史談百花帖
西山地区の歴史
仁佐瀬追分と道標
漆原喜右衛門と
並木松の伐採
石碑の多い西山地区
七ツ田の弘法桜
岩手山神社
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 雫石町教育委員会・滴石史談会
 平成30年度 郷土史教室
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岩手山信仰 “水と芸能、石碑の郷 西山”を訪ねて

 平成30年6月24日(日)

山紫水明 国天然記念物・玄武洞の柱状節理

   日 程   
 9:00 町中央公民館前出発 仁佐瀬の長山街道分かれの道標 南無阿弥陀仏塔

    五輪の塔と岩手山 一王子権現(鳥居)跡 七ツ田の弘法桜
    岩手山神社遥拝所 山麓開拓の歴史(極楽野~盆花)
    篠ヶ森旧葛根田発電所跡 玄武洞
12:15 〔昼食・篠崎民宿「しらかば」〕  
12:55 民宿出発 篠崎八郎の碑 上駒木野開拓地・駒木野神社 
    雫石神社 石仏橋由来の庚申塔 よしゃれ伝説「土樋堀と田堰川」    
15:10 中央公民館帰着 引き続いて「振返りの座学」~15:50


① 中央公民館  ②仁佐瀬長山街道分かれ ③漆原喜右衛門碑  ④五輪の塔 
⑤一王子権現の鳥居 ⑥弘法桜 ⑦岩手山神社 ⑧盆花開拓碑 ⑨旧西山発電所 
⑩玄武洞 ⑪篠崎八郎碑 ⑫上駒木野 ⑬雫石神社 ⑭石仏橋 ⑮土樋の堀跡      

  西山地区の歴史

<旧西山村> 西山村は、岩手郡の西部に位し、東は雫石村及び滝沢村に接し、南西は御明神村及び秋田県仙北郡に隣し、北は岩手山を隔てて松尾村に連なり、南は雫石村に臨んでいる。
 奥羽山脈の東方岩手山の南麓に位するを以て、西北境に烏帽子岳、大白森、大沢森、曲崎山、八瀬森、関東森、小畚森、三ツ石山、鬼ヶ城山、等連担し南方に傾走し、河流は概ね南流し葛根田川はその源を源太ヶ岳の南面及び大白森、小白森の東側面から発し、東南に奔走し約五里にしてさらに南流すること三里、流域の平野を灌漑して御明神村下川原において雫石川に合する。また、黒澤川は滝沢村から来たりて東境を南流すること約三里にして雫石村下久保において雫石川に合す。両川の流域は広大なる平野で篠ヶ森、篠崎の辺りから南方に開け、地味頗る肥沃で概ね水田となっている。【岩手郡誌…岩手県教育会岩手郡部会発行】

 〔 旧西山村 〕 中世には、戸沢氏の分流で長山氏と称する豪族の支配下にあったとされる。
 天文年中(1530~1553) 南部彦三郎晴政の封内に属してより代々同藩士知行所たり。
 明治22(1889)年の町村制施行の際、西根、長山の二村を合併し、旧村名を大字名となして新たに西山村を建て、御明神村・雫石村とともに組合村をなせしも、同26年分離して独立に役場を建つ。役場はいま大字長山にあり。【岩手県郷土誌…岩手県教育委員会発行】

〔西山村雫石町に統一〕
 明治30(1897)年、雫石村外2カ村の組合村が解散して雫石村、西山村、御明神村の3カ村がそれぞれ単独で自治体に移り、御所村と並んで雫石4カ村と称されるようになった。
 昭和15(1940)年、雫石村が町に昇格し、以来、1町3カ村体制が66年間にわたって続いた。
 昭和30(1955)年4月、町村合併促進法によって、雫石町、西山村、御明神村、御所村の1町3カ村が合併して新生「雫石町」が誕生し、今日に至っている。〔雫石町史〕
 

 仁佐瀬追分と道標
 長山街道分岐   
(仁佐瀬追分)旧雫石街道の仁沢瀬橋を渡り、雫石村の仁佐瀬という丘の上から北西に分岐する道がある。これを長山街道といい西根村、長山村に通じていた。この両地区から盛岡へ年貢米を運搬した道である。また、岩手山神社遥拝所(新山堂)への代参道でもあった。(雫石町史Ⅰ)


「仁沢瀬」と「仁佐瀬」 
 仁沢瀬橋の周辺地名は滝沢市管内では「仁沢瀬(にさわせ)」であり、隣接の雫石町管内では「仁佐瀬(にさせ)」である。元々は「仁沢瀬」であり「仁佐瀬」は、その訛った発音からきているのではないかと思われる。ただ、滝沢市仁沢瀬在住の方でも苗字は全員「仁佐瀬」さんである。

 <現在の長山街道分れ付近。 最寄りのバス停は「追分」という。> 

<盛岡道>
 明治12(1879)年の『管轄地誌』によれば、西根村の道は、
「数條の山路、字北妻に集まり一條となり長山村に通ず。」
とあり、現矢筈橋線が長山街道に続いて盛岡に至ることから、盛岡道と呼ばれていたと考えられる。また、天保四(1833)年に駒木野原西根街道の名称も見られるが、どこを指すかは不明である。西根村にはこのほかにも、部落間を結び上野村に通ずる山道があったといわれている。

