雫石・歴史探訪シリーズ 
 このページの原稿は、「雫石・歴史探訪シリーズ」として、盛岡タイムスに掲載されたものです。
 記事提供は雫石町教育委員会事務局社会教育課 主任  柴田 慈幸さんです。

記事一覧(最終回は2015年3月)
・雫石の名の起こり 雫石神社
・戸沢氏発祥の地 戸沢・沼田神社
・雫石よしゃれのおこり 雫石城
・旧石器時代 板橋III遺跡
・縄文時代① 小日谷地IB遺跡
・縄文時代② 桜沼遺跡
・古墳時代 仁沢瀬IV遺跡
・江戸時代の役場 雫石代官所跡
・歴史の道 雫石街道・国見峠越え
・宮沢賢治と雫石 七ツ森・狼森
・雫石町歴史民俗資料館

 
「雫石」の名の起こり ~雫石神社

 

 さまざまな説がある町名「雫石」の由来…。多くの石が川底にあることからの「沈(しず)く石」、アイヌ語がなまったとする説などがありますが、次のような伝説によるものが最も有名です。

  「およそ今の世から千年前の天喜・康平と呼ばれた頃、ある日、里に住む柴を刈る翁が不思議なその音をたどると、一際大きくそびえ立つ老杉の根元に、底も知れない洞窟を見つけた。その中で、銚子に似た口先から滴り落ちる清水が下の石に当たり、雫の音が洞内に共鳴して「たんたん」と森の静寂の中に響き渡っていた。噂は噂を呼んで郷内に広がり、大勢の人々が見物に来た。そして、誰言うとなくこの地は「滴石」と呼ばれるようになり、時が移り変わるにつれて現在の「雫石」になったと言われている。」~雫石地名発祥ものがたり(一部抜粋)

「雫石たんたん」と呼ばれたその場所の傍らに神社が建てられ、雫石神社となって、今も残る老杉(雫石神社の杉:町指定天然記念物)とともに往古の名残を伝えています。

戸沢氏発祥の地 雫石 ~戸沢・沼田神社

 

雫石町西安庭、御所湖・御所大橋の南東側に「戸沢」と呼ばれる集落と沼田神社があります。沼田神社は戸沢五郎(由緒は不明)の創建と伝えられる神社で、戸沢氏を祀り、境内の一角には戸沢氏の姫君の墓とされる石碑も残っています。

 戸沢氏は、江戸時代に新庄藩(現在の山形県新庄市とその周辺)を治めた大名家として知られていますが、家伝によれば、桓武平氏の流れをくむ平衡盛(ひらもり)がおよそ八〇〇年前に雫石の戸沢に土着し、地名から初めて戸沢氏を名乗ったとされます。その後、仙北地方(秋田県仙北市)に進出、南下して戦国時代には角館に城を構えていたと伝えられています。

 発祥から戦国時代にかけての事跡が史実であったかどうかは多くの謎がありますが、戸沢氏の家紋(丸に輪貫九曜)を掲げる沼田神社の存在と、神社の周辺に戸沢氏にまつわる多くの伝承が語り継がれていることは、戸沢の集落と戸沢氏が深くかかわっていたことを示す証拠とも言えるでしょう。

雫石よしゃれのおこり ~雫石城(現:雫石八幡宮)

 

雫石町の祝いの席では、必ずよしゃれが唄われ、踊られてきました。

その中の、

「よしゃれ 茶屋のかかあ、花染めのたすき、肩にかからねぇで、気にかかる」
「よしゃれ おかしゃれ その手は喰わぬ その手くうよな 野暮じゃない・・」
という歌詞は、何に由来しているのでしょうか。

時は戦国時代、下町東にある雫石八幡宮一帯には雫石城がありました。周囲より一段高いこの天然の要害に城を構えた斯波(しば)氏(伝承では戸沢氏・手束(てづか)氏とも)は、用水を葛根田川上流から地下水路を使って引き、この水路を発見させまいと茶屋を設け美人の女将に見張らせていたと言います。対して、雫石城の攻略を狙っていた南部氏の軍勢は、隠密を使って水を断つ作戦を進めます。ついに茶屋に目を付けた隠密が女将に言い寄って水路の秘密を聞き出そうとしたものの、見破られてしまったという話が歌詞となり、その後踊りが付けられ、雫石町を代表する民俗芸能・雫石よしゃれとなっていったと伝えられています。

 

旧石器時代・三万年前の生活の証  ~板橋Ⅲ(さん)遺跡

 

板橋Ⅲ遺跡は、雫石町内二一〇か所のうち最も古い時代の遺跡です。国道四六号沿いの「やまなか家」から北に約一五〇メートルのところにあるこの遺跡からは、今から三万年以上もの昔の人々が暮らした痕跡が見つかっています。

