雫石・新歴史探訪シリーズ
ひと・ものの交流を支えた道 雫石街道(秋田往来)の歴史
 雫石町には、長い歴史と、その中で伝えられてきたさまざまな文化が息づいています。
 昨年度は、「雫石」の地名はどこから?「よしゃれ」って何?など、その基礎知識と魅力を紹介してきました。今月からは、装いも新たに「新」歴史探訪シリーズとして、1年間(全12回)の予定で町を横断する大動脈である国道46号にスポットを当て、この路線の基礎となった江戸時代の街道・雫石街道(秋田往来)の姿とその魅力に迫ります。
記事一覧(最終回は2016年3月)
・はじめに
仁沢瀬橋~長山道(長山街道)分れ
・長山道分かれ~生森一里塚
・生森一里塚~雫石代官所(跡)
・雫石代官所(跡)~葛根田川
・葛根田川~赤渕一里塚(跡)
・赤渕一里塚(跡)~橋場御番所(跡)
・橋場御番所(跡)~国見峠
 (1)概説
 (2)御番所~ナラヤス(なる安)峠
 (3)ナラヤス峠~お助け小屋
 (4)お助け小屋~国見峠
・街道整備の歴史


(主要参考文献:雫石町教育委員会「雫石街道の歴史」雫石町誌史料第2集/ 岩手県教育委員会「岩手県「歴史の道」調査報告 秋田街道」/ 岩手県文化財調査報告書第45集) 

 
  はじめに
 雫石町を東西に横断する国道46号は、県都盛岡と秋田を最短で結び、たくさんのひとやものが行き交う重要な路線です。古くは数々の歴史上の人物が通ったと伝えられるこの道が街道として整備されたのは、およそ400年前の江戸時代・寛永年間頃と考えられています。整備後には、幕府や諸藩の馬買衆(馬産地として有名であった南部藩に良馬を購入するために来た人々)の往来や、関西方面から日本海廻りで運ばれた諸荷物の運搬をはじめ、多くの人々に利用されてきました。
 当初、盛岡城下から雫石、橋場を通り、そして国見峠まで続いたこの街道は、「雫石街道」や「秋田往来」などと呼ばれていたらしく、現在最もよく知られている「秋田街道」の名称は、明治時代以降一般的になったもののようです(以降、便宜上すべて「雫石街道」と表記します)。
 街道はたびたび改修や路線変更が行われてきましたが、奥州街道と同様に松並木が植えられていたことや、明治14年には県内唯一の1等県道に認定されたことなど、その重要さは今も昔も変わらないことがうかがえます。さて、雫石街道は、盛岡城下から夕顔瀬橋を越え、三ツ家(太田橋付近)から雫石川沿いに西進し、仁沢瀬橋から雫石町に入ります。仁沢瀬橋から国見峠までの道筋はどうなっていたのか?今に残る史跡があるのか?
 この疑問に答えるべく、次回からは、この仁沢瀬橋を起点として雫石街道を西進しながら、今に残る道筋、石碑や一里塚など、江戸時代当時を思わせる史跡や風景などを順に紹介してまいります。どうぞご期待ください。

仁沢瀬橋~長山道(長山街道)分れ
仁佐瀬橋から西を望む 
仁佐瀬
  この区間の道筋は、現在の国道46号とほぼ同じですが、かつては立派な松並木が続くかなりの急坂だったようです。仁沢瀬橋は、1640(寛永17)年、当時雫石に住んでいた龍海上人(りゅうかいしょうにん)が架橋したのが最初といわれています。それ以前は、雨が降ると通行が滞ったことが一部の古文書に記されていることから、街道自体は既に整備されていたと考えるのが自然でしょう。
 坂を上る途中には、一里塚の代わりとして間杭(けんぐい)と呼ばれる標柱が建てられたこともあったようですが、現存はしていません。1710(宝永7)年の記録によると、仁沢瀬橋から151間(200m余り)西に間杭があったとあります。
 長山道分かれと石碑群 長山道別れ道標
分かれ道標
 坂を上り切ると、長山道(長山街道)との分岐点に差し掛かります。街道の分岐点は、
「分れ(わかれ)」の他、
「追分(おいわけ)」  
などとも呼ばれていました(岩手県交通のバス停も「追分」です)。ここには、道行く人のための道標となった石碑がいくつか残されています。その一つ、1769(明和6)年に建てられた石碑には、
「右 長山道  左 秋田往来」
の表示が刻まれています。