≪参考≫ 滝沢姥屋敷~西根~御明神(上野)~山伏峠への道 〔滝沢村誌〕

 本村最古の道路中、最も繁昌した処は、姥屋敷の荷替坂(にがんざか)であるだろうと大坊善章氏はいう。
 元明天皇のとき、武蔵国秩父郡から天然の純銅、すなわち、和銅が出たので年号を和銅と改元されたが、この和銅年間(708-715年)に発見されたという尾去沢鉱山から、屋敷台-三ツ森-笹森-湧口-春子谷地-荷替坂-耳取-盛岡に通ずる道路、荷替坂から外山(袖山)-篠木-大釜-渡し-猪去-志和に通ずる道路、湧ロから鞍掛-西根-御明神-山伏峠に通ずる道路、以上の三道があったらしいという。
 馬の背を利用して来た物資を交換した処がいわゆる荷替坂で、当時如何に繁昌していたかゞ想像されるし、また旅人にとって、飲料水は欠くことが出来ないのだが、酌んでも尽きることのない湧口も、当時如何ににぎわったか推察される。

 <参考>篠木坂通りからの間道
 盛岡城築城以前の雫石街道は、仁沢瀬の川を越えるのが難所となり、≪諸葛橋付近(現在の前潟イオン付近)から上厨川の土淵に出て、滝沢市西の篠木坂峠を越え、外山(とやま)から大清水を通り、七ツ森の北側を通って雫石(今の「名子道」)≫に出る経路であったようだ。
 ただ、それはいわゆる「正規ルート」であって、一般の通行人等はできるだけ近道をしようと考えるものであろうから、さまざまな「間道」ができたであろうことは想像に難くない。その一つが、この「篠木坂~外山~大清水~(長山街道と交差)~板橋(ハートポート~希望ヶ丘~七ツ森保育所)~雫石街道」ではないかと推測する。この間道は、その動線から見て、雫石街道と交差して御所野原を通る「沢内街道」に結びついても不自然ではないと思われる。                 

◆ 滝沢市大釜風林と大清水の網張街道交差点に建てられた地域の案内板に「篠木坂を越えてきた旅人は、ここを通り長山街道に歩を進めた。」という記載がある。
 慶応2(1866)年の絵図面を見ると、この間道の北方向の先の〔隣村との境〕には「厨川通・大釜村」と書かれている。
 これを現在の管内図に示すと次のようなルートになる。 

 新たに指定する「有形文化財」(歴史資料)の概要 (2の2)
名称・員数 〔旧秋田街道・長山街道分岐に建つ〕明和九年の道路指導標 一基
所 在 地 岩手県雫石町仁佐瀬15番8内(国道46号長山街道交差点北側の緑地帯内)
所有者の住所及び名称 所有者は不明。(設置者は長山村小林又右衛門、
           土地所有者は国土交通省)
構造形式 ・変形四面体の(輝石)安山岩利用の石碑
     ・高さ 80㎝ ×(横幅40㎝×30㎝)  
     ・「〇右 長山道 ☾左 秋田往来」と刻まれ、「年月日と施主」
       さらに「是より左三丁程行沢内往来」ともある。
     ・台石なし

手前左ー道路指導標 奥ー青面金剛

 〃右ー庚申塔

 
  明和6年道路指導標 碑面の模写(「雫石街道の歴史」から)

建造年代   明和6(1749)年 丑7月 日   (碑面刻字のとおり) 
指定理由等〔指導標設置の経緯〕旧秋田(雫石)街道の厨川通大釜村仁沢瀬で村境の仁沢瀬橋を渡り、対岸の仁佐瀬集落の急坂を上ると雫石村の仁佐瀬丘陵の上に至る。ここから北西に分岐する道が長山街道であり、西根村、長山村に通じていた。この地区から盛岡へ年貢米を運搬した道である。岩手山神社遥拝所(新山堂)への藩主の代参道でもあった。
 この分岐点北側に三基の石碑が列立している。これらは建造年代や 碑文の種類もまちまちであり、おそらく明治時代以降、道路改修に際して近くの場所からここに移動したものと思われる。
 これらを碑面の建立年代順に並べると次のとおりである。
1・道路指導標<右長山道、左秋田往来 是より左三丁程行沢内往来と刻まれている。) ※「指導標」の表記は「雫石街道の歴史」で使用。【明和六(1769)年7月 日 施主 長山村小林又右衛門】 
 道路指導標を設置した長山村の小林又右衛門は、村一番の篤志家であった。その小林が指導標を設置したのはもちろん通行人の利便を考えてのことであったと思うが、当時相次いでいた飢饉による餓死者の供養も兼ねていたとする説もある。
2・庚申(庚申塔)<四面石柱の正面に「庚申」とのみ刻まれている。> 横面に【〈文化8(1811)年8月建立〉】とある。
3・青面金剛諸願成就<仏絵のほか、「右長山道」「右長山みち・左秋田みち」と彫られている。> 同じ面に【文政5(1822)年2月に長山村連中】とある。  

◆「滝沢村誌第四編」では、江戸時代の四大凶作の一つ「宝暦の凶作」に関連して次にように記述している。

――(宝暦の凶作の惨状に続いて)この時、雫石十か村の人々が飢えをしのぐため盛岡城下の非人小屋に行って食を得ようと、国道46号線の滝沢村境にある仁佐瀬橋と小岩井方面に通じる十字路のところまで来、力尽きてたおれた者多数。これら死者をとむらうために長山村の小林又右衛門という人が供養を兼ねた指導標を立てゝいるから、本村においても飢人がお助け小屋で食を求めたであろう。

【参考】 小林又右衛門が指導標を設置した明和年間(1764~1772)の前の元号は、「宝暦」である。「雫石町史Ⅰ」の年表によれば、
宝暦3年…雫石で大火、凶作、
宝暦5年…大凶作、飢饉、チフスなど疫病流行、雫石通りだけで餓死者7~800人。四大飢饉の一つ。
宝暦6年…凶作、飢饉、他所への欠け落ち続出、空家増加――とある。

