史談百花帖・・拾い読み> ・「元御所」の地名はいつから使われた? ・西安庭と東安庭があるわけは? ・国道としての「秋田街道」 ・万田渡地名考 

 「元御所」の地名はいつから使われた? 会報第34号平成27年4月

雫石町史Ⅰからの資料提供 (地名編3)
雫石町史(Ⅰ)からの情報提供として、会報第 32 号で「西山村の行政区割について」続く会報 33 号では「雫石村の行政区割について」を紹介しました。 今回は、御所村についてです。

皆さんの中には、“元御所”の地名を中世からの地名と思っている人が案外多いのではないでしょうか。<ここは、その昔、さる高貴な方が住んでいたことから「元御所」という名が付いた…>という昔話のイメージがあるのかもしれません。

しかし実際は、そうではありません。実は「元御所」の地名は明治 22 年に新たにできた たものなのです。そのあたりの経緯を「雫石町史Ⅰ」ほかの資料で見てみましょう。 

✿ 町史「第5編明治以降の雫石 第一章 近代雫石四ヵ村の行政・第 2 節明治中期以降の行政組織」 より(737p)… 

1・市町村制の実施 
(明治)政府は、明治 21 年に公布された大日本帝国憲法に基づいて、地方政治に自治体方式をとることとし、府県法、市町村法を改正して、住民の選出によって構成された議会に条例制定権や予算決算の議決権をもたせ、大幅な自治活動を認めることとした。翌 22 年 4 月 1 日より、改正された法によって運営されることになったが、従来の村単位では規模が小さく、自治活動には能力が及ばず、一村 300 戸以上を基準として合併を奨励することとなった。こうして、町の大きなところを「市」、商人民家など多く集まって小市街をなしているところは「町」(ちょう)、その他を村と称するようになった。

(一)市町村制実施以前の合併 
県は、市町村制の実施に先立って、同年 3 月 16 日、従前の村を合併分離することを 発表し、県内 642 ヵ村を 164 カ村に編成替えを行った。 
雫石十ヵ村は、この合併分離によって、雫石村、西山村、御明神村、御所村の四ヵ村 に編成替えとなったもので、雫石村は従前の区域のまま存続し、西根村と長山村が合併 し、村名は両村名から一字ずつ組み合わせて西山村と称し、上野村、橋場村、御明神村 の三ヵ村が合併して、その中で由緒ある地名の御明神を新しい村名に定め、安庭村(西 安庭村とも)、南畑村、鶯宿村、繋村の四ヵ村が一つになって、新しい村名を村内の旧 蹟である「御所の渡し」から採って、御所村と称することとなった。 (以下略) 

✿ 町教育委員会刊 <心のふるさと(第 10 集)雫石盆地の地名>より 

(13p)…第二節 近代の村 二 御所村 (前略)繋村、安庭村、南畑村、鶯宿村の合併に際し、諸議があったが繋村御所の徳 田七郎兵衛の発議により、御所の伝説と四ヵ村合所の意も含めて「御所村」と決定された。これにより、それまでの「御所集落」は、「元御所」に改められた。

明治時代の新村名の決め方、それぞれですね。安庭村ほか三ヵ村の新村名選択は“雅”です。「御所の渡し(川船)」は、天保時代の「雫石通り五絶の賦」にも入る景勝の地。
現在はダム湖に沈みましたが、由緒ある“御所”の地名を大切にした人々の心が偲ばれます。

 西安庭と東安庭があるわけは? 会報第19号平成25年1月

昨年11月、町立安庭小学校の藤沢校長先生から「江戸時代に雫石通のほか盛岡城下にも【安庭村】があり、紛らわしいため調整されて、雫石は「西安庭村」、盛岡は「東安庭村」に区別されたと聞くが、その経緯について知りたい」との問い合わせがあり、次のようにお答えしましたので、会員の皆さまも参考になさってください。 
明治初年まで盛岡、雫石の双方に阿庭(安庭)村がありましたが、明治 3 年の三陸会議において協定された「郡村規則」によって、それぞれ「東安庭村(現在・北上川に架かる南大橋の東側・ジョイス本店周辺)」と「西安庭村」とに区別され、同4年から実施されました。西安庭村の名称は明治 22 年に「御所村」となるまで続きました。

