村社となり、明治4年7月に第12番区(西根村・長山村)の郷社に列せられている。例祭は9月21日である。
 雫石町教育委員会・平成元年発行の「雫石の寺社」の<雫石神社>のページには、由緒として次のような記述がある。 
由緒  昔、西根の山奥に不思議な清水の湧く音がしていた。柴刈る翁が「シズクイシ」との奇音に近づき見ると、老杉の根元の岩の中の、銚子の口に似た口先から清水が「シズクイシ タンタン」と奇声を発し岩石を打っていた。
 それ以来この地を滴石と呼ぶようになった。

 しかし、これだけでは、何のことかよくわからない。別な言い伝えなどを参考にして、より具体的なお話にしてみました。
✿ そのお話とは
……「昔々、ここにある大きな岩の中に穴が開いていて、穴の中の「銚子の口」に似た石からに似た石から水が滴り落ちていました。その雫がポタン、ポタンと下の石に落ちるたびに<たぁ~ん、たぁ~ん>という音が穴の中に反響していました。その音があんまりいい音なので、みんなの評判になり、あちこちから人々がたくさん訪れました。そこでいつの日からか、この岩を「滴石たんたん」、またこのあたり一帯を滴石と呼ぶようになったとさ。ところが、毎日まいにち、見物客が来て道案内しなければならないので、ふもとの農家のおかみさんが「『たんたん』のせいで自分の仕事ができない」と怒って、ある晩「木割り」という道具を持って行って、岩の中の銚子の口に似た石を叩き壊してしまいました。それ以来<たぁ~ん、たぁ~ん>という妙なる音がしなくなり、見物の人もこなくなりました。そのため、この「滴石たんたん」もすっかりさびれてしまい、ついには、ふもとのおかみさんの家もまずしくなって、<かまど、かえしてしまった> と。 ハイ、どっとはれ!……
というものです。元になったお話は、今から1000年ほど前のことだといわれています。

 「雫石たんたん」と呼ばれたこの場所は、傍らに神社が建てられ、やがて「雫石神社」と なり、今も残る老杉(雫石神社の月夜見の大杉)とともに往古の名残を伝えています。
 ✿この大杉は、平成6年7月1日雫石町教育委員会指定の「天然記念物」です。
【目通周囲】 530cm 【高さ】 約38m 【推定樹齢】 1,340年(いずれも平成6年頃調査時)

◆雫石神社の湧水 …… 伝説の祠の湧水は現在なし。特別仕掛け有り 水琴窟(すいきんくつ)
 今は神社の境内に林立する杉の古木と湧水の沢水(蔦沢清水)が往時を偲ばせるのみである。
    水琴窟(すいきんくつ)とは
①ここから水を入れる日本庭園の装飾の一つで、手水鉢(ちょうずばち)の近くの地中に作りだした空洞(くうどう)の中に水滴を落下させ、その際に発せられる音を反響(はんきょう)させる仕掛けで、手水鉢の排水を処理する。水琴窟という名称の由来(ゆらい)は不明である。
②したたりおちた水の音がまわりにひびいて、いい音 がでます。 

 ※町の地名の由来… 別な説
 藤波の影なす海の底清み 沈く石をも珠とぞ我が見る 大伴家持 万葉集より

 天平勝宝2年(750年)、国司として赴任していた越の国(越中・富山・高岡市)の布勢の海に遊んで、4人で歌を詠んだ際の家持33歳の歌。
 
(藤の花が影を映している海。その海はそこまで透き通り、底に沈んでいる石にまで藤の花房が影を宿している。底の石まで藤色の珠に見えるよ、我は)

  大宮神社 西根・行政区は「西根谷地」

雫石町西根(18地割)大宮65番地に所在する。祭神は大山祇神と「坂上田村麻呂公」である。
由緒 <雫石町教育委員会刊「雫石の寺社」76pより>
  延暦(782~805)の昔、霧隠山(岩手山)に籠る大猛丸討伐のため軍を進めた田村麻呂将軍は滴石の地に入り大宮の地まで来たが、岩手山方面は霧がかかって見えず、やむなくこの地に大休止をした。将軍は岩清水の観音様に戦勝を祈願し、やがて霧が晴れたので軍を進め大猛丸を討伐することができた。帰陣後大宮の地に滴石総鎮守として大きな社を建立した。 

 坂上田村麻呂(758~811)は平安時代の武人で2代目の征夷大将軍。801年東北の蝦夷征討のため遠征して成功を収める。蝦夷の族長胆沢の阿弖流為(あてるい)らの降伏を容れる。延暦22(803)年志波城を造営した。