〔指定の理由〕 
・旧秋田街道における雫石郷最初の分岐点に設置されている道路指導標であること。ここにある3基の石碑のうち年代的に最も古く、町内6か所にある「道路指導標」の中でも最古(249年前)のものであること。 
・石標の「指導内容」も直近の「左」「右」の道を案内するだけではなく、この分岐より三丁先の沢内往来の分岐についても案内するなど私設であるがその利便性を高く評価できる。
 ・道路指導のみでなく、度重なる凶作、飢饉等の犠牲者の供養を兼ねているなど、厳しい世相の中での地域の篤志家の事業として高い公益性が感じられ、建立当時の農村社会の状況が伺える貴重な歴史資料である。

◆ 三基の石碑について
 この分岐点北側に建造年代や碑文の種類がまちまちな三基の石碑が列立している。おそらく明治時代以降、道路改修に際して他の場所からここに移動したものと思われる。最近では、1992年のアルペン道路改良工事があった。
 3つの石碑の中で最も大きなものは「青面金剛(しょうめんこんごう)」の碑である。
①青面金剛諸願成就(仏絵のほか、「右長山道」「右長山みち・左秋田みち」と彫られている。)〈文政5(1822)年2月に長山村連中が建立〉  
②道路指導標(右長山道、左秋田往来 是より左三丁程行沢内往来と刻まれている。)〈明和六(1769)年7月施主 長山村小林又右衛門〉
③庚申塔(庚申とのみ彫られている) 〈文化8(1811)年8月建立〉である。〈①③の記述は雫石町教育委員会刊「雫石街道の歴史」「雫石の石碑」を参考にした。〉

≪解説≫※青面金剛…(しょうめんこんごう)は日本仏教における信仰対象の1つ。青面金剛明王とも呼ばれる。帝釈天(たいしゃくてん)の使者の金剛童子。身体は青色で、六臂(ろっぴ)または二臂、四臂、目は赤くて三眼で、怒りの形相をとる。病魔を退散させる威力があるとする。後世、道家の説が加わり、庚申 (こうしん)待ちの本尊とする。「せいめんこんごう」ともいう。
小林又右衛門……紫波より移住す。長山街道の分れに明和9(1769)年に道路指導標を建立した。明和の頃、家族37人あったという。同家の治太郎は明治40年より2期村長を務め、隠念仏の善知識として有名である。屋号は〔又右衛門〕。漆原喜右衛門は分家。…「雫石の旧家」より
 

   漆原喜右衛門と並木松の伐採

 西山村で盛岡街道または西山街道と称する道は、雫石村では、長山街道と呼ばれている道である。この西山村から仁沢瀬で秋田街道に出る街道には、嘉永年間(1848~1853)長山村の漆原喜右衛門が平原内にある道筋の指標として並木松を植え、以来およそ80年を経た大正15年にこれを伐採し橋梁などの補修費に充てているが、その際、漆原家に住家一棟を贈って、その功績を讃えている。
 町史Ⅰ(979p)… 盛岡街道の項 
嘉永年間吾西山ノ里ヨリ盛岡方面ニ往来スベキ西山街道ハ其ノ当時街道ノ指標トナルへキ並木ナキ為メ通行人ノ道ヲ迷フコト多々アリ此ノ困難ヲ憂慮シ之ヲ救済センコトヲ志シ松並木植立ノ大業ヲ企テ漆原喜右衛門氏主トナリテ該道路補修亦並木保全ノ為メ此ノ並木間伐ノ業ヲ行フ二当リ氏ノ斯業偉大ナルヲ賞シ同時ニ氏ノ功績ヲ表センカ為考慮の結果、漆原家現在ハ一定ノ住家ナキノ状態ニ付茲ニ並木ヲ以て左記住家一棟ヲ建築シ以テ永久ニ存ゼントス。(西山村会議決 綴)

漆原喜右衛門……姓は山崎。又右衛門家の分家。弘化3(1846)年村肝入を務めた。「雫石の旧家」より
                
≪長山街道脇に立つ喜右衛門建立の石碑≫
 長山街道分れから街道を長山方面に1.2キロほど 行ったところの右側木立の中に漆原喜右衛門が建立した石碑(右の写真)がある。街道が越前堰の分流である尾入(西)堰と交差する場所に立つ玄武岩(正しくは「安山岩」)と思われる六角形の柱状の碑である。正面は「南無阿彌陀佛」。左右の側面に下記のような二通りの文が刻まれている。

【左】 安政二年 
此尾入堰之碕是従乾方 
當黒沢川端従地森出生 
卯 二月廿二日 

【右】 嘉永七歳 
従道還往来通片并松植 
立置段々植次可致候事 
寅 四月七日

(嘉永7年 1854年 安政2年 1855年 - 上右の碑文から、喜右衛門が街道松(并松)を植えたのは片側のみであり、今後、だんだんに植え継いでいく考えであることが分かる。)


≪参考≫ 越前堰(えちぜんぜき)
 今からおよそ400年前の天正年間に、綾織越前広信という土木技術にたけていた武士が、ほとんど私費を投じて開削した県内で最も古い用水路である。綾織越前は、雫石(斯波)詮貞によって客分として遠野から雫石に招かれ雫石城を築造したとされる人で、後に滝沢村篠木の地に移っている。
 越前堰は、小岩井農場育牛部の北方地点で黒沢川より分水し―― 沼返森の東、下丸谷地でさらに分水して、一系統は「西堰」とも呼ばれて尾入 野にひかれ、その一部はサイフォンを利用して元御所地区の水田を潤 している。 もうひとつの系統は滝沢村の篠木方面に引かれて「東堰」と呼ばれ、逢の沢、巡沢、苧樋沢の水を合わせ、仁佐瀬から上 堰または根堰と呼ばれて篠木方面の灌漑用水に利用されている。
 ✿ 越前堰の開発は、天正3、4年から始まり、同十年ごろまでの間(1575~1582年)に行 われた。
越前堰を掘った綾織越前広信は、遠野の出身で、田原藤田秀郷(たわらとうでんひでさと)の後胤で、後に姓を藤平と改め、長く篠木に居住したとも、また、雫石城に客分として住み、わけあって死刑に処せられたとも伝えられている。
 現在板橋行政区に住む、尾入の藤平作右衛門家は、越前の子孫だと伝えられている。【雫石町史Ⅰ】