●なお、「三陸会議」とは次のようなものでした。(滝沢村誌より)
三陸地方(陸前・陸中・陸奧の三国で、現在の宮城・岩手・青森の三県をいう)には、明治二年に新しく藩県の創置されたものがあり、管内は互いに錯綜し施設の混乱も甚だしく、あるいは旧慣に従うものがあるかと思えば、あるいは新制を実施するもの等があり、民政の種々雑多なることは、実に無統制極まる状態であった。 
ここにおいて、民部省から指導官が来り臨み、涌谷町の登米県庁において四県(盛岡・胆沢・江刺・登米)、二藩(仙台・一関)の高官が参集して「三陸会議」が開催されることになった。会議は明治 3 年 11 月 13 日から 17 日まで続行されたが、その内容は左記の十六件であった。 すなわち、(1)明治4年からの検地を実施すること(2)来年から総検見を行うこと (3)年貢米を回漕する船のこと (4)石巻商社を三陸商社と改名すること (5)備荒倉を建てること (6)育子の法 (7)郡村の規則 (8)訴獄の規則 (9)出納の規則 【以下略】

 国道としての「秋田街道」  髙橋與右衛門 会報第18  号平成24 年1月

はじめに
現在、岩手県の県都盛岡市と秋田県の県都秋田市を 118.7 ㎞で結ぶ国道 46 号は、両県の県都を最短距離で結ぶ最重要の幹線道路であり、岩手県では国道4号と国道 45 号そして国道46 号の3路線が国によって直轄管理されている一般国道である。

この国道は、昭和 28 年 5 月 18 日二級国道 105 号秋田-盛岡線となり、次いで昭和 38 年4 月 1 日付けで一級国道 46 号に昇格して、翌、昭和 39 年 4 月 1 日付けで一般国道 46 号となり現在に至っている。

しかし、この道路が歴史上に登場するのは今から約 1,400 年も前のことであり、つい最近まで(筆者が子供の頃)は「秋田街道」と呼ぶのが一般的であったことは、昭和前期生まれの雫石町民であれば誰しも知っていることである。

以上のことを踏まえて、本小稿では、その、現在の国道 46 号が辿って来た数奇な運命について紹介してみよう。

Ⅰ 「街道」の始まり

道路には古くから「本街道」と「脇街道」が存在したことは、読者も聞いたことがあると思うが、この「街道」の歴史は意外と古く、『日本書紀』には5世紀代とも記載するが、この当時の道路は発掘調査でも確認されておらず、詳細が不明のため疑問視する考え方が強い。一般的には、中国から「都城制」と「律令制」の導入に合わせて租庸調が確立したことによる、とするのが一般的な考え方のようだ。実際的には、7世紀初頭頃に宮都が存在した飛鳥に向かう直線道路として、奈良盆地から直線的に飛鳥の都に南下する、現在に残る「上ツ道」、「中ツ道」、「下ツ道」の並行する3本の道路が最初であろう、とする考え方が有力である。古代の道路跡は全国的に発見例があり、官衙を中心とした条坊制(土地を一定の・面積で区画すること。奈良や京都の町並みも条坊制による区画)の実施が道路の設定に大きな役割を果たしたであろうことは容易に推測可能である。

西暦 646 年正月に出された「大化の改新」の詔(みことのり)で、駅伝制を布く旨の記述があり、これが契機となって直線的な道路が全国的に計画されたとする考えが強く、発掘調査によっても一部の地域であるが、発見例の報告がありこれを裏付けている。

特に、律令制の導入により、時の朝廷は国の出先機関である「国衙」や「郡衙」に代表される「官衙」の設置により、中央政府と地方出先機関を直結し租庸調としての年貢を輸送する必要性から、道路網の整備が必要だったと解釈することが出来る。

それでは、東北地方での道路整備はいつからかと言うことになるが、おそらく、仙台平野に「官衙」が設置された7世紀末以降であることは確実であろう。そして、岩手県となると西暦 802 年に「胆沢城」の創建、さらに盛岡市付近では西暦 803 年に「志波城」が創建された事が契機と考えることが出来る。それは、両城跡ともに表門が南(南大門と言う場合が多い)を向き(結果的に都を向いている) 大路と呼ぶ道路に繋がっており、この状況を証明しており、奈良・平安時代に全国的な道路網として如何ほど整備されたかの詳細は不明であるものの、租庸調の関係からも地方官衙から都に物資を輸送するためには道路網の整備が必要不可欠であったこともまた事実であろう。

古代の道路としては中央と太宰府を結ぶ山陽道と西海道の一部が大路、中央と東国を結ぶ東海道と東山道が中路、それ以外は小路とされていた。10 世紀前期の延喜式には、駅路(七道)毎に各駅名が記載されており大まかに復元することが出来る。しかし、その後急速に衰退して 10 世紀後期〜11 世紀初頭には、律令の衰退とともに駅伝制も駅路も廃絶したとされている。