長山道(長山街道)分れ~生森一里塚

「七ツ森」交差点 (沢内街道分かれ)
七ツ森交差点 
生森一里塚(北側) 
一里塚
 国道46号長山道分れから西に進むと、繋十文字があります。ここから繋温泉に続く道は、御所ダムの建設によって現在は御所湖畔から繋大橋を渡る路線に切り替えられていますが、江戸時代には雫石川岸に下り船で川を渡っていたと言います。川岸には関所(番所)があり、雫石川を下る材木(筏)の検査をする筏奉行が配置されていました。
 繋十文字からさらに西進すると、「七ツ森」交差点に差し掛かります。西和賀町沢内まで続く街道(沢内往来)は、正式な路線は雫石町内(下町付近)から寺の下、根掘を経て雫石川を渡るというものでしたが、盛岡から近いという理由で、寛文年間(1660年頃)にはここからの道を街道として利用したと言われています。
 そして、七ツ森の麓、今は旧道となった道路の両側に大きな土盛りがあります。生森(おおもり)一里塚です。西の高前田一里塚(両側現存)、東の日向一里塚(片側現存)からそれぞれ1里のところにありますが、これら3ヶ所の一里塚が連続して現存しているという貴重さを評価され、昭和44年にすべて「雫石街道の一里塚」として県の史跡に指定されています。

生森一里塚~雫石代官所(跡)

舘坂と石碑群 
舘坂 
雫石代官所跡 
代官所跡

 生森一里塚から国道46号を西進すると、雫石バイパス東口交差点に差し掛かります。ここから雫石城下までの道筋はところどころ途切れており、続けて歩くことはできませんが、バイパスと県道の間にある道や、城下(八幡宮)北側の崖下にある狭い砂利道が当時の名残を残しています。
 町域には、その砂利道から舘坂を上って入っていきました。舘坂の上り口には、飢饉等で亡くなった人々を慰めるために建てられたと考えられる大きな石碑(三界万霊塔)もあります。

 町域は東から「下町」「中町」「上町」、さらに西には「荒町」の名が付けられていたとされていますが、現在残る地名は「上町」までとなっています。
 中町交差点そば(雫石商工会館付近・旧役場庁舎跡地)には、江戸時代当時の役場であった雫石代官所があり、主として盛岡居住の直参の藩士が代官となって赴任し、諸税の課税と徴収、諸役の賦役と、これらを円滑に執行するための生産管理や指導、治安の維持を行っていました。

 盛岡城下から雫石(代官所付近か)までの行程は、486間(『内史略』)などと紹介されています。


雫石代官所(跡)~葛根田川

 文政111828)年、当時雫石に勤めていた代官が、雫石代官所から国見峠までの道程や街道沿いの様子を『雫石通細見略図入後篇』に書き残しました(岩手県立図書館蔵。ただし解読本)。代官は「道すがらの風景を筆に残して老後のたのしみにも」というささやかな思いで書いたそうですが、他の記録にないような貴重な記載がいくつもあります。この記録は今後もずっと残っていくでしょう。

 さて、上町から葛根田川までの道筋は何度か切り替えがあったことが知られていますが、本来の街道は町域を西進し、高前田の「上町住宅前」バス停付近からは道なりに曲がらず、真っ直ぐ細い道に入っていきます。道路沿いに残る松の木は、当時道端にあった松並木の名残とも言われています。

 さらに西進して砂利道を進むと一里塚が見えてきます。高前田一里塚(県指定史跡)です。街道跡の両側に2基とも現存しています。一里塚の西側は崖になっていますが、絵図面などを見ると、当時はこの崖沿いに下った後、葛根田川を渡ったようです。

 葛根田川にはしばらく橋がなく、浅瀬を徒歩で渡るなどしたようです。元禄51692)年に初めて橋が架けられましたが、雨が降ればすぐに増水して橋が流されたりしたことから、道行く人にとっては難所の一つでした。『雫石通細見略図入後篇』では、文政年間には長さ46間(90m弱)、幅2間(4m弱)の土橋が架かっていたことが記されています。