 「越前堰」と「七ツ森」について、雫石には次のような民話が伝えられている。
七ツ森のひとつ「見立(みたて)森」。かつて綾織越前がその頂上に登って岩手山方面を眺め、山から水を引く思案をしていたところ、一頭の白狐が現れてその山腹を駆け下りてきた。これを見た越前が「これぞ神のお告げ!」と白狐の駆け抜けた跡に用水路を作ったところ、水がうまく流れたという。人々は越前が登って水路にふさわしいコースを見立てた、ということからこの森を「見立(みたて)森」あるいは「見手(みて)の森」と呼ぶようになったという。         
 

   石碑の多い「西山地区」

 「雫石盆地の石碑は語る」
 しかし、ここにまとめたものだけでも雫石53、西山180、御明神62、御所72、合計367という大きな数となります。明治以前に建立されたものを調べると、わかるものだけでも雫石18、西山36、御明神24、御所32の合計110基です。西山地区が特別多いのは、藩政時代から水田が多く生活が豊かな上、信仰心も深かった現れでしょう。           (西山五区の篠川原念仏剣舞供養塔) 
  石碑には大きいものあり、小さなものあり、刻まれた文字も梵字で書かれたものもあります。文字の大きさもまちまちですが、大なり小なり仏の道に関係したものが大部分です。しかも、現在、禅宗のお寺が三カ寺あるのに、他力本願の浄土宗の教えに関係したものが大部分なようです。現在なお、町内には、隠し念仏の善智識と称する人が50人以上ありますから隠し念仏の影響もかなりあると推察されます。 
(中略) 石碑を建てるということは、自分達の信仰生活や祈りの生活を自分たちでしっかりと確かめ、再認識する仕事であり、更に同時代の人達に知って貰いたいという意味もあり、また、自分の子孫や後世の人たちへの語りかけも意味していたわけです。だから、こうした意味では、この石碑は雫石盆地住民の時代の主張だということができるのです。 昭和48年4月 雫石町歴史民俗資料館館長 上野孝二郎 雫石町教育委員会・昭和49年3月刊行 <心のふるさと(第三集)雫石の石碑>巻頭の言葉より

 西山地区に石碑が多く存在する理由は、上野孝二郎さんが指摘する「豊かな経済力と篤い信仰心」のほか、葛根田川上流にある「玄武洞」の柱状節理から生ずる六角ないし五角形の大きく太い安山岩の石材が、碑身として得られ易かったことも挙げられるのではないか。まさに、「西山地区独特の文化」である。

 <五輪塔> 
 本村下長山字小松にあり、水田のほとり小高き林の中にありて、その面影をとどむるのみ、誰の墓なるか不詳。付近に清水湧き出す。 〔西山村誌〕

 (よしゃれ伝説「土樋家」の項からの続き)ここから東の方1㎞位の地点の高台に、五輪の塔がある。相当大きな石を数個積み重ねて高さ60㎝の塔が、西に向かって広い田んぼを見下ろしている。一面苔におおわれて石質も分からない。
 この五輪の塔は、相当勢力地位のある人物の墓であることは間違いないが、土中に眠る人物は何者であるか、解明の手がかりは更に無い。
 雫石町歴史民俗資料館長上野孝二郎氏の説では、この地点の下を西から東へ、岩手山遥拝所に通じる神山道と称する街道があって、この付近によしゃれ発祥の茶屋があったと口碑に残っているという。茶屋の嬶は美人であり、この街道を通る人々に愛嬌を振りまいて、西の水路の重要地に人の近づくのを巧みに抑えていた。そしてその亭主は、土樋の池の辺りで日夜警戒の目を光らせていたといわれる。
「雫石の郷土芸能」・雫石町教育委員会刊より 上の写真は、上野孝二郎氏編の「雫石の石碑」から複写。昭和48年頃の撮影と思われる。

 現在、五輪の塔脇には「五輪の塔 平成5年3月 雫石町教育委員会」の標柱が建っている。
 五輪塔(ごりんとう)は、主に供養塔・墓塔として使われる仏塔の一種。五輪卒塔婆、五解脱輪塔とも呼ばれる。一説に五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれるが、インドや中国、朝鮮に遺物は存在しない。
 日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く見られるようになる。このため現在では経典の記述に基づき日本で考案されたものとの考えが有力である。
 教理の上では、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪からなり、仏教で言う地水火風空の五大(古代インドにおいて考えられていた宇宙の構成要素・元素)を表すものである。石造では平安後期以来日本石塔の主流として流行した。
 五輪塔の形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝珠型によって表される。密教系の塔で、各輪四方に四門の梵字を表したものが多い。しかし早くから宗派を超えて用いられた。それぞれの部位に下から「地(ア a)、水(ヴァ va)、火(ラ ra)、風(カ ha)、空(キャ kha)」の梵字による種子(しゅじ)を刻むことが多い。仏教で言う塔(仏塔)とは、ストゥーパ(卒塔婆)として仏舎利と同じような意義を持っている。しかし、小規模な五輪塔や宝篋印塔、多宝塔(石造)は当初から供養塔や供養墓として作られたのであろう。中世の一部五輪塔には、地輪内部に遺骨等を納めたものが現存する。また、供養塔・供養墓としての五輪塔は全国各地に存在し、集落の裏山の森林内に、中世のばらばらになった五輪塔が累々と転がっていたり埋もれていたりすることも稀ではない。現在多くの墓地で見られるような四角い墓は、江戸中期頃からの造立であるが、現在でも多くの墓地や寺院で一般的に五輪塔は見ることができる。