 石仏(いしぼとけ)橋
 雫石町の町道西根線の葛根田川に架かる永久橋である。雫石及び長山地区の高前田と大字西根地区を結ぶ要衝である。西根方面から渡橋して200mほどの所で、長山土樋方面から流れてくる「田堰川」(やがて「大水川」になる)に架かる小さな橋を渡る。この付近が複雑な五差路になっている。
 橋を渡ってすぐ左に行けば長山の字土樋へ、右に行けば長山の字川母渕(かっぱぶち)に入る。橋から少し進んでやや左に入ると柿木大神宮、そして下長山小学校への道となる。ここは現在は狭い道だが、かつては西根と長山の集落間を結ぶ主要な道であったと思われる。最も幅の広い町道西根線は緩やかに右カーブして長山及び雫石地区の字高前田に向かう。およそ700メートル先で国道46号の柿木交差点に出る。 
 石仏橋は、大正12年に初代の橋が架けられた。もちろん木橋である。西山村では、この後昭和2年に矢筈橋(やはずばし)と高橋(たかばし)、同4年に岩座橋(がんざばし)を架けている。西根と長山を結ぶことは、ひいては盛岡につながることになり、村としても相次ぐ架橋は大きな決断であったと思われる。 

町内最古の「庚申塔」
 ところで、この石仏橋の名前の由来だが、特に資料は見当たらない。ただ、この橋の左岸、つまり長山川母渕側の丘が雑木林になっていて、その中に古い石碑が一基立っている。これが町内で最も古い石碑とされている延宝8(1676)年の「奉供養庚申」の塔であり、今から344年前の石碑である。
 なお、県立博物館の大矢邦宣先生(故人)の資料によれば、この碑は「庚申塔」として県内でも4番目に古いものだとされています。「石仏橋」の名は、この石碑の存在からきているのではないかと思われる。
 今でも折にふれ、この土地の所有者の方が碑の前に花を手向けたり、お茶に代えてジュース類などを供えてくださっているという。信仰心の篤い方である。
 庚申…昔の習俗として月待、庚申待と云って夜通し眠らず話をしたり、物を食べたりして夜を明かす習俗があった。「マチ」とは日本の古語で、最初の意味はおそばにいること、すなわち神と共に夜を明かすことだったと柳田国男先生は云っている。道教では人間の体内に三匹の虫がいて庚申の夜、眠っている間に抜け出して天帝の許に上って、その人の罪や過ちを告げ、命をとらせるから、その夜は身を慎み過ごさなければならない、という教えがある。

川母渕(かっぱぶち)
 上記の供養庚申の碑が立っている場所が、雫石町長山(第29地割)川母渕(かっぱぶち)地内である。現在は新しい住人の方が増えている。この字名について、雫石町教育委員会が平成8年に発刊した「雫石盆地の地名」では
――「この地域に昔カッパが棲んでいた渕があったとの伝説があり、その渕をカッパ渕と呼んでいた所から、それに川母の文字を当てて、字名を川母渕としたものであろう。」
と説明している。

 そしてその「カッパ渕の伝説」については次のように述べている。
 「屋号『土樋かまど』と云う家の裏は葛根田川が流れており、湾曲して渕になり、底知れない深さとなっていてカッパが棲んでいたという話が数々聞かれ、この渕を『カッパ渕』と呼んでいた。この渕の近くに屋号カッパという家も残っている。」 その屋号「カッパ」と呼ばれるのは土樋家だ。(写真右)
 別名「カッパかまど」のご当主の奥様ユキ子さんは「我が家の裏側は幅が50mほどの林になっていて、昼でも怖いような所でした。おまけに、その先の葛根田川べりは流れが深いよどみ(渕)になっており、子どもの頃は、絶対そっちの方へは行くなと家の人に言われてました。石仏の橋の方へ行く時も怖い怖いと思って歩いたものです。いま考えれば、危険な場所へ行くなという教えだったのだと思いますね。」と語ります。
   
     田堰川たぜきがわと土樋堀つちといぼり 

 雫石の市街地下町の現在の雫石八幡宮の場所にあった「雫石城」にまつわる伝説と重なる話が伝わる長山地区の字「土樋」。注目は「水利」だ。
 
ここから5キロ先の雫石城へ水を引いたという「土樋伝説」、そして、その取水源をカモフラージュしようとした茶屋の嬶と聞き出そうとする隠密のやり取りが元になったという「民謡よしゃれの発祥」。この辺りは雫石の郷土史愛好者にとって興味深いエリアである。
 西山地区の郷土史に造詣が深かった、地元の故土樋裕之助さん(平成23年8月・99歳で逝去)が書き遺された「田堰川物語」や「土樋の堀」の考察資料等をもとに、地域の歴史に迫ります。【同氏の資料「よしゃれ茶屋」は、本資料13ページで紹介している】
                    