出土石器 台形様石器 
出土石器 台形様石器 
 発掘調査では、台形様(だいけいよう)石器と呼ばれる石器四点、石斧(せきふ)や台石(だいいし)の他、石器づくりの際に生じた剥片(はくへん)など、合計一二三点の石器類が出土しました。また、石器が出土した層から採取した炭化物の年代を調べたところ、およそ三万二千年前という結果が得られています。

石器の量・種類やその材質からは、近くを流れる雫石川で拾った石を持ち込んで加工し、短期間滞在していたことがうかがわれますが、石器しか見つかっていないため、実際の暮らしぶりなどには多くの謎があります。さらに、今のところ、同じ時代の遺跡は近隣ではほとんど見つかっていません。氷河期と呼ばれた時代、人々はどこから来て何をしてどこへ行ったのでしょうか。歴史への興味は尽きません。

縄文時代①・千年以上続いたムラの跡  ~小日谷地IB(いちびー)遺跡

 

雫石町内には、縄文時代の遺跡が一六〇か所以上確認されています。

その中の一つ、小日谷地にある町中央浄水場及びその周辺に広がる小日谷地IB遺跡は、これまでの発掘調査によって、五〇棟近くの竪穴住居跡、一〇〇基以上の食料などを貯蔵した穴、一五〇〇基以上の柱穴が見つかり、土器や石器も大量に出土しています。遺跡は、出土した土器の形による特徴や炭化物の年代測定によって、およそ五七〇〇~四五〇〇年前(暦年)の大きなムラの跡であることが分かってきました。さらに、琥珀や北海道産の黒曜石の他、翡翠の可能性がある原石(今後科学分析を予定)など、遠方との交流を思わせる資料も数多く見つかっており、出土資料の多くは町歴史民俗資料館に展示しています。

発掘調査の様子 住居炉跡に埋められていた土器 
発掘土器

資料館に「来て、見て、触れて」、縄文時代の雫石から歴史の息吹を感じてみませんか。


縄文時代②・二五〇〇年前に作られた神秘の土偶  ~桜沼遺跡
土偶 遮光器土偶

  雫石町役場から東におよそ五〇〇m、現在主に水田となっているこの一帯は、昔は沼や湿地が広がっていたと言われています。その中の一角に、『岩手郡誌』(昭和一六年刊)で「郡内一」「稀に見る先史時代遺跡」などと評された桜沼遺跡があります。

桜沼遺跡は、縄文時代晩期(およそ二五〇〇年前)に栄えた集落の跡です。ほ場整備に伴い昭和四九年に発掘調査が行われ、配石を伴う住居跡や炉跡、段ボール六〇箱以上の縄文土器、数千点の石器などが見つかりました。

出土した遺物の中でも特に目を引くのが、遮光器土偶(しゃこうきどぐう)と呼ばれる土偶です。北方民族が使用した「遮光器」を付けたような目の様子から名づけられたこの土偶は、東北地方北部を中心として出土することが知られています。一般的に、土偶は女性を模している場合が多いとされていますが、遮光器土偶は特にその神秘的な形から「宇宙人ではないか」などと言われることもあるようです。この姿からどんなモデルが想像できますか?


古墳時代・北と南の文化交流を示すもの  ~仁沢瀬Ⅳ遺跡

 

土師器 
土師器

今から一五〇〇年余り昔の古墳時代、雫石町の周辺は北海道を中心とした北の続縄文文化と南の古墳文化の接点にあったと推測されています。

 町の東端、国道四六号仁沢瀬橋の近くにあった仁沢瀬Ⅳ遺跡は、平成三年に国道拡幅に伴い発掘調査を行ったところ(調査報告書では「仁沢瀬遺跡群」と呼称)、直径一メートル余りの円形や楕円形の穴(土坑)が一二基まとまって見つかり、その中の一基には土師器と呼ばれる土器が合わせ口の状態で納められていました。
黒曜石製円形掻器
黒曜石
 土師器が南の古墳文化そのものを示す遺物であるのに対し、これらの穴は、当時北方でよく造られたお墓の特徴と一致しています。遺跡から出土した黒曜石製の石器も同様に北方文化の特徴の一つとされていますが、実際に、産地分析の結果、宮城・岩手県内産の他に北海道産のものが一点含まれていたことが分かっています。

実は、雫石町周辺が異文化の接点に位置した時期は、古墳時代に限らず何度もあったようです。雫石に暮らした人々は、さまざまな文化を多方面から受け入れながら独自の文化を築き上げていったのかもしれません。


江戸時代の役場  ~雫石代官所跡

 

江戸時代、南部藩では広大な領地を統治するため、「通(とおり)」と呼ばれる行政区画を設定しました。雫石地方では、雫石・繋・安庭・南畑・鶯宿・御明神・橋場・上野・長山・西根の十か村が「雫石通(しずくいしどおり)」となり、これが現在の雫石町域にほぼ引き継がれます。