<よしゃれ茶屋跡・茶屋の清水>
 昔の雫石郷の人々はたいそう信仰心が篤く、大人の男たちは連れだって大抵年に一度は御山(おやま・岩手山のこと)に登り、頂上の権現様にお参りする慣わしであった。また、女たちは御山に登れなくとも、麓の遥拝所である神山詣でには必ず行ったものであった。
 当時神山詣での参道が決まっていて、雫石城下から行くには、晴山の長根に出て、長山東通りの山道を一路北方に向かって歩いて行った。この山道を神山道と呼び、通称長山街道とも呼んでいる。


<大切にされた岩手山神社への参道>
 この道は、神山のお祭りが近づくと、部落総出で道を整えたり、草や藪を刈り払いしてきれいにし、参道を神聖な道としてみんなで大事にしていた。
 この神山道が小松部落の東端で、ちょうど盛岡街道と交差する辻の辺りに、昔一ノ王子権現堂という小さなお堂が祀ってあり、かつその脇には冷たい清水の湧くきれいな泉もあって御山参りの第一番目の清めの場所でもあった。
 そしてその近くには、神山詣でに行き来するお客を相手にした、夏場だけの季節営業する茶店があった。この店の奥には、古い五輪の塔が立っていたので、この付近の人たちはこの店を五輪茶屋と愛称して、百姓仕事の合間などにはよく遊びに来て、お酒を飲んだり、店の嬶様の三味線の伴奏で、地唄を歌って楽しむ憩いの場所でもあった。南部方の隠密の侍がたまたま訪れた田舎茶屋とは、まさにこの五輪茶屋に相違なかったのである。【「よしゃれ茶屋・土樋の堀」土樋裕之助著より】

◆ 崩れた鳥居の謎? 一王子の鳥居だった? 
 町立下長山小学校東側の道路脇に、崩れたままの石の大鳥居がある。脇の道が岩手山神社への参詣道(神山道)であることから、この鳥居もその関係のものであろうと関心を持っていたがこれまで調べる事ができずにいた。
 今回の郷土史教室の資料作成のために地元の古老であった故土樋裕之助氏(史談会元会員で郷土史研究の大先輩・平成23年没・99歳)が著作した資料を見ていると、――この神山道が小松部落の東端で、ちょうど盛岡街道(関注;石仏橋~土樋~小松~黒沢川~中沼~七ツ森~仁佐瀬)と交差する辻の辺りに、昔一ノ王子権現堂という小さなお堂が祀ってあり… ―― という記述が目に入った。
 
 「一ノ王子権現」とは信仰の山の参詣道が“神域”に入る場所にあって最初の清め払いの祈祷を行う場所に祀られている権現様である。(祈祷詞は岩手山神社の項を参照のこと)岩手山の柳沢口でも柳沢地域に「一王子」という商店名とバス停名が残っている。長年、雫石口の参詣道周辺にもこの「一王子」があったのではないかと思い続けてきたが、土樋氏の著作に「一王子権現堂」が出てきたときには思わず「あった!!」と叫んでしまった。しかし、土樋氏はすでに物故されており今となってはその場所をお聞きすることもできない。現地の街道辻に行ってみても百万遍や馬頭尊の石碑があるだけ。そこで、思いついたのが「あの鳥居、もしかしたら…」であった。
 この土地の所有者、小松行政区の葉上恒さんからお話を聞いた。

<小松行政区 葉上恒さんのお話> 
・かつてこの鳥居の前方に小さなお堂があったと聞いている。〔注※一王子権現堂か?〕 
・恒にとって、竹松は曽祖父、恒太郎が祖父、有恒が父、恒一郎は兄である。恒太郎は近衛連隊獣医大尉であった。
(町内では他に例がない高級将校である。【上野海軍中将は別格】)(竹松・安政三年生、恒太郎・明治14年生、有恒・明治35年生、恒一郎・昭和10年生) 
・鳥居は私費で建てて岩手山神社に寄進したと聞いている。深い信仰心だったと思う。 
・鳥居付近の参詣道には両側に土手(防風・防雪か)が築かれていた。 
・石材は雪の残る時期に堂山の下から馬そりで運んだと聞いている。 
・昭和40年に周辺の圃場整備があった。トラック等が鳥居をくぐれないとの理由で参詣道のルートを鳥居の東側に移して現在に至っている。     

岩手山への神山道(=新山道)一王子権現の大鳥居?

葉上恒さん所有の新山道一ノ鳥居の写真(平成2年秋撮影)
石材は花崗岩 銅版の額には「岩手山」と刻印 鳥居の高さ 4.2m 幅最大6.6m 通路幅 5.6m 柱高さ3.8m 直径0.35m 

円柱右 吉田(判読不能) 
    石工 宮場直吉

旗立石右 大正八年五月廿七日之建
     葉 上 竹 松
     葉 上 恒太郎 

旗立石左 葉 上 恒太郎
     葉 上 有 恒
     葉 上 恒一郎

・鳥居は平成3年9月28日の台風19号(別名リンゴ台風)の強風で崩落した。写真は、親族がちょうど一年前に撮影していた。もちろん一年後に崩れるなどとは思ってもいなかった。(葉上 恒さん 談)