葛根田川~赤渕一里塚(跡)

 葛根田川から春木場までの詳しい道筋は、路線変更や圃場整備の影響もありよく分かっていませんが、前回紹介した『雫石通細見略図入後篇(1828)』によると、この区間には、「石の供養塚」、用水堰に架かる「ベコ橋」、岩持川に架かる「岩持川橋」があったそうです。

ところで、江戸時代以降、山中で伐採した木を川に流し、川から上げて集積した場所を「木場」と言いました。そして、川流しは、主に雪解け水で水量が増す春先に行われたことから、流す木は通称「春木」と呼ばれていました。現在、行政区名や駅名として残る「春木場」の呼び名は、かつて木材の集積場として多くの人々が行き交っていた当時を物語っています。

春木場から、かつて「はせ下り」と呼ばれた国道46号雫石バイパス西口付近までは、現在の旧国道とほぼ同じ道筋を進んでいきます。現在は線路があり直接抜けることはできませんが、東北電力(株)雫石開閉所の南側に残る砂利道が街道筋です。そこから中世の大規模な山城と推定されている通称「大館」の麓を西進して国道46号に合流し、取染川を渡って西進すると、JR田沢湖線赤渕駅があります。

かつて、赤渕駅の付近には「取染の塚」とも呼ばれる赤渕一里塚がありました。一里塚は明治期以降に両側とも削平され残っていませんが、各種の絵図面に記されている2つの黒丸がその存在を今に伝えています。

赤渕一里塚(跡)~橋場御番所(跡)

 「赤渕」の地名は、『雫石の民話』(雫石町教育委員会発行)に集録されている言い伝えでは、近くを流れる川の中に大きな渕があり、そこに赤い大蛇が住んでいたことから付けられたと伝えています。また、『雫石通細見略図入後篇(1828)』では、「川の内大成渕あり盤赤岩也」とあり、つまり川の中に赤い岩でできた大きな渕があることから赤渕になったことが紹介されています。

 赤渕から安栖(あずまい。町立橋場小学校付近)までは現在とほぼ同じ道程を西に進み、安栖を過ぎると右側に現在は閉鎖されている旧道とスノーシェードが見えてきます。崖下を通るこの古い道筋は「へぐりの難所」と言われ、春先には雪崩に巻き込まれて亡くなる旅人もいたとの記録が残っています。と同時に、秋には見事な紅葉を見せることから、付近は「舟原(ふなら)沢の紅葉」として安政6年(1859)に選定された雫石八景の一つに数えられた景勝地でもあります。
 橋のたもとにたたずむ石碑
橋のたもとに
 「へぐりの難所」を抜けると、橋場の集落にたどり着きます。藩境である国見峠の麓に位置する橋場には関所(御番所)が置かれ、南部藩直参の藩士が人や物資の出入りを監視する任に就きました。御番所は集落の西はずれにあったとされていますが、建物や文書などほぼ一切の資料は、度重なる村の大火、さらには戊辰戦争で焼失してしまいました。当時の建物構造をはじめとする橋場御番所のようすは残念ながらほとんどが謎に包まれたままですが、かろうじて橋のたもとにある「橋場之関遺址」の石碑でおおよその位置を知ることができます。

橋場御番所(跡)~国見峠 (1)概説
国見峠(標高940m)から駒ヶ岳方面を望む 
国見峠
 橋場の関所(御番所)を過ぎると、いよいよ険しい峠越えが始まります。
 国見峠は、江戸時代以前にも歴史上の人物が通った伝承が残っていますが、江戸時代に入ってからは、盛岡と秋田を最短で結ぶ重要路線として位置づけられるようになりました。幕府が諸藩を監察するために派遣した巡見使(じゅんけんし)や、良馬を求めて南部藩に来訪する馬買衆(うまかいしゅう)が通る道として本格的に整備が進められ、多くの人やものが峠を行き交いました。

とは言っても、道の駅「雫石あねっこ」入口付近の向かいから砂利道を進み、山道に入って的方(「まとかた」。仙岩峠のこと。)から国見峠を越えるというおよそ5里(約20キロメートル)の峠道は、「大難所」として多くの絵図や文書に記録されるような険阻なものでした。