Ⅱ 「秋田街道」はいつから

古代の東海道の終点は何処か定かでないが、古代に奥州街道も秋田街道も文言としては記録されておらず、現時点では全く不明である。しかし、現在の国道 46 号は往来筋として記録に残されており、次に歴史上に残る主要な記録について日順を追って記載しよう。

○寳龜 12 年(西暦 780 年)-『続日本紀』に国見峠・生保内峠の旧名「石沢道」の記載がある。
○文治5年(西暦 1189 年)-源頼朝が平泉攻めの時に、別働隊が出羽から国見峠を越えて志和の陣が丘に到達。 (雫石町史)
○建久5年(西暦 1194 年)-滴石郷の戸澤衡盛が、源頼朝から滴石荘の他に、出羽山本郡に 4,600町歩を拝領。このことは陸奥滴石荘と出羽山本郡は国見峠を挟みながらも一衣帯水であったことを示している。(戸澤系図)
○正平6年(西暦 1351 年)-南朝方の鎮守府将軍北畠顯信が滴石から国見峠を越えて多賀城を攻撃し、奪還に成功する。
○長禄2年(西暦 1465 年)-南部氏が峠を越えて横手の小野寺氏と比内の安藤氏連合軍を攻め、勝利を得ると言う(小野寺系図)
○天正 15 年(西暦 1603 年)-『奥羽栄慶軍記』に、南部氏の重臣北左衛門信愛が、加賀前田氏に赴くため産内山(国見峠の別称、おぼない山の意味)を超えたと記載。
○慶長8年(西暦 1603 年)-徳川幕府が諸国の大名に街道の整備と参勤交代を命ずる。
○慶長9年(西暦 1604 年)-南部藩でも幕府の命により藩内道路の里程を定め、一里塚を築く。
○寛永2年(西暦 1625 年)-この年から公儀御馬買が開始、秋田往来が頻繁となり本街道並に整備する。
○寛永7年(西暦 1630 年)-秋田往来に一里塚の設置はこの頃か。
○寛永 10 年(西暦 1633 年)-幕府巡検使の「分部左京亮」ら一行、滴石から国見峠を巡検し、秋田領と南部領の藩境を確定。
○慶応4年(西暦 1871 年)-戊辰戦争勃発。九条総督等一行が雫石から国見峠を越えて生保内に入る。
○明治8年(西暦 1875 年)-国見峠の改修工事に着手し、大久保利通により「仙岩峠」と改名される。

以上が現時点で辿れる主要な記録の内容である。

それでは、本題である「秋田街道(柴田氏の論文では雫石街道、雫石町ではつい最近までアギダケァンドと呼んだ)」が歴史上に何時登場するかが問題であるが、『続日本紀』の宝龜 12 年(西暦 780年)条に「石沢道」と記載されているのが「国見峠」、「生保内峠」に該当すると考えられており、今から8約 1,200 年も前から峠として人馬の往来があり、陸奥から出羽に超える主要な道路言うなれば街道的な役割を果たしていたことは確実なようであり、その後も中世まで断片的ではあるが通行の記録があることは、既述のとおりである。 

江戸幕府は慶長 9 年(西暦 1604 年)に江戸の日本橋を起点として、東海道、奥州街道、中山道、甲州街道、日光街道の五路線を本街道として設定し、その他は脇街道とした。奥州街道は現在の国道4号の道筋とほぼ同じとされるが、当時は江戸から白河までが奥州街道であり、その以北、仙台までが仙台道、盛岡そして松前を経由して函館に至る道筋は、松前道として奥州街道の脇街道とされていた。秋田街道(雫石街道と同義)なる名前はまったく出てこない。

雫石地方で呼んだ「アギダケァンド」は標準語では秋田街道となるが、何時からの記憶なのであろうか。どうも、秋田街道の名称が定着するのは仙岩峠が開通した明治以降ではないだろうか。それまでは盛岡藩内は「雫石街道」や「秋田往来」、秋田藩内は「生保内街道」や「角館街道」・「南部道」などと呼ばれ一定していなかった可能性が強く、行き先や目的によってさまざまに呼んでいたのが正しいようである。

ただ、国道 46 号長山街道入り口分岐点の道標には「右 長山 左 秋田往来」と刻まれていることからすると、江戸時代には「秋田往来」と呼ぶのが一般的であったことを推測させる。