 雫石町教育委員会刊「雫石の石碑」に町内四地区367基の石碑の一覧がある。この中で西山地区は180基とおよそ半分を占める。その180基の表の中に
 1793・寛政五年 一王子大権現 小松大神宮境内 堂守庄左ェ門  
とある。大鳥居と関連があるのではないかと柿木大神宮の境内を見てみたが、神社の説明碑にも記されているものの、それらしき石碑を確認することはできなかった。
 

  七ツ田の弘法桜 

 仰ぎ見て立つ名木桜「七ツ田の弘法桜」と呼ばれる巨樹である。
 伝説によれば、弘法大師(774~835・空海のこと。真言宗の開祖)が諸国行脚の途中この地で休まれた時、持っていた杖を挿したのが根付いたものという。また別に大師を篤く信じていた巡礼の一人が、吉野から持参した桜の杖をこの地に突き立てたまま立ち去ったものが根付いて成長したという言い伝え、さらには、大師を信仰する老婆がこの桜の下で雨風を厭わず観音経読経の日課を一年あまり続けたところ、不自由な脚の病気が治ったという言い伝えがある。この老婆は地域の寄付を募りお堂を建立し「弘野堂」と名付けたという。
 地元のもう一つの呼び名「くせぇぁざくら」は、盛岡地方のイヌザクラの方言で、葉の形が似ていることから混同したものと考えられる。【この項「岩手の巨樹・巨木」から抜粋】

参考 ぐぜい 【弘誓】仏教用語。仏・菩薩の、弘く衆生を救おうとする願いとその誓い。誓願のこと。「くせぇぁ ざくら」はこの〔ぐぜい 〕が転訛したものではないかと思われる。

 弘法桜のある「(西山)野中行政区」は、昭和42年度から他に先駆けて<教育振興運動>に取り組んできたことで知られる。その活動25周年を記念して、平成5(1993)年2月に1冊の記録誌が制作された。<ふるさと野中…野中教育振興会25周年記念写真集>である。
 今回の郷土史教室の参考資料として、その写真の中から弘法桜の脇に立っていた弘法様の大師堂(戦前のもの)、さらに道路脇の道標を兼ねた「庚申塔」の写真と説明文を引用・複写してご紹介する。

 
村の石碑を訪ねて 庚申塔(こうしんとう)
 野中部落の東の村外れ、昔は追分といわれ、旧道、長山道、新山道の交差点である桜沼弘法堂の古木の下にひっそりと建っている三基の庚申塔がある。
 庚申塔は古来、平安時代の宮中の信仰行事の一つでもあったものが、次第に民間信仰と化して普及したものであり、そもそもは中国の道教の思想が日本に入って宮中行事になったものである。
 庚申塔を部落の入り口に建立し、悪病、その他の災いが部落に入らぬと信じられ講中をつくって信仰を深めていったのである。また、「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿思想となり、村人の永久の幸福を願って建立されたものである。碑文は下記のとおりである。 
 
 左   右岩手山道   
    庚申五穀成就敬白  安永四年
     左岩井花道
 中央  庚申塔九月大吉祥 文化十三年
 右   五 穀

    奉納庚申塔    寛政十三年

    成 就


 安永4年 1775年       


 文化13年 1816年          

 寛政13年 1801年          


 左の写真は、現在ある『桜沼大師堂』の以前の「大師堂」で昭和16年に写された写真です。(41ページ)場所は現在とほぼ同じ場所ですので廻りにたくさんの木が生い茂っていた当時が伺えます。当時の大師堂は現在よりもかなり大きなもので、屋根は杉皮で葺かれていました。(左側に見えるのが「弘法桜」です。)
 現在の大師堂は、周辺の方々の寄付により昭和41年9月21日に完成したものなそうです。

長山の夫婦石(めおといし)
 町内長山にある県営屋内温水プールの東側の林の中に、黒褐色の大きな石が二つ寄り添うように並んでいる。これが長山の夫婦石である。かつての地割字名では「長山第48地割字夫婦石」である。通称「アルペン道路」の沿線で、七ツ田の「弘法桜」と「岩手中央森林組合製材工場」のほぼ中間点に位置する。かつては岩手山への参詣道からも見える位置にあり、通行の人々の目印にもなっていたものと思われる。

 この夫婦石には悲恋の伝説があり、雫石町史Ⅰに次のように掲載されている。

✿ 大字長山高八卦部落の奥地に大小二つの大きな石が立っています。大昔田村麻呂将軍が岩手山の賊退治に来た時、家来の好丸をこの地に残して住民の指導にあたらせました。若い好丸はさびしかったのでしょう、部落の少女と懇ろになりました。数年後好丸は将軍の命によって都に帰らなければならなくなりました。二人は部落の奥に入って泣き別れしているうちに石になってしまいました。この石を夫婦石と云って、この地の字名となりました。

✿この石については江戸時代の文献「雫石通 細見路方記 上」(平成10年雫石町教育委員会が「心のふるさと」第11集として新たに発刊)に次のように取り上げられている。
                
 長山の夫婦石  市中の北 長山の東 黒石野の内に
 夫婦石と言う 二つ並びし大石あり 
   むつましき 中にも咲くや 鬼あざみ  嵐戸

 郷土史家の田中喜多美氏は資料「旅と伝説」の中でこの夫婦石も紹介している。その内容は町史とほぼ同じであるが、この石は別名「カラト石」と呼ぶこと、部落の少女は「この部落の長者某の娘お糸」としている。
 「夫婦石」はほかに、町内矢櫃(やびつ・町場寄り)の県道沿いにもある。この夫婦石は、八郎太郎の乱暴狼藉を懲らしめるために、権現様が投げつけた石だとしている。
※上記からは、岩手山噴火の噴石を連想させるが、小岩井山地における他の大石の例と同様、数万年前の岩手山の山体崩壊による岩屑なだれによって運ばれてきたものではないかとの推察もある。