この道筋は、平成8年に文化庁選定「歴史の道百選」の一つに選ばれていますが、明治期に路線の変更や改良が行われて国見峠を越える必要がなくなり、さらに戦後には全面的な路線の切り替えがなされたことで、通る人もほとんどなくなっていました。場所によっては、人々の記憶や地図上からもその姿を消しつつあったのです。

 しかし、近年行ってきた地道な調査によって、峠道のようすが再び分かってきました。道沿いには、藩境を示す石柱や一里塚と思われる塚、物流の拠点ともなったいわゆる「お助け小屋」の跡地などが今でも残っています。何より、山々だけでなく遥かに雫石方面を望むような絶景ポイントがいくつもあります。

 次回から、3回に分けてこの峠道を詳しくご案内していきます。車では行くことのできない、この険しく狭い峠道を、紙面で一緒に歩いて参りましょう。

 

橋場御番所~国見峠 (2)御番所~ナラヤス(なる安)峠

「旧秋田街道入口」の標柱
峠越え道 
「ナラヤスの塚」付近の掘割道 
掘割道 
 道の駅「雫石あねっこ」入口の向かいに「旧秋田街道 入口」の標柱があります。

街道は、まずはここから坂本川に沿って進んでいきますが、『雫石通細見略図入後篇(1828)』では、45丁(500m前後)進むと「坂本の塚」と呼ばれる一里塚があったと記載しています。慶応年間(1866)の橋場村絵図にも御番所の西に一里塚を示す黒点が1つ記され、県教委発行の『岩手県「歴史の道」調査報告 秋田街道(昭和55年刊)』にも、大きな石積みがあったと書かれていますが、現在は残っていないようです。塚を過ぎると、川の両側にだんだんと急峻な崖が迫り、地形に合わせ川を何度も(『細見』では19回!)渡りながら奥へと進んでいきました。

川に沿って進むことおよそ4km、いよいよ険しい山登りが始まります。坂本川と折戸沢(古記録では「オリトノ沢」「ヲリト沢」などと呼称)の合流点から一気につづら折りの道を駆け上がります。(株)東北電力の作業道として現在も利用されている区間がありますが、この辺りでは、道を周囲より低く掘って風雨を防いだ当時の街道「堀割道」があちらこちらに残っていることが明らかになっています(ただし、付近には新旧いくつかの道が混在しているため道に迷う恐れがあり、注意が必要です)。

 緩やかな上りを過ぎ、山の稜線に沿って進むと、小さな峠に差し掛かります。標高およそ800m、『細見』では「ナラヤス峠」、その前編に当たる『雫石通細見路方記』では「なる安峠」と書かれていますが、現在の地図には特に名前は載っていません。平成17年、峠に向かう途中の道沿いに一里塚と見られる土盛りが2基残っていることを確認しましたが、これが『細見』にある「ナラヤスの塚」であろうと考えられます。

橋場御番所~国見峠 (3)ナラヤス(なる安)峠~お助け小屋

 標高およそ800mのナラヤス(なる安)峠の頂上は、平らでちょっとした休み場となっていたようです。ここからは一旦下りになりますが、『雫石通細見略図入後篇(1828)』では、「南北の谷深く大木・古木が生い茂り(中略)振り返りつつ眺めれば、雫石の村々の水田の水も光り、生森山を越え盛岡城下・市中までもが見える(原文をもとに意訳)」と付近の風景を綴っています。なお、この下り道は、崩落によって一部失われている箇所があるようです。

秋田藩的方藩境碑 
秋田藩の藩境碑
 一旦下り切った後再び山道を上り詰めると、いよいよ最初・・藩境、標高894mの仙岩峠(的方。まとかた)にたどり着きます。
 「仙岩峠」の名称は、明治になって道路の切り替え・大改修を行った際に大久保利通が命名したもので、それ以前は的方と呼ばれていました。的方には藩境を示す塚が築かれ、塚の頂上には文化2年(1805)に秋田藩が建立した「従是西南秋田領」の石柱(仙北市指定史跡)があります。
 ところで、的方になぜ南部藩でなく秋田藩の石柱があるのか、疑問に思った方もいることでしょう。実は、的方から次の国見峠までの区間は、全国的に見ても珍しい考え方で成り立っています。それは、南部藩は的方を過ぎ国見峠までを、秋田藩は逆に国見峠を経て的方までを藩の所管としていたことです。つまり、この区間の街道は両藩ともに所管するという特殊な仕組みとなっているのです。実際、南部藩内の街道旅程は盛岡城下から国見峠までを、秋田藩内の旅程は秋田城下から的方までを示しています。