Ⅱ 街道の「格」と「規格」 

道路は律令の奈良・平安時代から本街道と脇街道の「格」があり、それによって道路幅の規格が定まっていた。奈良・平安時代の本街道では路幅が9〜12mで両側に 2〜4m の側溝が付くと決まっていたが、鎌倉時代になると狭くなり幅が約半分の6m位と言われている。室町時代の状況の詳細については不明であるが、前時代の制度を踏襲したものと推測されている。

16 世紀代になると甲州の武田信玄と織田信長が道路の規格統一に尽力したことが知られている。特にも織田信長は国内の道路網について本街道で約 6.5m、脇街道で約 4.5m、在所道(田舎道)で3mと三段階に分けた上で統一しようとしたとされている。

この道路筋に対して本格的に整備したのは徳川幕府で、既述したように江戸の日本橋を起点として東海道、奥州街道(奥州道中とも言った)、中山道、甲州街道、日光街道の五路線を本街道と設定し、それ以外は脇街道とした。そして、本街道には一里ごとに一里塚を設置したほか、一定区間ごとに宿場をもうけて往来の宿泊に便宜を図るように整備した。これらの本街道の管理は万治 2 年(西暦 1659 年)に専任の道中奉行をおき、幕府の直接的な管理に置かれた。

当時の奥州街道は江戸から白河までの区間であり、当初はその以北は脇街道とされたが、その後仙台までの区間を仙台道、その北を松前道と呼び、脇街道として各藩が整備管理した。

ましてや、慶長の時代に突如として成立した新都市盛岡城下と同じ状況の秋田城下を結ぶ道筋が、街道的な役割を担う明確な形で開削されたのは、おそらく、慶長以降(西暦 1600 年以降)であろうと推測される。勿論、古代や中世でも人馬の往来路として利用したと思うが、人馬の他に各種の物資も頻繁に運搬されると言う形での物流の基幹道路とは思えない。何故ならば、古代〜中世には陸奥では石巻で陸揚げした物資は北上川を川舟で運搬するのが主であったし、出羽でも状況は同じで、江戸時代の北前船の前身とも言える船運が古代から確立していた。

それでは、生保内峠越えの道筋が人馬の通行に何故頻繁に使用されたかというと、経済活動の道9筋ではなく、戦役の際の兵士と資材を運搬する牛馬の通行を主とした道筋であろうか。 ところが、徳川幕府が成立すると戦役が無くなり、新都市盛岡への経済物資が北前船で土崎港に陸揚げされ、そこから陸路を通り生保内峠を越えた方が日数、費用とも得策であったことから、次第に羽州街道から角館街道に入り生保内峠を越えて雫石街道を通って盛岡に入る道筋が成立したと思えるのである。このことは、南部藩の荷物は野辺地港を使うようにとする藩のお触れ書きが、頻繁に出ていることからもこのことを示している。

この秋田往来の整備はどのようにして進められたか、いうことであるが、寛永2年(西暦 1625 年)に公儀御馬買が始まったことにより、人馬の通行量が多くなり道路の改修が余儀なくされたこと、さらに、寛永 10 年(西暦 1633 年)に幕府の巡検使「分部左京亮」が来訪し、秋田藩との藩境を検分して確定した事等が、さらに道路の改修を進める結果となったものであろう。

一里塚の設置は慶長9年(西暦 1604 年)に幕府から藩内の街道に各藩で設置するように、と言う命が出ており、その約 26 年後の寛永7年(西暦 1630 年)に秋田往来にも一里塚が設置されていることから、この時点で地方街道ではあるが脇街道並の管理・整備が進められ、一応その体裁が整ったものと言える。しかし、秋田往来の日常的な経費はその殆どを雫石代官所の管轄内の農民の負担で賄っていたことも、忘れてはならないことの一つだ。さらに、公事(くじ、)といった日常的な修復・整備作業時の人夫としても、地元の農民が駆り出され、維持・管理に努めたのである。

Ⅲ むすび

以上、概略的ではあるが、我々が日常的に活用している国道 46 号について、これまであまり語られることのなかった歴史的な部分について記して見た。

現在では、太平洋側と日本海側を結ぶ経済的に重要な肋骨路線として活用され、その役割を十二分に果たしていることは周知のことである。たとえ、高速自動車道網が完備されても、その網から漏れる地区が常に存在することを勘案すると、今後も幹線的な一般道路としてその重要な位置を占めていくことは確実であろう。

〖参考文献〗○雫石町教育委員会 『雫石街道の歴史』 昭和 42 年
○柴田慈幸 『新説・雫石街道(秋田往来の一里塚)』
○フリー百科事典ウイキペディア掲載『日本の道路年表』・『日本の古代道路』・『街道』・『五街道』・『奥州街道』・『国道 46 号』
○その他インターネット掲載記事の中から以下を参考にした。
 『古代道路の特徴と探し方』・『いわての街道』・『道路レポート国道 46 号旧国道』