〔前出の江戸時代の文献「雫石通 細見路方記 上」に次のような記述もある〕

  此長山 黒石野 高根野にかけて 大覆盆子(いちご)原也
 此所より つみとりて城下へ 売り出す也
 いちご原 二里四方もあるべし 雫石の名産也
   まっしぐら 野末白雨ふる いちご哉  嵐戸



   岩手山神社 遥拝所
 (長山・行政区は「極楽野」)

 雫石町長山(51地割)頭無野(かしらなしの)60番地に所在する。正式には「岩手山神社遥拝所」である。通称は「新山(しんざん)」という。

 807(大同2)年、坂上田村麻呂が創建したと「南部叢書(なんぶそうしょ)」にある。
 時代がくだって1189年、工藤小次郎行光が頼朝から岩手山神社の別当を拝命したとされる。また、藩政時代に南部藩はこの神社を岩手山信仰の拠点となる「地方総鎮守社」として庇護した。岩手山を巌(岩)鷲山(がんじゅさん)と呼び、山頂付近を聖地として崇め、女人禁制の岩鷲大権現として祀ったのである。慶長8(1603)年、木村円蔵院は南部利直公より、滴石口(御神坂口)の別当を拝命した。【雫石町史より】
 その後、延宝2(1624)年「重信公新山堂再興す。」(雫石歳代日記)。
 宝暦年間(1751~1763)頃は三間四方の御宮であった。文政5(1822)年地元民(氏子)が新山堂を再興する。昭和60年全面改築。平成16年改築。

由緒  <雫石町教育委員会刊「雫石の寺社」より>

 大同二(807)年、田村麻呂創建と南部叢書に記されてある。坂上田村麻呂将軍が、岩手山にたてこもる赤頭の「高丸」を討つため御陣屋を設けた所と伝えられている。岩手山は年間を通して霧に閉ざされることが多かったため別名「霧山嶽(きりやまだけ)」とも呼ばれた。
 慶長八(1603)年、木村円蔵院(在雫石)は、南部利直公より岩手山西口の別当を命ぜられ四十四石五斗一升を賜った。
 歳代日記に「延宝二年南部重直公、新山堂を再興す。」とある。
 「文政五年雫石御中惣勧化にて新山堂再興す。世話人長山村肝入嘉右ヱ門ほか重作、弥兵ヱ、九兵ヱ、篠川原久右ヱ門、御社領肝入八兵ヱ」の記事がある。
 昭和六十(1985)年本殿拝殿休憩所の全面改築を行った。
 岩手山神社の祭典には円蔵院様が藩公名代として行列をそろえ、新山堂に参詣した。行列道具の一部が林崎の高田家にある。神代文字の額が神社に奉納されている。

◆ 岩手山信仰
 有史以来、たびたび噴火してきた岩手山。その荒らぶる姿ゆえに人々は霊力を感じ、神の山として岩手山を信仰するようになりました。かつて信仰登山のために開かれた東の柳沢口は柳沢ルートとして、南の雫石口は御神坂ルートとして現在も使われています。ほかに北口として旧西根町・平舘口に上坊登山口があります。
 坂上田村麻呂が地域の鎮(しず)めとして社を創建大同2(807)年、坂上田村麻呂がみちのくの総鎮守として祀ったのが岩手山信仰の始まりとされています。しかし、それ以前のはるか昔から、山麓の人々は霊山として礼拝していたようです。源頼朝の挙兵(1180年)から87年間の武家記録である史書「吾妻鏡」によれば、厨川城主であった工藤氏は岩手山の祭典に奉仕してきた家柄と伝えられています。時代は下って寛永10(1633)年、南部藩主となった重直公は岩鷲山大権現の別当寺となった大勝寺を創建。修験者によって盛岡総領鎮守の「岩鷲山大権現」として祀られるようになりました。
 江戸時代の岩手山の参拝登山の正式な登山口は、東の柳沢口(柳沢ルート)、南の雫石口(御神坂ルート)、北の平館口(上坊ルート)の三つ。各口には岩鷲山を山号とする新山堂がありました。その祭日にはだれでも参詣でき、奥宮である頂上は女人禁制でした。頂上参拝は山伏によって山開きがあってから、男子だけが許されていたのです。
 参拝登山は「おやまがけ」と呼ばれました。白衣に金剛杖を持ち、六根清浄を唱えながら暗いうちから登り、日の出を礼拝するなどのしきたりがありました。遠くから拝む「遥拝所(ようはいじょ)」である新山堂からは<御守り札>、御山(おやま)の奥宮からは<這い松の枝>、<薬草(当帰・とうき)>、<硫黄(いおう)>を頂戴して帰った。御札は家庭の神棚に供え、這い松の枝を田の水口(みなくち)や苗代(なわしろ)、また、畑や麻畑の入り口に立てておくと、巖鷲山大権現様の守護で五穀豊穣(ごこくほうじょう)がもたらされると信じていた。これらは「お山参詣」の出来なかった隣家や親戚にも配った。まさに農民生活に密着した信仰だった。
 未婚男子は概ね15歳になって、岩手山に登れば一人前の男になったものとされることから、“お山参詣(おやまがけ)”をした。江戸時代以降は登拝者も増え、岩手山登拝や代参(代理人をたのんで拝んでもらう)を記念して、参詣者あるいは集落の人々による“講中(こうちゅう)”によって“岩手山”や“巖鷲山”と刻んだ石碑が、それぞれの地に建てられた。町内にも何基かある。岩手山の頂上には、本宮(ほんぐう)としての奥宮の御室(「おむろ」とも、また「みむろ」ともいう)があり、その手前には三十三観音の石像が盛岡講中(城下の商人などの奇特な人びと)によって建てられている。<右は昭和初期富士登山講中の写真>
 山頂奥宮の参拝後は守札、ハイマツ、硫黄、薬草を持ち帰り、五穀豊穣と無病息災を祈願しました。このおやまがけは、南部藩では藩主の名のもとに行う「三十三騎詣り」として藩随一の祭礼行事となり、幕末まで大々的に執り行われました。     