 この区間の中には、「山中」と呼ばれ、一般的には「お助け小屋」として知られる施設がありました。山を上って相手藩への荷物をその小屋に届け置き、置かれてある自分たちの藩への荷物を持ち山を下って帰るという独特のシステムは、両藩の所管が重複する区間ならではの、ユニークかつ合理的なものであったと言えます。

橋場御番所~国見峠 (4)お助け小屋~国見峠

 お助け小屋から国見峠までの区間では、昔の街道がほぼ残っています。山の稜線に沿って堀割道を進んでいくと、ヒヤ潟にたどり着きます。

 ヒヤ潟には竜神伝説が伝わっています。その昔、機織の少女が竜の角から作った梭(ひ。機織道具)を使っていたところ、沼の主であった竜が取り返しにきて梭を持ち去られてしまい、少女はそれを取り戻そうとして沼に飛び込んだという伝説がもとになって「梭嫌潟(ひ・いや・がた)」と呼ばれ、その後「ヒヤ潟」に変化したと言われています。

国見峠藩境碑 
国見峠藩境碑

 ヒヤ潟を過ぎ、再び稜線に沿って堀割道を1km余り進むと、いよいよ藩境、国見峠です。峠の直前で道が二股に分かれており、右に進むと国見温泉に行くことができます。国見温泉は、古絵図には「御駒湯」とも書かれ、『雫石通細見路方記 上』では、甚だ名湯であること、天気によって色が変わることなどが記されています。

 国見峠(標高940m)には、「従是北東盛岡領」と記した藩境碑が残っています。藩境碑は、文化2年(1805)当時は木柱であったものを嘉永2年(1849)に現在の石柱に替えたとされています。国見峠からは、天気が良ければ駒ケ岳や岩手山を一望でき、まさに「国見」の絶景を見ることができます。

街道整備の歴史

 雫石街道は、江戸時代に本格的な整備が始まり、以降たびたび改修や路線変更も行われ現在の国道46号となりました。ここで、主な出来事を振り返ってみます。


 ・寛永101633)年 幕府巡検使の裁定により国見峠と的方に藩境塚を築造

この頃から街道の整備と一里塚築造始まる?

 ・寛永121635)年 この頃から公儀御馬買衆が毎年雫石街道を利用

 ・寛永171640)年 仁沢瀬川に初めて架橋

 ・承応 21653)年 一里塚の補修と松並木の補植を実施

 ・寛文 31663)年 巡検使来訪に備え街道・橋等を改修

 ・宝永 71710)年 雫石街道里程再実測(仁沢瀬~国見峠間78丁余り)

 ・明和 61769)年 長山道分れに「右 長山道 左 秋田往来」の道標設置

 ・嘉永 21849)年 国見峠藩境碑を現在の石柱に建て替え

残雪のヒヤ潟から 望む駒ヶ岳(5月)
残雪の駒ヶ岳


 明治以降、路線の切り替えや大規模な整備が進む中で、当初の街道の様子を伝えるところは少なくなりました。

しかしながら、舘坂(雫石町町裏・下町)付近や高前田一里塚の東側に残る直線路(雫石町高前田)、橋場の道の駅「雫石あねっこ」以西の旧道などでは当時の道幅が、また国見峠までの山中には道の両側を高くして風雨をしのいだ堀割道が、そして道の傍らに残る一里塚や石碑群が往時の街道風景を伝えています。

本シリーズは今月で終了です。一年間お付き合いいただき、ありがとうございました。今では、車で走ればあっという間の区間ですが、時にはゆっくり歩いて「街道ロマン」にひたってみませんか。歴史的発見を含め、新たな発見・気づきがあるかもしれませんよ。