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残像“雫石の手仕事”

 かつて雫石の人々は自給自足の暮らしの中で、生活に必要なさまざまな「物」を自らの手で作り使ってきた。

 雫石町役場が発行する「広報しずくいし」では昭和52年から54年までの3年間36回にわたって、当時町内に残っていた手仕事36種を選び、「つくる」シリーズとして、その作業の一枚写真で毎月号の表紙を飾ってきた。この写真は町内の写真愛好団体“いろりクラブ”の協力により撮影されたもので当時町民から好評を得たものである。

 あれから35年余。その手作り作業は、<あねっこ人形>やその後復活した<木杓子>、<炭焼き>などを除いて、今ではほとんど見られなくなった。“いろりクラブ”もその後惜しまれながら解散したと聞いた。

当ホームページ「歴史写真館」では貴重な民俗資料を後世に残すため、このシリーズ全36枚の写真の中から当時長年にわたり継承されていた手仕事の28枚を選び改めて紹介することにした。

一枚一枚の写真から、往時の人々の<たくましさ>や<一途さ>が伝わってくる。

【おことわりとお礼】 残念ながら写真の原版は現存していないので、当時の広報紙原本を雫石町役場総務課広報担当者様からお借りして滴石史談会ホームページ担当者が複写したものです。「写真説明」も原本紙面どおりです。貴重な資料の原本を快くお貸しくださった雫石町役場総務課様にこの場を借りて深く感謝申し上げます。

2016年4月

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竜川(りゅうがわ)での春木流し陸揚げ作業

 雫石町御明神中村(中島行政区)在住の中村一民氏(67歳)のご提供(平成278月)による白黒2枚組の写真。雫石町御明神にある「春木場(はるきば)」の地名の由来を示す貴重な写真である。 写っている「竜川」は駒ケ岳方面を源とする川で一級河川「雫石川」の本流である。撮影した年代・時期は裏面などに記載がなく不明である。服装などから昭和初期(昭和元年~156年ごろ)と推測される。

 

 写真を提供してくださった中村一民氏は、春木場の対岸の中島集落に住む方で、自宅は川原から直線で300メートルほどの所にある古くからの農家である。写真は一民氏の祖父吉太郎氏(故人)が所有していたものだが、入手先は分からないという。往時春木の引き揚げ作業が最盛期のころは川原周辺の住民たちも作業に就労していたものと思われることから、その縁で中村家に残っていたものであろう。中村家には木材を引き上げるときに使用したと「鳶口(とびぐち)」も残されている。

 

雫石町(大字)上野(字)新里地内の竜川沿いの地域は、かつて山から川流しされた「春木」の陸揚げ地であったことから、通称「春木場」と呼ばれている。「春木場」の地名は盛岡市内にもあり、雫石町内には「土場(どば)」や「留場(とめば)」と呼ばれる川流しされてきた木材の引き揚げ地が御所地区にもあった。

 

この春木場の川原の北側沿いを旧秋田街道(秋田往来・旧国道46号)が通っており、沿道両側には古くから人家が建ち並び集落を形成している。江戸時代には「春木場の小宿(しょうしゅく)」とも呼ばれた。昭和初期まではここでの「春木取引」や「酒造業」などによる経済効果もあって「春木場」は雫石郷の中で最も商業の発達した地域であった。現在の「春木場集落」のあちこちにその面影が感じられる。

 

 2枚の写真はいずれも竜川上流から川流し(流送)してきた木材を川の中から引き揚げている作業を写したもので、うち1枚は作業員たちが川に入り、流れてきた木材を岸に寄せている写真である。川原に立てられた三本の長木の上にいる白帽、白シャツの男性は流れてくる木材があることを川の中の作業員に知らせる“現場監督”的な立場の人のように見える。流れてくる木材は十分乾燥していないため、川面に出ているのはほんの一部で、ほとんど沈んだままで流れてくるため川の中の作業員には見えにくい。このため高い所からみて木材が流れてきていることを教える役目の人が必要だったと思われる。 

  

 2枚目は、作業関係者およそ30人が勢揃いしての<記念写真>である。中でも前列の印半纏を着た二人のうち右側の作業員の半纏にははっきりと「吉谷材木部」の文字が読み取れる。左側の人の半纏の文字は「㊞赤戸○山林」(最初の印は判別不能・「赤」は「志」かもしれない)。   


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