 明治2年、岩鷲山大権現は「岩手山神社」と改められて、各登山口に神社が造られました。岩手山頂(妙高岳)の東に岩手山神社奥宮があり、いまでも頂上にたどりついた登山客の多くはこの奥宮への礼拝を忘れません。

  正一位巖鷲山権現
 貞享三(1686)年の大噴火により、巖鷲山へ神位を与えることになり、京都吉田家より「正一位巌鷲山権現」との宣旨(せんじ)があり、同年10月3日に盛岡に達せられた。
 それで、盛岡の大勝寺を当山の別当として、寺領二百石を賜り、柳沢付近を新田に願い上げ、その百姓を当山の用とした。
 また、巖鷲山の本宮を「本山」と号し、新たに遥拝所を建立して「新山堂(しんざんどう)」と称した。 【「滝沢村の歴史」から引用】

✿ この岩手山神社には深夜や早朝に登山する人のための長床(ながとこ)もあった。 現在は再建されている。参詣者はここの湧水で口をすすいで身を清め、杖をつき、祈祷詞を唱えながら登った。

長床(ながとこ) -神社建築の一つ。本殿の前方にたつ細長い建物で,拝殿と明確に区別されていない例もあるが、長床は熊野系の神社に多くみられ,単なる拝殿ではなく,修験者,行人(ぎようにん)ら長床衆に一時の宿泊・参籠の場を提供する。また山形県庄内地方では部屋に区切られ,いろりがあり,宮座や氏子の集合場所にあてられて,膳,椀,鍋釜などの格納設備をもつものが多い。長床の名称で重要文化財に指定されている建物に,福島県喜多方市の熊野神社長床(鎌倉時代),宮城県仙台市の大崎八幡神社長床(江戸時代)などがある。

◆ 御山参詣をする者は山に登り始めれば往時は一同揃って祈祷の詞を述べたものである。中には南無阿弥佗仏を唱えるものもあり、登山中所々拝礼をして唱える祈祷の詞もある。雫石口かからの参詣者の祈祷詞に次のようなものがある。
南方・雫石口の祈祷詞
(途中で)
南無帰命頂礼、懺悔懺悔
  六根罪消 お注連は八大
   金剛童子の一時礼拝 
(御本社で) 
南無岩手山大権現 之め のごう御峯は三十六童子
 御宮本社は三社の権現
  田村明神 能気之皇子
  一時に御本尊
   ワラハバキ一時礼拝 
(帰路)
 南無帰命頂礼、懺悔懺悔
  六根罪消 お注連は八大
   金剛童子の早池峰権現
   一時礼拝  
(また、傍線のところを「姫神権現」と読み替えて唱えたりしている) 
懺悔…「さんげ」と唱える


 六根とは、五感と、それに加え第六感とも言える意識の根幹である眼根(視覚)、耳根(聴覚)、鼻根(嗅覚)、舌根(味覚)、身根(触覚)、意根(意識)

※ お山参詣(おやまがけ)とお天気
 かつて、岩手山南口(雫石・御神坂口)からお山がけする人々は「岩手山の中腹に雲が横に棚引けば『お山、帯した雨が降る』と言い、頂上近くにかかれば『お山、鉢巻きした天気になる。』と言い、岩手山がはっきり近くに見えると『お山近く見える、荒れ日が来るぞ』と言っていた。また岩手山に三度積雪があれば、次は里まで来る、と信じていた。」そうである。(田中喜多美著・山村民俗誌より)
 昔の人々はこのように山や雲の状態や動きから天気を予想し、日々の暮らしや山仕事、農作業に対応してきました。これを「観天望気(かんてんぼうき)」と言い、格言やことわざの形で全国いたるところに伝えられてきました。 

※湧水……境内には「神山秘水」と呼ばれる湧水がある。年中水量が豊富であるうえ、雑菌がほぼ皆無ということで、水汲みに訪れる人が跡を絶たない、2015年夏から湧水の水樋が二口になって喜ばれている。
 右の写真は、盛岡市本町通りにある「岩手山神社遥拝所」入り口の「巌鷲山」の石碑。

岩手山神社の夫婦杉  
 ≪創建1200年の神社の境内で仲睦まじく≫
・この「夫婦杉」は町内有数の歴史と伝統ある神社、岩手山神社の御神木である。
・南側(左)の杉については、雫石神社の杉(平成6年度・町天然記念物指定)に匹敵する大きさ(太さ・高さ等)といえる。北側の杉の大きさは南側のものより一回り小さいものの、それが夫婦杉たる由縁となっているものと推測する。

樹種 スギ
樹齢 400年以上
指定 町天然記念物 (2012・3・1)
高さ 南(24m) 北(26m)
目通り周囲 南(523cm) 北(408cm) 

・樹齢については、直接測定、推測できる古文書などの史料がなく、樹勢と樹齢の相関関係も示されなかったため、正確な数値は算定することはできなかったが、歴史的背景や聞き取り調査から推定するに少なくとも400年以上あることは確実であると判断される。
                ✿
・岩手山神社そのものは、諸記録によると大同2(807)年、坂上田村麻呂創建と伝えられている。新山堂(遥拝所)は、古文書によると延宝2(1674)年に再建されたとあることから、それ以前から存在していたことは確実である。〔雫石町文化財保護審議委員会・天然記念物諮問会議資料より〕