,代官所跡案内板 
代官所跡

この「雫石通」をまとめる役所として建てられたのが雫石代官所です。当初は雫石城跡付近(下町東)に、その後何度か移転して現在の中町交差点そば(雫石商工会館付近・旧役場庁舎跡地)に落ち着いたとされています。

代官は、多くが盛岡居住の直参の藩士で、諸税の課税と徴収、諸役の賦役を主な職務とし、これらを円滑に執行するための生産管理や指導、治安の維持を行いました。

雫石代官所は明治二年に廃止となり、敷地内にあったという柏の巨木(代官柏)も昭和二七年に伐採され、往時を伝えるものは残っていませんが、「中町」という地名が古くから町の中心地であり続けたことを物語っています。

一日がかりの峠越え ~歴史の道・雫石街道国見峠越
国見峠藩境碑  掘割道
藩境碑掘割道

 

 橋場(雫石町)から生保内(おぼない、仙北市田沢湖)まで、現在は国道四六号を車でほんの十数分という道のりですが、江戸時代には丸一日かけて峠を越えるという大変な難所でした。古くは源義家が越えたと伝えられているこの峠道の難所ぶりは、二〇〇年近く前に秋田藩の命で江戸に向かった橋本五郎左衛門が、日記「八丁夜話」の中で「険難子孫に伝えても、君命の外は行処にあらず」と伝えるほどです。

 江戸時代の街道は、橋場にある道の駅「雫石あねっこ」の入口向かいから川沿いに数キロメートル進んだ後、険しい山中に入って一気に仙岩峠(江戸時代の地名は「的方(まとかた)」)に上ります。そこから稜線をしばらく通ってヒヤ潟を越え、最高点となる国見峠(標高九四〇メートル)に至り、また険しい山中を下り生保内へと続いていました。
 現在でも、堀割道の他、藩境を示す石柱や物流拠点ともなったお助け小屋の跡地、一里塚と思われる塚など、往時を偲ばせる数々の貴重な遺構がそのまま残っているこの峠道は、平成八年に文化庁選定「歴史の道百選」の一つに選ばれています。

宮沢賢治と雫石 ~七つ森・狼森(おいのもり)

 

日本を代表する児童文学者・詩人である宮沢賢治は、独自の自然観や世界観の中で数多くの作品を生み出しました。

賢治は、明治四十三年に初めて岩手山に登り小岩井農場へ来た後は幾度となく雫石を訪れたことが知られています。大正六年七月の深夜、盛岡から雫石までの徒歩旅行を仲間とともに敢行したことは特にも有名な話で、これらの経験が、雫石の風景や生業を多くの作品に登場させる素地になったと想像できます。

雫石町内には、賢治が名づけた理想の大地「イーハトーブ」を構成する美しい風景が各地に残っており、中でも代表的なものが七つ森と狼森です。

七ツ森 
七ツ森
 七つ森(地名は「七ツ森」)は、雫石盆地の東に連なる小高い丘陵一帯の総称で、詩集『春と修羅』中の詩「屈折率」、詩「第四梯形(ていけい)」、童話『山男の四月』・『おきなぐさ』など、多くの作品に描かれています。

また、町の北東、小岩井農場内にある狼森は、周辺にある笊森・盗森(ぬすともり)・黒坂森の三つの小山とともに擬人化され、童話『狼森と笊森、盗森』に登場します。

いずれも、平成十七年に、文学作品を構成する風景地としては初めてとなる国の名勝「イーハトーブの風景地」に指定され、多くの人々の目を楽しませています。


雫石町の歴史を学ぼう ~雫石町歴史民俗資料館
 資料館
資料館

曲り屋で昔語り 
曲がり屋
 氷河期という過酷な環境にあった旧石器時代、翡翠や黒曜石を通じて遠隔地とも交流していた縄文時代、蝦夷と呼ばれた古代、雫石よしゃれの故事を生んだとされる戦国時代、南部藩に属した江戸時代、近代化の道を歩んだ明治時代以降…。歴史の変遷の中、数えきれないほどのできごとが積み重なり、今の雫石町があります。

旧石器・縄文・弥生時代から古代に作られた数々の道具類、江戸時代から近代までの衣食住に関わる各種の品々、そして郷愁を誘う茅葺きの南部曲り屋と水車小屋。雫石町歴史民俗資料館では、町の歴史や文化を伝えるたくさんの資料を保管・展示しています。一つ一つの資料から、ご先祖様、あるいは遠い昔の人々の暮らしぶりを想像しながら、一緒に町のルーツを探ってみませんか。

【住所】雫石町西安庭15-39-7
【開館時間】午前九時~午後四時
【休館日】木曜及び年末年始
【問い合わせ】電話(019-692-3942)

本シリーズは今月で終了です。一年間お付き合いいただき、ありがとうございました。