✿<土樋の堀>
 長山の下方で、西小松部落の西方に、土樋の堀と呼ばれる古い沼地の跡が今でもわずかに昔の面影をとどめて残っている。この沼はかつてその昔に、古代葛根田川の奔流が穿った深淵が、何度となく繰り返された洪水氾濫の果てに、本流は次第に西方に移転したために、旧河原跡の沖積平原の中に取り残された川跡沼なのであるが、何ゆえか昔から沼とは言わずに、あえて「土樋の堀」と呼び慣らされていた。【「土樋の堀」 土樋裕之助著より】
(写真右)土樋岩夫さん宅右の建物の裏側に「土樋の堀」があった。現在はわずかに痕跡をとどめるのみである。

<田堰川の取入れ口>
 新たに雫石城主になった斯波氏に請われて、遠野の綾織から雫石に来た、綾織越前広信は、雫石郷内をくまなく行脚巡察し、地勢段差から水流系などを測量勘案して、雫石八幡舘に城塞を構築した。そしてその防御のために濠を掘り、それに通水すべく約一里あまり北方の矢筈の西で、葛根田川より豊富な水量を上水する田堰川の掘削を行った。そして同時に、その沿線に沿った地帯の畑地原野などの開田計画を推進した。
 この用水堰である「田堰川」は下流を大水川と称し、近年の構造改善事業実施以前までは雫石町内の南田んぼや下久保田んぼの美田を豊かに潤してくれた大変有意義な用水路であった。【「田堰川物語」土樋裕之助著より 】

<田堰川>
 葛根田川矢筈橋地点から揚水し、土樋溝または田溝と呼ばれており、下長山、林崎、柿木、雫石の林、下久保の水田に利用され、雫石町では大水川と呼ばれている。【「雫石町史Ⅰ」より】

<土樋の地下水跡>
 かくも重要な用水堰の「田堰川」が、上流近くの土樋の沼の西方を通る辺りで、僅かな土手を隔てて接近した個所を掘削されて通っていた。じつはその石組に殊更な間隔があって、流水のかなりの量が漏れて裏側に流れ、それが秘密の水路を通って沼の底近くに湧き出る仕組みになっていたのである。然してこの土樋の沼の底から、延々5キロにわたり雫石城の濠まで通水路を掘削したのである。
 土樋の沼は、外観は全くの自然の泥沼に見せかけていながら、実態は大変巧妙な仕組みを秘めた半ば人工の堀池の施設であったのである。その当時は恐らく絶対に「土樋の堀」などとは言わせなかったはずであるが、後世になってから、この沼を「土樋の堀」と一般に呼び慣らされるようになったと思われる。【「土樋の堀」 土樋裕之助著より】

土樋舘(つちといたて)
 町内長山中上に所在し、雫石城の北方4キロ、標高250m。比高20mの独立丘陵を利用した舘である。中腹に一条の堀をめぐらし、自然地形をそのまま使用した単郭で、東西30m、南北25mの広さをもち、ほぼ円形を示す郭である。
 館主、沿革とも不明であるが、この付近は雫石城に用水を引いた取り入れ口と伝える場所であり、周囲が展望できる場所であることから、用水取り入れ口の監視のために構築された館ではないかと推定される。〔「中世の城舘」 雫石町教育委員会発刊より〕

 最後に… なんといっても 雫石よしゃれの起源
 天正年間、南部信直が三戸の居城から南下して、不来方(こずかた・盛岡の古い呼び名)を足場に四隣を征服して勢力の拡大を図ろうとして、雫石城も攻略目標の一つにされたが、城の守りは固く、容易に手に入れることができなかった。南部方は城に引き入れている水脈を絶つことを戦術、すなわち枯渇戦術を計画し、密かに隠密を使わしてその水源地を探索させた。隠密は葛根田川沿いの地域を探し歩き、やがて一軒の茶屋を怪しいとにらみ、―――ここにいる女を手なづけて水源地の秘密を暴こうと女に言い寄ったが、使命感に燃える茶屋の女は、その手に乗ってこなかった。そしてある日の朝、隠密が「茶屋の嬶、いつもの花染めのタスキが今朝は肩に掛っていないので気にかかる。」と言えば、茶屋の女は「よしゃれ(よしなさい)、おかしゃれ(おかしいですよ)、その手は食わぬ。その手食うような野暮じゃありませんよ!」と言葉を返して肘鉄砲を食わせた。 ――というのが、よしゃれの起源と言われている。

資料作成・ 〔案内人 滴石史談会 関 敬一〕