 万田渡地名考 …双子地名二言語併用時代の名残… 大 村 昭 東  会報第18号平成24年1月

北浦稲荷神社一帯から雫石病院(現在は診療所)付近までは「万田渡」という字名ですが、どのような意味を持っているのでしょうか。その字地名と位置、場所の必然性の解読を試みました。

「万田渡」という地名は、「①万田+②渡」と二つの言葉に分解することができます。①の「万田(マンダ)」とは雫石盆地の先住民の言葉で「通る」又は「渡る」という意味です。②の「渡」は現日本語そのもので「わたる」と同一語です。いわば「万田渡」とは「渡る通る」と解釈、翻訳できます。 

では北浦稲荷一帯をなにが「通る渡る」ということなのか、ということですが、春分・秋分の日に太陽がこの上を通って来るということです。田口医院跡や北浦稲荷神社付近一帯は縄文遺跡の分布地で田口医院跡が所在する小日谷地には配石遺構(ストーンサークル)の遺物、遺跡が埋蔵していたようですが、この小日谷地遺跡のストーンサークルの真東が生森山で、春分・秋分の時に生森山の山頂から日が昇り、北浦稲荷神社の真上を渡って来て、上町の神明社と小日谷地のストーンサークルが春分ラインと秋分ライン上に位置しているということです。因みに、岩手山頂は生森山の真北に位置し、姫神山、早池峰山の位置も春夏秋冬に関係がありそうですが、小日谷地や万田渡の縄文遺跡、神明社がなぜその場所でなければならないのか、つまり場所の選定やカタチの設計には特定の方位が意識されて、春分や秋分、夏至や冬至の日の出、日の入りを知り、1年365日暦の役割をもっていたものと思われます。秋田県鹿角市に有名な大湯遺跡が所在しますが、その大湯の環状列石の北方2㎞の黒又山(クロマンタ)は左右対称の三角錐状で、その位置関係は夏至、冬至、春分、秋分の日の日の出、日の入りの方向が、雫石盆地の三角錐の生森、万田渡、神明社、小日谷地のストーンサークルと位置、条件がほとんど同一であり、黒又山のクロマンタ、特に「マンタ」という言葉から、「万田渡」の万田(マンタ)解読のヒントを得ました。ただし、黒又山(クロマンタ)の意味について、クロマンタ山の山麓の解説板はアイヌ語の「クルマクタキタダ」が転訛して「クロマンタ」になったらしいと説明しており、「大勢の人が集まって山を整形した」と解釈しているようです。

双子地名二言語併用時代の名残りというのは「マンダ(通る)渡」という地名のように言葉が違うのに意味が同じな地名を指すことのようで、二つの民族が混在するか、交替したような歴史を持つ土地にしかみられない現象です。雫石盆地にはそのような地名が何カ所か残っています。

 例えば大村地区の南川の支流を「尻合川(しりあわせがわ)」といい、その支流の上の方の沢を「コツトメ」といいますが、コツトメとは「川が尻を合わせる」という意味で、同じ川に同じ意味の二つの言葉が残っています。また、西根の篠崎に「斉内=さいない」という沢がありますが、「涸れた・石ころの・川」という先住民の言葉で、水が涸れた、水が無いという「弘法水無伝説」が民話として伝えられており、近くには「水無沢」があります。同じような民話が御明神の赤沢にも伝えられております。参考までに「赤沢=アカサ」というのは「アッカ・サツ」という先住民の言葉で「飲む・水・涸れる」という意味で、その近くに弘法大師が杖を地面に刺して穴をあけ清水を出したという湧水が今も残っていて、冷たい清水が湧いていますし、水無という名字の農家も存在しています。

雫石盆地のみならず、北東北三県の古代語は、今から一千年ほど前を下限として、急速に消えてなくなり、地名とか方言(例えば、スンズ、マンチョ、へっぺ)などの名残をとどめているようですが、特に「言葉の化石」といわれる地名に秘められたエミシ、縄文といった古代の人達の心に強くひかれるようになりました。特に「生森山」を中心に夏至、冬至、春分、秋分といった天の運行を観測し、暦を持っていたと思われますが、その知識の深さと自然と共生した縄文精神の豊かさが、きっと今に生きる私達の深層を成しているのではと感じたところです。

次の地名解読として、万田渡のすぐ北側を流れる川を「ガンジャガ(蟹沢川)」といいますが、なして「ガンジャガ」というのか解読に取り組む予定です。